第17話 灰の底から
音を失った世界には、ただ白銀の灰が雪のように降り積もっていた。
先ほどまで血を流し、誇りを叫び、必死に剣を交えていた戦士たちの姿はどこにもない。そこにあるのは、管理者が盤面の平仄〈ひょうそく〉を合わせるために収穫した、膨大な命の燃えかすだけだった。
積み上がった瓦礫と化したリメス村の外縁で、一塊の翠の光が微かに明滅した。
如月澪が展開した因果律の盾は、天火の直撃を辛うじて逸らしていた。だが、その代償は小さくない。彼女の白い指先は魔力の過負荷によってひび割れ、翠の瞳からは一筋の血が伝い落ちていた。
「カイル、生きていますか……」
澪の声は、乾いた風に溶けて消えそうなほどに細かった。
彼女の背後で、カイルは泥にまみれたまま、ゆっくりと上体を起こした。ボルグの腕の中には、震える小さな少女が抱えられている。三人のうちの一人。彼がその身を呈して守り抜いた命。
定めの書が「燃料」として死を宣告したはずの綻びたちは、死の光の渦中で、皮肉にも唯一の温もりを保っていた。
「……ああ、どうにかな。だが、これはあんまりだ」
カイルは周囲を見渡し、言葉を失った。
戦っていた相手も、共に盾を並べた仲間も、今は等しく灰の色をしている。正義を語っていた騎士も、パンを求めた罪人も、管理官が指を一つ鳴らしただけで、名もなき数字として処理されたのだ。
その時、焦土の端で、金属が擦れる鈍い音が響いた。
ひしゃげた白銀の甲冑を纏い、片腕を力なく垂らした男が、煙の中から這い出してきた。帝都騎士団副長、アルヴァス。
彼の誇りであった彫刻入りの重甲冑は黒く焼け、かつての壮麗な面影はない。その瞳からは一切の光が消え、ただ虚空を見つめていた。
「……なぜだ。なぜ、私が守りたかった世界は、私からすべてを奪うのだ」
アルヴァスは折れた剣を杖代わりにし、よろよろとカイルたちの元へ歩み寄る。
その足取りに殺意はない。だが、彼の背負ってきた正義という名の重圧が、今の彼を死人よりも深く蝕んでいた。愛するエレーヌの微笑み、部下たちと交わした誓い。それらすべてを焼き払ったのは、自分たちが崇拝してきた神の鉄槌だった。
「アルヴァス、あんたも気付いたはずだ。この盤面に、あんたたちの居場所なんて最初からないんだ」
カイルは少女を背後に隠し、ボロボロになった剣を構えた。
「管理官たちにとって、俺たちはただの帳尻合わせの道具だ。あんたが守りたかった平和も、俺たちが抗った烙印も、すべては連中の娯楽のために用意された舞台装置に過ぎない」
アルヴァスはその場に膝をついた。白銀の灰が、彼の焼けただれた頬に冷たく触れる。
「……ならば、私は何のために剣を振ってきた。何のために、多くの命を理の名の下に切り捨ててきたのだ」
その問いに答えたのは、澪だった。彼女は痛む体を引きずりながら、アルヴァスの前に立った。
「あなたが守ってきたのは、偽りの美しさです。けれど、あなたが今感じているその絶望だけは、定めの書に書かれていない本物の感情です」
彼女は空を指差した。雲の切れ間から、未だに無慈悲な駆動音を響かせる空中都市から迫撃砲の影が見える。
「三万人の命を燃料として消費し、なお満足していないあの方々に、本当の『熱』を教えてあげましょう。アルヴァス、あなたの剣はまだ、折れてはいないはずです」
アルヴァスは、自らの震える手を見つめた。その手には、焼かれた部下たちの灰がこびりついている。
絶望が、深い憎悪へと書き換えられていく。彼の中で、帝都への忠誠が、管理者への反逆という名の新たな業火へと変わった瞬間だった。
カイルは背後を振り返り、満身創痍のまま膝を突くボルグに視線を投げた。
ボルグの背には数え切れぬほどの矢が突き刺さり、その巨躯からは絶えず鮮血が滴り落ちている。だが、その太い腕は、天火の猛火から守り抜いた少女を今もなお、壊れ物を扱うように抱きかかえていた。彼らもまた、定めの書から弾き出され、死の光を潜り抜けた「理の残骸」であった。
一方、正史編纂室では、管理官が苛立ちを募らせていた。
無機質な白銀の空間に浮かぶ、水晶板に図式化された盤面。天火による強制消去が行われたはずの区画に、本来ならば存在してはならない光点が、不気味に、そして力強く蠢いている。
「……しぶといゴミめ。これ以上の因果の乱れは、定めの書の整合性を損なう」
管理官は、手元の虚空を操作した。彼の眼前に表示されているのは、主要個体であるカイル、セラ、アルヴァスの三点。だが、その足元には、定義不能なノイズとしてボルグと少女の存在もまた、微かな警告色を放ちながら残留していた。管理官にとって、それら「名もなきバグ」は排除すべき不要な数値に過ぎない。
「第十三節の筋書きを前倒しせよ。帝国全軍に告ぐ。反逆者カイル、異物セラ、そして裏切り者アルヴァス。この三名を、世界を滅ぼす大罪人として公式に登録する。周辺の兵装個体、および全住民をもって、これらを狩り立てよ」
管理官が指を弾くと、盤面の色が血のような赤に変貌した。この瞬間、箱庭の国「テラリウム」の全域において、彼らは存在そのものを否定される「敵」となったのだ。
世界が、牙を剥く。カイル、澪、アルヴァス。そして傷ついたボルグと、彼に守られた少女。立場の異なる五人の綻びたちが、灰の中から立ち上がり、偽りの神へと宣戦布告を果たす。




