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消えた街の図書館

作者: 鈴屋勇気

あの日、僕はただ、日常から逃れたかった。ゴールデンウィーク。SNSで誰も知らないような秘境の地を探し、辿り着いたのは、地図にも載らぬような寂れた温泉街だった。観光客の姿はまばらで、時間だけがゆっくりと流れている。小さな土産物屋が並ぶ石畳の坂道を散策するうち、ふと、古びた木造の建物が目に留まった。蔦が絡まる壁に、「文庫」とだけ書かれた小さな看板。それが、僕が足を踏み入れることになる、始まりの場所だった。


引き戸を引くと、鼻腔を衝くのは、埃と古本の匂いだ。中は驚くほど広く、壁一面を埋め尽くす書架には、背表紙が色褪せた本がぎっしりと並んでいた。まるで中世ヨーロッパの図書館に迷い込んだような錯覚に陥る。誰もいない。カウンターに目をやると、年老いた男が一人、静かに分厚い本を読んでいた。物音に気づき、顔を上げたその目は、僕の全身を見透かすような、深い色をしていた。


僕は吸い寄せられるように書架の間を歩いた。目的もなく指で背表紙をなぞるうち、ひときわ異彩を放つ一冊に手が触れる。『呪いの本』。そのシンプルなタイトルに、ホラー好きの血が騒いだ。表紙には、古ぼけた羊皮紙に墨で描かれたような、不気味な紋様が薄く残っている。僕はその本を手に取り、カウンターの老人へと向かった。


「すみません、この本を借りてもいいですか?一応、旅行者なのですが、一年後には必ず返却しますので」


老人はゆっくりと顔を上げた。その顔に表情はなく、ただ静かに僕を見つめる。「ああ、構わんよ。ただし、一年後には必ず返してくれればの話だがね」声は低く、どこか底冷えする響きがあった。僕は胸の奥で、奇妙な悪寒を感じたが、本の魅力には抗えなかった。貸し出し票に名前と住所を書き、本を受け取る。その重みは、僕の予想をはるかに超えていた。


本を借りた僕は、すぐにその街を後にした。日常に戻り、僕は夢中でその本を読み耽った。内容は、恐ろしくも魅力的で、まるで僕の魂を蝕むかのようだ。本の世界に没頭するうち、いつしか返却期限のことなど、頭から消え去っていた。


あの本を借りてから、気づけば三年もの月日が流れていた。ある日、部屋の片隅に置かれた本の存在に、ふと気づく。さすがにこれはまずい。急いで、あの図書館へ返そうと決意する。僕はスマホを取り出し、あの温泉街を検索した。


しかし、地図にはどこにもその街の名前がない。いくら探しても、温泉街どころか、図書館があったはずの場所は、空白のままだった。「あれ? 確かここらへんに……」僕は記憶だけを頼りに、その場所へと車を走らせた。たどり着いたのは、朽ち果てた廃墟のみ。古びた門扉は歪み、建物は今にも崩れ落ちそうだ。蔦に覆われた壁には、辛うじて「文庫」と書かれた看板の跡らしきものが残っていた。


「一体、僕はどこで、誰からあの本を借りたんだ……」


恐怖が込み上げ、僕は急いで来た道を戻ろうとする。その時、手元に持つ本が、ずしりと重みを増した。そして、本が開く。ページは真っ白な紙面ばかり。だが、最後のページにだけ、血のような赤いインクで「お前が悪い」と書かれていた。僕は恐ろしさに震え、思わず車から飛び出した。


刹那、けたたましいブレーキ音が響き渡り、視界は闇に包まれた。


朦朧とする意識の中、どこからか一つの言葉が聞こえた。「返さなかった。お前が悪い」。

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