2-2
【3】
「……ヤバいじゃん」
粳部は青い天井を見つめながらそう呟く。昼間の答弁の内容から考えられることはあまり多くないが、きっと今はまだそれが碌でもない話だという認識だけがあればそれでいいのだろう。
入ったばかりの彼女には公開できない情報もある。彼女はまだ慌てるようなタイミングではないと自分を納得させていた。空はまだ鈍い藍色のままであり、どうやら日の出は遥か先のようだ。
「……はあ」
いつの間にか粳部は一人だ。いや、目覚めてから彼女はずっと一人だ。
彼女が最初に見たものは白い空。精神病院の無機質な天井は患者を逆に狂わせ、正常な人間だとしても時間と共に壊していってしまう。彼女の担当医がヤブ医者でなかったことは幸運だった。すぐに外へ出させてもらえたのだから。
「鈴先輩……寝たかな」
彼女が窓の向こう側を眺める。藍川も一人で寝ているのだろうか。膝を抱える彼女のように一人寂しく。
「(当たり前か)」
目覚める前、粳部は姉と寝ていた。彼女は一人ではなかった。それが粳部にとって良かったか悪かったかは別の話だ。いつでも粳部に迫る姉を彼女は恐れ、憎んですらいた。だが彼女はそれでもどこか愛していた。何だかんだ姉に居て欲しかったのだ。あれでも一応、姉妹だったのだから。
本来であれば藍川と粳部の姉は結ばれ、今頃は二人で寝ている筈だっただろう。だが姉は失踪した。粳部が入院した日、何の前触れもなく失踪した。
「……結局、私は一人か」
今、彼の隣に粳部は居ない、姉も居ないが粳部も居ない。これはチャンスだ。姉の知らない領域に粳部は今、踏み込んでいる。本来粳部がどう足掻こうと進めなかった領域に、あの怪物のおかげで踏み入ることができるようになったのだ。
粳部の空白を満たす為に必要なものが目の前にある。ならば手を伸ばさない選択肢はない。ただ欲望のままに手を伸ばせばいい。
「(欲しいな……欲しいな)」
藍川の心の隙間につけ込むことは容易い。後は、誰かと深く関わる勇気さえあれば。彼の隣にあるガランドウの空席は手に入る。
「くそっ!」
今、何を考えた。粳部はおよそ姉を失った者とは思えないような、おぞましいことを考えていた。見えてしまった弱みを見なかったふりをして日々を過ごすことこそあるべき形だ。だというのに、彼女は恐ろしいことを考えていたのだ。
彼女が怒りのままベッドを叩く。だが、轟音と大きな振動に粳部が飛び起きた瞬間、床が壊れて彼女とベッドは落ちた。
「う、嘘!?」
粳部はベッドと床を叩き壊してしまっていた。天井を見上げると大きな穴が開いており、粳部の部屋の天井が天井の先に見えている。当人は軽く叩いたつもりだったが、想定を超えたあり得ない力が出ていたのだ。本来ない筈の力が。
「……えっ?」
粳部が起き上がって辺りを見渡すと、自分が落下した場所の床も歪んでしまっていることが分かる。下の階に誰も住んで居なくて良かったが、管理人に説明して工事する必要性が出てきてしまった。これは相当の賠償金を請求される。
「こ、こんな力……そんな」
粳部はまた勝手に怪物が出ていたのではないかと辺りを見渡すも、黒い怪物は影も形もなかった。分かっていたことだが粳部は変わってしまった。望まない力程、無価値なものはない。制御できないというのなら尚更だ。
「ど、どうしよ……ジャンプで行けないかな」
この細腕で怪力を出せるというのなら、この細い足でも怪力を出すことができる筈だ。彼女は九割方できないだろうと思いつつも、物は試しと思い切りジャンプする。するとその体は一瞬で天井に激突し、彼女は激痛に悶えつつも自室の床に落下する。
「いっでええ……できちゃ駄目でしょ……」
人間の脚力ではない。自分の体に何が起こっているのかが分からず、彼女は辺りを見渡して混乱する。黒い怪物と不死身の力のことで手一杯だというのに、新たな情報は何も知らない彼女を更に混乱させる。
試しに、粳部が砕けた木片を握る。
「え……」
それは音を立てて軋み、形を歪ませる。粳部の手の中で力の通りに変わっていく。彼女の手から落ちた異形の木片が床を転がった。これは人の持っていい力ではない。だが、こんな常識離れした力でなければあの概怪を倒せない。
その時、部屋に誰かの声が響く。
『大きな音でしたけど、大丈夫でしたか?』
