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【7】
シャッターの多い通りを歩いて藍川と粳部は進む。今日も都内の気温はかなり高い。司祭である藍川は暑さを特に感じないがこの眩しさは不快であった。司祭は概念防御によって環境に対して耐性を持っている為に暑かろうと寒かろうと無問題だが、この光だけはどうしようもない。
だが、この状況で一番げんなりしているのは彼の隣を歩く粳部だ。
「あっつい……都内って本当に暑いですよね」
「湿度もあるから砂漠より酷いって聞くな」
「よくそんな涼しい顔ができますね……」
「司祭は環境に強いからな」
概念防御サマサマだ。ただ、万能と思われている概念防御にも欠点はある。薬物を拒絶するその体は治療も受け付けないというわけであり、自然に再生するのを待つ他ない。温度を感じない為にサウナや風呂で何も感じず、概念防御の影響で味覚も弱くなってくる。親知らずも気合いで抜くわけだ。
「ところで……昨日あれだけ戦ってよくピンピンしてますよね」
「お前だって司祭でもないのによくやってるよ」
「睡眠時間足りてないんですけど、なんか元気なんすよ」
正体不明の再生能力、概怪でなければ生き物でもないあの黒い怪物。全てがまともではない中、粳部はシャワーを浴びて自宅に戻り、気分転換をした後に迎えに来た藍川とここまでやって来た。
彼女はまだ食事を摂っていない。流石の司祭も食事を取らなければ死ぬこともある為、克服したとなるといよいよ完全な生命体だ。司祭と違い弱点もない。
「……これでいいのか?」
「いいんですよ、これで」
「来春は……こんなこと望んじゃいなかったと思うがな」
粳部来春、かつて彼の恋人で粳部の姉だった女性。もう見つからない失踪した人物。粳部はあることを考えていた。多くの情報を把握している諜報機関である蓮向かいに所属する彼が、失踪について把握していないのであれば本当に姉は消えたのだろうと。それを言及しないのも何も把握していないからなのだ。
粳部は少し安心していた。姉が荒事に巻き込まれたかは未確定なのだ。
「ほら、居たぞ」
遠くに見えた地下道への入り口、その脇に谷口が立っている。
「……頑張りますか」
覚悟を秘めた粳部の瞳は僅かな震えを覗かせる。それはそうだ、粳部は自殺しに来たわけではない。ただ、自分の体を元に戻す為にここに居るのだ。藍川は付け焼き刃的に粳部を鍛えた為にまだその才能は引き出されていないものの、無意味に傷付かないようには育てた。
「遅いぞ粳部、藍川。もう予定の五分前だ」
「それじゃ駄目なんですか……」
「こいつ神経質なんだよ」
二人に気が付いた谷口が話しかけてくる。本日の仕事場である地下道の入口。谷口は既に準備を済ませていたようだった。経験があるが故の準備の良さか、それとも性格故なのか。
谷口が腰に手を当てる。
「俺は時間にはうるさい男だ」
「そんなんじゃモテませんよ」
「……藍川の後輩なだけはある」
それは果たして褒めているのか、貶しているのか。
だがこれでメンバーが揃い、ようやく行動を開始することができる。今回の案件は藍川単独では不安要素が多く、バックアップの為にも複数人でなければならない。ついでに粳部の慣らしを行い、報告書の中身を埋める為のテストも行う。
藍川が確認を行おうかと思った途端、谷口が粳部に話しかける。
「一応報告は読んでいるが……例の黒い怪物、本当に出せるのか?」
「まあできますよ。どういう原理かはさっぱりですけどね……」
「試しに出してみてくれ」
「……いいっすけど」
粳部が険しい表情をした瞬間、彼女の隣に黒い怪物が現れる。現れる度に違う姿をしているが奴であることに変わりはない。この間は人型だったものの、今回は手足のないナマコのような見た目をしている。気味の悪いことに。
「殴ったりできるのか?」
「そりゃできますとも」
そう言うと怪物は鋭いパンチを前に繰り出す。正確なパワーも分からない上に最高速度も分からない。持久力も耐久性も分からない。昨日の訓練でもランダム過ぎるが故に正確な値を求められなかった。
藍川も、こんな早くに彼女を駆り出したことを酷に思っていた。
「もう良いぞ」
