5話 欧陽公子
名前は何晏から取りました。
欧陽克よりも小物感増し増しなイメージです。
張翡媛は自室に用意された龍井茶を呑んで、ふうと一息ついた。卓上にはアルスが文字を書いた紙が広げられている。彼女はその文字を一瞥し、柳眉をひそませ目を瞑って指で眉間を軽くトントンと叩いた。彼女は何かを悩んでいるときに、よくこの癖をやる。悩みの種は無論、アルスの事だ。
彼が目を覚ましてから1ヶ月半。多少はコミュニケーションが取れるほど中国語も上達してきて、もうすっかりこの屋敷の使用人に馴染んでいる。
ここまでの間、彼の立ち振る舞いを見て、悪い人間ではないことは十分に分かった。だがしかし、やはり未だに素性はハッキリしない。身につけていた服、剣や鎧の装飾を見るに、ただの剣客という感じではない。それなりに高位にある者か、名のある武術家に思えた。
だからと言って彼が一体何者かは、さっぱり検討もつかない。炎を操る妖術を使い、剣術の腕も尋常の腕では無く、碧い瞳に金色の髪、彫りの深い顔立ち。分かるのは、少なくとも中国人ではないという事だ。
何度か彼に、一体何処から来たのか聞いてみたが、残念ながらそれを言い表せるほどの語彙力はまだアルスには無い。何故あの場所で、何故あれだけの深傷を負っていたのか、不思議なことばかりである。
一向にラチが開かず張翡媛は一計を案じて、アルスに文章を書かせ、それを手がかりに彼の話す言葉を知っている人物を探してみた。幸いなことに父の職業柄、異国の言葉を喋れる人間は少なからず知っており、彼らを当たればもしかしたらと思ったのだ。しかし彼女の思惑は外れ、誰に聞いても読むどころか、何処の地方の言葉かもさっぱり見当がつかないという。
他に何かいい案は無いかと頭をひねるが、もはや万策尽きていた。彼と話せる人間が見つからないとなると、アルスから聞き出すしかない。時間と根気のいる方法だが、他に道はない。
しばらくの間、張翡媛が自室で思案に暮れていると、外からバタバタと足音が聞こえてきて陳吉が入ってきた。
「お、お嬢様!」
「ん?どうしたの?」
いかにも気怠そうな感じで考え事をしながら張翡媛が答えると、陳吉は
「あの、欧陽公子がお見えに……」
と、申し訳なさそうな感じで言った。
「何ですって?」
欧陽公子と聞いた瞬間、張翡媛の眉が釣り上がりみるみる険しい表情になる。
欧陽公子というのは本名を欧陽晏といい、張翡媛の父、張国真のライバルにあたる商人の欧陽進の子息である。公子というのは貴族の子息に対する敬称で、わかりやすく言えば若様という意味だ。
「分かった、今行くわ」
少し思案してから、張翡媛は立ち上がる。わざわざ敵地に乗り込んできたのだ。おおよそロクな目的ではないだろう。本当なら追い返したかった。しかし、追い返そうとしても大人しくすごすごと引き下がる輩では無いと、張翡媛は承知している。机の上の紙を畳んで懐にしまい、広間へと向かった。
張翡媛が客間へ着くと、金糸で縁取りされた刺繍の白い袍に、如何にも高そうな赤い衫、キラキラと輝く金の帯といういかにもな出立の若者が金泥の扇子を仰ぎながら座っていた。面長で肌は白く切れ長の目をしていて、涼しげであるものの気位の高さを感じる顔立ちをしている。
この若者が欧陽公子こと欧陽晏である。後ろには従者と思われる体格の良い男が神妙な面持ちで控えていた。
「使用人の立ち振る舞いを見れば、その家の程度が分かるというもの。張府の使用人は、ふふっ、全く落ち着きがない。そうは思わないかい?」
欧陽晏の問いかけに、従者が小さく「はい」と答えた。その口振りは自分の従者と会話しているようだが、広間に入ってきた張翡媛を意識しているのがありありと分かる。これを聞いた彼女はふんっと鼻を鳴らし、欧陽晏に近づいていった。
「これはこれは、欧陽公子。ご来駕とは知らず、挨拶が遅れて申し訳ありませんわ」
