~怒れるセリヌンティウス編~
【第一章 ~怒れるセリヌンティウス~】
セリヌンティウスは激怒した。必ず、この愚直な正義漢と縁を切らねばならぬと決意した。セリヌンティウスは政治に関心がない。セリヌンティウスは、シラクス市の石工である。石をけがき、器用に加工して暮して来た。彼には2歳下の妻と、つい先日6歳になったばかりの娘がいる。彼は、自分らに影響がない邪悪に対しては無頓着であったため、しばしば娘の前で倫理観の欠けた発言をしては、妻にたしなめられていた。一方で、自分たちに害をもたらす正義には、人一倍に敏感であった。だから、今彼の目の前にいるメロスのような人間との接触は、全力で避けるようにしていたのだが・・・セリヌンティウスは警吏に縄打たれながら、崇高な決意を胸に満天の星の下へ出発せんとする竹馬の友、メロスを、恨めしそうに睨みつけた。
【第二章 ~若きセリヌンティウスの悩み~】
今からちょうど5時間前の、午後7時。俺は夕食を終えると、妻が食器を洗う音を聞きながら、夕方に製作依頼を受けた「何でもワンパン砲」の設計図を前に、頭を抱えていた。
「ふざけた名前にふざけた見た目。どうせちょろいだろうと思って安請け合いしちまったが、いざ作るとなると・・・」
いつになく深刻な顔をしている夫を見て興味がわいたのか、妻がニヤニヤしながら覗き込んできた。だが、設計図を見るや否や眉をひそめ、心底不愉快そうに言った。
「・・・なんて卑猥なものを作ろうとしているの?こんな趣味の悪いもの、依頼してくる方もどうかしているけれど、引き受けるアナタも最っ低。信じらんない。」
何も知らない人間に文句を言われるのに納得がいかない俺は、面倒そうに反論した。
「あのなあ・・・ユキはこいつを、ただの悪ノリの産物だと思っているかもしれないが、こいつは「何でもワンパン砲」と言って・・・」
「何なのよ?」
「知らん」
「やっぱり最低」
【第三章 ~テレビがなければ、本でも読んだらいいじゃない~】
ほとんど毎晩、娘のニケがお風呂に入ると、こういったやり取りが始まる。しかしお互い、相手を言い負かして優越感に浸ろうだとか、従わせようだとか、そういったことを考えているわけではない。ただ暇だから、やっているだけである。1年ほど前までは、夜でも劇場や飲食店、遊園地などの発する光によって街は明るく、人の往来も多くあってそれなりに賑やかだったので、家族三人で遊びに出かけることも多くあったのだが、暴君ディオニスの大粛清が始まってからというもの、エンターテインメント施設は次々に夜の営業をやめ、それに伴って夜に出歩く人間もだんだんと減っていってしまったため、最近は我々も、日が沈んでしまってから就寝までの時間は、家の中にいて暇を持て余すようになった。
ニケがお風呂に入っている間(彼女は湯船で、石のお人形さんたちで遊ぶため、入浴時間がべらぼうに長い。それらのおもちゃは、彼女の6歳の誕生日に俺が手作りしてプレゼントしたものなので、夢中になってくれるのはとても嬉しいのだが、入浴時間があんまり長いと、のぼせやしないかと心配である)と、彼女が寝付いてしまった後の時間は、特に退屈である。
「・・・ここまで暇だと、何かが起きてほしい、って気分になるね。事件でもいいから」
もちろん、本気でそんなことを望んでいるわけではない。望んでいることは、ユキがこの発言に食いついてくれて、そこから会話が盛り上がることだ。しかし、周囲をよく確認せずにそんな発言をしたのは、迂闊であった。
【第四章 ~発展途上の勝利の女神~】
妻の3メートルほど後方に、パジャマ姿のニケが、きょとんとして立っていた。いつからそこにいたのかはわからないが、今はそんなことは重要ではない。聞かれた!今の爆弾発言を!いつもなら、あと10分はお風呂から出てこないのに・・・俺は大いに動揺した。それは、幼い娘への悪影響を心配したからではない。ユキにマジ切れされる・・・怖い‼
彼女は挙動不審な俺を見て、最初は不思議そうにしていたが、急に何かに気づいたようにカッと目を見開くと、素早く振り向いた。状況を理解した彼女は、こちらに向き直った。彼女の顔がみるみる鬼の形相へと変貌してゆく。俺は咄嗟に耳を塞いだ。
しかし、先に口を開いたのはニケであった。
「お風呂の方で、お兄さんの怖い声がするよ」
そう言って彼女は、お風呂場を指さした。ユキは怒り心頭となっていたが、6歳になったばかりの愛娘の発言を無視して俺を怒鳴りつけることはできないようで、相変わらず恐ろしい顔のまま、俺を見たり、ニケを見たりして、どうしてよいかわからない様子であった。
彼女の滑稽な姿を見せられて、うっかり笑いそうになるのを我慢しながら、これはチャンス!と、俺は思った。
「お兄さんの怖い声だって?よし、パパが様子を見に行ってあげよう!」
俺は、大股でユキの隣を通り過ぎると、でかした!という気持ちを込めて、娘の頭を優しく撫でた。そしてそのままお風呂場へと向かった。この、怖いお兄さん問題を解決すれば、さっきの失言(ニケがあの場にいなければそうはならなかった)は不問になるかもしれない。
【第五章 ~覗きじゃないよ。逆覗き~】
