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【9】
曇天の下、高校の別館を散策する藍川と粳部。彼女は小走りで制服のスカートを揺らしながら、好奇心に突き動かされて廊下を駆けて行く。この高校の別館は使用禁止にされ、生徒が立ち入らないよう重く古い南京錠で扉を封じていた。
しかし、器用な藍川が針金を使って南京錠を解いた為にこうして二人は中に入ることができている。古い放置された教室を粳部が散策する。
「先輩、事件の匂いはしますかー?」
「してたまるか。埃っぽいのがちときついな」
「あんま面白いものないっすねー」
学校に伝わる噂を調査する為に別館に侵入した二人。人が減り空に少しだけ赤みがかかってきた放課後、自殺した生徒の幽霊が出るなんていうありがちな噂を調べていた。
教室から教室へと粳部が移る。
「どこで死んだんすかね、その自殺したって生徒」
「俺もよく知らんが……そんなもん調べてどうすんだ?」
「こういう記録は大事っすよ。それに、幽霊も見られるかも」
「後者が目的だな」
オカルト好きの粳部からすればこんな面白い娯楽は中々ない。自分の学校の立ち入り禁止になっている別館に幽霊が出るという噂。南京錠程度で粳部の好奇心を止めることはできない。
二人が教室の前方へと進むとあることに気が付く。
「あれ、これだけ教卓が綺麗ですね?」
「古い記事じゃ、噂じゃ確か教室で自分の腹を切ったとか」
「相当な恨みっすよね……もしかして、ここで死んだとかは?」
「ここで……あり得るか」
精神的に追い詰められた生徒はここで自分の腹を刃物で切って自殺したらしい。切腹という死に方を選んだ生徒の恨みは相当なものだったのだろう。確かに幽霊になってもおかしくはないと考える彼だったが、蓮向かいに所属している以上は幽霊が存在しないと知っていた。だが、粳部の為に黙っている。
藍川が塗り替えられたような床に気が付く。
「……夏休みに死んで、発見が遅れて腐敗してたんだったな」
「割腹自殺ですね。人前で死んだかどうかは文献によってバラバラです」
「知ってるか?割腹自殺は今でも毎年数人出るぞ」
「嘘でしょ……今何時代ですか」
動機までは語らないが、毎年そういう人間はちょくちょくと出るのでそれは気にすることではない。藍川にとって問題なのはその生徒が暑さで腐敗し、教卓や床の張替えを強いられたのではないかということ。関係者が学校にもう居ない以上、それについて調べるには手間がかかる。
藍川の視線の先に粳部が気が付く。
「汚染から張替え……でも、それはまだここを使う気があったってことだ」
「自殺とここの使用禁止は関係ないと?幽霊は?」
「単なる老朽化が原因だろうよ。お前、幽霊見たか?」
「……霊感ないんすよね、私」
そもそも、超常的な力を持つ者は概怪と司祭しか居ない。そう言いたくなった藍川だったが言葉を飲み込み、踵を返すと教室から廊下に出る。流石に立ち入り禁止の場所にこうも長居していれば、藍川も教員が来ないか心配になってくる。
考え込む粳部に彼が声を掛けた。
「……粳部、もうお開きだぞ」
「はいはーい。もう帰りますよ」
彼は粳部の声が聞こえたのを確認し出口へと向かう。許可なく侵入しているわけなので教師に見つかれば教育指導だ。だが、藍川は呑気な彼女がそれを分かっているのか不安になっていた。駆けて来た粳部が別館から外に出る。
藍川は扉を閉めるとポケットから針金を取り出した。
「今回も外れでしたね」
「今まで当たりがあったかよ」
「一度はあったじゃないっすか!」
「……あれは多分不審者だと思うんだがな」
藍川は過去の話をしながら扉と、扉に掛かっていた古い南京錠を針金でロックする。彼の手に掛かれば錆びついた大昔の錠前など玩具同然だ。
不意に、降り出した雨が二人を濡らす。
「よし、ズラかるぞ」
「うわタイミング……」
「おや、悪い生徒を見つけてしまったなあ」
聞き覚えのある声に二人が振り向くと、そこに居たのはやはり彼女だった。粳部来春、藍川の隣に居る粳部音夏の姉であり、彼の恋人でもある人物。その手で準備良く傘を抱え、二人のことをにやけながら眺めている。
「逢い引きかい?修羅場でも始めるかい?」
「今度は連れて行ってやるよ。お前が居れば幽霊も出てきそうだ」
「僕はロマンスの話をしたいんだがなあ……」
