第11話 翠の産声
意識が混濁した光の奔流の中で、如月 澪は自分の輪郭が書き換えられていくのを感じていた。
前世の記憶――二十一世紀の日本という、数字と論理、そして停滞した空気に包まれていた世界の記憶は、剥がれ落ちる古い皮膚のように遠ざかっていく。代わりに流れ込んできたのは、五感を暴力的に刺激するほどの生気だった。
肺を満たしたのは、大気そのものが意思を持っているかのような、濃密なマナの芳香。
肌を撫でたのは、電子機器の排熱ではない、森が吐き出す湿り気を帯びた清涼な風。
「……目覚めたか。我らが同胞、久遠の森に差したる新たなる光よ」
導かれるように瞼を持ち上げると、そこには天を衝くほどの巨木が円環を成す、幻想的な光景が広がっていた。視界の端々で、物理法則を無視した燐光が蝶のように舞い、頭上には七色の層を成す星雲が白昼の空を彩っている。
澪は自らの手を見つめた。
白磁のように透き通った、吸い付くような肌。指先は長く、しなやかだ。そして、耳元を触れれば、長く尖ったエルフ特有の器官が指に触れる。
彼女は、如月 澪という魂を保ったまま、この剣と魔法のファンタジー世界に、エルフという種族として転生を果たしたのだ。
彼女が産声を上げた瞬間に与えられた名は、エルフの伝統と、彼女が背負う精霊の加護をすべて繋ぎ合わせた、途方もなく長いものだった。
「セレナティアラ・エル・フェリス・ヴァル・ナ・クウェルティアラ」
儀式の場で長老が朗々と歌い上げたその名は、一息で唱えることさえ困難なほどだ。
「セレナティアラ」は静かなる星の雫、「エル・フェリス」は永遠なる祝福、「ヴァル・ナ・クウェルティアラ」は聖なる泉の守護者。彼女という存在を定義するために、先人たちが積み上げてきた美辞麗句の集大成。それが彼女の今世における真名であった。
だが、その名を授けられた瞬間、澪の幼い意識の中で強烈な拒絶反応が起きた。
(……長すぎる。そんな何十文字もの運命に、私は縛られたくない)
彼女の背中には、翡翠色に輝く幾何学的な紋章が刻まれていた。それはエルフの魔法体系であるスペル・ルーンや、エレメンタル・マジックとは決定的に異なる、異質なコード。世界を飛び越えてきた転生者にのみ宿る、次元の壁を穿つ因子の結晶である。
彼女は、自らに与えられた長大な名の最初の一文字「セ」と、最後の一文字「ラ」を強引に引き寄せ、結びつけた。
「……セラ」
まだ舌も十分に回らない幼子の唇から漏れたその短い音に、周囲のエルフたちは驚愕した。
「名を、切り捨てたというのか? 聖なる祝福も、泉の加護も、すべてを……」
彼らには理解できなかった。エルフにとって名は力であり、歴史そのものだ。それを自ら削ぎ落とすなど、自らの魂を半分捨てるに等しい暴挙。だが、澪にとっては違った。
(私は如月 澪だ。けれど、この世界ではセラとして生きる。余計な意味も、押し付けられた運命も、全部中抜きにしてやる)
最初と最後だけを繋ぎ、その中間に詰め込まれた予定調和をすべて破棄する。その決意こそが、彼女が後に箱庭の管理者たちから「未登録個体セラ」として警戒される、反逆の原点となった。
彼女が転生したこの場所は、盤面を正方形に囲む四つの大国の一つ、エルフの聖域「イル・ナ・ノーグ」。
箱庭の外の世界は、可能性に満ち溢れていた。
空を裂いて飛翔するドラゴンを駆る竜人、ドラゴニュートの誇り高き戦士たち。
深淵の海を統べ、歌声で荒波を鎮める魚人、マーフォークの歌い手。
そして、荒野を疾走し、その爪で魔獣を屠る獣人、ワービーストの軍勢。
さらには人知を超えた神獣や、大地を蝕む魔物の群れ。あらゆる命が、自らの生存を賭けて競い合い、時には争い、時には共闘する。そこには定めの書などというあらかじめ決まった筋書きなど存在しない。それぞれの命が、その瞬間ごとの選択によって、不確かな未来を切り拓いていく――それが、この世界の当たり前であった。
だが、そんな自由なる世界の中心には、地図上の絶対的な空白地帯が存在していた。
それが、箱庭の国「テラリウム」。
周囲の四カ国が、何世代にもわたって暗黙の了解として不可侵を貫いている場所。そこには、エルフの精鋭も、竜人の英雄も、決して踏み入ることができない見えない障壁が張り巡らされていた。
「あそこは、神が造りし箱庭。我らこの世界の住人が触れることは叶わぬ、美しき停滞の地だ」
若き日の澪は、エルフの賢者としての教育を受ける傍ら、森の頂に登っては、その空白地帯を眺めていた。
彼女の瞳には、他の住人には見えないものが見えていた。
箱庭を囲む障壁の内側から漏れ出す、悍ましいほどに果実と肉が甘く腐り濁った醜悪な気配。
外の世界では命は激しく燃え、そしていつかは散る。だが、あの場所だけは違う。まるで誰かが精密にプログラミングした、美しくも無機質な予定調和の匂いが、風に乗って微かに届くのだ。
「……気持ち悪い。あそこだけ、因果律が死んでいる」
彼女が成長するにつれ、背中の紋章は周囲のマナを吸収し、さらに複雑な数式へと進化していった。
ある時、彼女は森の辺境で、次元の歪みに飲まれかけていた一人の男を救った。彼はこの世界の住人ではなく、彼女と同じ翠の紋章を持つ転生者だった。
「……お嬢ちゃん、気をつけるんだ。あの箱庭を管理している連中は、俺たちのような『異物』を燃料として狙っている」
男は消え入りそうな声で、箱庭の真実を語った。
そこでは英雄の死がシステムとして組み込まれ、命が数字として図式化されていること。そして、世界を飛び越えてきた者の因子だけが、その盤面を書き換える「特権」を持っていること。
「私の名前が短いのには、意味があったみたいね」
澪は自嘲気味に微笑んだ。
最初と最後さえあればいい。その過程にある、管理者が用意した「無駄な筋書き」など、すべて切り捨ててしまえばいい。
彼女はエルフの里を捨てる決意をした。
セレナティアラ・エル・フェリス・ヴァル・ナ・クウェルティアラという長大な運命を脱ぎ捨て、たった二文字の「セラ」という毒となって、あの白銀の壁を穿つために。
彼女が箱庭に干渉し、入国するまでの道のりは、ここから数十年にも及ぶ過酷な旅となる。
外の世界の国々を巡り、竜人の王と契約し、獣人の戦士たちと拳を交えながら、彼女は自らの因子を磨き上げていく。すべては、あの閉じられた盤面の中で、数字として処理される命を救うために。
一人のエルフが、世界の中心に居座る「偽りの神」に反旗を翻す、果てしない旅の幕が上がった。




