第12話 竜王の試練
箱庭の国「テラリウム」を正方形に囲む四つの強国。その東方に位置するのが、峻厳な山脈と吹き荒れる魔力流に守られた竜人の国「ドラゴニア」である。この地は、かつての創世の残滓である原初の魔力が渦巻き、未だに大地が脈動を止めぬ混沌の領域であった。
エルフの里「イル・ナ・ノーグ」を後にしたセラは、数ヶ月の旅を経て、雲を突くような巨岩が連なるその地へと辿り着いていた。彼女の足元に広がるのは、熱せられた砂礫と、時折地表から噴き出す硫黄の煙。華奢なエルフの体躯にはあまりに不釣り合いな死の世界だ。
彼女がここへ来た理由はただ一つ。箱庭への「入国」を果たすために不可欠な、ある絶対的な耐性を得るためであった。
箱庭は管理者が作り出した巨大な演算空間、あるいは緻密な仮想領域に近い。そこへ外の世界の命が踏み込めば、異物として即座に「修正」という名の消去を受けるか、あるいは空間の圧力そのものに魂が耐えきれず、霧散して消える。だが、世界を創世した際の流れを汲む竜人の王の血には、世界の物理法則を固定し、外部からのあらゆる干渉を弾き返す「竜素」が含まれている。
竜王と血の契約を結ぶこと。それが、盤面という偽りの理に干渉できる「転生者」としての因子を、最大限に機能させるための唯一の手段であった。契約によって血に竜の因子を混ぜ合わせ、存在の強度を高めなければ、箱庭の扉を開けた瞬間に彼女の自我は情報の海へと溶けてしまうのだ。
「……止まれ、細身のエルフよ。これより先は、誇り高き竜の血を引く者のみが許される聖域なり」
ドラゴニアの王都を囲む、黒金石で築かれた「断絶の門」にて、三メートル近い巨躯を持つ竜人の門番が、重厚な戦斧を突きつけた。
エルフという種族は、この世界では「森に引きこもり、繊細な魔法を愛でる、美しくも脆弱な種族」と認識されている。灼熱と荒野、そして力こそが正義であるドラゴニアにおいて、彼女のような存在は、風に吹かれれば容易に折れる枯れ枝も同然の扱いだった。
「竜王、イグニール・ゼ・グレイブに会いに来ました。契約を望みます」
セラの凛とした声が、乾いた風に乗って響く。
門番たちは顔を見合わせ、数秒の静寂の後、腹を抱えて爆笑した。
「契約だと? 我らが王と、その脆弱な枝のような腕で何を語るというのだ。その白い肌は、ドラゴニアの太陽に数時間さらされるだけで焼けただれるぞ。帰れ、小娘。森で木の実でも数えているのがお似合いだ」
「断るなら、力ずくで通り抜けますが。私の時間は、あなたたちの笑い声を聞くためにあるわけではありません」
セラの翠の瞳が、微かに、だが鋭く細められる。
その瞬間、門番たちの笑いが凍りついた。彼女から放たれたのは、エルフ特有の優雅で柔らかなマナではない。それは、あらゆる因果律を捻じ曲げ、周囲の空間そのものを重く沈み込ませる、得体の知れない「圧力」だった。
門番たちの戦斧が、目に見えない巨大な不可視の質量に抑え込まれるように、地響きを立てて地面へとめり込んでいく。重力そのものが彼女の意志によって歪められたかのような異常現象に、竜人の強靭な足腰さえもがガクガクと震え始めた。
「……面白い。通してやれ。その異質な気配、ただのエルフではあるまい」
王都の奥、活火山の山腹をそのまま削り取って穿たれた巨大な謁見の間から、大気を震わせるような重低音の声が響いた。
イグニール・ゼ・グレイブ。ドラゴニアを統べる、黄金の翼と不壊の鱗を持つ王。その言葉は絶対であり、門番たちは恐怖に顔を引きつらせながら門を開け、セラを奥へと導いた。
謁見の間は、文字通りの地獄だった。
溶岩が川のように奔流を成して流れ、常に数千度の熱気が渦巻く過酷な空間。普通の人間であれば、呼吸をするだけで肺を焼かれるだろう。その最奥、マグマの滝を背にして岩の玉座に座る巨大な男が、黄金の瞳でセラを射抜いた。
「エルフの娘。貴様が我が血を求め、契約を望む者か。我が血は猛毒なり。定めの書に縛られぬ強靭な魂と、盤面そのものを食い破る覚悟がなければ、一滴で貴様の細胞は灰と化すぞ」
「覚悟なら、自分の長すぎる名前を切り捨てた時に済ませています。イグニール、契約の条件を。私は一刻も早く、あの不愉快な箱庭へ向かわなければならない」
セラは熱気に汗一つ流すことなく、真っ直ぐに王を見上げた。
イグニールは不敵に笑い、岩を砕くような轟音を立てて立ち上がった。彼が動くだけで、周囲の魔力の密度が爆発的に上昇する。
「よかろう。古より伝わる竜の試練を三つ課す。エルフの軟弱な理や、小手先の精霊魔法では、到底突破できぬ死の儀式だ。これを越えて初めて、貴様を対等な契約者と認めよう」
王が告げた試練の内容は、常軌を逸したものだった。
「第一。我が足元に広がる『火龍の浴場』、すなわち沸騰する溶岩の池を泳ぎ、対岸に辿り着け。魔法による防護は不要。我がマナがすべてを中和し、貴様の術式をかき消す空間だ。生身の強度のみが問われる」
「第二。頂へと続く『白銀の暴風壁』を突き進め。そこには音速を超える真空の風が吹き荒れ、いかなる物理的な盾も紙細工のように切り裂かれる」
「第三。それらを越えた後、再び我が前へ戻れ。そこで最終的な『問い』を授けよう」
周囲に控えていた竜人の将軍たちが、侮蔑と好奇の混じった笑みを浮かべてセラを見守る。
エルフの薄い皮膚は、溶岩の輻射熱だけで炭化するはずだ。ましてや暴風壁は、気流の乱れに敏感なエルフにとって、文字通り魂を細切れにされる処刑場に等しい。彼らにとって、これはセラという「不遜な侵入者」を合法的に排除するための宣告であった。
だが、セラの口元には、冷ややかな、それでいて確信に満ちた笑みが浮かんでいた。
(溶岩に、暴風。魔法を封じられたところで、世界の物理定数が変わるわけじゃない。熱力学における熱交換の効率と、流体力学における層流と乱流の制御……その基礎さえ理解していれば、これほど単純な遊びもないわね)
彼女が求めているのは、この世界の住人が信奉する神秘の力ではない。この世界の理の外側にあった、前世の「科学」という圧倒的な論理。そして、それを因果律のレベルで具現化する、転生者としての因子の力だ。
「分かりました。その三つの試練、いとも容易く突破してみせます。瞬きをしている間に終わらせてあげましょう」
セラの言葉が、焦熱の謁見の間に、場違いなほど清涼な風のように流れた。
竜王イグニールの黄金の瞳が、獲物を見つけた猛獣のように愉快そうに細められる。
「ぬかしたな、セラ! 良い、ならば見せてみよ! 定めの書という傲慢な記述を書き換えるという、異物たる貴様の真価を!」
ドラゴニア全土に、かつてない激震の予感が広がっていく。
それは、一人のエルフが竜人の常識を物理法則ごと粉砕し、盤面の壁を穿つための、苛烈なる反逆の序曲であった。




