シロウの家Ⅰ
シロウの家Ⅰ
「シロウ」を改めて説明する必要はあるまい。「ある事件」を境に、インターネット上で「シロウ」の画像や動画が溢れるようになった。「考えるシロウ」、「静かなるシロウ」、「開かずの目」、「哲学者」、「仙人」、等のネット・スラングは山ほどあり、その存在はどこまでも拡大し「狂信者ども」は増大するばかりだ。
シロウは我が飼い猫である。いや、「元・飼い猫」である。主人と飼い猫が一つの家にいるとして、主人の方が追い出されたとするなら、残された猫はもう飼い猫ではない。追い出された主人、それはもちろん私である。
シロウが「狂信者ども」を獲得していったのは猫らしからぬ、いや、動物らしからぬ異常性のせいだ。まったく食べ物を口にしない、ニャアとも何とも鳴かない、殆ど目を開けない、こんな動物が他にいるだろうか。殆どというのは、ルーティーンで一日一回行う「デッキ参賀」で、「狂信者ども」の前に現れる時だけ薄く目を開けるからだ。この思わせぶりな行動がまた信心を煽るわけだ。
もちろん最初は普通の猫だった。新居に妻、いや、「元・妻」を迎え入れる際、彼女が連れてきた。すでに十歳を超えていた。白い猫だからシロウ、と、彼女は教えてくれた。シロウは私を一目見るなり、目を細め、バカにするようにニャアと鳴いた。何だか不安に思ったものだ。
猫は祟るから。が「元・妻」の口癖だ。彼女の祖父は何匹もの猫を飼っていた。その内の一匹が悪さをしたというので、麻袋に入れて叩き殺した。それ以来、祖父は口が聞けなくなり、十三年後に行方知れずになったという。彼女が知る猫の祟り話には枚挙に暇がない。何をバカな、それらを聞かされるたび一笑に付したものだ。
私としては、新生活上の健康問題に不安を感じていた。
十歳の老描らしく昼間は大人しいのだが、夜になると活気づく。猫が夜行性であることを嫌というほど思い知らされる。廊下をドタドタ走り回り、無視するとニャオニャオ鳴きまくる。夜中にやられるものだからたまらない。寝室の引き戸を器用に開け我がベットに忍び込む。夢見心地で顔に何か感じたかと思うと、フンフン鼻息を吹きかけられる。ワア!何度飛び起き、震え上がった事か。まったく全然寝れやしない。
それと謎の腹痛、目の充血、年がら年中花粉症のような症状に悩まされた。後になって猫アレルギーと診断された。どうりで。もちろんクシャミも出る。シロウは何故か恐怖を感じるようで、ハックション!の後、体をビクリと震わせる。「元・妻」からすればそれが虐待だという。酷い話だ、主人の健康を損ねておいて。新居での新生活は思わぬところで躓く。しかしこんなところで、ヒト様の幸福を踏みにじられてたまるか。ヒトの偉大さは困難の克服にある。ついに私はクシャミを溜めて放つ術を得た。一日一回のクシャミでその日の分を相殺するという特技。夜、寝る前に裏の土手を超え、川下に向かってクシャミを放つ。それはもう大きな音で隣町まで聞こえるかのよう。近所では「夜の川辺の大クシャミ」という噂が立つほどだった。
こういう涙ぐましい努力によって我が新生活は何とか維持されていた。何とか一年間は。
ある日曜日の夜。今日で十三歳なの、「元・妻」は突然言った。これからシロウの誕生日会を盛大に開くという。新生活以来、彼女はますますシロウに傾倒していき、もはや一心同体にみえた。朝から晩までシロウシロウだ。私の誕生日なぞ顧みられたことは無い。明日は仕事だぞ?慢性的な寝不足と腹痛と目の充血とクシャミで、身も心もボロボロだった。
ニャア。満足そうに高級キャットフードを頬張るシロウ。明日早いからもう寝る、そういうと彼女は「お祝いもできないの?」と睨んだ。カチンときた。ックション!思わず少しだけ漏れた。目を見開きビクリとするシロウ。口から高級キャットフードが零れ落ちる。「ちょっと!」激昂する彼女。怒りがこみ上げてくる、一年分の。一日分の我慢していたクシャミも。それらはとうとう決壊した。ハックション!!!大音声のクシャミが新居を揺らす。目を閉じ怯えるシロウ、目に怒りを湛える彼女。出てって!「元・妻」は叫んだ。元よりそのつもりだ。こんな猫屋敷出てってやる!
こうして私は新居を追い出された。この日からシロウはものを食べなくなり、殆ど目を開けなくなった。もちろん当座は「元・妻」とシロウは一緒に住んでいた。それが数か月後、「元・妻」は行方知れずになったという。いま新居を管理しているのは「狂信者ども」と思われる。
晴れて新居、いや、「元・新居」はシロウ一匹のものになったのだ。まったく贅沢なヤツめ。