第2話 箱庭に芽吹く違和感
泥の上に咲いた一輪の白い花は、灰色の隔離村において、あまりに異質で、あまりに鮮烈だった。
カイルの胸の奥で跳ねた鼓動は、驚きというよりは、本能的な恐怖に近かった。この箱庭のような村において、予定されていない事象が起きることは、それだけで死に直結する。彼は泥にまみれた杖を握り直し、ゆっくりと上体を起こした新入りの女を凝視した。
女の背後では、彼女を荷馬車から突き飛ばした監視兵たちが、信じられないものを見るような目で固まっていた。
「おい……今、何をした」
一人の兵士が、腰の剣に手をかけながら歩み寄る。彼の視線は女ではなく、その足元で風に揺れる白い花に向けられていた。
「この村で許可されていない植物を育てることは禁じられている。ましてや、烙印を押された直後の罪人が、どうして立っていられる。普通なら、痛みで叫び声を上げながらのたうち回っているはずだ」
女は答えない。ただ、静かな瞳で兵士を見つめ返した。その瞳の奥には、恐怖も、憎しみも、ましてや先ほど地下室で背中に押し当てられたはずの灼熱の記憶すら見当たらない。ただ深い湖の底を覗き込むような、底知れぬ静寂がそこにはあった。
兵士の顔が怒りで赤黒く染まった。
「答えろと言っているんだ、この出来損ないが!」
兵士は軍靴の踵を上げると、せっかく芽吹いた一輪の花を無造作に踏みにじった。繊細な花弁は瞬時に泥にまみれ、無残にひしゃげていく。
その光景を見ていた村の住人たち――かつての英雄たちは、ただ無表情に鍬を握り直すだけだった。彼らにとって、希望の芽が摘まれるのは見慣れた景色であり、もはや感情を動かす価値さえない出来事だったからだ。
だが、カイルだけは違った。
踏みつけられた花を見て、彼の背中の「否」の文字が、再び熱を帯びたように脈打つのを感じた。戦場で見捨てられ、地下室で全てを否定されたあの日から、死んだように動かなかった心が、わずかに波立つ。
「待て」
カイルの枯れた喉から、掠れた声が漏れた。
兵士が顔を上げ、カイルを睨みつける。
「なんだ、一週間前に来たばかりの不戦野郎か。杖なしで歩けるようになったのなら、さっさと泥を掘れ。それとも、お前もこの女と一緒に処分されたいのか?」
カイルは杖を突き、泥を跳ね上げながら一歩前へ出た。
「その女は、まだ意識が混濁している。立っているのはただの痙攣のようなものだ。放置すれば労働力として使えなくなる。……老ギルバの小屋へ運ぶ」
「ふん、勝手にしろ。気絶もしていない奴に手当てなど必要ないが、死なれて死体処理の手間が増えるのは御免だ」
兵士は鼻で笑い、ひしゃげた花をさらに念入りに何度も踏み荒らしてから、仲間と共に鉄柵の向こうへと去っていった。重厚な鉄の門が閉まり、再び村は静寂と泥の臭いに包まれる。
カイルは女の元へ歩み寄った。
間近で見る彼女の肌は、人族にしては透き通りすぎており、どこか現実味を欠いた美しさがあった。襤褸から覗く背中の焼印は、いまだにジュクジュクとした熱を放ち、肉を焼き続けているはずだ。
「……お前、立てるか」
カイルが問いかけると、女はゆっくりと顔を上げた。
「輝きは、まだ消えていないのですね」
彼女の声は、風にそよぐ木の葉の重なりのように、不思議な響きを持ってカイルの鼓動に直接届いた。
「何を言っている。その傷を放置すれば、今夜中に熱で死ぬぞ。来い、ギルバの小屋へ」
カイルは女の細い腕を取り、自分の肩に回させた。触れた肌は、焼印の熱があるはずなのに、驚くほど冷たく、瑞々しい。泥だらけの自分たちとは根本的に質の違う何かが、彼女の内に流れているような、奇妙な違和感があった。
老ギルバの小屋は、村の端にある、崩れかけた石造りの建物だった。
中に入ると、介抱役の老人ギルバが、驚きもせず、ただ新しい手桶を持って現れた。彼はカイルと女を交互に見やり、短く言った。
「新しい『否』か。だが、こいつは少し、様子が違うな。まるで、自らその熱を飲み込んでいるようだ」
ギルバは女の背中の服を剥ぎ、生々しい傷口を露出させた。
カイルは思わず息を呑んだ。
そこに刻まれていたのは、自分と同じ「否」の文字。しかし、彼女の文字は、カイルのものよりもさらに激しく崩れ、まるで巨大な翼を広げた鳥が天を覆わんとする勢いで広がっていた。それは文字というよりも、複雑に編み込まれた精緻な呪印のようにさえ見える。
「……こんな歪な文字は、見たことがない」
ギルバが泥のような薬を塗ろうとしたその時、女が静かにその手を遮った。
「それは、必要ありません。この傷は、対価ですから」
「対価だと?」
カイルが眉をひそめる。
「この世界という名の箱庭を書き換えるための、代償。私は、この『否』を光に変えるためにここへ来ました。そして、あなたたちの背負わされた『否定』という名の枷を、解き放つために」
女はそう言うと、カイルの背中にある、服越しでもわかるほど歪に盛り上がった焼印に、そっと掌を重ねた。
瞬間、カイルの全身に電流のような衝撃が走った。
背中から、今まで一度も感じたことのない涼やかさが流れ込んでくる。それは、戦場で受けた傷も、地下室で焼かれた恐怖も、すべてを清らかな水で洗い流すような感覚だった。
「何を……している」
カイルの視界が、一瞬だけ揺らぎ、見えた。
女の指先から、微かな翠色の光が溢れ出し、彼の背中に刻まれた黒ずんだ「否」の文字に吸い込まれていくのを。
文字の縁から、腐った肉が剥がれ落ち、下から新しい、赤ん坊のような滑らかな肌が再生されていく。
「やめろ! それを誰かに見られたら、お前は……!」
カイルは慌てて彼女の手を振り払った。
女は、まるで糸が切れた人形のように、その場に力なく倒れ込んだ。今度こそ、その瞳から意識の光が消え、深い眠りに落ちていく。
「カイル、今の光は……なんだ、これは」
ギルバが震える声で尋ねる。
カイルは自分の背中に手を回した。触れた場所には、もはや凸凹とした肉の盛り上がりはなかった。完全に消えたわけではない。しかし、あの禍々しい「否」の文字は、今や芸術的な紋様のように形を整え、熱ではなく、微かな脈動を伝えてくる。
カイルは眠る女の顔を見つめた。
この女は何者なのか。人族の姿をしているが、その内に秘めた力は、この世界の道理を無視している。
窓の外では、再び雨が降り始めていた。泥を耕す者たちの鍬の音だけが、絶望を奏でるように響いている。
だが、カイルの手のひらには、先ほど彼女から受け取った輝きが、確かな重みを持って残っていた。
箱庭の平穏が、内側から音を立てて崩れようとしていた。