「……心臓止まるかと思った」
『おっと、これは失礼』
突然聞こえた声に驚愕した粳部だったが、すぐにそれが昼間の『ラジオ』であることに気が付く。このノイズ混じりのレトロな声。咄嗟に気が付いていなければ叫んだだろう。普通は叫ぶ。
彼女が音のする方を向くと、部屋の隅に置かれたラジオからノイズが溢れていた。それは学生時代に聞いていた物で、現在は使用していない代物。電池は既に抜かれている。
彼女がラジオに問いかけた。
「どういう仕組みなんです、それ?」
『私は音が出る機械を支配下に置ける司祭です」
「こ、これも司祭の力なんですか?」
『私の場合は。人によって違いますが』
「非科学的過ぎる……」
だが、そんなことを言う彼女自身が非科学の塊だ。質量保存の法則を無視した身体の再生、エネルギーに見合わない力の出力。何もかもが人間の領域を超えている今の彼女は、科学の対極の位置に立っている。
ラジオがペラペラと話を続ける。
『明日、貴女の検査後に訓練を行う予定です。藍川さんが先生ですよ』
「そうでないと困りますよ」
『……何でですか?』
「私、結構な人見知りですから」
今粳部の目の前に居るラジオはどう見ても機械であり、その向こう側に人が居るという実感が湧いてこない。故に彼女はこうして普通に接することができているが、これでも何となく距離を置いている。
『これでも私、人間なんですけど』
「ラジオが人だと言い張っても……」
『差別発言ですよそれ。給料から引きますからね』
粳部はふと、この仕事の給与体系がどうなっているのか気になった。粳部はもう以前の職場には戻れない。タイミングよくこの『蓮向かい』に加入できたが、以前よりも給料は減るのだろうか増えるのか。
「……給料ってこの仕事、どれくらい貰えるんですか?」
『粳部さんは月に百八十五万円ですね』
「うげっ!?何スかその高給!?」
藍川があの大きさの家を買えた理由に粳部も納得がいった。これだけの金額を受け取っていればあんな家にも住めるだろう。それに連続事故物件である為に少しは安くされている。
しかしその額の分、仕事の難易度は跳ね上がるわけだ。
『概怪の捕獲や任務は追加報酬貰えますよ』
「鈴先輩はどれくらい貰えてるんですか?」
『その三倍ですかね』
「そんなアホな!?」
その三倍、つまり月に五百五十万円を超えているとすると、藍川の年収は七千万円に達してしまう。それはもう富豪なんてレベルではない。
ラジオは喋るのを止めない。
『明日、組織の本部に行けば分かると思いますよ。色々とね』
「色々って……何がですか?」
沈黙をノイズが埋める。
『高給の理由、彼があなたを止めた理由の一つですよ』
【4】
「あのー……そろそろ外してくれませんか」
「おお悪い、今外す」
藍川により数時間ぶりに目隠しを外される粳部。完全に光を遮断する目隠しだった為に、瞳に光が飛び込むと暗闇への慣れから目が痛い。粳部が次第に感覚を慣らし辺りを見渡すと、そこには広くて白い施設が広がっていた。ここが『蓮向かい』という組織の本部なわけだ。
驚き開いた口が塞がらない粳部に隣の藍川が語りかける。
「検査、早く終わって良かったな」
「……よくないですよ!六時間もかかったんですよ!」
「数日とかと比べればまだ早い方だ。職員に感謝した方がいいぞ」
今日は検査ということで連れて来られた粳部だったが、機密保持の為と言って目隠しを付けられた状態で検査を受ける羽目になった。彼女は自分の体を調べる為に仕方がないと自分を納得させていたが、全身をいじられるのは不愉快だ。
粳部が溜め息を吐く。
「何も分からなかったら呪いますよ」
「勘弁してやれ」
そう言って歩き始めた藍川の後をピッタリと付いて歩き、彼女は施設内を進んでいく。すれ違う人は外国人が多く、壁に設置された大きなモニターにはよく分からない数字が羅列されている。こんな組織がずっと隠匿され続けていたのだ。通りすがっただけで数十人は職員が居た。
「ここに居る人達は何してるんですか?」
「情報処理の担当者、施設維持の作業員が大半だ。殆ど住み込みだよ」
「はえー」
何やら本格的に秘密組織のようだと思う粳部であった。それも当然のこと。粳部がこの施設に連れて来られた時、最後に見えていた場所は地下鉄の連絡通路だった。彼女は藍川に従ってある駅で降りたところで目隠しを要求され、それから移動し二分も経たない内に検査が始まったのだ。
