往路
私は中学生のある時期から異様に長野への憧れを抱いていた。別に故郷でもなければ親類の者の家が信州にあるという訳でもない。ただ純粋に長野という土地に憧れを抱いたのである。理由は某同人シューティングゲームかも知れない。しかしここで理由などはいらない。ただ長野への憧れこそが私にとってはとても重大なことであった。そのためにこの旅行を実施するうえでいたく苦労を重ねた。私というのは学校内で勉学に非常に劣っているようで考査の順位で最底辺争いをしている人間である。それでも努力して成績を上げて父親にこの旅行を認めさせることができた。そして宿泊地を抑えて18きっぷと名古屋から長野までの運賃、特急券を買い出発することになった。
そして来る旅行の日。私の一人旅行で初の泊ということもあってとても張り切っていた。どのぐらい張り切っていたかというと乗る電車をしびれが切らすほどに待ったぐらいである。そして大阪環状線の電車が着いた。ここからは取り敢えず名古屋に向かうのだが頭がまともな人はそこまで新幹線か新快速で行くことだろう。しかし私はこの旅に鉄道旅の要素を望んでいたのだが新快速だと関ケ原ぐらいしか見えないものである。確かに関ヶ原の風景などは車窓からでも見てて感慨深くなるものだが今回は木津川の渓谷を望んだのだ。
さて電車は発車して福島、野田と各駅に停車して西九条に着く。大阪の陽の気に包まれている人間は休みの日に脳死でここで電車を乗り換えてユニバに行くようだがあまりユニバの良さが分からないのだ。確かに昔は私もユニバに来ると非日常感のせいか私もとても喜んでいたはずだったのだが何時しか学徒となりて遂にはユニバの良さも知らぬようになる。歳をとると夢を見れなくなるというが学徒の身でこのような現象に陥るというのは私の老いの早いことを証明しているのだ。さて無駄話はさておきこの後もミナミの気が強くなるのを感じるうちに新今宮に着く。ここは治安がヨハネスブルク並みに悪いと言われておるがここは関係ないので電車を待つ。しかし電車の方向を見間違えたようで京都行きの電車に乗る予定だったが難波行きに乗りかけたのだ。あと少しで京都行きの電車を逃すところであり内心は穏やかではなかった。そして白い221系電車に揺られて天王寺を越え、久宝寺の新しめの住宅街も見えるようになるとそろそろ旅の始まりなんだなぁと考えて胸の鼓動が早くなるものだ。特にそのあとの亀の瀬を越えるとその気持ちは謙虚になってゆく。深緑の金剛山地と生駒山地の間を大和川に沿いて走るのは夏の始まりさえも感じる。そんな亀の瀬は古来より天然の関所であり「父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に 我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向けする 畏の坂に 幣奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を」(畏の坂は柏原市の公式サイトによれば亀の瀬らしい)と万葉集に載るほどのネームバリューを持つ。そんな天険たる亀の瀬も電車に乗れば難所とすら思えないのは不思議なものだ。さて天下の阻、亀の瀬を抜けると大和川を渡り王寺で停まるに数多の体育会系の部活の人間と思しき人がぞろぞろと乗車していたはずである。そして満員となった電車は今度は未だ幼い若緑の田んぼを走り金魚で名を得たる大和郡山に着く。郡山城などは魅力にも思えるのだが幾分旅行に行くほどの魅力を感じれないのがいささか残念である。さらに奈良本体とは一駅とは言え遠いのも難点である。その後高架線に入り奈良市の低層の建物が地平の果てにまで続くような光景を見るうちに奈良駅に着いた。ここで目の前にいる電車に高速で移動する。しかし後に再考すればホームを走っていたことに気づき自分の蛮行を反省せざるを得なかった。そうして自分の生き恥を増やしたくせにどうやら電車には自分を含めても片手で数えられる人しかいないらしい。どうやらガラガラの電車は生き恥を増やした私の他に載せているものは見当たらない乗客が数名と空気だけみたいだ。欧米では電車は一度に多くの人間を運ぶため車よりエコなんだという意見が冬のインフル並みに流行しているみたいだが果たして車内全体を撮っても怒られないこの状況を見ても同じ事は言えるのだろうか。
