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岐阜県産たぬき君は、今日も上司の弁当をくすねる。

作者: 海なし県

ファンタジーに現実味を求められる時がある理由は、私達が生きているのは現実だからだと思っています。

その理論で行くと、現実で起こる現実味のない出来事はファンタジーなのではないのでしょうか。

現実に生きているからこそ、現実ではありえないような物事に遭遇する機会があります。

現実とは、小説より奇妙で奇跡で奇怪なファンタジーでもあると思います。

そんな現実を生き抜く人類は、きっと皆冒険者です。


こっそりと修正いたしました!


この作品は他のサイトでも投稿する事にいたしました!


 ある岐阜の柿畑に、一匹の狸が生まれました。


 彼は野生の厳しい世界で生まれたので、小さい頃から1人で生きていく術を身に着けていました。


 守ってくれる父がいなかったから


 温かな食事をくれる母がいなかったから


 導いてくれる大人がいなかったから


 狸は、隠れるのが上手になりました。


 誰かの食べ物を盗むのが上手くなりました。


 1人で夜を超える力を身に着けました。


 そこらの狸より、ずっとずっと強くたくましく成長していきました。


 しかし、狸は子狸だったので、生きていくだけで精一杯でした。


 自分が、どうして産まれたのかもわかりませんでした。


 でも、誰かに殺されるのも、空腹で死ぬのも、ムカつくから絶対に嫌でした。


 狸は、生き抜く力がとても強い子狸でした。


 岐阜の夜、廃れかけた商店街は薄暗く生暖かい風が吹きます。そんな場所にも臆することのない狸が、一人で夜を食い散らかせるほど大きくなった頃、産みの親たちから生きる意味を教えられました。


 でも、狸はそれが嘘だとすぐに分かるほど賢い子でした。


 ただ、たまたま自分が生まれただけで


 ただ、たまたま生き残ったから


 衰えていく未来を待つ自分達が飢えないように、鎖で繋ぎ止めておきたいだけだとわかる子でした。


 狸はそんな目を背けたくなるその悲しい正解を、悲しいと思わない強さと、目を背けない賢さを持つ子でした。


 でも、狸はずっと寒い思いをしていました。


 ずっと空腹でした。


 だから、狸は寒さと空腹が大嫌いだったのに


 その寒さと空腹は、たぬきが大きくなるほど、纏わりつくように、のしかかるように、大きく、重く育っていきました。


 狸は、岐阜を出ることに決めました。


 目指すは、岐阜よりも豊かな愛知県。


 自動販売機の下から拾い集めた小銭を、初めて乗る電車の切符に変え、忙しそうにレジを打つ売店のおばさんが見ていない隙にカツサンドをくすめとって、軽い足取りでホームに向かいました。


 初めて乗った電車に、感動することはありませんでした。


 聞き慣れないホームのメロディーも、生まれた畑と違い、夜なのに前面を照らしている光も、彼にとって何でもないことでした。


 狸が見ているものは、未来のまだ見ぬ愛知県の夜の街です。


 新幹線の中で、狸は胸をドキドキと高鳴らせていました。


 カツサンドをもぐもぐと食べながら窓を見た狸は、自分が少し汚れていることに気が付きます。


 愛知県についたら、まず身体をきれいにしよう。


 田舎の狸だと舐められては、いじめられてしまうかもしれない。


 生きるために行くのだから、いじめられたりなんかしない。ムカつくことは、少ないほうがいい。


 楽しいことが増えることを期待している狸を乗せ、電車は光の速さで名古屋につきました。




「ここが、名古屋か。」


 狸は、この日から名古屋の狸になりました。


 汚れている狸を、かわいそうだと綺麗にしてくれる人がすぐに声をかけてきました。


 狸は、その人がただ優しいだけではないことをわかっていても、その人についていきました。


 綺麗になった狸は、もっと色んな人から触りたいと思われる人気者になりました。


 どんどん名古屋の人達を真似して、周りの人達からも仲間だと思われるほど、立派な人の姿に化けることができるようになった狸は、自分を触りたい人達や、仲間だと思いたい人達に囲まれて、夜の街を賑やかに楽しく過ごしていました。