谷口が言うと怪物はビシャっと地面に消えていく。まるでコップから水を溢した時のように一瞬で消えてしまったが、一体どこにあの質量が消えているのだろうか。再び精密検査を行うべきなように思えるが、それは上層部の判断だ。
谷口が隣にある暗い入り口を見つめる。
「二週間前から、この地下道付近で失踪事件が五件出ている」
「失踪?」
「夜間、帰宅中に付近を通った五人が失踪した」
影も形もなくただ消える。先日、この地下通路を通った男女の内、女の方が忽然と消えてしまった。連絡は取れず、周辺を捜索しても影も形もなかったらしい。警察に通報して発覚し、一通りの捜査の後に蓮向かいへとお鉢が回った。概怪の可能性が高いからだ。
「報告曰く、一般職員が空間に違和感を覚えた。可能性はある」
「あの……違和感って何ですか?」
「概怪は存在が不安定だから居るだけで空間が乱れてしまう」
物静かであまり語らなそうだった谷口が喋り続ける。
「物が消えたり迷子になりやすい場所は奴らが居る可能性が高いとされる」
「勉強になるっすね。いや、何となくですけど……」
「ここで決まりな気がする。谷口、地下道を封鎖してくれ」
「……了解した。だがまだ実態は確認していないぞ」
概怪はただの害獣とはわけが違う。常識と、物理法則を無視した規格外の怪物。ただ見つけることすらも困難な理解できない化け物。職員が何回もこの通路に入って調査をしたわけだが一度として被害者のようにはならなかった。結果、何が起きるか分からない為に司祭に任されたわけだ。
「職員が調査して見つけられず、俺達にお鉢が回ったか」
「つまり見えない敵ってことっすか?」
「あり得なくはない。相手は概怪、常識は関係ない」
「しかし、襲ってこない理由が不明だ。奴らに我々を思いやる心はない」
空間に違和感を覚えたということは概怪の攻撃範囲に近付いているということ。だというのに、職員には手を出してこないのは何故なのか。それはこちらが見えていないからなのか、それとも耳が悪いからなのか。
命を奪う以外の生き方をできない概怪に優しさが備わっていない以上、この場所にはまだ危険が残置されている。それを取り除き、できる限り犠牲者を減らすことが蓮向かいの仕事なのだ。
「拐う人間にも条件があるってことですか」
「……谷口はここで待機、俺と粳部で探る」
「こちとら怪我人なんでな、許せ」
拝むように粳部に手を見せる谷口。粳部の加入以前にΩ+相当の概怪と戦闘を繰り広げた結果、藍川と彼は深い傷を負っていた。権能抜きの単純な戦闘能力であれば最も高い実力の谷口が特に重傷を負い、全力を出せないでいる。
藍川の怪我は治りつつあるが、無理をした彼は依然として本調子ではなかった。彼に無理をさせるわけにはいかず、今日は緊急時まで待機となる。
「怪我人がこの前あんなに動いてたんですか……」
「あれで怪我がぶり返したんだ。元はといえばお前のせいだろ」
「私悪くないでしょあれは!」
「冗談だ」
本来、クラスΩに相当する職員は伝説と言ってもいい強さを誇る。例えギリギリΩに分類されるΩ-でも、γ+では太刀打ちできない程の差があるのだ。しかし、藍川と谷口が歴代最悪の概怪との戦闘を繰り広げた結果、その後遺症と負傷で遥かに弱体化してしまった。奥の手は残っているものの、奥の手は使いにくいが故に奥の手なのだ。留守番は妥当な判断だ。
「全身の骨と内臓がボロボロだ。今回は勘弁してくれ」
「……それ入院しないと駄目じゃないですか!?」
「休むのは性に合わん。次回はよろしく頼む」
藍川と粳部は階段を降りて下へと向かう。谷口の顔が段々と遠ざかって見えなくなっていき、踊り場に降りてからは何も見えなくなってしまった。冷たい暗闇だけが悠々と辺りを漂う。地下道は酷く静かだ。
「大丈夫ですかね……」
人気のないこの地下道は薄暗く、とても今が昼間だとは思えない。時代に取り残された古い通路、今では通る者が居ないというのも納得できる。誰だって避けられるのならば避けたいだろう。この異質さは耐え難い。
二人は階段を降りて先を進む。
「経営難で潰れた駅だと。消えた五人も前はここが最寄駅だったとか」
天井の電灯は薄暗く、奥の曲がり角は完全な闇だ。粳部はこの危険さではただの誘拐事件ではないかと疑いたくなっていた。人目もなく暗いのでは普通の犯罪が起きてもおかしくない。