さてそのようにガラガラ電車の弄りもそろそろに電車は高架線をさらに東に進める。右手には深い緑の山が右手には大都会奈良の地平に続くさまが見えた。もう少し走れば平城山に着く。平城山は奈良北方に連なる小高い丘みたいな山どものことだが別段変哲のない山なのだ。しかし平城山は北見志保子の「平城山」があるがため何かロマンを感じざるを得なかった。だが只の山ともいえない面は他にもある。それは山城と大和の国境にあるため交通の要所としての役割を持ち三つのルートが作られ時代によりメインルートが変わっていったらしい。そう物思いにふけて私はヘッドホンを装着して「平城山」の歌を聞いて旅情を駆り立てた。しかし突如電車はちんたらちんたら走り始めた。「国鉄じゃあるまいし遵法闘争とかないよな?」と思ううちに遂には完全に停車してしまった。そしてアナウンスからは先発の普通列車の遅延で停まったと放送した。しまった。加茂駅で汽車を乗れなければお終いである。まずい。冷や汗が出る。神よ‼私が何をしたというのだ‼私の嘆きは虚無の中に消えた。そうして不安感に胸が鼓動を早くなるのを感じていた。その不安感は何分も続いた。しかし数分後電車は動き始めた。一抹の不安は解消したもののやはり完全には解消できておらず未だに胸の鼓動が早い。しかも木津駅で停車する番線が変わるとアナウンスがあり残っている不安を煽る。そして木津駅を過ぎ関西本線もローカルな感じになっていくと、とうとう加茂駅に到着する。一番の懸念点であった後続の汽車との乗り継ぎだが全然大丈夫だった。
さて加茂駅で用を足し汽車を待つ。まっていると紫色の汽車が現れた。キハ120系。JR西日本の路線の中でやる気のない路線を担当している汽車である。そしてホームに現れた汽車は関西本線の加茂~亀山間を担当しているのだがこの区間も例にもれず赤字路線である。さて二両編成の汽車がホームに停車すると私も空いたドアに近い場所から汽車に乗り込みボックス席に腰を下ろす。汽車はそれなりに乗客がいるがどことなくキッパーの雰囲気を漂わせている。持ち物確認を行ってからスマホで後輩に後日行った岡山旅行の計画を立てていた。思えば例のアレワードが飛び交った旅行だった。私の岡山のイメージがとんでもなく汚いことを書いている間思っていた。
さてパーソナルな話もそろそろに汽車は扉を閉めて最過疎区間へ足を進める。汽車は朝日に照らされて田に影を落とす。そして小さな盆地のような土地には田に囲まれた集落がある。さてさてこんな集落を見るとよく思うのだが交通はどうしているのかと疑問に思うのだ。やはり公共交通機関なんてものには目もくれずに車を使うのだろうか。そう考えると車というのは我々の住める範囲を拡大するのに役立っているのだろう。そう考えている間に山と山の間の隙間に汽車が入る。目下には木津川が流れる。昔は水運で役に立ったという。その後は名阪の最短ルートとして日本の幹線の一つだった。しかしその水運は何時しか関西本線に取って代わられその関西本線も今や近鉄と名阪国道に客を奪われた。だが往時の関西本線を偲ぶものは意外と多くその筆頭には駅のホームの長さがある。精々二両しか来ない路線のはずなのに笠置駅のホームは何両もの車両が停車できそうなほどに長いこれは関西本線がそのホームをすべて使っていたころの名残である。こういう名残を見ると世の中如何なるものでも衰退してしまうというこの世の常識を改めて認識させるのである。また駅にほど近い笠置山は元弘の乱の折に後醍醐天皇が三種の神器を持って立て籠ったのだが元々笠置山は弥勒信仰で有名な土地であった。しかしこの笠置山の戦いにより弥勒信仰として著名だったお寺のあらゆるものが炎上して唯一残ったのは笠置山の磨崖仏のみである。そんな笠置駅では行楽客を降ろして汽車は更に東へ。
