堕落について
言うまでもありませんが、この小説は正義の魔法使いが弱者を助けるとか、人情で人助けしたりとかする物語ではありません。
「……そろそろ時間かな」
春美はSNSでクラスメイトの三人と話しながら時間を潰していた。
時刻は深夜二時。春美は会話を打ち切ると、自室のベッドから降りた。
そしてパジャマを脱いで、下着姿になった。
彼女はドレッサーに化粧道具に混じって置いてある代物を手に取った。
それは、薬局などで貰える水色の蓋の軟膏容器だった。
しかしその中身は市販の塗り薬ではなかった。
春美がその蓋を開けると、中身はでろでろとした名状しがたい粘液が半分ほど入っていた。
その中身の臭いに顔を顰めながらも、彼女はそれを指で掬い身体に塗り始めた。
程なくして、春美の意識が“飛んだ”。
彼女は思った。何度やっても、この感覚は慣れない、と。
地に足が付く感触と共に、春美の意識はストンと体に落ちてくるような感覚を味わった。
「こんばんわ、春美」
「こんばんわ、師匠」
目の前には、自らが仰ぐ魔導の師がいた。
電車通学をしている春美は、自宅が高校の近くにある魔女の部屋まで直線距離にて実に何十キロも一瞬で移動していた。
様々な説と共に魔女の伝承を彩る秘薬、通称“魔女の軟膏”の効果だった。
「師匠、今日は何を教えてくれるんですか?」
勝手知ったる師匠の部屋にあるクローゼットから、黒いローブを取り出し春美は尋ねた。
残念ながらこの超常の御業は、着ている物までは一緒に飛んではくれないのだ。
「そうね、そろそろあなたも、毒の調合を知っても良いかもしれないわね」
魔女のその言葉を聞いて、春美はついに来たかと心臓が早打った。
自分が教えを乞う魔女術──ウィッチクラフトの特に彼女の流派の真骨頂は、毒薬の調合にあった。
それを極めた彼女は人間の精神を自在に支配し、命までも手のひらと指先一つで弄ぶ。
この魔女に言わせれば、他人を呪術で呪い殺すなどリスキーで婉曲的すぎる、との事だった。
その秘技を、春美はかつて目の当たりにした。
§§§
ハッキリ言って、春美は生来の根暗だった。
その内心は鬱屈していて、人付き合いを面倒と感じる性質だった。
それと同時に、己の性根を嫌悪し、改善しようと思う程度には社会に溶け込む努力はしようとしていた。
人間は社会的な動物である。
周囲とのコミュニティを築き、維持しなければ生きていけない生物だった。
中学時代、彼女はそれを嫌と言うほど理解した。
孤高を気取る女性が持てはやされるのはラノベの中のような幻想だった。
女子グループから爪弾きにされれば、孤高なんて単語は“いけ好かない”に上塗りされる。
だから春美の中学時代はそうして爪弾きにされた女子を見ながら、自分は楽しくも無い女子グループのひとりとして笑みを張り付けて過ごしていた。
ああはなりたくない、ただその一心で。
しかし因果は巡るのか、ただ単純に順番が回って来ただけなのか、高校に上がったばかり春美は特に理由も無くクラスのカーストの最下位に叩き落された。
今にして思えば、くだらないことだった。
自分を偽るのも、社会に爪弾きにされることも。
ところで、世間一般に中二病だと呼ばれる物を患ってしまう人たちは、なぜそうなってしまうのだろうか?
