木曽谷を行く
秘境と言えば様々ある。ある人は道東というかもしれないし、ある人は津軽だというかもしれない。またある人は伊豆諸島というかもしれないし、室戸岬というかもしれない。日本には様々な秘境なるものが存在するが私が秘境と言われたら信州長野を思い浮かべるのである。そして信州長野は私の憧れの地であった。その夢の地へと行くために特急に今まさに乗らんとしていた。しかし、特急はまだ来ることはなくあと20分ほどの時間があった。その時間を潰すために一先ず用を足し自由席に座れるようにするため列に並ぶ。ふと軽食を買おうとするも長野駅に蕎麦屋があると聞いていたが故、買うこともなかった。そして特急しなのを待つだけというのは暇である。横で特急ひだを見ればふと写真に収めたりした。そしたら右手から特急が入線する。名は特急しなの。長野へと行く特急である。車両は383系という列車である。中央本線は線形が悪くスピードが落ちるらしいので振り子を活用して車両を傾けるのだという。閑話休題、扉が開くと人は皆列車に上がる。私もその中に混じりて特急に上がり席を見極めて座る。進行方向左手に座りくつろぎつつ関西本線の乗車記にメモをする。そしてもう一度特急しなのの車窓の見どころを検索していた。
すると特急は長野に向けて出発した。ワイドビューチャイムが鳴れば特急は加速する。名古屋は日本三大都市圏とかいう大都市であるがよく日本三大都市圏失格などとよく言われるが、車窓を見れば大都市の風格を持つ車窓が一杯に広がっていた。(ただよく考えたら先ほど私も日本三大都市圏失格と名古屋のことを言っていたなぁ)そして流れていく名古屋の都会感も少しずつなくなっていき千種駅を出ると更に都会感が見えなくなっていく。そんな車窓を見つつ天を仰げば堂々コンドルの如く飛んでいく輸送機を見た。後に調べるとC-130Hという輸送機らしい。愛称は「ハーキュリーズ」ともいうらしいがここは旅行記でありあまり関係ないので深くは言わないことにする。唯一つ言うならば「この空を、この大地、この大洋を彼らが影で守っているんだなぁ」と感慨深く思ったのである。さてハーキュリーズが飛んだ後も車窓は住宅地を写していた。そして電車は神領の車庫を横切り、高蔵寺をも越えて遂には土岐川の渓谷に沿って進むこととなる。古くは土岐川の渓谷を拝めたと聞くが今ではトンネルの闇が墨のように車窓を塗るのみである。そしてトンネルが途切れたので少し土岐川の渓谷を見んとてデッキに赴く。見れば渓谷こそあれ、ただ大きな駅が壁のようにして川を見るのを阻害するのみである。落胆して席に着けばまた闇へと車窓は変化する。そして闇が途切れたら遂に山の風景は晴れて小さな町を車窓に映す。そして多治見駅に至る。多治見は陶磁器の地にして灼熱の地と言わるれど、ドアが開いても決して熱が車内に入り込むことはなく車両はただ快適な空間のままであった。しかし、多治見を出発する頃には電車の振り子のせいか少々気分が悪くなってしまった。そして外を見ると多治見の町は遠くに行きやがてトンネルに入る。車窓は闇に覆われる。そして土岐市、瑞浪市といった街を通過していった。これら二つの都市は多治見と同じく陶磁器の町らしい。陶磁器は置いとくにせよこの二都市を電車が走る間にも車窓は長野らしさというものが散見できるようになった。車窓の右手には小さくなだらかな山が立ち並び、その山塊と電車の間に土岐川が流れ、それがいっそう長野の風格が見えるのである。そして小さな長野を感ずるうちに中津川に来た。別段何があるわけでもないがリニア新幹線の岐阜県駅がこの近くに置かれるらしい。あとここから飯田まで中津川線なる線を敷設する計画があったことも聞いている。正直中津川に対する知識なんてももはこれぐらいだが、執筆する前に友人が博石館なる石の博物館があるらしくそれが有名らしい。それ以外は知らぬ。さて中津川に着けば遂には気分も振り子に寄りてふわふわするようになっていった。振り子はコンピュータにより制御されるにせよそれでも振り子は酔いやすいらしい。なお筆者は文系なので詳しい仕組みは知らない。そして中津川でトンネルに入り闇が車窓を埋め尽くす。そして闇も晴れる頃には関西本線の長島あたりで見た木曽川が見えるようになる。二時間ほどの別れの末にまた再開したのである。そして左に見えるようになった木曽川を橋で渡り右側に見えるようになった。そして車窓にはたまに小さな集落が見えるようになりそれも過ぎて南木曽を通過する頃には木曽谷の美しいV字谷が見えるようになった。南木曾駅辺りから木曾という地域、即ち信州長野へと入ることを理解した。それと同時に土岐市や瑞浪市、中津川にて感じた長野らしさというのは美濃(というより尾張)と信濃の国境という風格であったことが分かった。そう、私はここでようやくわたしの待ち望んでいた素晴らしい大地。日本の秘境にして私の聖地。心の柱というべきものへと入っていった。