笠置山を出ると左手に見える木津川が険しくなりまた木津川の美しさも増す。ロックシェッドに入るのもまた良い。川は清らかなのは岩の険しさと対照的である。しかし川を永遠眺められるわけではない。少しの間木津川と関西本線が並行すると一瞬小さな集落が車窓に映るようになる。そしてこの集落に入ると遂にノロノロとした運転に入る。「また何かトラブルか?」ふと思ったがすぐに違うと分かった。これは必殺徐行。JR西日本の赤字ローカル線でよく行われているのだが保線費をケチるために運転士の目で事故因子を確認してもし事故因子があったらすぐに停車するというものである。こんなけち臭いことも赤字ローカル線では行われるのである。しかしそんな区間もすぐに終わる。木津川の対岸に行くとエンジンが音を立ててまた速度を上げ始める。鉄道がブロロとオノマトペにできそうな音を上げるのは普段では聞くことは叶わない。「旅は日常からの脱却」だとどこかの哲学者が言ったらしいがその片鱗をエンジン音で感じた。その後川は見えないまま南山城村へと入り車窓は一面クソミドリ。育ちすぎた草が車両にあたる。これもまた普段は味わえない。
そしてトンネルを越えて月ヶ瀬口駅に着く。「月ヶ瀬」などと梅で名を得たる由緒正しき名称を冠するこの駅は確かに距離で考えたら最寄り駅だ。しかし最寄り駅というにはとてもいうことはできない。此処から月ヶ瀬は7.8㎞も離れておりその癖に月ヶ瀬に行くバスどころかそもそもとしてバスすらない。そんな全国にある最寄り詐欺の駅であるが周辺の平地を眺望できて個人的にはおすすめの車窓だ。しかしわざわざ降りる程でもない。さてそんな月ヶ瀬口駅を発車するとまた山奥に入る。しかしこの区間でいつの間にか三重県に入り島ヶ原村とかいう小さな集落に着く。しかしそこまで大きな集落でもない。そんな集落を見て見ぬふりをして山奥にまた入る。
そして抜け出すと伊賀盆地へと侵入する。右側の車窓には伊賀盆地が地平線の先まで広がっており右は山の麓に並ぶ田んぼと民家を拝むことができる。そして幾分もの間山奥を走っていたものだから大都会に来たものだと錯覚してしまう。そして町は更に大きくなっていき城も見えるようになる。伊賀盆地の中心である伊賀上野町の伊賀上野城である。忍者の本拠地として有名な伊賀であるがその忍者をJRも赤裸々にプッシュしているらしく、伊賀上野駅には沢山の忍者の置物が置かれていた。また伊賀の町はかなり大きいらしく乗客はかなり降りて行った。代わりに伊賀の住民と思われる人が今度は乗ってきた。そして車内の繫盛っぷりが赤字ローカル線には思えない。そう思いつつ汽車は伊賀上野駅を発車する。伊賀盆地は未だ右側から見える。地平線の先まで続く伊賀盆地はそこそこ綺麗でちょくちょく右側の車窓を見ていた。そしたら変人を見るような目で見つめられた。まぁはたから見たら変人だしそもそもとして私自身が変人だから仕方ない。そして伊賀盆地の東端を走り遂に伊賀盆地が車窓から離れ山の緑が移っていき汽車は柘植駅に停車する。柘植は松尾芭蕉の出身地である。そのことから俳句を突っ込むポストみたいなものがある。去年の冬に大回りして俳句をポストに突っ込んだ思い出がある。妙に懐かしみを含む思い出を追想した。
さて柘植を発車すると汽車は関西本線一の難所である加太越えに挑む。車窓に映る山林は難所の風格を醸し出していた。加太越えは鈴鹿峠が開発されるまでは正式な東海道だった。そんな由緒ある難所である。この難所を越えるために古の旅人はここで苦難を強いられた。鈴鹿峠が開発された後、難所が鈴鹿峠となり替わっただけである。しかも東海道の箱根峠に次ぐ難所として結局旅人を苦難に陥れたままであった。しかし、関西本線の前身である関西鉄道ができてからはここで苦難を強いられることはなくなった。そして明治期の旅人はこの鉄路の上にて旅の行く先を考えた。ただ昔はSLを利用していたがゆえ運転手が加太トンネルにて窒息をするという事故が多発したそうだ。しかしSLが気動車となり替わり皆が安全にこの難所を越えることができるようになった。無論私自身もこの難所を安全に越えているのである。これも偏に技術の進歩の賜物なり。