 大好きと言ってもらえることが増えました。


 結婚したいも何度か言われるほど、かっこよく成長していきました。


 でも、狸は面倒くさいことは嫌でした。


 大好きだから、〜して


 結婚したいから、〜やめて


 友達だから、〜して欲しい


 全部、全部、嫌でした。


 狸は、家族を持ちたい気持ちも、理由もわかる気はしなかったし、そんな自分を別に嫌いではありませんでした。


 一期一会の言葉を知らないまま、それを体現するかのように、面倒くさい人達とはケンカしたり、サヨナラしたり、顔や名前を覚えないでも支障がないほど騒がしい日々を過ごしていました。


 それが、狸にとって日常で


 当たり前の世界でした。


 しかし、ある日狸は大怪我を負うことになってしまいます。


 怖い人間たちに囲まれ、ボロボロにされ、お金も服も取られた狸は、傷だらけになりながらも、なんとか逃げる事ができました。


 でも、疲れて、痛くて、寒くて、ビルとビルの間に隠れながら、ズルズルと倒れてしまいます。


 狸は、冷たいアスファルトの上で震える体にムカついていました。


「結局、何処もクソッタレやんか。」


 使わなくなっていた岐阜の訛りが出るほど、心からムカついていた狸ですが、ムカつく心と比例しない瞼は、どんどん重くなっていきます。


 こんな終わり方なのかと、ムカつきました。


 何のために生まれたんだとムカつきました。


 小さい頃の記憶が嫌でも流れてきて目の前を覆うのを、狸は黙って睨んでいました。


 心から満たされているものが一つもなかった記憶たち。それを睨んでいるうちに『ムカつく』から『どうでもいい』に変わってしまいそうになる自分に驚きました。


 どうでもいいのに、体は震え、自分の意志とは関係なく歯がカタカタと不快に鳴ります。


 どうでもいいのに、お腹は減り、食べておけばよかったと思うものたちのことが浮かびます。


 どうでもいいはずなのに、涙がひと粒だけ出た気がしました。


 その涙が、狸にはとても恥ずかしくて


 初めて、自分の事を嫌いになりそうでした。


 そんなとき、きつく目を閉じた狸の身体に、温かい何かがふわりと被せられます。


 驚いて目を開けると、知らない大人の男が立っていました。


「君、お腹空いてる?」


 話しかけてきた大人の男は、大人の男なのに声が自分より高くて驚きました。


 今まで周りにいた奴らとも、全然違いました。


 酒に焼けていない声、見下さない目、この辺で見ることはあまりない地味な服装。


 それでも狸は、こいつも皆と同じだと思いました。


 自分に触りたいから優しくしてくるんだと思った狸は、それでもいいから頷きました。


 自分が綺麗なのは、しょうがないことだから


 綺麗なものは、皆欲しくなるから


 自分にはわからない気持ちだけど、それが普通だと狸はよく知っていました。


 それに、目の前の男は、大人なのに背は自分より小さい気がしたし、弱そうだし、お人好しそうだから、触らせてから自分の欲しいものも色々もらおうと思いました。


 温かくなりたかったし、お腹も空いているし、寝る場所も欲しい。


 そのためなら、男についていくことは苦になる気がしませんでした。


「肉…食いたい。」


 狸がそう言うと、男はなぜか笑いました。


 バカにしてないのに笑った彼の事を、狸は変なやつだと思いました。