南木曽の近くは妻籠宿の古い町並みがあるらしい。その街並みは高度経済成長期によって衰退するべきものであったが、その高度経済成長期に際して経済成長のみを崇める風潮に反発して経済成長と反対側にあるもの、即ち自然や昔からの街並みなどを再考するようになった。その流れに妻籠宿も一枚嚙んだということである。つまり妻籠宿は高度経済成長期に際して急激に成長した唯物論的世界観を破壊するために街内が保全されてきた。だが高度経済成長期の去った現代でも唯物論的なつまらぬ思考を霧消させるに足るものは妻籠宿のみではない。たとえば木曽谷そのものがまず美しい。奥の方角を見てみればV字谷が永遠と続いていた。空は青々としており流るる川は深くこれまた青かった。岩は大きな花崗岩が転がり木曽川の清らかさを強調していたようにも見える。木曽谷の山々は木々によって薄い緑に染まっていた。そして青空や深い谷の水色は木曽の木々に調和しており夏らしさというものがあった。それは都会で生み出された唯物論的な思考。そしてその心の狭さが生み出す人への嫉妬や憎しみ、人を蔑もうとする気持ちすらも洗ってしまうような美しい風景であった。殊更に美しいのは寝覚の床。木曽八景が一つ寝覚の床は花崗岩に方状節理が入った大きな岩である。その巨岩が木曽川に沿って並んでいるのもまた雄々しく美しい。されど特急列車はとても速くその美しい景色は車窓の外側へと向かい飛んで行った。そしてすぐに上松駅を通過した。近くには蒸気機関車もある。この蒸気機関車は木曽森林鉄道のものである。この鉄道は木曽の美しい木を日本の殖産興業の礎とすべく木曽谷に大量の鉄道を敷いたのである。ただ今は木曽森林鉄道はない。というのも日本は高度経済成長期にモータリゼーションの影響で鉄道で運んでいた木をトラックで運ぶようになった。鉄道は線路しか走れない。しかしトラックならば道があればどこでも行ける。鉄道と違いトラックは自由である。そのため鉄道は色々なところで衰退した。中国山地の鉄路や北海道の鉄路もかなり衰退しているがこういう森林鉄道も鉄道の衰退を感じることができる。まぁ今の私たちからすれば工業遺産。即ち過去のものであり現代の問題を想起すべきものではないが鉄道の衰退という現代の問題を考えざるを得ない。(あと蛇足かもしれないが海外からの安い木の影響で林業が衰退してしまったというのもあるかもしれない)
その後もまた美林が連なる木曽谷を走り今度は木曽福島に着いた。木曽福島駅に着くと電車は止まり扉を開ける。乗客は確か減っていた気がするが詳しいことは覚えていない。ただ木曽福島駅から窓の外を見てみれば、整然とロータリーがありつつも古めかしい感じを醸し出している木曾福島駅の駅舎とそのロータリーに張り付いているお土産屋さんらしき店が軒を連ねていた。発車をすると木曾福島の街並みが見える。福島関所という箱根関所や碓氷関所と肩を並べる関所があった。その影響か宿場町として栄えたようである。その古い町並みは木曽らしさを特急者の中にすら伝えてくる。もう信州に来たんだと自覚できるほどに車内の空気が木曽の空気に支配されたようである。後に調べたら窓の外の宿場町は火災で燃えてしまったようで復元されたのも多いらしいが今も古い町並みを継承しておりこの古めかしい建物が木曽の自然と織りなす調和を生み出し木曽谷の歴史、自然、文化など様々なものを想起させる。そして木曽福島を出て少しすると今度は「木曽義仲公の旗揚げの地」と書かれているのぼりが見えるようになってくる。そののぼりはまるで木曽の歴史を我々に伝えるようにそこにたたずんでいた。そしてのぼりが見えれば遂に宮ノ越に着く。ここらでボーっとしたためよく覚えていないがここらで「なんとなく古い町並みがあるなー」とか考えていた。そして奈良井宿を通過してもなお同じような小学生並の感想を思い浮かべていた。しかし、そこがそれぞれに宿場町であることを思い出していたらまた愉しかったのだろう。ただそれを悔やんでも最早甲斐なしである。奈良井を越えるととうとう緑だらけの車窓となる。山裾は相も変わらず青々としており田んぼが少し見える。今それにも飽きて睡魔に快楽へと誘われる。だがそれを拒否し続けて無理やりに起きていると山と山の間が広がっているのに気が付く。
