5話 風呂の中の目
人の噂は早い。
突如として現れた異人を拝もうとする者、鍋や包丁など修繕してもらいたい品を持った者――朝早くにも拘わらず、長屋の前にはたくさんの人が押し寄せる。お鈴はみなに明るく挨拶をしながら、依頼の品を集めた。
朝の食事も白飯と漬け物だった。
これは江戸の町・長屋棲まいの常であるらしく、民が痩せ細っているのも当然だ、とヴィフトールは思いながら槌を揮った。
色濃い空に白い綿雲が悠々と。
修繕にも終わりが見え始めた頃、どこからか、ナヨっとした高い声が飛んできた。
「ちょっと、あなたっ」
黒い羽織に幅広の下衣。
一目で相応の地位があると分かる者が、群衆に道を譲られながら迫ってきたのである。
「あ、加藤の旦那。おはようごぜえます」
傍にいたお鈴は立ち上がり、恭しく頭を下げる。
「はい。おはようございます」
加藤と呼ばれた者も、手を前に、丁寧に挨拶を返す。
そして姿勢を正し、チラリ、と野次馬たちに目を配れば、彼らは慌てて家の中に入った。
周囲に人がいなくなったのを確かめると、加藤は背筋を伸ばし、まるで女のような仕草で手を仰ぐ。
「聞きましたよ。お鈴さん、いったいどういうことなのです」
「どういうって……なにがで?」
「もう! そこの異人の方ですよ。昨日、富田屋さんのところで悶着を起こしたそうではありませんか」
ナヨっとしているのは口調だけではない。
顔立ちから身体つき、一つ一つの仕草までも女――いや、オカマだった。
加藤が睨むような目を向けるのに対し、ヴィフトール下唇を突き出し、おどけてみせる。
「あ、あれは仁王が悪いんじゃなく、福蔵一家の連中が……!」
「分かっております。ご店主より話を伺ってきたのですから」
加藤は言うと、懐から紐を通した銭束を差し出した。
お鈴は慌てて押し戻そうとするも、それよりも早く、後ろから伸びた太い腕が、むんずと束を掴んだ。
「あっ、それは――!」
「俺のものだ」
ドワーフの王は、言いながら腰に下げた革袋に放り込む。
実際その通りだ。ぐっと言葉を飲み込む女の前で、加藤は満足気に頷く。
「見たところ和蘭ですか――聞けば、かなりの大立ち回りをしたとか。『仁王様降臨』だとか馬鹿馬鹿しい読み売りが出回ってもいるので、連中から報復なんか受けないようにしてくださいね。今朝みたいに、死体の検分をするのはヤですから」
「今朝って、また仏さんが出たのですかい」
日に焼けた細腕を露わに、威勢よく腕まくりするお鈴。
相対する加藤は、化粧をしているのかと思うほど色白く。そうなんですよお、と頬に手をやり困った仕草をする。
(性別が逆で産まれてきたのか)
誰が死んだなど、自身には関係のない話である。ヴィフトールは作業を再開した。
「――今朝、深川の水路にて土左衛門があがりましてね。恰好からしてどこかの奉公人のようなのですが、身元が分からぬまま。紫色に染まった唇なんて思い出すだけでも、ああ、おぞましい……」
「他殺か自殺か、土左衛門は分かりにくいですしねえ」
両肩をさする加藤に、ヴィフトールは顔を向けた。
「肺は見たのか?」
「肺、ですか……?」
「薄まった空気の中で死ぬと、唇が紫染まるそうだ。その死体に締め跡がないなら、生き埋めにされたのではないか?」
加藤は驚き顔を浮かべ、
「急いで調べさせませましょっ」
と、内股気味に駆け戻っていった。
よく見れば足下が下駄を履いており、カンカン、と小気味よく音が遠のく。
「はえー……お前、医の心得まであるのか?」
「いや、エルフのアホ王がしたり顔で話していた」
エルフ、と首を傾げるお鈴に、ヴィフトールは自身の耳を引っ張る。
「こんな尖り耳をした、アホのくせに賢ぶる連中だ」
「うへ。そんな奴、一番嫌いだ」
舌をべっと出すお鈴。
ドワーフの王は朗らかに笑うと、手の甲で汗を拭った。
「しかしこの蒸し暑さはなんだ」
日が昇るにつれ気温はどんどん高くなっていた。
青く澄み渡った空を見上げると、お鈴もつられるように顔を向ける。
「そうか? 今日は過ごしやすい方だと思うんだけど、火の傍にいるからじゃねえのか?」
「この程度で熱いと感じるドワーフなぞおらん。だがこの気候は、蒸し器の中にあるような気分だ」
「んー……アタシにはよく分かんねえなあ。江戸から出たことねえし」
じっとりと湿った空気である。
湿地を埋め立てたのではないのか、とヴィフトールは考えていた。
「そのモサモサ髭を剃れば、ちょっとは涼しくなるんじゃねえのか? 寝ている時、すげームシっとしてたし」
馬鹿言え、とヴィフトールは口をへの字に曲げる。
「ドワーフにとって髭は命、髭あってこそドワーフだ。剃るなぞもってのほかよ」
「なら、お前さんは〈髭の王様〉ってことだな」
「うむ。そうなる」
