第18話 領域外への疾走
焦土と化したリメスの地には、生き残った者たちの荒い呼吸の音だけが響いていた。
如月澪は膝を突き、震える手でアルヴァスの焼けた甲冑に触れた。彼女の指先から溢れ出した翠の光は、カイルを癒やした時と同じ、この盤面には存在しない異界の治癒術式である。
「痛みますが、耐えてください。今はこの理不尽な世界に抗うための熱が必要です」
澪が紡ぐ詠唱と共に、アルヴァスの焼けただれた皮膚が急速に再生を始め、死を待つばかりだった彼の肉体に新たな因果の鼓動が打ち込まれていく。
驚愕に目を見開くアルヴァスに対し、彼女は静かに、だが拒絶を許さない意志を込めて告げた。
「一つだけ、約束を。管理者たちは私をセラと呼びますが、その名は運命に縛られた偽りです。私のことは、澪と呼んでください」
アルヴァスは混乱する思考の中で、その短い名を反芻した。澪。定めの書には一行も記されていない、この世で最も異質な救い。
「……承知した。感謝する、澪殿」
カイルは周囲の空間が不自然に歪み始めていることに気づき、鋭く叫んだ。
「澪、悠長にしている時間はないぞ! 空の空気が変わった。連中、もう次を送り込んでやがる!」
カイルの視線の先、灰の向こう側から、音もなく這い寄る巨大な影の群れが見えた。それは人でも魔物でもない。管理者が盤面のバグを消去するために解き放った、意思なき処刑執行体であった。
「分かっています。この一週間、私はわざと捕まるまでの間に、天の眼による索敵すら届かない理の死角を見つけておきました。ここから少し距離がありますが、私の術で強引に距離を詰めます。全員、私の影の内側へ!」
澪が叫ぶと同時に、彼女の背にある翠の紋章が爆発的な輝きを放った。それは地面と水平に固定され、五人を乗せるための光の基盤へと形を変える。
カイルは瀕死の重傷を負いながらも少女を離さないボルグを抱え、必死の思いでその光の円盤へと飛び込んだ。アルヴァスもまた、折れた剣を握りしめ、再生したばかりの足を震わせながら滑り込む。
「加速!」
澪の背中にある翠の紋章だけが、唯一不動の座標として彼らの前に固定される。四人はその紋章から放たれる目に見えない力場に掴まり、乗り物のように固定された状態で、物理法則を無視した滑走を開始した。
視界が激しく引き伸ばされ、背後の焦土が濁流となって消えていく。風を切る音さえ追いつかない超加速。四人は必死に光の縁に縋り付きながら、前を行く澪の華奢な背中を凝視した。
「ハァ、ハァ……っ! 澪、後ろだ! 影が、まだついてくる!」
カイルの絶叫が風に掻き消される。背後の地平から、墨汁をぶちまけたような影の大群が、空間そのものを侵食しながら迫っていた。それはどれほど速度を上げても、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、正確に五人の足跡を削り取っていく。
触れれば最後、存在そのものが消去される。影の触手が光の円盤の端を掠めるたび、カイルの心臓は爆ぜんばかりに脈打った。
「……追いつかせるな、頼む……!」
カイルは腕の中のボルグと、彼が抱える少女を必死に抱き寄せた。ボルグの背からは未だに血が滴り、加速の圧力に耐える彼の荒い呼吸がカイルの胸に伝わってくる。
アルヴァスもまた、歯を食いしばりながら背後の絶望を見つめていた。守るべき街を焼き払った光に代わり、今度は正体不明の影が自分たちを虚無へ誘おうとしている。
「あと少し……、あと少しで領域外の断層です!」
澪の声には、限界を超えた術式の反動による苦しみが混じっていた。彼女の白い首筋には青筋が浮かび、翠の瞳は充血して視界を血に染めている。
影の大群が津波のように盛り上がり、五人の頭上を覆い尽くそうとしたその瞬間。世界が反転した。激しい浮遊感と、それに続く暴力的な着地の衝撃。五人は冷たい暗闇の底へと投げ出された。
耳を劈いていた風の音も、背後を埋め尽くしていた影の気配も、嘘のように消え去っている。そこにあるのは、管理された箱庭のどこにも属さない、静まり返った虚無の空間であった。
カイルは泥に顔を伏せたまま、肺が焼けるような呼吸を繰り返した。
「……はぁ、はぁ、はぁ……。助かった、のか?」
隣で倒れ込んでいるボルグの巨躯が、微かに上下している。
澪は震える足で立ち上がり、自分たちが通り抜けてきた因果の断層を見上げた。そこには管理者の眼も、処刑執行体の影も届かない。
五人の綻びたちは、息も絶え絶えになりながらも、ついに反撃のための聖域へと辿り着いたのであった。