春美は思う、それは己が凡庸であることに耐えられないからだ、と。
空想への憧れや、単純に好きだからという理由もあるかもしれない。
だが、彼女の得た答えた己の無力さへの現実逃避だった。
ほんの一端に過ぎないが、超常の知恵に触れてそう思った。
「あははは、だっさい!!」
ああ、そうだった、これは回想だった。
その日は彼女は女子トイレに押し込まれ、蹴飛ばされて尻餅をついていた。
そのまま屈辱的な姿勢を強いられたりしながら、その姿をスマホで写真に撮られていたりしていた。
その日のうちにその画像はSNSにアップされ、笑いものにされるのだと分かっていながらどうしようもできなかった。
女子トイレで行われていたことなのだから、当然何も知らない利用者も居た。
だが彼女らは、中で何が行われているのかを一目見ると、何も見なかったふりをして踵を返して去っていく。
少なくとも、彼女らは賢明だった。この様子を誰かに知られたところで、やってくるのは己が次の順番と言うだけ。
だが、この日は不幸なことに、賢明ではない女子が現れた。
……そう、春美をイジメている者達にとって余りにも絶望的な不幸が現れてしまったのである。
「あの、邪魔なのだけれど」
その女子は迷惑そうに、春美を取り囲んでいる女子生徒たちにそう言った。
「何よ、私たち取り込み中なのよ」
「あっちのトイレを使えばいいでしょ」
この段階で、彼女らは煩わしそうにそう言っただけだった。
「はぁ、見苦しいわよ。
猫だってネズミを弄ぶ時は己自身でやるわ。
数を揃えないと何もできないのはわかるけど、それが己の格の低さを証明していることになぜ気付かないの?」
それはあくまで彼女らの所業を否定しているのでもなければ、煽っているわけでもなかった。
余りにも純粋に、彼女らを見下していたのだ。なぜ猿以下の下等生物が人間の姿をしているのか、とでも思っているような目だった。
それは、彼女らの癪に障るのは当然のことだった。
きーんこーんかーんこーん。
「ああ、予鈴が鳴っちゃったわ。仕方ないから今は我慢するわ」
そして彼女らが何かを言う前に、その子は去って行った。
春美は彼女らが激怒する声が耳に入らないほど、その子の姿を目に焼き付けていた。
「ちょっとあんた、来なさいよ」
昼休み、春美をいじめていたグループは先ほど女子トイレに入って来た生徒が同級生であるのはわかっていた為、彼女を探し出して教室に入って連れ出しに掛かった。
春美はその様子を、誘蛾灯に誘われる虫のように遠くから見ていた。
「あんた、なに馬鹿にしてくれてるわけ?」
「ちょっと調子乗ってんじゃないの?」
「土下座しなさいよ、土下座!!」
彼女は人が全く寄り付かない理科準備室に押し込まれ、いじめグループに囲まれていた。
「私、こういうのはよくないと思うのだけれど」
「ふざけんじゃねぇ、謝れよ!! 今すぐだ!!」
「女の子の言葉使いじゃないわね」
そこで、初めていじめグループ側から手が出た。
怒り狂ったグループのリーダーが、平手を打ったのだ。
ぶんッ、となぜかそれは空振りに終わった。
「え?」
その様子を見ていた取り巻き達は目を見開いた。
なぜなら、リーダーの平手が彼女の顔を素通りしたのだから。
「ねぇ」
その声は、彼女らの後ろから聞こえた。
彼女らが振り返ったその視線の先には、今まさに取り囲んでいた相手が気だるげに人体模型の心臓を取って手のひらで弄んでいた。
「多少は手加減しようかと思ったけど、気が変わったわ」
ぎゅう、と少女の手が人体模型の心臓を握りしめた。
その瞬間、いじめグループの面々が一斉に顔色を変えた。
彼女らはまるで、自身の心臓を握りしめられたような圧迫感に苦しめられていた。
そして金縛りにあったように、全身が棒のように動かなくなっていた。
「な、おまえ、なにを」
「あなた、中学の頃も同じようなことをやってるわね。
小学生の頃に味を占めたのかしら? ストレス発散? 弱者をいたぶるのは楽しい?」
この時、ようやく彼女らは理解した。
目の前に居るのは、少女の姿をした何かだと。
自分たちは致命的な失敗を犯したのだと。
これは狩りではなく、蹂躙だったのだと!!
「 お や す み 」
春美は、彼女たちが人として終わる瞬間を理科準備室の扉の隙間からジッと見ていた。
それ以来、いじめグループは二度と登校することは無かった。
──この学校には魔女が入学した。そんな噂が学年中に、学校に知れ渡るのはすぐのことだった。
彼女たちが直前に誰を連れ出したのか、多くの人たちが見ていたのだから。
「あの……ありがとうございます」
春美は、学校の昼休みの時間に屋上で鴉と戯れている彼女にお礼を言いに来た。
「私は別にお礼を言われることをしたつもりはないわ。
集団で誰かを辱める連中が心底嫌いなだけ」
普通なら触ることが出来ても触ろうとは思わない大きな鴉の毛並みを撫でながら、魔女は言った。
「むしろ、私は良い薬を処方した気でいるわ。
だってもう、二度とストレスに悩まされることはないんだもの」
「…………」
噂では、あの連中の末路がどうなったかという話が幾つも流れていた。
どれも筆舌しがたい、聞くにも耐えない有様だった。
春美は、それを知って、身体が、魂が震えるような感覚だった。
少なくとも、その感覚は。
「あの!! お願いします、私を弟子にしてください!!」
自分も、彼女に毒されたのだと言うことだった。
§§§
春美の師事する彼女は、生まれ変わる前からどちらかと言うと異端だったらしい。
彼女の前世が生きていた時代にも、魔女の定義は難しかった。
地域や土着の信仰によって、さまざまな形があったからだ。
その中でも彼女は、キリスト教が異端視する今でも伝わる典型的な魔女の概念の塊のような存在だったらしい。
そんな生きざまを貫いたのは、当時の風潮が気に入らなかったからだと言う。
似たような考えを持つ同業者とつるんで、ヨーロッパ各地を渡り歩いたそうだ。
春美はきっと、そんな社会に迎合しない生き方に心を奪われたのかもしれなかった。
それは、この問いの答えを聞いた後も考えは変わらなかった。
「師匠はどうして、素直に学校に通っているんですか?
