「わかるー」という一般化の乱暴さについて
障碍・病気系統の当事者の症状説明に対して「えっ、それって普通でしょ? みんなちがうの?wwww」と草付きで軽快に反応してしまう、よりによって筆を持つ職業の方のSNSに、なかなか苦い思いが広がるなどしたことを記します。
筆者がなぜ、自身の症状を細かく説明しているのか。その意図を考えると、自分は「それって普通じゃん」などとはなかなか表明できかねるタイプである。
筆者が感じる「辛さ」を読者にわかってもらうために例えを交えながら細かく説明している……という私の読みが間違っている可能性はあるが、ここでは敢えてそういう可能性については触れないでおく。面倒だからだ。
話を戻そう。
例えばですよ。「髪の毛が毎日100本近く抜ける。私だけどうしてこんな目に」って嘆いてる人に対して、反射で「いや抜け毛の平均値ってそれくらいらしいよ」って思うには思うんですね、私としても。
ですが、頭髪が残り僅かな方の100本とフサフサな方の100本って、重みが違うじゃないですか。違うんですよ。ここは反論しないで頂きたい。重箱の隅ハンターの為に敢えて言及すると、物質的な重さの事ではない。希少価値の軽重を論じている。わかりますね。わかりましょう。
さらに、同じ頭髪状況からスタートして毎日同じ位置の同じ数同じ太さの髪が抜けて同じ数生えている人の中にも、自分が前進していると捉える人と生え際が後退していると捉える人がいるわけです。
このように、言葉にしてしまうと同じ表現に収束してしまうものの、辛さの大きさも辛さへの耐性も人それぞれである。障碍にしろ病気にしろ、言葉にしたとき同じになる症状であっても、本人が苦しく感じるか否かで生き辛さは変わるのだ。その人の苦しみはその人だけのものだ。そういう繊細な事柄を、安易な「みんなそうだよ」や「わかるー」で一般化されると、苦しんでいる本人を傷つけることが結構あるんですよね。
っていうのは、髪の毛抜けたら多少追体験していただけるんですかね。
いや無理ですよね愚かなことを言いましたねすみませんね。
なぜ無理なのか。
それは「同じ」という状況も感情も、基本的には実在しないから。もっとも、証明しえない事ではある。それに、個人的な願望としては複数の人間が同じ感情を抱く奇跡の瞬間があってほしい派ではある。
だがその奇跡の前提として、厳密に「同じ」なんてものは、きわめて単純化した概念の世界にしか存在しない。ありとあらゆる言葉は、虹よりもはるかにぼんやりとしたグラデーションを無理やり切り分けてねじ込むための枠に過ぎない。同一の言葉で表現されたとしても、意味や現象には誤差が含まれる。言葉にした瞬間、その言葉で表現しようとしている現象そのものからは離れるのだ。本来の意味は、筆者の中にしか存在しない。
故に、「わかる」という事は、厳密にはありえない。
読者が受け取る情報も、筆者が伝えたかった事柄の近似値であって、純度100%の「そのもの」ではない。どんなに文学の研究者が人生をささげて古今東西の解説本を読みつくし筆者の周辺情報をくまなく洗い出し筆者の生まれる数十年前からの社会情勢をご当地事情含めて加味した上で解釈してみせて筆者本人から太鼓判を押されても、近似値は近似値である。
……というアレコレを鑑み、かつ、失言リスクの高い口頭コミュニケーションと違って送信ボタンをポチってしまう前に考える時間がある媒体で、その上でなお「それって普通の事だから」と意見表明しているのであれば、それはもう私と宗教が違う。幸い現在の日本においては信教の自由が保障されている。分かり合えないものとは分かり合わなくて良いのだ。
そなたは森で、私はタタラ場で暮らすとしよう。会いには行くまい。ヤックルもいないし。