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烙印戦記 ー破滅エルフと棄てられた箱庭の英雄ー   作者: 弌黑流人
箱庭の国

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第29話 白銀の導き

 血の海に沈んでいた断層の底に、かつてないほど清浄な、そして圧倒的な生命の光が溢れた。


 白銀の神獣フェンリスが放つ翠の紋様は、金属の床を侵食するように広がり、傷つき倒れた五人を優しく、だが力強く包み込んでいく。それは管理者が演算する「修復」などという無機質な概念ではない。世界そのものが持つ根源的な癒やし、生命の奔流そのものだった。


 光が収まった時、そこには絶望の淵から引き戻された五人の姿があった。


 真っ先に意識を取り戻したのは、アルヴァスだった。彼は反射的に跳ね起き、自身の腹部に手を当てた。数分前まで自分を貫いていた、あの銀色の異物がもたらした絶望的な大穴。死を確信したはずのその場所には、今や傷跡一つ残っていない。


 「……信じられん。肉体どころか、魂の軋みまで消えているというのか」


 アルヴァスは驚愕に目を見開きながらも、長年の戦士としての本能で即座に周囲を警戒した。続いて、岩塊のようなボルグが巨体を震わせて起き上がり、自らの黄金の鉄甲を見つめて拳を握りしめる。


 そして、男に首を絞められ、力なく投げ捨てられていたシュラインも、長い睫毛を震わせながら、浅い眠りから覚めるようにその澄んだ瞳を開いた。


 「カイル……? 私たちは、一体……」


 最後に目を開けたのは、澪だった。彼女は全身を襲っていたはずの衝撃と痛みが霧散していることに戸惑い、ゆっくりと上体を起こした。その瞬間、自分が全裸に近い状態であったことに気づき、真っ白な肌が瞬時に林檎のような赤に染まる。


 彼女を包んでいたのは、血の匂いと泥にまみれた、だが確かな温もりのあるカイルの上着だった。カイルは気まずそうに、しかし彼女を守るように少しだけ視線を逸らし、力強く頷いた。


 「……助かったんだ、澪。この、フェンリスが……俺たちを救ってくれた」


 カイルの背後に静かに佇む、巨大な白銀の神獣。その神聖な圧力に、目覚めた全員が息を呑んだ。空中都市の管理者が作り出した、あの無機質で偽りの静寂など、一瞬で塗り替えてしまうほどの圧倒的な存在感。その蒼い瞳には、悠久の時を越えた叡智と、不浄を許さぬ意志が宿っている。


 『――反逆の徒よ。感傷に浸るときはない。不湯の者共が、選定者の沈黙を察知した』


 フェンリスの重厚な、それでいて鈴の音のように澄んだ声が、全員の脳内に直接響き渡った。


 『使徒の末裔を自称する者共は、己の計算盤に生じたバグを許さぬ。じきにこの領域ごと、因果の渦に沈めて隠滅を図るだろう。痕跡を残さず、汝らという存在を歴史の闇に葬り去るためにな』


 その言葉に呼応するように、シュラインが小さく身を震わせ、虚空の一点を見つめた。彼女の中に眠っていた巫女の素養が、近づく破滅の足音を捉えていた。


 「……くる。空から、大きな黒い影が……たくさん。私たちを、消しにくる。真っ暗な、冷たい虚無が降ってくるわ……!」


 怯え、震えるシュラインの手を、ボルグが大きな手で支える。彼の目にも、もはや迷いはなかった。


 「逃げる場所なんて、あるのか。ここは断層の最下層、袋のネズミだぞ」


 ボルグの問いに、フェンリスは静かに、しかし力強く前肢を床に打ちつけた。金属の床が鳴動し、翠の光が一点に集束していく。


 『我が知る古い影の経路……盤面の深層、管理者の目が届かぬ隠し通路を使えば、奴らの目を欺き、地上へと繋がる垂直の道を通ることができる。我の背に乗るがよい。汝らの魂の咆哮が、我が牙を呼び覚ましたのだから』


 カイルたちは、迷うことなくその白銀の背へと身を預けた。カイルは澪をしっかりと支え、アルヴァスとボルグがシュラインを守るように陣取る。


 フェンリスが駆け出す直前、カイルは一度だけ振り返った。そこには、自分が首を撥ねた「抹殺者」の無惨な死体が転がっている。かつての自分も、理由もわからず誰かを殺し、あるいはシステムのために立派に死ぬことを強要される駒の一つに過ぎなかった。だが、今は違う。


 「フェンリス、頼む。……俺たちの本当の戦いは、ここからなんだ」


 フェンリスが天を衝くような咆哮を上げた。それと同時に、数メートル先の空間が激しく歪み、巨大な穴のような隠し通路が姿を現した。それは不湯家の計算盤には決して現れない、世界の裏側を走る、因果の迷宮であった。


 「行くぞ……!」


 カイルの号令と共に、フェンリスは爆風のような速度で疾走を開始した。重力という理を嘲笑うかのように、神獣は垂直の壁を駆け上がり、垂直の道へと突入する。


 背後では、空中都市から放たれた消滅の光が断層の底を焼き払い始めていた。凄まじい轟音が追いすがってくるが、フェンリスの速度はその絶望を突き放していく。


 カイルは腕の中にある澪の温もりと、背後にいる仲間たちの荒い息遣いを感じながら、真っ直ぐに上を見据えた。


 自分たちがかつて棄てられた、あの残酷で美しい「地上」という名の戦場へ。

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