そう言って張翡媛が礼をとると、欧陽晏はパチンと扇子を閉じ、ゆったりと立ち上がり礼を返して
「おや、張小姐。健勝なご様子で何より。こちらこそ、いきなり伺って申し訳ありません」
と言った。
お互いに言葉や所作こそ礼に則っているものの、張翡媛の物言いは冷ややかで動きも形だけ、敬意が込められて無いのが分かる態度だ。欧陽晏は彼女の態度に構わず、恭しく挨拶をする。
お互いに「どうぞ」と席を譲り合ってから座り、張翡媛が先に口を開いた。
「それで、欧陽公子自らおいでとは、この張府に一体なんの御用かしら?」
「御用、というほど大それたものではありませんよ。ただ、同じ土地で商う者同士、様子はどうかと伺っただけです」
「あら、お心遣い感謝いたしますわ。ですが、ご心配は要りませんこと。どこぞの若旦那様と違って、書で屋敷が傾くような真似はいたしませんので」
欧陽晏は張翡媛の言葉を「ふっ」と一笑に付した。実は欧陽晏は一度、黄庭堅の真筆と騙されて贋作を摑まされたことがある。屋敷が傾くとまではいかないものの、かなりの大損になったのは言うまでもない。張翡媛はこのことを当て擦って言ったのだ。
欧陽晏は怒りを覚えつつも、気持ちを落ち着けて再び口を開いた。
「なんでも聞くところによれば、張小姐は最近、とても珍しいものを手に入れられたとか」
「珍しいもの?あら、欧陽家の若旦那様のお眼鏡にかなうようなものなんて、この屋敷にあったかしら」
「ふふっ、しらばっくれても無駄ですよ。安先生や王さんも仰られてました。かように珍しいものはなかなか見たことが無い、とね」
張翡媛はこれを聞いて、ドキッとした。安先生とはアルスのことを診察した医者のことで、王さんというのはアルスの装備を修理した鍛冶屋ある。どうやら欧陽晏はアルスの噂を聞きつけて、張府なやってきたようだ。
「それに随分と熱心に調べられたそうで。何でもそれの為に、張小姐ご自身が東奔西走されたと聞いておりますよ」
「それは……これの事かしら」
そう言って、張翡媛はアルスが文字を書いた紙を取り出した。欧陽晏の後ろに控えていた男が出てきて、両手で紙を受け取り、欧陽晏に手渡す。
欧陽晏は紙を開いて、じっくりと文字を眺めている。少ししてから、彼はカラカラと笑い声を上げた。
「はっはっは、医者の安先生を、この紙切れのために何度も屋敷に呼びつけたと?それとも、まさか鍛冶屋に読んでくれと頼んだとはいいませんよね?」
「それは……また別の話です」
「ほう、では、安先生と王さんは何を見て珍しいとおっしゃられたのでしょう?是非、お伺いしたいものですね」
さも全てを知っているかのような口調で、欧陽晏が言い放つ。張翡媛はうーん、と何かを考える様子だ。
目的は分かったものの、欧陽晏の意図までは掴めていない。一体アルスに会って、どうしようというのか。
「……はぁ、分かりました。では、ご覧にいれましょう」
「ははは、張小姐、ご厚意に感謝いたしますよ」
少し考えてから張翡媛が諦めたようにいうと、欧陽晏から笑いがこぼれる。彼女が陳吉に何か言伝をすると「はい、はい」と返事をしてどこかへ行った。
「それでは、こちらへ」
張翡媛が立ち上がって促すと欧陽晏も立ち上がり、張翡媛の後に続いて客間を出た。
欧陽晏が案内されたのは中庭だった。中央には石畳でスペースが設けられており、傍には桃の木植えられている。周りの花壇には落ち着いた色の花が植えられ、優雅な雰囲気を醸し出している。
「お嬢様、お待たせしました」
2人がついて間も無く、陳吉がドタドタとけたたましい足音を立てながらやってきた。欧陽晏が声を聞いて振り返ると、噂に聞いていた異国の人間の姿は無く、陳吉1人しかいない。張翡媛に何やら手渡している様子だ。
「張小姐、これは一体どういう……」
「えぇ、お約束通り、ご覧にいれますわ」
張翡媛が振り返ってにっこり微笑む。欧陽晏は張翡媛の手に握られてる物を見て思わずギョッとした。