 かけられた上着からは、加齢臭や薬、タバコの匂いすらしなかったし、金木犀のような優しい匂いがしたので、どれだけ変なやつでも少しくらい許してやろうと思えました。


 しかし、狸の予想は大きく外れることになります。


 予想通りホテルに行ったけど、ビジネスホテルだったし


 予想通りお風呂に入れられたけど、傷を綺麗に優しく洗われて、身体を温められただけだったし


 予想通り服もくれたけど、予想以上に地味でダサい服だったし


 予想以上に高い焼肉を個室で食べて


 予想以上に早い時間にベッドに寝かされ


 男はソファーで寝ました。


 田舎のおじいちゃんしか寝ないような時間に、自分だけベッドへ寝かされ、狸は意味がわかりませんでした。でも、疲れていたので知らないうちに寝ていました。






 朝日が昇り始めた頃、寝ぼけ眼でソファーを見ると、男は起きていました。


 男は、1人でパソコンをカタカタ操作しています。


 狸が起きないように真っ暗な部屋で


 狸が起きないように静かに


 男は1人で仕事をしていました。


 狸は、もう一度目を閉じました。


 今日、触られるのかもしれない。


(昨日の肉は美味しかったし、しばらく世話もしてほしいから、触られたら喜んでるふりくらいしてやろ。)


 そう決めていたのに、その日も男は怪我の手当て以外で狸に触れることはありませんでした。


 いや、正確には怪我の手当て以外でも撫でられましたが、それは今までされたことのない頭を優しくナデナデされるだけのものでした。


 男は、狸が思った通りお人好しでした。


 でも、思っていたお人好しと違っていました。


 サーモンが食べたいと言えば、男はお寿司屋さんに連れて行ってくれたし、そこはまた個室で、まるで自分が特別だと思えるような所でした。


 でも、男から狸に特別を要求されることがありませんでした。


 狸は、ご飯中も、移動中も、男が仕事をしている間も、男と話すだけでした。


 男が愛知の人ではないこと、出張でたまたま来ていること、好きなものは自分も好きなサーモンで、嫌いなものはトマトなことなど色々聞いたし、


 自分が岐阜から来たこと、ボロボロになった理由、野菜が嫌いなことなど、狸自身の事もいっぱい話しました。


 なぜか、誰にも言わなかったような話も自然と話していました。


 男が何一つ否定すること無く、1円にもならない同情を向けてくることも、正義感という名の酔どれた説教をしてくることもなかったからかもしれません。


「電車乗ってくるために、自販機の下とかめちゃくちゃ漁ってお金集めた。わりと落ちてる穴場とか俺は知っとったし。」


「そっか、君は生きる力の強い子だね。行動力もあるなぁ。」


 男はただ、狸の話で凄いと思うたびに、狸の頭を優しく撫でました。


 馬鹿にしてる気もしないのに、憐れんでいるいる気もしないし、可愛そうなやつに優しくしている自分に酔っているわけでもないその男が、狸は本当に不思議でした。


「もう傷とか痛くねぇから、俺に触っていいけど。俺は慣れてるから、触り方わからなかったら逆に触ってやるのでもいいし。」


 そう言って狸が男の隣に座って触りやすいようにしてあげても、


「君の色んな話を聞けるだけで、食事代分のものは十分受け取れてるから気にしなくていいよ。」


 そう言って、仕事を始めるような意味のわからない奴でした。


「もしかしておっさん、経験ない?」


「おっさんの心配はいいってことなの。」


(俺が正解のやつやな。)


