1-2
【4】
日が沈んだ頃、街灯のない町を歩き染野は帰宅する。灰色とオレンジ色の混じった燃えるような景色の中、軋むアパートの階段を登って自室を目指すいつもの日常。大きな地震が来ればこんなボロ屋は倒壊してしまうかもしれない。
染野は自室の前に着くとドアノブを捻る。遅い時間だからか姉はとっくに帰宅しており、鍵は既に開いていた。合鍵が完成するまでは時間があり、暫くは彼女の帰宅後でなければ家に入れなさそうだ。
「……ただいま」
彼がこの台詞を言ったのは、一体いつ振りだったのか。そもそも今まで言ったことはあったのだろうか。何気ない日常のありふれた言葉だが、思い返してみると謎の残る言葉である。特に、染野にとっては。
灯りの点いていない薄暗い部屋の奥、床に正座している姉の日折が見える。蓋の開いていないカップラーメンの容器を二つ目の前に置いて、染野の方をジッと見つめていた。どうやら食事はまだだったらしい。
「……おかえり」
染野が部屋の電気を点けると日折が立ち上がる。
「今日の食事か?」
「フライパンも食器もないとは思わなかった……調理できない」
「いつも鍋一つで済ませてる」
「……明日、何もかも買いに行く」
鍋で茹でて鍋で食べる、そんな生活は日折には似合わない。当たり前の生活をさせる為にはそれなりの費用が必要だ。無論、その程度であれば問題なく支出できるだろう。給料の払いもボーナスの弾ませ具合も良いのだから。
彼が二つ置かれたカップラーメンの容器から日折の意図を察する。
「今日は食べて来た。だから食事は要らない」
その時、日折の眉がピクリと動くと彼の方へ距離を詰めてくる。至近距離、他人の間合いに入るという威圧感を持った行為。彼女がそうした理由は重い。
「葛西先生に奢ってもらったの?」
「……」
「何で葛西先生と一緒に居たの?」
「……身に覚えがない」
彼がすっとぼける。合流地点を学校の前にするのは得策ではないと初めから分かっていたというのに、葛西の押しのせいでこんなことになってしまった。日折に勘付かれているとは思っていなかった染野は内心では驚いている。
さて、どう誤魔化したものか。
「いつからそんなことしてるの?」
「答えられない」
「飾身のしてる仕事って、何?」
「……一番答えられない」
機密事項に抵触している。例え身内であったとしても仕事の内容を話すわけにはいかず、詳細を話すことはできない。不審がられたとしても葛西との関係を話すわけにはいかないのだ。どんなことがあろうとも。
日折の目が険しくなっていく中、染野はやかんに水を注ぐ。
「葛西先生と関係を持ってるの?」
染野には彼女が何を言いたいのかが分からない。会って話をしている以上は関係があり、そのことを知っている彼女が何故それを聞くのかが分からないのだ。この場での『関係』という言葉が一体どういう意味を持つのか。
答えには辿り着けず、彼は雑な返しをする。
「ああ、関係はある」
「……何で」
よくない返事が返ってきた。瞳を震わせる日折には驚きと物思わしい色だけが写っている。それがどういう理由なのかは染野には分からないが、返答を間違えたことだけは辛うじて分かった。
日折が後退りする中、やかんをコンロにかける。
「……要るだろ、金が」
【5】
「あの私……変なことは何も知りませんよ」
「い、いやその……尋問するつもりじゃないっすよ」
荒れた廃墟ビルの一室、粳部が二人の職員を相手している。染野は壁にもたれ掛かりながら彼らを眺めていると、改めて自分の組織の大きさを確認できた。二人の片方はただの会社員、片方はただの女子高生。一般人にしか見えない職員が、組織の一員として潜んでいる。
染野は彼らの下へ歩み寄り、懐から写真を取り出して見せる。
「染野日折、対象の直近の動向について聞きたい」
「この方は……たまに見かけるくらいです。不審なことは特に」
「私も学校近辺で見ましたが……不審な行動は未確認です」
