第15話 盤面への入国
竜人の国ドラゴニアを後にしたセラが次に向かったのは、箱庭を囲む四国の南方に位置する「ズー・ガル荒野」であった。そこは、肉体の強靭さと野生の直感を重んじる獣人たちの勢力圏である。
箱庭の国「テラリウム」には、白銀の障壁が張り巡らされているが、その境目にはごく稀に、管理側の修正が追いつかない「綻び」と呼ばれる空間の歪みが存在する。獣人たちの里の奥にある巨大な古木、その根元こそが、テラリウムへと繋がる数少ないゲートの一つであった。
「……おうおう、噂の『竜殺し(ドラゴン・スレイヤー)』のお出ましじゃねえか」
里の入り口でセラを待ち構えていたのは、巨大な獅子の頭を持つ獣人の戦士長、ガウルであった。
セラは黙って、旅の途中で用意していた風呂敷を差し出した。中には、エルフの里「イル・ナ・ノーグ」でしか採れない、太陽の雫を閉じ込めたような甘美な果実が山ほど詰まっている。
「約束の通行料よ。これを渡せば、ゲートを通してくれる手はずだったわね」
ガウルは鼻を鳴らし、果実の一つを口に放り込んだ。溢れる果汁に満足げな表情を浮かべるが、その瞳には好戦的な色が消えていない。
「ああ、実はそうだったんだがな……。悪いな、エルフの嬢ちゃん。ドラゴニアの連中から聞いたぜ。あのイグニールと一騎打ちして王冠を分取ったんだってな?」
背後に控えていた狼、虎、熊の獣人たちが、武器を構える代わりに拳を打ち鳴らし、一斉にセラを包囲した。
「あんな熱苦しい連中を相手にできるなら、俺たちとも遊んでいけよ。勝敗はどうでもいい。お前みたいな異質で強え奴と拳を交えられる機会なんて、一生に一度あるかないかだ。俺たちの気が済むまで戦わなきゃ、ゲートは通さねーぜ」
セラの眉間に深い皺が寄った。
「……嫌がらせかしら。私は急いでいるんだけど」
「まあそう言うなよ。獣人の好奇心は、一度火がついたら消せねえんだわ」
それから一週間、セラの生活は地獄のような「接待」の連続となった。
獣人たちは悪意こそないが、その好奇心は暴力的なまでに熱烈だった。朝から晩まで、屈強な戦士たちが代わる代わる襲いかかってくる。セラは溜息をつきながら、エルフとしての身軽さと、因子による物理定数の操作を駆使して、彼らを迎え撃った。
ある時は狼の神速を空間の圧縮で制し、ある時は熊の怪力を慣性の無効化でいなす。一週間が過ぎる頃には、里の屈強な戦士たちは皆、セラの前にコテンパンにのされ、地面に大の字になって転がっていた。
「……もう、いいかしら? 通行料の果物も、もう食べ尽くしたでしょう」
一人の傷もなく、髪すら乱れていないセラが冷ややかに告げると、戦士長ガウルは腫れた顔で笑いながら道を空けた。
「……カカッ! 参った、完敗だ。二度と来るんじゃねえぞ、化物エルフめ。さっさとあの『静かすぎる国』へ消えちまえ」
獣人たちに敬意混じりの追い出しを受けたセラは、里の奥に佇む古木の根元、空間が翠に揺らめくゲートへと足を踏み入れた。
次元を跨ぐ、悍ましいほどの圧迫感。だが、彼女の右手に刻まれた竜王の血が熱を帯び、彼女の存在をこの世界の理に繋ぎ止める。
視界が開けた時、そこには「外の世界」とは決定的に異なる、色彩を欠いたような静謐な戦場が広がっていた。
リメス村の周辺。そこでは「定めの書」に従い、帝都守護軍と、反逆したアラズの男たちが激突していた。
セラは近くの丘から、その光景を俯瞰した。
「……これが、箱庭。なんて冷たい因果律なの」
その時、戦場の中央から、一人の男の叫びが聞こえてきた。
「戦いたくない! 誰も、死なせたくないんだ!」
カイル。この頁の「英雄」として、死ぬことが定められた男。
彼の叫びには、この世界の誰もが持つはずのない、運命に対する根源的な「不戦」の意志が宿っていた。
セラは翠の瞳を輝かせ、不敵に微笑んだ。
「見つけた。あの男が、この盤面を引っ繰り返すための『特異点』ね」
セラは直ちに行動を開始した。
エルフとしての姿――尖った耳や特徴的な容姿は、この箱庭ではあまりに目立ちすぎる。彼女は因子を操作し、自身の外見をこの世界の人間に模した姿へと書き換えた。艶やかな黒髪、そして意志の強そうな黒い瞳。
彼女はすぐにはカイルに接触せず、まずは周辺の村々に紛れ込み、情報収集に時間を割いた。管理側の目、兵士の配置、そして「烙印」というシステムの構造。
潜伏して七日目。
彼女はあえて、巡回中の粛清官たちの前に姿を現した。
「怪しい女だ。お前、どこの所属だ?」
「……ただの迷い人ですよ」
抵抗することなく捕まった彼女は、その日のうちに強制執行場へと連行された。
背中に押し当てられる、焼けるような熱。
「否」の烙印。
だが、その激痛さえも、彼女にとっては盤面に深く食い込むための「入場券」に過ぎなかった。
そして。
薄暗い牢獄の隅で、鎖に繋がれたカイルの姿を捉えた時、彼女は静かに名前を呼んだ。
「……如月 澪。いえ、これからは『澪』と呼んでね。カイル」
物語の断片は繋がり、一人の「毒」が盤面へと放たれた。
すべては、あらかじめ決められた死を否定し、本当の自由を奪い返すために。
如月 澪、またの名をセラ。彼女の反逆の物語が、ここから加速していく。