全てが白い道を歩く二人。
「ここ、どういう場所なんです?」
「概怪や司祭を拘束したり、調査した情報を整理して保存する場所だ」
「……私達、地下鉄の通路からここに来たんですよね?」
この大きさの施設が地下鉄の通路から二分ちょっとで行ける場所にある筈がない。こんな広大な土地を利用しているとなれば、確実に地下鉄の隣にはない。どう考えても理屈では説明できないことが起きていることに彼女は困惑していた。
「特別な出入り口があるんだ。機密保持の為にお前に見せてないが」
「やっぱり、目隠ししてる間にワープか何かしたんすね……」
「機密は命よりも大事なんだよ」
暫く歩き人通りが少なくなってきたと思い始めた頃、藍川がある扉の前で足を止める。彼は懐からカードを取り出すと扉に取り付けられた端末に触れた。機械音の後に扉が開き、中に進む彼の後を粳部もついて行く。
「ここだ、ここでやる」
「……何やるんでしたっけ」
「特訓だ。お前の能力がある程度分かった以上、基礎を仕込む」
そう言って足を止め彼女の方に振り向く藍川。重心を下ろして戦う構えを取り、いつでも駆け出せるように体勢を取る。彼女からすれば冗談ではない。再生能力がどれだけのものなのかまだハッキリとしていないのだ。おまけに格闘技経験のない粳部には、自分が藍川のようにやれるとは思えなかった。
「ちょ、ちょっとは手を抜いてくれますよね?」
「お前の強度チェツクやあの怪物のパワーも調べないといけないんだ」
「えーっと、つまりどういうことですか?」
「抜かりなくってことだ」
次の瞬間、藍川の姿が消えたかと思うと粳部の胸に平手を叩き付けた。あまりの速度と唐突さに追い付けず一撃を許してしまい、彼女の体は壁へと吹き飛んでいく。痛みに悶えるも思考は比較的ハッキリとしており、空間を把握すると着地して衝撃を殺す。しかし、反撃の余裕はない。
「やるな。やはり反射神経が強化されてる」
「やるなじゃないですよ殺す気ですか!?」
彼から逃げようと走り出す粳部だが、逃すまいと彼の拳が迫る。それを見て何とか躱しつつ逃げるも、腕を掴まれて壁に投げつけられた。粳部は全速力だったが彼の速度と経験を超えられる程ではない。
内出血の痛みも再生ですぐに消えていく。
「最低なんすけど!」
彼が再び一気に距離を詰めてくるが今度は粳部も見逃さず、自分に迫ってくる拳に拳で殴りかかる。二つの拳が衝突した瞬間に彼女の全身に鈍い衝撃が走り、耐えきれなかった粳部の拳がひしゃげて潰れる。流石に彼女の拳で受け止めるには強度が足りなかった。
思わず涙が出る。
「あああっ!いでええ!」
「わ、悪い。実は手を抜いてるし心も痛む」
「あなたねええ!」
粳部が文句を言おうとしたその時だった。砕けた筈の拳が自然に再生し、全てがなかった事になる。粳部の再生力は確かなものだ。彼の拳の威力を打ち消す耐久力はないものの、これだけの再生力があればある程度のことはできる。
藍川が粳部から距離を置き、彼女を殴った拳を手で抑えている。
「なっ、治った」
「なるほど、硬度はないがパワーはあるみたいだな」
「……もしかしてその手」
藍川が抑えているその腕には傷が付いており、粳部の拳でダメージを受けたのか彼が痛そうにしている。藍川には粳部のような再生力がない代わりに、絶対の防壁である概念防御があった。あれがある限り、普通の攻撃は彼のような司祭には届かない。だが、彼女の攻撃は彼に傷を付けるだけの特殊性と威力がある。
「概念防御を突き破ってる……だが、お前には概念防御がない」
「それについてもう一度教えてくれませんか?」
「そうだな……もう一度説明しておくか」
どうやら、ここで一時休戦としてくれるようだ。平穏から命の危険に叩き落されて気がどうにかなってしまいそうな彼女だったが、この時間で落ち着きつつ知識を深めなければならない。
「これは司祭と概怪しか持たない鉄壁だ。文明の産物、生物に耐性がある」
「司祭に攻撃するには概念防御がないといけないと」
「いや、実はそういうわけでもない」
「えっ?」