となると、彼女の引っ越しの背景に何か不審な人物が居る可能性は低い。わざわざ日折の近辺で監視活動を行なっていた職員を呼び出して確認を取ったのだが、どうやら無駄足だったようだ。ますます彼女の謎は増えていく。
傍の粳部が溜め息を吐く。
「でも染野さん、自分の姉の話は本人に聞けば……」
「……はぐらかされるだけだ」
「寮から家にって……ただ寂しかっただけなんじゃ?」
そんなくだらない理由なのだろうか。荒事に身を投じ続ける染野が考えられることは全て荒っぽい。罪深いことに身内でさえ疑いの目を向けてしまう。仮面で隠すことのできない身内の前ではその心の内を探ることは難しい。
彼は写真を懐に仕舞い込む。
「お疲れ様です。帰ってもらっていいですよ」
「ど、どうも」
緊張気味の職員達は粳部に指示されて彼らから離れ、再び世間の中へ溶け込んでいく。高めの給金を貰っていつも通りの日常を送り、ありとあらゆる情報をお上に報告する。呼び出されることがなければ結局はただの一般人だ。
気配がなくなったところで粳部が呟く。
「こうして見るとただの一般人ですよね」
「……」
「どこにでも居るから『蓮向かい』的確な組織名ですね」
一般的に考えて洒落が効いている名前なのだろう。どこにでも職員が潜んでおり、斜向かいの家にだって職員が居る。故に彼らは斜向かい。その斜向かいの斜の字を植物の蓮に変えて『蓮向かい』なのだ。
「それでも、本当にどこでも居るってわけじゃない」
踵を返して染野は出口へと向かう。彼の個人的な用事が済んだ為、移動して仕事に向かわなければならない。高給取りな彼に仕事中の手抜きは許されない。休憩時間以外は給料分の仕事をするのだ。
その時、粳部が背後から呼び止める。
「それで本題です。この前の人身売買組織ですが全貌が見えてきました」
「……匿名の情報提供で事態が急変してたな」
「あとは主犯の司祭を捕まえられればいいんですが」
それをやるのが俺の仕事だ。現在、染野が追っている人身売買組織の『ヤマ』は、一人で追うには大き過ぎる『ヤマ』だ。同時に複数の事件を追うことも彼ら『組織』にはよくあることだ。
「……その情報提供者、まだ断定できないのか?」
「一部の不審死した関係者が生きてれば……分かったんですけど」
「そいつが、まだ行方不明の子供の隠し場所を知ってる筈だ」
「嫌な話ですけど……商品ですからまだ生きてはいますよ」
壊れて扉が外れたドアを潜り、染野はコンクリートの瓦礫が散らばる廊下を一人歩く。時間短縮の為にかね折れ階段の中心へ飛び込むと、階段を無視して一階へ着地する。不意に遠くから車の通る音が聞こえて来た。
染野が開かれたままの自動ドアを通って道路に出ると、丁度良くタクシーがこちらに向かって走ってくる。彼が片手を上げて呼び寄せると、そのタクシーは減速し彼の横に停車した。染野が即座に乗り込む。
「雨蓋駅西口」
「はい、かしこまりました」
約束の場所までの距離はそこそこであり、司祭の脚力をもってすればすぐに着くだろう。だが、公の場で司祭の速度を披露することは禁止されている。司祭の存在を公にしない為に何人もの職員が動員されているのだ。
染野が端的に行先を示すと、運転手はおもむろにペダルを踏み込む。
「……」
車窓では薄暗い色をした街並みが走る。この町は空き家とビルの乱立する郊外だ。活気があるとは言えないものの一人で暮らす分には住みやすい町だろう。それぞれが自分のことだけを考えて今日を過ごすこの町は、他人に干渉しない。
暫くして運転手が口を開く。
「染野隊長にしては珍しいですね。任務中に呼び付けるなんて」
「……悪いな。仕事場まで急ぎなんだ」
「いいですよ運ぶくらい。タクシー代は経費にできますから」
何を隠そう運転手の男も組織の人間なのだ。染野の部下である。
染野が運転席にある電子時計を見る。道路状況と照らし合わせれば約束の時間には間に合いそうだと分かる。一分ごとに一台の対向車とすれ違う寂しい道。これだけ空いていればドライバーとしては楽なのかもしれないが、車の通りが少なければ当然客の通りも少ない。