人に翼の汽車の恩などと言えるものを十分に享受して遂にトンネルを越えて峠道も下り坂に転じる。山林も難所の風格も薄まっていきとうとう山林も見えなくなる。席を立ちて後面展望を見れば我らが越えた道、加太越えの道が永遠と続いている。遂に来てしまったのだ。もう旅行をやめることはできないのだ。人生で一番の旅は今始まったのである。とうとう三関が一つ鈴鹿関所を越えて広義の意味での関東に着く。関宿の中心部であった場所の近くにある関駅に着く。ここになると三関の鈴鹿関を越えたことを体感で分かるものだ。関東に来たという気持ちも此処からであろう。そう言ううちに亀山駅で下車することになる。
亀山駅は関西本線と紀勢本線という本線級の路線が合流する交通の要衝である。しかしどちらも廃れており駅のホームにはかつての栄光にしがみつくかのように役不足な駅のホームがあるのみである。駅員に18きっぷを見せて駅の外に出る。駅員はJR西日本の人でなくJR東海の人であった。というのも亀山駅はJR西日本とJR東海の境界駅であるのだ。外は小綺麗なロータリーがあった。駅舎はオレンジ色の屋根。南国とか関係ないはずなのに南国情緒を感じる。そんな小さな南国情緒はどうでもいい。駅舎を背に向けて歩き出した。ここから歩いてセブンに着いた。セブンで伊右衛門とおにぎりを少々買いまた道を戻り亀山駅に戻る。そして18きっぷを駅員に見せて電車に乗る。汽車ではないのだ。なんと先ほどまで一両の汽車だったのにもう四両ぐらいの電車であるのだ。この変わりようには驚きを隠せない。そして席は埋まっていた。皆キッパーだったのかもしれない。
そしておにぎりや伊右衛門を腹の中に入れると電車は発車した。少し駅に離れると紀勢本線の鉄路が離れると車窓からは田畑が一面にあった。そのまま突き進み駅やら太陽光発電を横目に見ていると河原田駅に到着する。天を仰ぐと伊勢鉄道の高架が堂々横たわっていた。そのまま電車は河原田駅を背に向けて走るとそのまま伊勢鉄道の高架は関西本線に合流して走ると南四日市に着く。南四日市駅は元々貨物列車の駅として栄えていたららしいが今は荒れ果てた元貨物ホームがただただだだっ広い空き地に鉄路があるのみである。南四日市駅の古びた鉄路を見ているうちに伊勢鉄道の汽車が現れた。伊勢鉄道の汽車は青色と金属の色を基調としてた爽やかな車体である。しかし爽やかな車体とは対照的に排ガスを往時の蒸気機関車の煙の如く天高く立てていた。周りの四日市の石油化学コンビナートは悲惨な公害がなかったかのように鈴鹿の山々に積もりたる雪のような白色を纏った煙が少したっていたのみであるものを伊勢鉄道の汽車はそんなことを知らぬような顔をして走り去り我が列車は更に四日市の石油化学コンビナートを車窓に映す。先ほど述べたようにどこから見ても新鮮さを伴った白い煙しか見えず淀川が如きどす黒い煙を出していることはなかった。また石油化学コンビナートは繊細で人工的で堅牢な煙突が白亜の色をしていたのは私の心を奪ったのは今でも鮮明に覚えている。また街は公害とは反対に緑に彩られていた。しかしよく見れば夾竹桃の桃色とも言い難い花が咲き乱れており結局人間が体裁を整えようとしたものじゃないかという疑惑を持った。こうして四日市市を車窓を介してみているうちに四日市駅に着いた。四日市駅はあまり知らないが近鉄の方が利用者が多いのは有名である。関西本線は阪奈輸送も名古屋近郊の輸送も近鉄に取られているのである。そして電車は四日市市を出発するとまた堂々と立ちたる煙突が見えるようになり私は車窓に目を奪われていた。