来春は余裕そうに語る。彼はもしやこれは何かの歪曲表現なのかと疑い始めるが、彼女は見た目に反して素直な性格故に違うだろうと考え直す。恋愛には詳しくない彼だったが、これでも精一杯頑張っていた。
来春が傘を開くと、途端に雨足が強くなっていく。
「さあさあ、もう帰ろう」
「うん……」
「おう」
傾けられた傘の下に入る粳部を追って彼がその隣に立つ。雨が殆ど体に当たっているが、彼は司祭故に濡れたところで風邪をひかない。
その時、来春が粳部の耳元に囁く。
「音夏になら、鈴君を分けても良いんだぞ?」
「うるせえ!?」
赤面して混乱する粳部に対し、また来春が適当なことを言って彼女を困らせていると思う藍川。こんなことは彼らの中ではよくあることだ。
「俺は物かよ」
「可愛い妹なんだ。三人でってのも悪くないだろう?」
来春の自由さにいつも困惑させられる藍川だが、流石に慣れて適当にあしらっていた。だが、長年付き合っているであろう粳部はいつもタジタジになってしまう。嘘ばかり言う来春の相手などしなければいいのにと思う彼だが、ふと彼女らの家庭環境を何も知らないことに気が付いた。
「粳部、家でもこんな感じなのか?こいつ」
「まあ、そうですけど……」
呆れた顔をする藍川。
「僕の愛の半分は音夏に注いでる」
「もう半分は?」
「君さ」
藍川は、よく分からない奴だと結論を出した。
【10】
雨の降る夕方、藍川は少し濡れた肩で粳部に並ぶ。遠くの空は既にオレンジ色から藍色に変わり始め、夕方から夜へと時間が変わることを告げていた。駅にはまだ電車が来ておらず、利用者の少ないホームに粳部と藍川の二人きり。
だが、粳部は少し落ち着かない様子だった。
「……お姉ちゃん、どこ行ったんすかね」
「どうせ生きてるさ。でも、場所までは知らない」
彼が気休めを言って励ます。数年前に行方不明になった粳部来春が生きている可能性は、常識的に考えれば低い。粳部は彼の声色から何となくそれを察する。
彼女にとっての姉は一般家庭の姉の存在と大きくかけ離れている。あまりにも大きくてあまりにも途方のない存在。そこにあるのは愛のようで恐れであるような、素直に認められない何かがある。
「……蓮向かいのデータベースで調べたら、出てきますかね」
「出ては来る。だがやめとけ、分からない以上の答えはない」
「ははっ……本当に消えたんすねあの人」
粳部にその実感はなかった。行方不明程度では彼女の中から姉の存在は消えない。今なお彼女の背後には姉の気配がある。邪なことを考える度に脳裏にちらつく、決して逃れられない姉の影。
「……本音を言うと、苦手だったんですよね。お姉ちゃん」
「苦手……まあ、お前はいつも嫌そうにしてたか」
「でも……こんな風に居なくなって欲しくは……なかった」
粳部は諦めなければならなかった、正面から負ける必要があった。自身のくだらない、小さな恋心にケリを付ける為に姉に負けなければならなかったというのに、来る筈のない奇跡を待っている間に姉は消えた。
今、藍川の恋人は居ない。故に理論上ではチャンスがある。恋人だった姉が居なくなった今でならその立ち位置に、彼の隣に立てるかもしれない。しかし、それはどうせ叶わない朧げな夢だ。
「……何か、来春に言いたいことでもあったのか?」
「言いたいこと……多分、あの人にじゃないと思います」
「じゃあ誰にだ?」
その時、ホームにチャイムが鳴り響くと遠くから電車の灯りが輝く。これから来る電車に粳部が乗り、藍川は彼の背後のホームに来る電車に乗る。二人はここで別れるわけだ。
彼女が藍川を一目見て、そこから空を見上げる。
「……本当、誰にでしょうね」
言いたいことも言えない。その相手が彼なのだから何も言うことができない。もし藍川が権能を使っていれば一巻の終わりだったが、いっそのことそうした方が良かったのかもしれない。一生本心を言うことのできない臆病者なのだから。
電車がホームに入ると減速し、けたたましい音を立てて止まると扉を開いた。
「またガラ空きだよ。客は居ないのか」
「利用者減ってるそうですからね」
電車に乗り込む粳部と外のホームの藍川。二人の間にあるのはホームの溝、まるで彼らが交わることは決してないと暗示するような境界線。絶対的で、理不尽な溝がそこにはあった。
粳部はただ彼の言葉を待つ。間もなく発車だ。
「じゃあ、組織に関する講習は明日もあるぞ」
「毎日やることあってきついっすねーまあ、疲れない体ですけど」
「……休暇でも取るか?」
「何が何でもやりますよ!」