 男は、女にモテモテのタイプではない気がしていた狸は、自分の予想通りだろうとわかって楽しくなりました。


 自分より金もあって、自分より余裕があって、自分より歳もとっている男より、自分が勝っているものがあって嬉しかったのです。


 仕事の間も話続けてやったり、膝に乗って邪魔してやったり、狸は男との時間を自分なりに満喫することにして、触られるのを待つことにしました。


「おっさんは、おっさんって言われてなんでムカつかねぇの?」


「そりゃ、10代の君からしたら、俺はまごうことなきおっさんだよ。間違ってないだけ。」


 嫌味一つも出ない男は、狸が出会ってきた普通の人達と違っていました。


 普通は怒ることでも、怒りませんでした。


 この男なら、きっと切符は自分の働いたお金で買うのに


 この男なら、きっとカツサンドは盗まないのに


 この男なら、10代の自分を触ることが悪いことだとわかってて、優しいフリで近づいてくる大人と違うのに


 全部やっている狸を、怒ることも、叱ることも、諭すことも、嘆くことも、蔑むこともありませんでした。


 違う生まれ同士は、ぶつかることか普通なのに


 違う物差し同士は、嫌悪するのが普通なのに


 男は、まるでスライムか何か得体のしれない未知の生物のように、どこにも固い所もトゲもありません。


 男は、狸が今まで出会ってきた人や、生物、物語の登場人物どれにも当てはまりませんでした。


 狸が、男は地球の人間を観察に来た宇宙人かもしれないと思うほどでした。


「おっさん、名前は?」


 そう狸が聞いたら、男はきょとんとした顔で狸を見ました。


 男が答える前に、狸が続けます。


「俺の名前はな、」


 大嫌いな自分の名前を、男に教えました。


 その名前を嫌いな理由も、男は全部聞いたのにやっぱりバカにしたりしません。


 目も、狸から逸らされることはありませんでした。


 狸は、その目が綺麗だと思ったと同時に、そんな事を感じた自分に驚きました。


 その驚きを全く顔に宿せないほど、狸は化けすぎて生きてきたことを本人すらわかってませんでした。


 狸は、狸が思っていたよりずっとずっと幼い狸だったのです。


 男の鏡のように反射する目は、幼く見える狸が映ります。


 もっともっと幼い狸すら、映っている気になります。


 ほとんど呼ばれることなどなかった、狸の名前。


 大嫌いだった、愛されてない証拠。


 それでも、自分があの親の子であるという確かな証拠。


 忘れていた、空腹や寒さをしのぐこと以外で渇望した“欲しい”が、幼い狸の姿をして少し大きくなった狸の前に現れます。


 この男なら、それをくれる気がする。


 勘ですらない、閃きよりも淡いナニカでした。


「おっさんがつけてもいい。特別に、おっさんが俺のこと呼びたい名前で呼んでいい。」


 そう、狸に言われた男は、眉間にシワをぎゅっと寄せ、腕を組んでゔーんゔーんと仕事の何倍も悩み、


「たぬき…たぬ…たき…、たぬきそば………」


 男は、狸の予想斜め上の独り言をブツブツ言い始めます。


「………そば君、とかは、どうですか?」


 と恐る恐る聞いてきます。


「嘘やろ?本気で?クッソダサいんやけど。」


「ご、ごめん…。」


 男には、センスがありませんでした。


 でも狸は、ムカつくとか、殴りたいとか、そういう気持ちが湧きませんでした。


 なんだか、自分なのに自分じゃないような不思議な感覚がして、本当に自分は今までの狸じゃなくて『たぬきそば』という新しい狸に生まれ変わってしまったのかもしれないとぼんやり思いました。