そして富田駅を通過するその刹那、茶色く古い機関車が見える。これは藤原岳の石灰石を運んでいる機関車だが鉄道好きとしてはこの機関車を一目見れただけでも満足だが道はまだ遠し。目的地は信州長野。まだまだ先である。富田を出て少し走れば小さな川を渡る。その川は朝明川。そこから四日市までは遠いがここからでも微かにコンビナートの工場群も見えた。此処まで来ても私は四日市市のコンビナート工場に思いを抱いていた。そして速度を上げつつ電車は名古屋の方向へと進んでいった。桑名駅に着く。右手には小さな電車。レール幅は僅かに762mm。されどパンタグラフは他の電車のものよりは少し大きいとうわさに聞いていた。確かにレール幅は他のものより小さかった。噂通りだったのを見て驚いた。さてここでふと中を見てみれば名古屋の近郊であることを思い出したかの如く人であふれていた。電車はあふれんばかりの人を中に詰めている電車は桑名駅をあとにして木曾三川を渡る。一つ目は揖斐川と長良川を一つの橋で渡る。これが二つの川だなんて信じることができない。辛うじて小さな陸地で分けられているがどこか一つぐらい穴があっても不思議ではない。(執筆する前にグーグルマップを見たがそのような穴はなかった)そして二つの川を一つの橋で越えると木曽川と長良川の三角州である長島に着いた。田んぼで開けており看板が見えていた。開けていたものは長島スパーランドの何かが見えるものだと思っていたが意外とそうでもなかった。長島スパーランドで名を得たる長島を越えると二つ目の川越えである木曽川である。木曽川は長野の方向に行くのだがまさか再開するとはこの時は思わなかった。
さて木曾三川をすべて越えると標高が一番低い駅である弥富駅を越えて暫くすると駅でもないところで停車してしまった。これが噂に聞きし信号場というやつなのかと。隣で汽車がすれ違いまた電車は走り出した。そして永和(もしくは八田)、蟹江、春田と三つの駅で行き違いのための停車をした。というのも桑名駅~名古屋駅間は単線なのに電車(若しくは汽車)が一時間に四、五本もあるからすれ違いが多いからだそうだが少し運転停車が多すぎるのではないかと思っていた。少しイライラしていたはずである。そうして走るうちに日本三大都市圏らしい名古屋という風格の車窓が出てきた。往時は大都会だなぁと思っていたが郊外は田舎であったことを考慮すれば名古屋が日本三大都市圏に名古屋が含まれているのは些か疑問である。
さてそんな日本三大都市圏とはあまり思えない名古屋に着いた。電車から一歩歩みを進めて降りる。そこは確かに都会の大ターミナルだった。18きっぷを見せて一度改札外に出てから長野までの乗車券と特急券を改札にねじ込む。そうして特急を待っていた。特急を待つ間私の心は長野という私の中の聖地に行けるという高揚感が私を襲っていたのである。
中二の頃から私にとって長野(特に諏訪)というのはまさしく聖地と呼ぶに足る場所でありました。長野というのは山奥の盆地を四つ持ちそれぞれで別々の文化圏を構築しながらも県としてまとまりを持っているというのは長野の他で聞いたことがありません。県民の七割が長野県歌たる「信濃の国」を歌うことができるということからも長野県民の統一精神を感じられるものです。
思えば長野との出会いは中二の頃に遡ります。長野との出会いは東方風神録。皆さんもご存じの方が多いと思いますが東方風神録は東方Projectの同人シューティングゲームで、諏訪神道の神々をモデルにしたキャラクターが多いのです。そこが原因でしょう。私が諏訪に憧れを抱いたのは。
調べてみると諏訪大社もそこでの土着信仰も、御柱も、昔から続く守矢家にも。明神入諏の伝承を調べ、洩矢神に興味を持ち、諏訪大社が一番の憧れだったのです。そして月日を追うごとに諏訪への憧れというのは増大していき何時しか諏訪どころか長野全体が憧れの存在となったのです。恐らく中二のときのままの憧れであれば日帰り旅行でも意外といけたのかもしれません。しかし今となっては二泊三日でも不足していたほどです。多分この関西本線の道も長野が目的地でなかったら唯のコンビナート工場をみてもうつろな目でそれを見つめ返すだけだったかもしれません。長野旅行へ行く高揚感があのとき私を包んでいたのでしょう。
さて次はようやっと長野に行きます。いつ投稿するか分かりませんが待っていてください。