そうしなければ昇格できず、仕事でも足を引っ張ってしまうかもしれない。止まれない粳部がしなければならないことはあまりにも多かった。
発車のベルが鳴り、間もなく扉が閉まってしまう。ホームの藍川と出発を待つ粳部。この二人が交わるのは一体いつになるのか。
終わりが近付く。
「……じゃあな」
そう言って藍川が手を上げたのと同時に、扉は無慈悲に閉まる。電車は二人の間を引き裂き、少しの会話も許そうとしない。車両が少し揺れるとゆっくり発車し、走る車窓の奥の藍川は粳部の視界の端へと消えていった。
誰も居ない車内で粳部は一人呟く。
「……お姉ちゃんの代わりには、なれそうにないな」
【11】
「あれはどういう存在だ?」
「粳部音夏、あれはどうなっている。完全に我々の想定外だ」
蓮向かいの本部、そのどこかにあると言われる上層部の居場所。Ω+の等級を与えられた者でさえ知らない重要な地点。その空間が本当に基地内に実在しているのかは誰にも分からないが、そこに居る上層部の六人の実在は確かだった。
波打ち際のビーチに六人の幹部が佇んでいる。
「ソ連の生物兵器という線は外れかね?」
「全ての計器、検査で数値を測定できなかった。あれは異常だよ」
「存在自体を確認できないというのはな……実在するのか?」
報告書をタブレット端末で閲覧する一人の幹部。粳部についての報告書には全ての詳細が不明とされ、分かる情報は何一つとしてない。海坊主という謎の存在が現れる以前のことは分かっている。しかし、それは普通のバイトという何の変哲もない情報でしかない。
「確かに生きている筈だが、確認できないというのはな」
「……姉との関連はあるのか?」
「それも確認できていない」
「藍川は理論上最強だ。もしもの時は彼に始末させる」
心を操作する権能は理論上最強だ。例えどんな相手だろうと心を操作し自滅させれば彼には敵わない。しかし、結局のところそれは机上の空論でしかない。彼の心を考慮しない上層部は彼を最強の司祭と思っているが、そうではないのだ。
彼は誰かを殺せるような精神を持ち合わせていない。
「それで、話を戻そう。あの地区の概怪は……およそ何体だ?」
「確認された数ではおよそ四千二十一とされているが、まだ隠してるな」
「二倍は秘蔵しているとして、数としてはほぼ十分か」
呪われた地区、地獄に霧で蓋をしたあの場所は禁足地だ。概怪の出現数が過去最高を記録しているあの地に粳部音夏は現れた。それがどういうことを示すのかは誰にも分からないが、敵が概怪を何の目的で使うのかを彼らは理解している。
柔らかな波が幹部の足下で揺れる。
「もう用意は進んでいるわけか。流石にマズいな」
「座標だ。奴の拠点を特定することさえできれば問題は解決する」
「藍川と谷口はまだ特定できないのか。ラジオもだ」
「……彼らに情報を開示するか?」
上層部は情報を握っている。藍川も粳部が知らないことを知っているが、上層部の持つ情報はほぼ答えに近い。ある一つのことを知らないことを除いて、上層部は万能に近い存在である。
「いや、まだだ。まだ彼らを百パーセントは信頼していない」
「手厳しいな。同じ、世界平和を願う組織の一員だというのに」
「……計画は必ず阻止する。しかし、彼らは認めない」
上層部はどこまでも合理的だ。その選択に感情が入らない為に誤解されがちだが、彼らは平和を愛し世界を維持する為に戦っている。中には人であることを捨てている者も居るが、それでも世界を救いたいと思っているのだ。
「特に粳部音夏というイレギュラーが最悪だ。関わるべきではない」
「しかし、戦力としては申し分ないのでは?」
「あれは爆弾だ。飼うことにしたのは管理したいからさ」
「末恐ろしいよ、本当に」
一人、また一人と幹部が去っていく。幹部は何もない所に消えるとビーチは静かになり、最後には二人だけが残っていた。考えが対立する二人が。
「……藍川と粳部に肩入れしているのか?お前は」
「皆の意向には従うよ。でも、個人的には彼らの味方かな」
「我々に人間らしい判断は必要ない。そうは思わないのか?」
トップが合理的な判断を取れないというのは致命的な問題だ。今はまだ皆の意向に従うことにしているが、状況が変わった時にそれは重大な懸念になってしまう。しかし、その考えが間違えかどうかはまだ決まっていない。
「我らとて人間さ。それに、人間らしい彼らがどうなるか。見ものだろう?」
「……悪趣味だよ、本当に」