「ああ、ようやっと木曽谷から脱出できたのか。正直飽きていたからよかった。」などと旅人検定五級不合格なことを考えていると松本平と呼ばれるに足るほど広がりゆく。そして、木曽谷の頃よりも長野県に着いたという実感が湧いてきた。そして荒々しい木曽谷はもう見えなくなれば、車窓は雄大な平地が広がるのを見えた。リンゴ畑かなにかは知らないが果樹園なんかも見えるようになった。そして近くには家も見える。そんな都会になっていけば思えば中津川以来の街である。その町は塩尻。その町の中央駅の塩尻駅で電車は停車する。ここはJR東海とJR東日本の境界駅であり、かつここで電車は中央本線から篠ノ井線に乗り換える。そしてブドウ園もプラットフォームにあるが私にとってあまり関係のない話である。また立ち食いソバもあるがまたこれも然り。別段何があったわけでもなく電車は客を出したり入れたりして発車した。そして木曽谷を越えた後とおなじような景色をみているとすぐに松本駅に着いた。ここは本当に都会で松本駅に着く直前にはアルピコ交通の車庫も見えた。そんな町はその後行くから城のことはあとで語るにしても電車が一向に発車しない。時間は既に発車すべき時間なのに。不安をよそに塩尻駅で交代した車掌の男は「電車の遅れが影響して云々」と言った。横は関東から来たのであろう老婆の集団が見た目からは想像もできない活力を以てしてグループ内で語り合っていた。「歳も歳だろうに」と思いつつ私は彼女らとは対照的に無意味に窓の外を眺めて退屈な時間を過ごしていった。そろそろため息も出ていく頃にようやっと発車してくれた。
松本市は意外に大きくそこそこ走っても街が続いていた。その町も果てると窓の左手には奈良井川が間近に見えるようになる。川のそばには木が並び木と木の合間からは永遠と続いていそうなほどに田畑が続いていた。長い間川をさか上っていると川から別れ冠着山を登る。幾度かに渡りトンネルも入ったり出たりして聖高原に着く。その名の通り高原らしい風景で電車の四方八方には田んぼが広がりその田んぼの奥には山が広がる。だがしっかりとここには山奥の雰囲気がただよう。また高原を高速で走る電車の爽快さにおいては言い表すことも難しい。だが聖高原駅や坂北駅ではなぜか電車が止まった。本来は止まらないはずである。私は電車のすれ違いかと思うも反対側からは電車は来ないままに発車した。聖高原を駆け抜けていけば善光寺平もただ一目に見える。場所は冠着山。別名を姨捨山という。姨捨伝説は有名だが善光寺平も負けてはいない。世の人は数々絶景スポットなるものを上げるがこの手の話題において姨捨山のほかに他はない。姨捨棚田は来ればまだ熟していない稲穂が夏を演出する。その奥には一目で善光寺平を一望することができる。善光寺平の果ては見えないがそれもまたよい。だが見えないからこそ善光寺平の雄大さが強調される。ふと大きい川に目をやる。その川は千曲川。途中で信濃川と名を変えて日本一長い川として知られる。その千曲川も途中で見えなくなる。まるで途切れているように。さてこの姨捨山の車窓は金剛石でも釣り合うことのないほどに美しい。これを電車に乗るついでで見ることができるのは信じられない。だが特急列車というものはそのような美しい車窓でちんたら走ってくれることはなくいつの間にか善光寺平に着陸しており、そのまま善光寺平を突き進んでいた。
そして平地を進むと篠ノ井駅に停車した。ここが最後の途中駅。降りるのを少し残念に思いながら持ち物確認をしつつ撤退の準備を始める。そして長野市の風景も見えるようになったわけだが、私は長野氏が松本市よりも都会に見えた。人口は松本市の方が上なのに。この特急の終点だからそう思えるのかも知れないが。電車が駅に着くそぶりを見せれば最後の荷物確認を行い列車を降りる。鼓動は高まっていた。見知らぬ都市に着いたことに。新たなる旅の始まりに。
今年ももう師走の候。私はこの冬無事に出雲に行けることになったので早くこの紀行文にけりをつけたく思っているのですが皆様は私のように後回しにしすぎて痛い目に遭ったなんて経験はないでしょうか。私はこれもそうなんですが他にも長期休暇の宿題なんて言うのもその一つですね。毎回毎回何かしら提出できないのですよ。万年大馬鹿者の私にとっては唯一の進学の糸口なのにみすみすそれを見逃しているのですね。留年なんてしたら目も当てられません。悲惨その物でしょう。
また私は他にも後回しにした失態を犯している訳であります。それは部活の合宿計画を立てられていないということです。というのも私といたしましては顧問の先生と私と部長で行く場所や宿泊場所に関する共通認識がなされておりその共通認識に従って計画が立てられていると思っていたわけであります。(スーパー言い訳タイム終了)まぁその甘い考えも結局のところ怠惰から生まれたものであると考えることができます。つまり結局のところ私が悪いという訳です。
しかしこの結果溜まりに溜まったすべきことを凡そ人間ではこなすことが不可能なほどにまで貯めてしまったということです。皆さんは私を是非とも反面教師としてご利用しせめて良い年末年始を迎えることができるようにお祈り申し上げます。