師匠の魔術の腕なら、今の時代何をしても平気でしょう?」
「あなたも、あと十年も生きればわかるわ。
人間ってただ生きるだけで存外に恨みを買うのよ。
それに、証拠も無いのに殺しに来る連中に何十年も追われ続ければ、いい加減嫌気が差すものだわ」
要するに、師匠は丸くなったんだな、と春美は解釈した。
「私はあなたに伝授した技術を何に使おうとも口を挟まないわ。
その代り、責任も持つつもりもない。好きに生きて、勝手に死になさい」
「それは分かってます」
別に春美も、誰かに師匠から得た技術を見せびらかすつもりはなかった。
ただ、もう二度と面白くも無いのに笑顔を張り付けて無理矢理居場所を作ったり、いつ自分に順番が回ってくるか怯えるような人生は嫌なだけだった。
そして出来れば、師のそばで助手にでもしてもらえればそれでいいとも思っていた。
春美は、生粋の根暗だったのだから。高望みなどしなかった。
「これが何か、教えたわよね?」
春美が回想に耽っていると、彼女の師はとある植物を目の前に差し出した。
日本でも毒草として有名な代物だった。
「トリカブト……」
「そう、我が神の象徴の一つね。
今日はこれの見分け方と、薬用の為の処理の方法、そして魔術の触媒としての使用方法を教えるわ」
「触媒としてとは、つまり」
「有り体に言えば人の殺し方よ。もっと言えば、服毒させずに毒殺する方法ね」
そんな矛盾に満ちたことが可能なのか、春美は問わなかった。
それが、現代には伝わっていない失われた魔女の秘術なのだと悟ったからだ。
「使うな、とは言わないけど最終手段にしなさい。
それに現代ではトリカブトを所持するのはリスキーだわ。
使いどころは滅多にないと思うけど、どうして私がこれを魔術として最初に伝授するか分かるわよね?」
「はい、使い方次第では己の命をも簡単に脅かすからです」
「そうよ、私たちの秘術は生かすも殺すも自在だわ。
だからこそ、半端は許されない。ほんのわずかな調合ミスが、毒の存在を露呈させる」
春美は一字一句聞き逃すまいと、神経を集中して脳内に知識を叩き込む。
それが現代の倫理や道徳からかけ離れた、異端の外法であろうとも。
全ては、その技術を継承し、師から認められる為に。
「出来て、しまった……」
魔女の秘術を本格的に学び始めて、数日。
春美はトリカブトの劇毒を抽出し対象に発生させると言う人智を超えた現象を自ら起こしてしまった。
目の前には、その実践のために用意された鶏が息絶えていた。
科学的な検査を行えば、その鶏の死体からトリカブトの毒が検出されることだろう。
今さらになって、春美は恐怖した。
これが、中世ヨーロッパの人々が忌避し、恐れた魔女のおぞましい所業なのだと理解したからだ。
小市民の彼女は、こんな技術を持った人間が近くに居るなどと考えたら、そして自分が疑われると考えると恐ろしくて眠れない。
「その恐怖が、正しい使いどころを見極めさせるわ。
よくその恐怖を噛み締め、慎重になることを覚えなさい。
恐怖を知り、恐怖を支配するのよ。それが魔導に身を堕とすと言うことよ」
「は、はい……」
怯える春美を、彼女の師は抱きしめた。
安心させるように、優しい毒のように。
そんな師弟の秘密の修業が続いたある日。
魔女の軟膏で移動する感覚があんまり好きではない春美は、己の師の家からそのまま帰ることにした。
勿論徒歩では時間が掛かりすぎる為、空飛ぶ箒を作成し、空を飛行し帰ることにした。
「ううう、やっぱりもっと練習しておけばよかった──!!」
竹箒に乗って飛ぶというより、竹箒に抱き着いて飛んでいる春美は、ある意味では魔女の軟膏以上の気持ち悪さを味わいながら夜空を移動していた。
箒で空を飛ぶのは、彼女が学んでいる流派とはまた別で、彼女の師も空を飛ぶのは物理的に目立つので滅多に使用したことが無いと言うことで教える側の技術的な完成度も低かった。
それでも、箒で空を飛ぶのはロマンだった。