シャという音と共に張翡媛が手に持った鞘から剣が勢いよく抜き出された。張翡媛は逆手に持ったまま剣を横に薙ぎ払う。剣先が目にも止まらぬ速さで風切り音と共に欧陽晏の目の前を横切り、パラパラと斬られた前髪が宙に舞った。「ひっ」という声を上げながら欧陽晏は後退る。張翡媛はクルッと体を回転させて、剣を順手に持ち替え、喉目掛けて踏み出しながら剣を突き出した。白い閃光が欧陽晏の喉元を襲う。武術の経験がない欧陽晏はなす術もない。剣先が喉元に突き刺さると思ったその時、紙一重でピタリと剣が止まった。突然の出来事に腰が抜けて、欧陽晏はその場にドタッと尻餅をついた。
「な、な……」
恐怖の余りでガチガチと歯を鳴らし、声も出てこない。顔を真っ青にしてガクガクと震え、先ほどまでの貴公子のような堂々たる気風はすっかり消え失せている。剣を鞘に戻した張翡媛は欧陽晏の様子を見てカラカラと笑い声を上げた。
「あはははは、あらあら、欧陽公子。一体どうなされたのですか?」
「ち、張翡媛!い、一体何のつもりだ!私に剣を突きつけるとは!!」
「うふふっ、欧陽公子が"見たい"とおっしゃられたのではありませんか。せっかくご覧にいれたのに、その物言いは失礼と言うものですよ?」
そういうと欧陽晏の返事も待たずにペラペラと説明しだした。
「実は先日、縁あって異国の名剣と剣譜を手に入れたのです。なんでもこれは、その国では第一と言われるほどの使い手のものだったそうですが……あぁ、悲しきかな、剣は長い間手入れをしていなかった様ですっかり曇り、剣譜を読もうにも非才の私では異国の言葉を読む事は叶いませんでした。しかもなんとか練習しようと、絵を見て形を真似ていたらうっかり怪我をする始末。そこで、安先生に治療をお願いして、王さんに剣を頼んだというなの訳です。私が手に入れた"とても珍しいもの"とは、他ならぬこの剣と今し方披露した剣法のことなのです」
張翡媛は芝居を演ずるが如く、朗々と語った。続けて張翡媛は陳吉の持っていたもう一本の剣を受け取り、欧陽晏に剣柄を向けて
「欧陽公子、試しに受けてみますか?異国の剣法を」
と得意満面の顔で言い放つ。
「あ、い、いや、結構!結構です!」
欧陽晏は慌てて被りを振り、ヨロヨロと立ち上がった。勿論、この話はアルスの存在を隠すための真っ赤な嘘である。使った技自体も、武芸者なら誰でもできるような平凡な技だ。張翡媛は、全く武術の出来ない欧陽晏ならば、こうやって脅して仕舞えば怖気付いて帰るだろうと踏んだのである。案の定、すっかり肝を潰してしまった欧陽晏には話が嘘と分かっていても、剣や剣法は全く分からず、反論する気力もない。
「い、いや、なるほど、なるほど……」
あたりをキョロキョロと見回しながら、挙措を失っている。張翡媛は勝ち誇ったような顔である。
「それで、ご満足いただけましたか?」
「えぇ、えぇ……」
ようやく落ち着きを取り戻したのか欧陽晏は衣服を直して、扇子を広げて仰ぎ出した。張翡媛がふと顔を見ると、相変わらずキョロキョロと視線を動かしている。どうも様子がおかしい。
「まだ何か、御用でも?」
「いや、いや、もう大丈夫です。もう十分に……」
「若旦那様、そろそろお時間です」
不意に後ろの方から声が聞こえてきた。張翡媛が振り返ると、欧陽晏の従者が立っている。
「あぁ!そうか!それでは私はこれで失礼させていただきます」
そう言って礼をとると、欧陽晏は従者を連れてそそくさと帰っていった。張翡媛はふと、何か違和感を感じた。そういえば、中庭に移動してきてから欧陽晏の従者の姿を見ていない気がする。
「いや、流石!あの様子じゃあ、欧陽公子も随分と懲りたでしょう!」
「ん?えぇ、そうね。あ、陳さん、剣を元の場所に戻しておいてもらえるかしら」
「はいはい、勿論です!」
陳吉は剣を受け取るとニコニコしながら戻っていった。
(きっと、気のせいね)
張翡媛はそう思い直し、違和感もすぐに忘れた。