 そんな狸の気持ちを少しも気が付かない男は、他のいい名前を考えようとゔーんゔーんと唸り続けます。


 結局、かっこいい名前は一つも出てこなかったので、男は「たぬき君」と呼ぶようになりました。


 男は、自分の事はおっさんのままでいいと言いました。


 もうすぐ遠いところへ帰る自分の事は、すぐに忘れていいと言いました。


 男が帰るのは、3日後です。


 狸にとって別れは日常でした。


 でも、たぬき君にとっては初めてのことでした。


 その日は、たぬき君は無理やり男をベッドに押し込んで並んで寝ました。


 夜、仕事のためにまたソファーに移動していた男に怒って、結局たぬき君もソファーで寝ました。


 頭しか撫でられることは無いので、仕事を邪魔しても殴られたりしません。


 たぬき君は、仕事が終わらないようにパソコンを壊してしまいたいと思っていましたが、それで嫌われて捨てられるのが怖くて我慢しました。


 次の日は、たぬき君が男の服と自分の服をかっこいいものにするために選んであげました。


 もちろんお金は男が出しましたが、男はものすごく感心していました。


「やっぱり、君はセンスがあるね。色彩感覚もかなりいいんじゃないかな?ちゃんと才能だと思っていいよ?」


「おっさんは、マジでセンスないの自覚したほうがいいから。」


「それは…、はい、自覚してます。はい。」


 たぬき君は、男ができないことを自分ができていることが嬉しいと思いました。


 でもその嬉しいは、最初の嬉しいと少し変わっている気がしました。


 ご飯も、本当は嫌だったけど野菜を食べたらすごく褒めてもらえました。野菜も高いところのものだからなのか、今までのものよりは美味しく感じました。


「そんなに若いうちから、健康の事を考えて嫌いなものを食べようと思えるのはすごいよ。野菜食べててえらい。」


「おっさんはおっさんなんだから、トマト食えよ。」


「はい……。」


 なんとも言えないブサイクな顔でトマトを食べる男を見ていると、たぬき君は今まで感じたことの無いくらいの面白いや楽しいが胸に広がりました。


 初めて、ご飯を食べて楽しくなりました。


 男ができないことを知るたびに、それを自分ができると知るたびに、たぬき君は確かな喜びを感じました。


 男が、自分を必要とする日がくる気がしたし、そうなるように、たぬき君は男を知ろうとしました。


 触るのが目的じゃないなら、助けて欲しいと思うようになればいい。


 面倒くさいことは嫌いだけど、おっさんはもうおっさんだし、美味い飯をくれるから少しくらい助けてやってもいい。


 たぬき君は、確かに狸だった頃と変わりました。


 狸でいた時のほうが長かったのに、たった数日たぬき君になっただけで変わりました。


 昔の自分を嫌いだと思ったことはないけれど


 今の自分は大好きになりました。


 次の日は、男の仕事の事をいっぱい聞きました。


 たぬき君は学校で勉強をしなかったので、仕事をすることは諦めていましたが、男の仕事はできる気がしました。


 男が仕事で困った時、助けてあげれる気がしました。


 男が仕事をしている横で、漢字を練習しました。


 男から紙とペンを貸してもらい、ペンの持ち方から教わりながら、そのペンのインクが無くなるくらい書き続けます。


 計算は元々得意だったので、少し男から教わるだけで出来るようになり、間違えても叱られることはないので、たぬき君の紙にはどんどんハナマルが増えていきました。


「君は本当に賢いね。勉強が出来ると、人として賢いは直結しないことがあるから、両方手に出来る可能性がある君は、才能があるって胸を張っていいよ。」


「おっさんは、字とか汚いな。」


「はい…。最近PCばっかりで……いや、うん。言い訳でした。元々汚いです。」


 たぬき君は、字を綺麗に書ける自分が好きになりました。


 男が自分を必要とするはずだと、男が一緒に行こうと言ってくれると期待して、たぬき君はその日は夜遅くまでずっと仕事をする男のそばを離れませんでした。


 次の日のご飯だって、高いものをねだったりしませんでした。野菜も食べました。


 無理やり触れと言わなかったし、無理やり触ることも、膝の上に乗って邪魔することもしませんでした。