粳部がどういうことかと思った瞬間、地面から現れた光の鎖が藍川の腕に絡みつく。驚く彼女だったが、見覚えがあると分かった途端に彼が言わんとしていることを何となく理解する。あの鎖は彼と谷口が戦った時に出てきた光の鎖だ。
「それって確か」
「法術、昔からある常識の外の力。人間も使えて概念防御を貫通」
「うわつよ!それなら司祭じゃなくても戦えるじゃないですか」
「才能に左右、弱い、拘束に特化……いけると思うか?」
法術は才能に左右される上に習得に時間が掛かり過ぎる。誰かが突出して強いだけでは組織は成立できない。司祭というとんでもない存在に依存している今の現状ですら駄目な例に片足を突っ込んでいるというのに、効力のあまりない法術に戦闘を任せてしまってはおしまいだ。
「例えば、集光」
藍川が手から光の玉のようなものを出し、拡散して放つ。霧のように消えていくそれは粳部にはとても強そうには見えず、素手と比べて随分と頼りなかった。
「無理ですね……」
「まあ、拘束する分には便利だ。概怪を弱らせて拘束、ここに収容」
「先輩も法術使えるみたいっすけど、結構簡単だったり?」
「最低でも五年は掛かる」
気の長い話だ。五年も掛けて法術を学ぶよりは格闘技術や、己の権能を極めた方が為になると考える司祭は多い。敵を大人しくさせるには直接殴るのが一番だ。普通の職員はこれを習得する以外に道がないのだが。
彼女は興味こそあれど、流石に五年は厳しかった。
「気が遠くなるんで諦めますかね……」
「そうだな、基本に忠実であった方がいい。下手な小細工は逆効果だ」
「ですよね!」
「ということで、今からその基本がしっかりしてる奴と戦ってもらう」
藍川がそう言った瞬間に奥の扉が開き、外から小学生か中学生くらいの少年が入ってくる。子供らしからぬ無愛想な表情だったが、それはどう見ても子供だった。ぴっちりとした服を着た少年は死んだような瞳のまま藍川の前に立つと、彼には一瞥もせずに話しかける。
「俺の相手はこの人か」
「子供ですよね……完全に」
「染野は俺の二番弟子だ。歳の割に優秀な司祭でな、強いぞ」
粳部が無機質な雰囲気と子供らしい風貌で脳が掻き乱される。どう考えても普通の人間ではないことは分かる。だが、その強さが彼女には想像付かない。この見た目と歳でも司祭で組織の中で任務に当たっている。それは恐ろしいことだ。
染野という少年が腰を下ろし、いつでも動き出せる姿勢になる。
「ルールは簡単、染野に一発でも当てられれば勝ち。いいだろ?」
「い、いいって言われても相手の強さが分からないので何とも……」
「法術は使わず……ある程度動きは合わせるんだな?」
「そうそう、手加減してもらわないと」
粳部の再生能力は高く、ある程度のパワーとスピードを兼ね備えている。しかもあの黒い怪物を出せるという優位性があり、戦闘センスのない彼女を補助してくれている。ここまでお膳立てしてようやく同じ土俵なのだから、法術を使わないハンデは当然のことだ。
「だが、権能は使ってもいい」
「へ?」
「……了解」
とんでもない制限解除が彼女に聞こえた瞬間、遠くに居た少年が一瞬で距離を縮め飛び蹴りを喰らわせる。何とか片腕で防いだものの骨や筋肉は破損し、そこから彼が繰り出す回し蹴りを躱し距離を置く。粳部の腕は次第に再生していくが劣勢の状況はどうにもならない。
「待って待って!」
『祭具奉納、啜り捧ぐは露の盃』
止まった少年の手元が輝く。しかし、粳部はそれが何かを知らず止める術もない。彼が祝詞を歌った瞬間、白い手袋がその手にはめられる。司祭が祭具を手にしたということは、権能が解放されたということだ。
少年の目が鋭く粳部を見据える。
『削身噛身切』
「ッ!来い!」
粳部が身の危険を覚えてあの黒い怪物を側に呼び出す。いざという時の盾としても優秀だが、まずは相手の実力を測る為に先手を打って攻撃させる。自分を知らない以上、相手を知らなければ話にならない。
動き出した怪物が少年に突撃しようとする瞬間、粳部の足が切断される。
「なっ!?」
「染野が権能を解禁したぞ。どうする粳部」
関節の部分の肉が抉られるように破壊され、彼女は自立できずに倒れてしまう。黒い怪物はその場で止まってしまい、少年は粳部のことを遠くから見下ろしている。動いていない。彼はその場から一歩も動いていないというのに、粳部の足は立てなくなる程に破壊されたのだ。