「明後日の夜、予定通りシルバー7と合流しろ」
「あの新人……染野隊に馴染めますかね」
「……分からん。問題があれば変えるだけだ」
車窓に映る景色が段々と駅に近い場所になっていく。これからミスの許されない仕事の時間だ。相手が相手である以上、下手な手段を使えば別の問題が浮上してしまう。進捗に入念に事前の段取りを考えなければならない。
車が駅のタクシー乗り場へと入っていく。目的地はこの駅の構内にあるファミリーレストランだ。
「到着です。千六百円ですね」
「ああ」
運転手から料金を指定され、彼はポケットからお金を取り出して支払う。お釣りなく丁度支払ってレシートを貰うと扉を開けて外に出た。やはり人の流動性の高い駅は町と比べて人の数が多い。
扉を閉める前に、染野は運転手の方を向いて言い残す。
「頼むぞ、希代」
希代と呼ばれた運転手を乗せてタクシーは駅を去る。
好景気だった時期に建てられた駅舎からは劣化と時代が感じられ、この町が時代から取り残されているという事実を教えてくれる。そして、染野は無表情のまま薄暗い照明の駅構内に飲み込まれていく。
染野が暫く歩いていくと目的地のファミリーレストランが見え、掴んでいたレシートをポケットに突っ込んだ。これは後で経費にできる。
「(ここか)」
入店する。穏やかな店内BGMとまばらに会話する人々で満ちた空間を見渡し、彼を待っている人物の下へと向かう。店の角、ボックス席から右手をブンブンと振って無邪気に俺を呼ぶ女の姿が目に入った。そこに大人らしさはない。
染野は葛西に向かい合う形で席に着いた。
「葛西先生は今年でいくつですか」
「ひ、酷いことを言うな君は」
「まあ、教師が子供を引っ掛けて遊んでる時点でアレですけど」
「ますます酷いな……」
葛西が眉をひそめる。普段は理知的で堂々とした女性を演じているようだが、悲しいことに彼の前では情けないところしか見せていない。素直になれるのは良いことかもしれないが、彼女の場合は素直というより幼い。
この時だけ、染野は気さくな雰囲気を偽っていた。
「私は君を案じて会ってるのに……その言い草はないだろう」
「それは教師だから?それとも貴女だから?」
「両方だ」
「卑怯な回答だ」
「二元論に興味ないんでね」
まあ、葛西が彼のことを案じているのは事実なのだろう。実際、子供を放っておけない性格の持ち主なのだ。教師はある意味では天職だろう。
染野は水を運んできた店員に軽く会釈し、メニュー表を手に取る。内容はよく分からない彼だが安い物を頼むのが無難な選択だ。外食の経験が殆どないことがここに来て露わになってしまった。
「まだ君は十六歳で、普通じゃない環境……見過ごせないじゃないか」
「お好きにどうぞ。あっ、俺フォカッチャ頼もうかなあ」
「それ百円だぞ。奢りなんだから好きな物を頼むと良い」
そんなことを言われても困る。迷惑をかけない程度でお金を消費しなければならないというのは、精密な裁量を求められるということである。無駄を省き節約を追求してきた彼にとって、金を使うこと程に苦痛を覚えることはない。
「どれを頼めば……」
「成長期なんだ、いっぱい食べろ」
「……じゃあこのサラダを」
「何で健康志向なんだ」
「いつも野草食べてるんで」
染野は普段から外で取って来た野草を茹でて食べている為、植物を食べることはには慣れている。それに、野菜は原価が高めだという情報を彼は聞いたことがあった。
葛西が頭を抱える。
「君の普段の食生活の崩壊具合が良く分かるよ……」
「酷い言い草ですね……」
「君に任せると危険だから私が頼もう」
そう言うと葛西は席の端に置かれたボタンを押して音を鳴らす。呼び出された店員が席に近寄ると、注文を取る為のハンディー端末を構えた。
「ご注文をどうぞ」
「サラダとフォカッチャ、ドリア二つとエスカルゴ一つ」
