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烙印戦記 ー破滅エルフと棄てられた箱庭の英雄ー   作者: 弌黑流人
箱庭の国

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第20話 名もなき祈り

 暗い領域外の底に、かつてリメス村で平和に暮らしていた一人の少女の記憶が、断片的な光となって浮かんでいた。


 それは、どこまでも続く黄金色の麦畑と、頬を撫でる穏やかな風の音。


 けれど、その平穏は突如として天から降り注いだ白銀の光によって、無慈悲に引き裂かれた。逃げ惑う人々、一瞬で炭化し崩れ落ちる家々。少女の細い足は瓦礫に縋り、絶望がその瞳を覆い尽くそうとしたその時、目の前に巨大な「壁」が立ち塞がった。


 それは、無数の矢を背に受け、血を流しながらも微動だにしないボルグの背中であった。


 「逃げろ」とも「大丈夫だ」とも言わず、彼はただ黙って、降り注ぐ死の光をその巨大な肉体ですべて受け止めていた。少女はその時、彼の腕の中で震えながら、自分を守るために焼けていく鉄のような肉体の熱さだけを、肌で感じていた。熱くて、痛くて、けれど何よりも確かな生命の鼓動を。


 ふと、少女の意識が現実に引き戻された。


 目の前には、横たわったまま動かないボルグの姿がある。彼の傷だらけの胸元には、如月澪が差し出す両手から、清冽な翠の光が絶え間なく注ぎ込まれていた。


 その少し離れた壁際では、カイルとアルヴァスが互いに言葉を交わすこともなく、泥にまみれた背中を預け合って休息をとっていた。二人の荒い呼吸は、先ほどまでの極限の逃走劇の激しさを物語っている。彼らもまた、己の限界をとうに超えていた。


 少女はじっと、自分を救ってくれたボルグの大きな手を両手で握りしめた。


 「……思い出せない」


 少女が小さく零した独り言に、治療を続けていた澪が静かに視線を向けた。


 「何を、ですか」


 「私の、名前。お父さんやお母さんが、私をなんて呼んでいたのか。あの光を見てから、全部消えてしまったみたいで」


 少女の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。


 村が焼かれ、定めの書から「死者」として処理された彼女には、もはや過去を繋ぎ止める縁がどこにも残っていなかった。管理者のシステムによって存在を抹消されるということは、その生きた証である名前さえも奪われるということなのだ。


 澪は治療の手を止めることなく、悲しげに、けれど確かな温もりを持って微笑んだ。


 「名前は、いつかまた見つかります。あるいは、この方が目を覚ました時に、新しい名前をくれるかもしれません」


 澪の視線が、微かに指先を動かしたボルグへと向けられた。


 「今はただ、願ってください。この方が、あなたの温もりを道標にして帰ってこられるように。定めの書が強いる死を、あなたの願いで書き換えるのです」


 少女は必死に頷き、ボルグのゴツゴツとした手に額を押し当てた。


 この閉ざされた不可侵区域の中で、唯一残された命の火を絶やさないように。少女は自分を忘れてしまった自分の代わりに、自分を守ってくれた男の生存を、ただひたすらに祈り続けた。


 その祈りに呼応するように、ボルグの喉から微かな、だが力強い呻きが漏れた。


 ボルグの喉から漏れた呻きは、静寂に包まれた断層の底で、確かな生命の鼓動となって響き渡りました。


 その巨大な瞼が、重々しく押し上げられます。濁った視界が次第に焦点を結び、最初に映ったのは、自分の手を必死に握りしめ、涙を流す少女の姿でした。ボルグは感覚の戻り始めた指先で、壊れ物を扱うように少女の手を微かに握り返しました。その確かな感触に、少女は言葉にならない声を上げて彼の胸に顔を伏せました。


 少し離れた壁際で休息をとっていたカイルとアルヴァスは、その気配に気づき、静かに視線を送りました。駆け寄って言葉をかけることはしません。ただ、死の淵から戻ってきた戦友の生存を、安堵を含んだ沈黙で見守っていました。


 澪は翠の光を収めると、深く長い息を吐き出しました。ボルグの致命的な傷は修復されましたが、失われた体力の回復にはまだ時を要します。そして、澪自身もまた、限界に近い魔力を酷使した代償として、深い疲労の色を隠せませんでした。


 小一時間が過ぎ、領域外の停滞した空気の中で澪の力が幾分か回復した頃、彼女は静かに立ち上がりました。


 「この辺りの断層から箱庭への出口は、既に調べがついています。おそらく影の軍隊が待ち受けていることでしょう。私たちはその裏をかき、まったく別の断層へと移り、天の眼を欺く必要があります」


 澪の視線は、遠く歪んだ虚空の先を見つめていました。


 「そして、彼ら天の使徒に対抗しうる仲間を増やし、天の都市を落とさなければなりません。それが、この理不尽な定めをひっくり返すただ一つの方法と言えるでしょう。……それでは、断層の異相がある方へ向かいましょう」


 その言葉を受け、アルヴァスが重い腰を上げながら言葉を発しました。


 「この領域外とやらの景色は、ずっと留まっていると頭がおかしくなりそうだ。空も地も定まらず、距離感さえも狂う。その異相まで、どれほどの時がかかるのだろうか」


 アルヴァスの懸念は、地上の物理法則に慣れ親しんだ者として当然の反応でした。しかし、澪は静かに首を振りました。


 「領域外では、時間の概念さえも綻〈ほころ〉んでいます」


 澪は再び翠の術式を展開しました。それは先ほどのような滑走のためのものではなく、方位を定める羅針盤のように鋭く光り、一点の闇を指し示しました。彼女はカイル、アルヴァス、そして少女を抱えたボルグに、足元に広がる翠の紋章の上へ座るよう促しました。


 皆が紋章に身を預けた、次の瞬間でした。視界が揺らぐ暇さえなく、目の前に巨大な「黒い壁」が突如として現れました。


 「なっ……何が起きた」


 カイルが息を呑み、周囲を見渡します。先ほどまで自分たちがいた場所は、既に遥か後方の闇に消えていました。


 「領域外での移動には、地上の制約がありません。意図した座標を固定できれば、瞬間的な移動が可能です。この黒い壁こそが、私たちが目指すべき異相の入り口であり、私たちが今、一瞬で距離を飛び越えた証でもあります」


 澪の言葉通り、目の前に立ち塞がる黒い絶壁は、次元の裂け目のような異質な圧迫感を放っていました。


 一行は、この暗黒の壁の向こう側に眠る、定めの書を覆すための新たな力へと手を伸ばそうとしていました。


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