春美は己の師匠に頼み込んで、作り方を会得した。
そしてこの有様だった。
「うえー、吐きそう。一回休もう」
空中でへろへろになった春美は、人目に付かないところに降り立った。
考えてみれば竹箒はかさ張るし、目立つので確かに夜ぐらいしか使えない。習得してみて、やっぱり使い勝手が悪かった。これで宅急便とか無理である。
廃れるには廃れる理由があるんだな、と思いながら橋の上から川にげろげろする春美だった。
しばらくして落ち着いた後、もう歩いて帰ろう、そう思った時、彼女は気付いた。
近くの手すりの上に、誰かが立っていた。
どう見ても、川に飛び降り自殺しようとしていた。
「ちょ、ストップストップ、危ないですよ!!」
「えッ、きゃあ!?」
「ああああああ!!!」
春美は根が根暗でも、目の前で自殺しようとしている人を見捨てるほど薄情ではなかった。
しかし彼女は間が悪く、間抜けだった。
手すりの上に立っている人間に後ろから急に声を掛けたらどうなるか、誰でもわかると言うのに。
彼女が多少冷静だったら、飛び降りに踏ん切りがつかない様子が見て取れたことだろう。
「うぎ、ぐぐぐ」
それでも何とか、腕をつかむことには成功していた。
だが、女子高生の、特に鍛えているわけでも無い女子の腕力など高が知れていた。
「ほ、箒ぃ!!」
ここで運よく、彼女は手に持っていた箒を掲げた。
魔法の箒の何か魔法的でふわっとしたメルヘンな浮力で重力を無視し、人間二人の体は空中へと浮かび上がった。
「はぁ、はぁ」
「は、は、急に話しかけないでください!!」
「ご、ごめんなさいぃ」
超常現象が目の前で起こったと言うのに、自殺志願者は恐怖で混乱して命の恩人にそんなことを言う有様である。
そして素直に謝ってしまうあたり、春美もメンタルクソ雑魚だった。
そんな感じでお互いに極限状態を過ぎた後。
「た、助けてくださってありがとうございます」
「ど、どういたしまして……」
これに懲りたら飛び降りなんてやめてほしいところだったが、ここで両者は初めてお互いの顔を見合わせた。
「あれ、もしかして」
「あなたは……」
その自殺志願者は、春美の顔見知りだった。
中学時代、まだ彼女が顔に笑みを張り付けていた頃、身を置いていた女子グループの標的だった女の子だった。
「そう、まだ続いているんだ」
「……うん」
自殺を図った理由は単純だった。
たまたま中学時代の人間関係を引きずったまま、春美とは別の高校に進学してしまった彼女は、いまだ陰湿ないじめに耐えているらしかった。
それも最近になって人数も増え、日に日にエスカレートしていると言う。
それこそ、自殺を図ろうとするくらいには。
「やっぱり、自殺は考え直そうよ」
「……あなたに何が分かるの? ずっと見ているだけだったあなたに」
少女はぼそりと呟いた言葉に、春美の心に棘が刺さる。
「どうせ、これからずっと酷い目に遭いつづけるんだ。
ねぇ、どうして止めたの? せっかく決心が付くところだったのに」
それは、八つ当たりに近い言い草だった。
彼女が本当に自殺に踏み切れる確率はかなり低かった。彼女に、そんな度胸があるわけがなかった。
ここで、ふと、春美は当時のいけ好かない連中の顔を思い出した。
不愉快な三年間に付き合わせてくれた、くだらない連中のことを。
「……ねぇ」
「ひッ」
深夜の暗闇に浮かぶ春美の表情に、少女は小さく息を漏らした。
「──私と一緒に、あいつらに復讐しない?」
そこには、堕落した魔女の笑みが浮かんでいた。
その笑顔に晒された少女は、こくり、と恐怖のままに頷くことしかできなかった。
「やれやれ、これは要矯正ね」
ちゃんと帰れたか心配になった黒衣の魔女は、二人の一部始終を水晶玉を通して観察していた。
力を持った人間は、得てしてそれを振るいたがる。
そして、暴力の美酒の味を覚えてしまうのだ。血の味を覚えた獣のように。
とりあえず、彼女は弟子の手際を確認してから、躾に使う薬品を吟味することに決めるのだった。