黒々とした髭を撫でる。
それを見たお鈴が、興味に負けたように手を伸ばしてきた。
「――はえー、意外と柔らかいんだな」
他の男が触れば喧嘩になるが、女子供は別である。
「手入れは怠らぬ。湯洗い一時間、櫛入れ一時間が日課だ」
「加藤様もやってるらしいけど、櫛なんか女のするモンだろ」
「毛は女だけに生えるものではない。それよりもお前は女にのに櫛を使わぬのか」
「あ、アタシはいーんだよ。面倒だし」
こっちのが動きやすいし、とボサボサ髪を掻く。
「ここに風呂はないのか」
「お、あるぞ! いっぱいある!」
何かに触れたのか、お鈴は目を輝かせ始めた。
「そう言えば、昨日は色々あって入ってねえしな。これから行ってみるか!」
父・権六がすっ転んだのか、後ろの自宅から騒々しい音が聞こえていた。
◇
風呂と聞いて、どうしてお鈴が興奮したのか。
それはやはり気候・風土が関係しているらしい。湿潤な気候は肌をベタつかせ、風に舞った砂が張り付くからだ。
朝と夜の二回は当たり前。一日に五回は入るのが江戸っ子だ、とお鈴は説明する。
火事を避けるべく家に風呂を置かない。
そのため大通りに出れば、各所で風呂屋が営業しているのだと言う。
「おっちゃん、入らせてもらうよー」
お鈴の行きつけの店なのか、ひょいと暖簾をくぐる。
店の者も威勢よく返事をしたものの、それを真似て入ってくる大男に、ひゃっと悲鳴をあげた。
「ああ、そうだ。何か読み売りで有名になってるらしい仁王だ。――えぇっと、八文だったな」
後はヴィフトールに向けた言葉であった。
加藤から受け取った銭束・その一枚が〈文〉である。紐から八枚を抜き取り、小高い台に座る店の者に渡した。
それが終わるとお鈴が中へ・板場へと手招きをする。
応じて視線を向けると同時に、ヴィフトールはぎょっと目を瞠った。
「なんだここは」
蒸し風呂のような、ムッとした暖かい蒸気。
一段高い場所に荷を納める棚があるのだが、そこに男も女も、一糸乱れぬ姿でウロついているではないか。
お鈴もまた同じく、恥ずかしげもなく着物を脱ぎ、真っ裸となるではないか。
(これがこの土地の風俗なのか?)
父親がずっこけた理由を理解した。
年頃の娘が男の前でも当たり前のように脱ぐ。
他の娘などは、共にやってきた老婆などに身体を隠されていたりするのに、お鈴はまるで頓着しないらしい。
いや、それどころか――
「何じゃそりゃあ!?」
ヴィフトールも服を脱げば、お鈴が頓狂な声をあげ、
「お前のマラ、すっげえなあっ!」
大根みてえだ、と無邪気に目を輝かせる始末なのである。
お鈴の身体は年相応の膨らみと、滑らかな曲線を備えている。中身だけが、未だに子供のようだ。
脱衣場から奥に進むと洗い場、その先には狭い進入口があった。灯りは一切なく、暗い。
(なるほど。暗がりならば気にならぬということか)
加えて、ぶ厚い蒸気が視界を阻むので、隣人を確かめるのもままならない。
だが、それは人間に限った話。ドワーフであるヴィフトールの目には、しっかりと女の裸を映していた。
「むふふ。これはいい肉付きだ」
むっちりとした尻を見つけるや、大きな手がそれを鷲掴みにしていた。
「ぎゃあっ!?」
女が悲鳴をあげ、ギッと睨みつける。
だが、ヴィフトールの姿を認めるなり視線が下に。ぶ厚く毛深い胸板から股間を捉えると、唾とともに言葉を飲み込んだ。
どこかの女房らしい。
それとは知らず、お鈴が慌てて駆けつけてきた。
「な、何やってんだ!」
「いい尻があったからだ。――ダメなのか?」
「ダメに決まってんだろ!?」
お鈴は女に向き直り、すまねえ、と謝る。
どうやら顔見知りだったらしく、異人であるヴィフトールを一瞥すると、
「気をつけておくれよ」
そう言って離れるのだが、口ぶりには棘がなく、また男の股間に気を残したままである。
貞操観念があるのかないのか。この国の文化はやはり変だと思うのだが、他の女たちもチラリ、チラリと目を向けるところからして、悪くはなさそうである。
傍で警戒するお鈴をよそに、誰にしようかと品定めをしていると――
「む」
どこからか視線が。
男への興味ではなない。獲物を狙う獣の視線を感じ、闇を睨んだ。
「どした、なにかあったのか?」
「……いや、なんでもない」
確かめるにも厚い蒸気の中なので、鮮明には分からない。
動く気配がして出口を向けば、出ようとする女の姿が――何ともそそる尻に目に留まった。
異質のドワーフと言えど、好色なきらいはそのまま。
丸く大きく、むっちりとした白尻を見るなり、向けられた視線への興味は失していた。
(やはり面白い国だ)
誘うようにくねる腰。そして間違いなく剛毛だ。
ヴィフトールはムフフと下卑た笑みを浮かべ、無茶苦茶にしてやろう、と湿った顎髭を撫で続けた。