第10話 盤面を焼く天火
空が、割れた。
それは夜明けの光などではなかった。厚い雲層を強制的に押し広げ、巨大な円環を描いて降臨したのは、白銀の幾何学模様。地上で刃を交える者たちすべてを、塵芥として見下ろす神の瞳であった。
「総員、散れ! 盾を掲げるな、全力でこの場を離脱しろ!」
カイルの絶叫が、戦場を支配していた鉄の音をかき消した。
彼の背中にあるアラズの烙印は、今や皮膚を焼き切らんばかりの熱を帯び、翠の光を周囲に撒き散らしている。その光が、頭上に展開された白銀の円環――管理者が放つ天火と激しく反発し、大気を震わせていた。
「……何だと。これは、守護軍の援護ではないのか」
カイルと対峙していたアルヴァスが、その剣を止めて天を仰いだ。
彼の瞳に映るのは、自らが命を賭して守ってきたはずの帝都を、等しく標的として捉える無慈悲な殺意の光だった。アルヴァスたちが信じてきた正義の先にあったのは、勝利ではなく、用済みとなった駒を盤面から一掃するための「清掃」だったのである。
「アルヴァス! 呆けている暇があるなら、自分の部下を連れて逃げろ! あれは敵も味方も関係ない。ただの数合わせだ!」
カイルは言い捨てると、動けなくなっているボルグと少女たちの元へ走った。
ボルグの背中には、数え切れないほどの矢と槍が突き刺さっている。彼は自分の死を悟りながらも、少女たちの前で巨大な壁のように立ち尽くしていた。
「ボルグ、動け! 死ぬのは今じゃない!」
「カイル……。へへ、分かってるよ。だがよ、あの光……あれは俺たちの誇りまで焼きに来やがったな」
ボルグは血を吐きながらも、少女の一人を大きな腕で抱え上げた。
彼らが命懸けで守り、あるいは奪い合ってきたものの価値など、空の上にいる者たちにとっては塵に等しい。ただ定めの書に従って、盤面の数字を整えるための作業が始まろうとしていた。
一方、正史編纂室。
静謐な空気の中、管理官は冷淡に手元の水盤を見つめていた。図式化された戦場では、カイルやアルヴァスといった個々の命が、小さな輝点として明滅している。
「天火、出力安定。定めの書の記述通り、該当区画を燃料として全焼却します。これによる因果律の修復期待値は九十を超えます」
技師の声に、管理官は満足げに頷いた。
「よろしい。英雄が死なぬのであれば、その周囲を丸ごと焼き、死の熱量を徴収するのみ。それがこの盤面を維持する唯一の理だ。無駄な抵抗を続けるアラズどもに、定めの書の重さを教えてやれ」
管理官が再び指を鳴らそうとしたその瞬間、図式化された盤面の一部が、激しく乱れた。
「……? 因果律に乱れが発生。未登録個体、セラの周辺で法則の逆流を確認!」
地上では、如月 澪が両手を天に掲げていた。
彼女の周囲だけ、時間の流れが淀んでいるかのように、舞い上がる火の粉が静止している。彼女の翠の瞳は、天に浮かぶ神殿そのものを射抜いていた。
「盤面の帳尻を合わせるために三万の命を燃料とする……。その傲慢な定めの書、私が一頁残らず引き裂きます」
如月澪が足元を強く踏みしめると、彼女を中心に翠の魔法陣が展開された。それは管理者が知るいかなる術式とも異なる、異界の理。彼女が紡ぐのは、定めの書には存在しない言葉、すなわち綻びの連鎖だった。
「カイル! 私の後ろに! 盤面の外側へ逃れる道を作ります!」
如月 澪の声に応じ、カイルは少女を抱えたボルグを伴い、彼女の背後へと飛び込んだ。
次の瞬間、天から白銀の光柱が垂直に叩きつけられた。
大地が悲鳴を上げて蒸発する。
木々は一瞬で灰となり、岩石は溶岩へと姿を変えた。帝都の防衛を担っていたはずの兵士たちも、逃げ遅れた罪人たちも、等しく白銀の光の中に飲み込まれていく。
アルヴァスは、自らの剣を大地に突き立て、降り注ぐ光の圧力に耐えながら、自分の部下たちが無機質な燃料として消えていく光景を、その目に焼き付けていた。
「これが……これが私の守りたかった、定めの書の真実か……!」
彼の叫びは、天を揺らす轟音にかき消された。
盤面を焼き尽くす天火。すべてが予定調和の下に灰へと還るはずのその場所で、ただ一箇所だけ、不自然な翠の光が渦を巻いていた。
如月澪が作り出した、理の死角。
そこには、定めの書から脱落したはずの、生きた綻びたちが存在していた。
光が収まった後、そこに残されたのは、真っ黒に焦土と化した大地と、静寂だけだった。
だが、管理官の前に浮かぶ水晶板には、あってはならない警告が赤く点滅していた。
「……個体名カイル、セラ、および随伴個体三名の生存を確認。因果律の乖離が、百を突破しました」
管理官の顔から、余裕が消えた。
「……盤面を無視して生き残るだと? それはもはや綻びではない。世界を食い破る、猛毒だ」
焦土の中で、カイルはゆっくりと立ち上がった。
その視線の先には、もう管理者が望む平和も、騎士が望む正義も残っていない。
ただ、自分たちの足で歩くべき、汚れなき荒野だけが広がっていた。




