第21話 断層の境界
カイルは、目の前にそびえ立つ黒い壁を見上げ、背筋に走る言いようのない寒気に身を震わせた。
それは岩でも鉄でもなかった。光を一切反射せず、視線を吸い込む虚無の塊だ。地上の常識であれば、そこには物質としての手触りや、光が当たった際の微かな光沢があるはずだ。しかし、この壁にはそれがない。ただ、空間にぽっかりと開いた穴のように、そこにあるべきではない「無」が巨大な絶壁となって五人の行く手を阻んでいた。
さっきまでいた場所から、瞬きする間に数百里を移動したという現実感のなさが、カイルの平衡感覚を狂わせる。胃の奥から込み上げる不快感に耐えながら、彼は自身の横に膝を突くボルグの巨躯を支えた。
「……おい、澪。本当にここを通り抜けるのか?」
カイルの声は、停滞した領域外の空気に吸い込まれて頼りなく響いた。
彼の腕の中では、ボルグにしがみつく少女が恐怖で身を強張らせている。リメスの焦土で一度は死を覚悟した彼女にとって、この異常な空間は天火よりも理解しがたい恐怖の対象でしかなかった。カイルは彼女を安心させるように、泥にまみれた手でその肩を抱き寄せたが、自身の剣を握る手も微かに震えていた。
かつて自分が生きてきた世界、帝国という狭い箱庭の中では、剣を振れば敵を斬ることができ、走れば息が切れた。そこには守るべき理法があり、抗うべき過酷な現実があった。だが、ここは違う。物理的な距離も、積み重ねてきた経験も、すべてが澪の一言で書き換えられてしまう。これまでの戦いとは全く質の異なる、存在の根源を揺さぶられるような恐怖がカイルを支配していた。
一方、アルヴァスはその黒い絶壁に歩み寄り、焼けただれた籠手で恐る恐る壁に触れた。
指先に伝わるのは、温度さえも消失したような奇妙な無感覚だった。
「信じがたい。距離も時間も、この場所では意味をなさないというのか……。我々がこれまで血を流し、馬を潰しながら駆け抜けてきた戦場は何だったのだ」
アルヴァスの脳裏には、かつて帝都騎士団の副長として、地図を広げ、補給路を計算し、地形を利用して敵を包囲した日々が蘇る。それが軍の常道であり、指揮官として誇るべき英知だった。だが、この少女……澪が示した力は、それらすべてを塵芥のように無価値にする。一瞬で戦局の要衝に現れ、一瞬で不可侵の領域へと姿を消す。もしこれが「神」の視点であるならば、自分たち人間が積み上げてきた戦術など、蟻の巣の穴を塞ぐ程度の児戯に過ぎないのではないか。
アルヴァスは、隣で荒い息を吐きながらも、意識を保とうとするカイルを見た。泥にまみれ、鎧すら持たず、それでもなお守り抜いた少女の手を離さないその姿。かつて管理官から渡された「排除リスト」に記されていた、ただの記号のような反逆者。だが今、目の前にいるのは、神が定めた役割を拒絶し、一人の人間として立とうとする若き戦士だ。
(私は、この者たちと共に、かつての信仰を……神の座を撃ち落とそうというのか)
背教の重圧が、アルヴァスの肩にのしかかる。だが、その瞳にはかつての盲信的な騎士の光ではなく、己の意志で戦場を選び取った男の鋭い光が宿り始めていた。彼は折れた剣の柄を、砕けんばかりに強く握りしめた。
二人の戸惑いと、それぞれの覚悟を受け止めながら、如月 澪は静かに黒い壁の前へと進み出た。
彼女の翠の瞳には、カイルたちには決して見えていない「情報の奔流」が映し出されている。
この黒い壁は、管理システムが処理を放棄し、情報の整合性を保つために棄却したデータの断絶面だ。例えるなら、物語から切り落とされた余白。あるいは、描き損じとして塗り潰された影。
(……大丈夫。計算通り、不湯 雅紀たちの眼からは完全に逸れている。あの方々はまだ、私たちがリメスの座標付近で塵になったか、あるいは瓦礫の下で喘いでいると信じ込んでいるはず)
澪は自身の胸に手を当て、内なる因子の拍動を確認した。ドクン、ドクンと、この異質な世界に抗う心音が掌に伝わる。
彼女がこの場所を選んだのは、単に追っ手から逃れるためだけではない。この「不可侵区域」の奥底には、かつて管理者側に反旗を翻し、物語の改ざんを拒んで歴史の表舞台から抹消された、自分と同じ「初期転生者」たちの残滓が眠っているはずなのだ。
「カイル、アルヴァス殿。驚き、困惑するのは当然のことです。あなた方の世界観そのものが、今、この瞬間にも書き換えられているのですから。ですが、この壁を越えた先にしか、私たちが手にするべき『武器』はないのです」
澪はゆっくりと振り返り、四人の仲間たちを一人ずつ、その瞳に焼き付けるように見つめた。
ボロボロになりながらも反骨の牙を剥き続ける少年、カイル。
誇りを砕かれ、それでもなお真実を求めて剣を執る騎士、アルヴァス。
致命の傷を負い、巨大な盾となって幼き命を救った沈黙の戦士、ボルグ。
そして、奪われた名に涙しながらも、必死に生を繋ごうとする名もなき少女。
定めの書が、この瞬間に死ぬべきだと記した、五人の「綻び」たち。
「天の使徒たちは、今頃必死に水晶板を操作し、盤面の誤差を修正しようとしているでしょう。不湯家の者たちが何を企もうと、彼らには一生、私たちの足跡を辿ることはできません。なぜなら私たちは、今この瞬間から、彼らが書き綴る『物語』そのものを破り捨てるのですから」
澪が右手を掲げ、翠の光を指先に凝縮させた。その光が黒い壁に触れた瞬間、沈黙していた虚無が恐ろしい唸りを上げて波打ち始めた。光を吸い込んでいた壁が、澪の因子に呼応して内側へと螺旋を描き、次元を飲み込むような巨大な渦を作り出した。
「行きましょう。この先で待つ『かつての同志』に会いに行きます。彼らは、箱庭を壊すための方法を、誰よりも知っているはずです」
彼女の決意に満ちた言葉は、重苦しい断層の空気を切り裂く鋭い一撃となった。
カイルは少女を背負い直して一歩を踏み出し、アルヴァスは騎士の礼を尽くすように一礼して続いた。ボルグもまた、痛む体に鞭を打ち、少女を抱え直して闇へと向かう。
五人の影は、翠の光に導かれながら、底知れぬ黒い渦の中へと吸い込まれ、完全にその姿を消した。
管理者の計略が及ばぬ領域で、反逆の物語は次なる展開へと突入しようとしていた。