お風呂場に到着すると、確かにニケの言った通り、窓の向こうから若い男の怒号のようなものが聞こえた。すりガラスの窓を細く開けると、若い男が裏庭の向こうの道の真ん中で、老爺のからだを激しくゆすぶりながら、何かを問いただしているのが見えた。老爺はあたりをはばかってぼそぼそと答えていたため、何を言っているのか俺には聞こえなかったが、青年の発言は明瞭に聞こえたため、そこから2人のやり取りを大まかに推測することができた。
「なぜ殺すのだ」「たくさんの人を殺したのか」「おどろいた。国王は乱心か」
ディオニス王の暴挙について何も知らないということは、青年はよそ者である、ということだ。彼が、老爺をゆすぶることになった経緯を予想してみると、彼が数年前にシラクスに来たときは夜でも街には活気があったのに、久しぶりに来てみたら異常なほどひっそりとしていたため、何か重大なことがあったに違いないと考えて、通りすがりの人に質問・・・もとい尋問してみた、大方そんなところだろうか。それにしても・・・
「あの男、どこかで会ったことがあるな・・・」
話し方、声、そして顔。全てに覚えがある。自分はあまり交友関係が広くないので、少し頭の中を探してみれば、思い出せるはずなのだが・・・そんなことを考えていると、青年は今までより一層大きな、強い怒りの籠った声で、驚くべきことを口にした。
「呆れた王だ。生かして置けぬ」
【第六章 ~その男、盗人よりも面倒につき~】
その発言は空気の振動となって伝わり、俺の鼓膜を震わせると、神経を通じて頭の奥底の、鍵のかかった引き出しに到達した。そして光り輝き、その姿を鍵へと変えた。鍵はひとりでに浮遊すると、その引き出しの鍵穴に突っ込んだ。鍵穴はひどくさび付いていたため、なかなか回転しなかったが、鍵はその身が捩れそうになりながらも、何度も何度も開錠に挑んだ。13回目にして、それはようやく達成され、引き出しはやはりひとりでに、ギギギと不快な音を立てながら、そのぎちぎちに詰まった中身を露にした。それは、自分が恐れ、封じ込めていた男の情報であった。正義感にあふれ、単純で、無鉄砲な男と自分との、子ども時代の思い出が、堰を切ったようにあふれ出してきた。
「メロス・・・」
奴に気づかれないようにそう漏らすと、静かに窓を閉めた。怖いお兄さんの正体は判明したのだから、もう彼らを観察する必要はない。リビングに戻ろうとして振り返ると、眼前に2つの顔が現れた。驚きのあまり、情けない声を上げそうになるが、何としても、メロスに自分の存在を気づかれてはならない、という考えが頭をよぎったため、なんとかこらえた。ユキもニケも、心配そうな顔をして、こちらを見つめている。俺は彼女らと自分自身を安心させるために、こう囁いた。
「彼はメロス。俺の子ども時代の友人さ。ちょっとばかし、変わった奴なんだ。さっきも通行人を質問攻めにして困らせていたみたいだけど、なに、心配はない。俺たちが彼と関わろうとしなけりゃ、迷惑をかけられることはない。彼が故郷の村に帰るまで、俺は外を出歩かないようにするけれど、2人は彼に顔を知られていないから、安心して普段通りに生活してくれ」
2人はうなずきながら真剣に話を聞いていたが、最後にはホッとしたように、ニコニコして顔を見合わせた。
「ほんと、パパの友達って変な人ばかりだよね」
「うん。パパ、へん」
「そうだな、変かもしれないな」
3人で笑いあったが、俺は自分の顔が引きつっているのがわかった。俺の心には正体不明の、一抹の不安がこびりついていた。
【第七章 ~就寝前の会話って、なんか良いよね~】
いつもは長く感じる就寝までの時間だが、正体不明の不安・・・おそらくメロスが関係しているだろう・・・の心当たりを探していたら、あっという間に過ぎてしまった。床に就く直前に、俺の苦悩を知る由もないユキが言った。
「早く完成させちゃってよ?」
何のことだかさっぱりだった。
「何を?」
彼女は、はあ?何言ってんの?と、呆れたような顔をして、
「「何でもワンパン砲」に決まってるじゃない。あんなものの設計図がいつまでも机に置きっぱなしだったら、教育に悪いから」
と言ったが、迷惑そうというよりは、むしろ面白がっているようだった。
「ああ」
俺は、「ああ、あれね」とも、「ああ、やるよ」ともとれるような曖昧なイントネーションで、返事をした。メロスに関することで頭がいっぱいで(この言い方だと、まるで彼のことが好きなようだが、とんでもない)、そんなものの製作依頼を受けたことなどもうすっかり忘れていた。ひょっとしたら、その仕事についての悩みが、不安の正体だったのかもしれない。
「そうだ、きっとそうだ」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。声に出された言葉の力は思ったよりも強大で、気持ちがフッと軽くなった。
「・・・なあ、ユキ」
「ん?」
「・・・・・・いつもありがとう」
「・・・何よ、急に」
照れ隠しのためか、彼女はその後も早口で何やら言っていたが、それと同時に今日1日の精神の疲れ・・・ここのところ変化の少ない毎日を過ごしていたので、久しぶりに感じる・・・がどっと襲い掛かってきたため、俺は導かれるように片足を夢の世界に突っ込み、彼女の声は俺には届かなくなった。結局、「何でもワンパン砲」とは、何なのだろうか?そんなことをぼんやりと思いながら、俺は穏やかな眠りについた。