 自分の話もいっぱいしたし、男はそれを聞いてとても嬉しそうにしていました。


 なのに、男がたぬき君と一緒に行きたいと言うことはありませんでした。






「おっさん、マジでふざけんなよ。」


「えぇ?」


 男が帰る日、帰るその時まで何も言われた無かったたぬき君は、ボコボコにされて涙が出た時よりムカついていました。


 たぬき君は、本当は少しだけわかっていました。


 普通の人じゃない自分を、男が連れ帰る事はない可能性の方が高いことを。


 自分より勉強ができるやつのほうが多いし、自分より優しい奴がいるし、


 きっと、自分より男の事を知っていて、仲のいいやつらがいる。


 でも、たぬき君はもしかしたらを捨てられずにいました。


 もしかしたら、男が名前をつけたのは自分だけかもしれない。


 もしかしたら、男が優しくしてくれたのは自分だからかもしれない。


 もしかしたら、男が自分をもっと触っておけばよかったと思っているかもしれない。


 もしかしたら、男は一緒に行こうと言うのが恥ずかしいとか、迷惑をかけたくないとか、いらな過ぎる心配をしているだけかもしれない。


 心のなかで、狸の自分が『そんなわけないだろ』と、あのアスファルトの様に冷えた声で吐き捨ててる気がします。


 でも、たぬき君の自分は、男がホテルの部屋のドアを出ないように、ドアの前で仁王立ちすることをやめられませんでした。


 男が、いつも自分を気にかけてくれていたことをわかっていたからこそ、怒っているぞとわかりやすく表に出すことで、自分のこの気持ちに気がついてほしかったのです。


 気がついていて、わざといらないと思われている可能性だって高いと、心の中の狸の自分がうるさいのに、


 このおっさんは普通じゃないと、たぬき君の自分が歯向かいます。


 普通なら、自分を連れて帰ったりしない。


 雌でもないし、学校も行ってないし、家族もいないし、厄介でしかない赤の他人の野生のタヌキを、仕事も、お金も、人間関係にも困っていないやつが、持ち帰るなんて選択肢はない。


 現実的じゃない。


 でも、たぬき君にとってこの男と過ごした日々はまさに現実とかけ離れていました。


 だからこそ、“希望”なんてらしくないものを掴もうと手を伸ばします。


「おっさん、名前教えろ。」


 怒っているぞと伝えるために出した声は、嘘なく本心から怒っていたからこそ低いものだったのに、震えている気がしました。


 寒くないはずなのに


 アスファルトの上でもないのに


 空腹でもないし、恥ずかしいわけでもないのに


 彼の声は、震えてしまった気がしました。


 おっさんでいいよって言ったでしょと返されたら、もっと怒って返そう。


 そう思っているのに、怒って返せるのか不安な自分がいます。


 なぜか、たぬき君の自分も、狸の自分も、不安がっている気がしました。


 男は、困ったように笑ってたぬき君を見ます。


 たぬき君の心に、冷たい風がびゅっと吹いた気がしました。


 でも、たぬき君は泣きませんでした。


「俺の名前はね、」


 さっきまであんなに冷たい風が吹いたはずの心に、じんわりとまるで春でも来たかのような暖かさが広がっていきます。


 あんなに、大きくて重くて大嫌いだった寒さと空腹が、一撃でふっ飛ばされて


 まるで、目の前の男が世界一強い何かに思えるほどでした。


「たぬき君、よかったら俺と一緒に来ない?」



たぬき君の答えなんて、きっと産まれた時からすでに決まっていました。




「おっさん、今日の弁当何入っとるの?」


「今日は普通のザンギ弁当だよ。」


 あれから走るように月日は流れ、見知らぬ土地でもすくすくと育った“たぬき君”は、男の職場に入社しました。


 上司になった男の弁当を見て、たぬき君はすぐ弁当をくすねます。


 お昼を食べるために、この部屋に一つしかない来客用のソファに座る上司の横へ、たぬき君はそのままどかり座ります。


 何度も食べたことのある手作りのザンギを1つ、一口で頬張ると、思った通りの味がしました。


 たぬき君はいい子に成長したので、お弁当の代わりにコンビニで買ったパンを上司の膝にぽいっと渡し、上司がありがとうとお礼を言うのを聞いたら、またお弁当を食べ始めます。