「かしこまりました」
注文を繰り返した店員が去る。染野は自分の為にドリアが頼まれたことは分かっていたが、それが何なのかを知らない。朧げな彼の記憶の中に似た名前の果物があったような気がするが、もしそうだとするのならばそれは肉ではない。
「ドリアは……確か果物だったか」
「それドリアンだ。ファミレスであの強烈な匂いはマズいだろ……」
「ああ、なるほど。それがドリアンですか」
また一つ知識が深まった。
のどかな店内BGMが時間の感覚を次第に麻痺させていく。入店してから何分経ったのか、自分の感じている一秒は本当に一秒なのか。春になったばかりの夕方は少しだけ涼しい。
「……話は変わるが、飾身君は家出したことはあるかい」
「まあ、一度くらいは」
「腹が立つだろう?自分一人じゃ生きられないことに」
「……教師は言葉にするのが上手いですね」
染野に家出の経験はないが、彼女が望んでいる答えから逆算して考えることはできる。染野の仕事仲間以外との会話は全て、相手を満足させて穏便に済ませる為の嘘だ。そこに本心は殆どない。
「そういう無力さを知った子供が見る世界は、酷く残酷だよ」
「……逃げ場がないからですか」
「家から放り出されて……一人で」
そこで言葉が途切れる。葛西は小さく開けた口をパクパクとさせて、驚いたような表情のまま固まる。何か嫌なことでも思い出してしまったのか、硬直した状態から動かなくなってしまった。
そして切り替える。
「この話はやめにしよう」
「す、すいません」
「良いんだ気にしないで……嫌なことを思い出しそうだ」
彼女がお冷を飲み干すと、不満そうな顔をしながら空のコップをテーブルに置く。これからいつものように何か苦言を呈されるのだろう。まるで酔っ払いのようだがアルコールは一切入っていない。
「それにしても、君の両親は無関心過ぎる」
「まあまあ」
「近頃立て込んで動けないが、子供をぞんざいに扱う奴は……」
「別にいいですよ。どうしようもない人なんで」
葛西が再び眉をひそめる。彼の言葉に納得が行っていないのだろう。正義感が強く、境遇の悪い子供を助けようと心血を注ぐ彼女からすれば聞きたくない言葉だ。
染野は話題を変えようと試みる。
「包帯を巻くほど怪我してるんだろう?酷い話だよ」
「……やめましょうよこの話」
「あっ、ああすまない!デリカシーがなかった」
本当にコロコロと表情が変わる女だ。真面目な大人かと思えば駄目な人間に早変わり、こんな人間が若者に何かを教える教員をやっているのだから驚きだ。しかし、人間は人間でしかなく神ではない。欠陥があって当然だ。
「許してくれ……ま、全く意図してなかった」
「そんなに謝らないで……」
【6】
「ここだよ、私の家は」
「良いマンションじゃないですか」
「普通のマンションだと思うが……」
食事の翌日、彼らは葛西が住んでいるマンションへとやってきた。目の前にそびえ立つ六階建てのマンションは染野の住むアパートと比べて新しく、地震が来ても倒壊することはなさそうだ。
先を歩く葛西に従い建物に入ると、エレベーターのボタンを押して待つ。扉が開かれて二人が乗り込むと、葛西が三階のボタンと開閉ボタンを押した。三階へ向かう為にゆっくりと扉が閉まっていく。
葛西が染野の様子を観察する。
「緊張してるのか?」
「まあ、人の家に行くことがないので」
「……それもそうだな」
音が鳴り、三階に着くと扉が開く。彼女の背を追って染野がエレベーターの外へ出ると、廊下を歩いてすぐの所に彼女の部屋はあった。彼女がポケットから鍵を取り出すと鍵穴に差し込む。そして、扉は開かれた。
その時、玄関の向こう側を見つめていた彼女の視線が下がる。その視線移動を追うように染野の頭が下がり、葛西が見つめている玄関の靴を見た。その中には彼女の物ではない靴が紛れている。
「靴が……先客が居たのか」
「先客って?」
「合鍵は渡してあるからそれで入ったんだろう。何、悪い子じゃないさ」