今ではもう閉店しているであろう店の古い看板が壁に残っている。かつて、ここにも人通りがあったのだ。藍川は自分の後ろにくっつく粳部に気を配りつつ、薄暗い周囲を捜査する。
「空間の違和感がなかったら、誘拐か失踪で終わってたな……この事件」
「こりゃ人も居なくなりますよ……」
「ボロいから廃れたのか、廃れたからボロくなったのか」
「駅は経営難で潰れたんでしょ?」
「荒れ具合の話をしてるんだ」
二人は奥へ奥へと足を運ぶ。この地下道の長さはそれ程でもない上に、今では一部が閉鎖され一本道。中で迷子になることはない。しかし空間が不安定になっているからか、二人は違和感を覚え続けていた。十メートル歩いたつもりが五メートルだったり、またはその逆が起きたり。
藍川は粳部の位置を確認し、辺りを見渡す。
「どうやら、まだ近くには居ないらしい」
「あれって出口の階段ですか?」
二人が入ってきた地下道の入り口の反対側、別の方面に出ることのできる階段が数十メートル先にある。どうやら報告通りこれ以外は何もない簡素な通路なようだ。簡素過ぎるあまり調べることがない。粳部は職員達が頭を悩ませていた理由がよく分かった。
「これで終わりなのか」
「えっ、概怪なんて居ましたか?」
「どこにも居ない……と断言したいんだが、居るような感覚はある」
現に空間はこうして不安定になっている。何かが居るような気配、景色が変わっているような違和感。今は何が起きてもおかしくはない開戦前夜、敵は二人の喉元まで迫っていた。しかし、二人はその姿を確認できていない。
藍川が前へと進む。
「あの怪物を出して暴れさせます?」
「藪を突付いてるわけじゃないんだぞ」
もう出口の階段がすぐ近くまで来てしまっている。どこかで見落としてしまっていると思う藍川だが、どこで間違えたのかが分からないのだ。灯台下暗しとは言うも、灯台どころかこの空間には光が殆どない。
藍川が耳元の無線を使って谷口と話す。
「聞こえるか?こっちは目立った異常はない」
『聞こえる。入り口側からは変化を観測できないな』
既に概怪が居なくなっている可能性もあり得ないわけではない。現在の特異な状況では予想外も受け入れざるを得ないだろう。分からないことが多いのが概怪の特徴だ。何者かによってどこかに移動していたとしても妙ではない。
閉じたシャッターの横を通り過ぎる。
「もう出口ですけど……」
「粳部、あまり気を抜いたり……粳部?」
不意に足音が一人分減った。そんな些細な出来事が藍川に最悪の異常事態を伝えている。血の気が引き、彼は咄嗟に粳部の方へと振り向いた。だが、引っ付くようにして彼の背中に居た粳部はもうそこには居なかった。
複数の手に掴まれて、開いたシャッターの奥へと引き込まれていたからだ。
「粳部!」
「んっ!んー!」
突然現れた腕の集合体、粳部の体を挟むように掴んでいる。まるで魚を咥えた猫のよう。だが、この怪物は猫のように優しくも可愛くもない。理解を超えた、全身が腕の怪物だ。あの街灯の概怪のようにこれも概怪なのだ。
その腕の『口』が閉じようとしている。
「んーっ!」
このまま力を加えられれば上半身と下半身が泣き別れだ。その場合でも再生できるかどうかは分からない。粳部は口を抑えられて発狂しそうな頭をフル回転させ、もがきながら対処法を探していた。彼女を押し潰す尋常ではない圧力で腕や足の骨がビキビキと砕けていく。
ピンチの粳部を概怪が引きずり回す。瞬間、酸欠気味の彼女の脳裏に浮かんだのはあの黒い怪物。粳部を助け、攻撃してきたあの怪物。この状況をどうにかできるのは奴しか居ない。
怪物を呼び出す。
「んん!」
その刹那、粳部の口を抑えていた腕が外れ、体に掛かっていたとんでもない重量が消えた。そして、彼女が望んだ怪物は確かに目の前に現れていた。閉じようとしている上顎の腕を怪物が支えている隙に、粳部は足下の腕を蹴散らして床を転がる。一先ず、危機は脱した。
「戻ってこい!」
概怪の口から後ろに跳ぶ黒い怪物。その動きは速く、口が閉じるよりもずっと先に抜け出す。藍川の後ろを付いて行った時には不意を突かれ、腕で口と手足を押さえられて捕まってしまった粳部だが、もう敵のやり方が分かった以上は先のようにはやらせない。
相手との間合いを調整する。
「また気持ちの悪い敵か……」