 たぬき君はいい子に育ったので、お野菜も食べます。


 でも、上司の作ったおかずでしか食べません。


 だから、上司はたぬき君の健康のためにお弁当を取られても文句を言わないし、最後まで食べると褒めてくれます。


 名古屋にいた頃より多くの種類の人に出会いますが、男のような人に出会ったことがありません。


 男の話を他人にしたって、そんな上司いるわけないと言われることもよくあります。


 でも、たぬき君はムカつきません。


 自分が『たぬき君』だから、この上司はお弁当を食べても怒らないので、『そんな上司いない』と言っている彼らが間違えてるわけでもないのです。


 だって、彼らがこのザンギを頬張れる日はこないのだから。


 彼らには、本当にこんな上司は一生存在しない可能性の方が高いので、彼らの世界では『存在しない』事が事実なんだと理解できるほど、たぬき君は大きくなりました。


 そして、この上司の存在を信じられない人達より自分が幸せなのは、しょうがないことだと思うのです。


 だって、たぬき君は元々素質があっただけでなく、努力できる才能まで持っているので、誰も敵わなくてもしょうがないことなのです。


 ちゃんとお弁当を全部食べたたぬき君は、これ見よがしに空っぽのお弁当箱を上司に見せつけます。


 上司は笑って、あの頃と変わらず頭を撫でるので、撫でやすいように上司の膝の上に頭を乗せて、ソファーいっぱいに身体を伸ばします。


 普通会社で出来ないことをしたって、たぬき君は許されます。


 だって、狸が頑張って会社に入れるんですから、普通の会社ではないのです。


 上司の太ももは男の太ももなので硬いですが、いい子のたぬき君は文句を言わず、もらったスマホで、最近教えてもらったアプリを起動しポイ活をしながら話します。


「明日はサーモン食いたい。久しぶりにあの回転寿司いこ?ブタの鳴き声みたいなとこ。」


 もちろん、上司の奢りです。何年経っても、上司の奢りで食べるご飯が一番美味しいのです。


「いいね、俺も久しぶりにサーモンお腹いっぱい食べよっかな。」


 そう言いながら、上司はたぬき君を狸だった頃と変わらず優しく撫でます。


「来年の春から新卒の子が一人入るよ。たぬき君も、今度は奢る側だね。」


 信じられない事を言われた気がして、たぬき君は上司の顔を見ますが、上司は今日もトゲの1つもない笑顔です。


「……………絶対嫌やけど。」


 たぬき君の顔がどんな顔かは、想像におまかせします。



 これからも、たぬき君の知らないことで溢れた世界は広がっていきます。


 願わくば、彼のその世界が幸せと優しさで満ちていることを…


「おっさん。俺は後輩いらんのやけど。他の部署にして?本当にいらない。」


「他の部署にも、他の人が来るよ。ここへ来る子は君と歳も近いから話も合うと思うし、仕事の教え方も」


「本当にいらん。本当にいらん。」


「に、2回言っても、来年も新卒も来るよ。」


 やだやだと騒ぎ始めるたぬき君が、どんな先輩になるのか楽しみな上司は、今度は声を出して笑ってしまいました。





 後輩どころか、おっさんの高校時代の同級生が現れ、そいつがおっさんの恋人になることを、この時の幸せなたぬき君は知る由もないのです。











 


 


 

この作品に目を止めていただき、あとがきまで見てくださって本当にありがとうございます。


作者は、このたぬき君が一人でも多くの方から愛され、幸せを願ってもらうことができれば、これ以上嬉しいことはないほど幸せです。

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― 新着の感想 ―
たぬきが主人公ということで、「有頂天家族(森見登美彦)」を思い出しました。 たぬき君、会社員になっちゃうのですねー。にゃはは。
2025/02/06 14:01 退会済み
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ファンタジーにも現実味が必要であるならば、現実で起こるファンタジーな出来事こそ本当にファンタジーだといえるのではないか。 文頭の文章を読んだ瞬間「あぁ、おもしろいだろうな」と思いました。 文章全体が…
インパクトのあるお話ですね。読んでいて楽しかったです!
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