3話 飼ってもいいか?
野次馬の何者かが通報したのか。
黒色の装束に鉢巻きをした者が数名駆けつけ、現場は再び騒然となった。
衛兵か。
見下ろすヴィフトールを見るや、彼らはうっと怯んだ。
しかし、ならず者に嫌がらせを受けた店主の証言に、お鈴が口添えすれば、彼らは『騒動を起こすな』と釘を刺すに留め、いそいそ引き返していった。
野次馬たちは揃って胸をなで下ろす横で、お鈴は『よかったな』と背を叩いた。
「町の連中はどうして手を合わせていたのだ? ニオル、だったか、そう呼んでいたが」
ヴィフトールは気になっていたことを訊ねた。
またお鈴に引っ張られ、その道中である。
「ああ、〈仁王〉だよ。お前、さっきの連中を踏みつけていたろ? 寺の門に仁王様の像があるんだけど、その足は鬼とか餓鬼を踏んづけてんだ」
「先のデブを踏んだのが、それと重なったわけか」
「そうそう! いやー、それにしても関脇とはいえ、あれを片手でぶん投げるたあ、お前すげえなあ! 目の前で見ていてスカっとしたぜ!」
“せきわけ”とは何か、続けて訊ねた。
「相撲の番付だよ。知らねえのか?」
「すもう?」
「なんつーのかな……えぇっと」
ぼさぼさ髪を掻き、お鈴はしばらく言葉を探す。
「土俵っていう丸い輪の中で、大きくて強い奴が二人、ばちーんってぶつかんだ。身体に土がついたら負け。――で、それが上から横綱・大関・関脇・小結・前頭。そして二段目に十両・幕下……ってえ番付されて、さっきの奴は関脇、上から三番目のやつ」
「この江戸の者は、デブがぶつかり合うのを興じるか」
お鈴はこれまでと違い、目的地があるらしい。
人が多いのは大きな表通りだけで、そこから脇に外れた途端、喧騒が遠くなった。
低い屋根繋がりの建物群に。木の板を蓋にした水路をいくつも踏み越え、やがて大きな松の木が伸びるところに差し掛かる。
お鈴はここを目指していたのか、松の木でくるりと向きを変えた。
(住居地か。仕切りの壁も薄そうだが、避難区域か?)
ボロ屋のようなそれを眺めながら、奥へ。
二列七棟を一つのブロックにして。その境目にあたる建物の戸を、お鈴は勢いよく開いた。
「――父ちゃん、おもしれえモン拾ったぞー!」
ヴィフトールが眉を上げると、中からそれを代弁する声がした。
「富ばーちゃんの孫を名乗って、銭を欺しとった奴いたろ? そいつ見つけて追いかけてたらよ、この異人が棒投げて手伝ってくれたんだ。アテがなさそうだし、うちで面倒見てもいいだろ? なっ、なっ?」
「ダメだダメだ。そんな得体の知れねえモン、置いておけるか。拾ったとこに帰してきやがれ」
俺は犬か、とヴィフトールは眉に皺を刻んだ。
家らしきそこを覗けば、少し段になった上に、ボロ着姿の中年男が一人、上半身を起こす恰好で入り口に立つドワーフを窺う。
面やつれし、力ない雰囲気を纏っている。お鈴が『父ちゃん』と呼んでいたところからして、父親だろうと髭を撫でた。
「なんでだよ。父ちゃんこの前、『もう十九だし、そろそろイイ男の一人や二人、連れて帰ってこい』って言ってたじゃん」
「い、意味が違えだろうが! それは何と言うか――」
「ムサ苦しい髭をしてるけど、イイ男だって。こいつは、ええっと?」
最後はヴィフトールに顔を向けながら言う。
「鉄の山の王、ヴィフトール・アイン・ニオールだ」
そうかと口の中で復唱するが、その時点で怪しい。
父に向き直れば、案の定、
「えぇっと、仁王だ」
声明るく言って、ヴィフトールを中に促した。
父は頭を抱えるだけで何も言わない。甘いのか、それともそんな娘だと諦念しているのか定かではないが、寝床を確保できることに変わりない。
「世話になる」
家の主人に言葉短く告げ、身をかがめながら低い入り口をくぐった。
何と狭い生活空間か。中は10平米もないだろう。
父娘二人でも狭いそこに、身長200cmもある大きなドワーフが上がれば、建物が縮んだようにさえ感じられた。
不満げな父の横であぐらをかく娘は、嬉しそうに身体を揺らす。
「まず、お前は“お鈴”でいいのだな?」
「ああ。鈴が名前だけど、呼ぶときは“お”をつけんだ」
なるほど、と頷く。
そして顔を横に、父親の方へ水を向けた。
「俺が権六よ」
「そのナリを見た限りでは思えんが、一帯を取り仕切っていたようだな」
言ってくれるぜ、と父・権六は手入れのされていないハゲ頭を掻いた。
「父ちゃんはな、元々はこの横川をシメてたんだ。だけど、四年くらい前に流行り病で罹患してから、この情けない姿だよ」
「情けないは余計だ。もう横川の権六一家は終いにしろって、神様が言ってんだ。お前も目明かしなんて辞めて、いい加減どこかの嫁に行っちまえ」
「そんなんだから、福蔵の野郎どもに好き勝手されんだよ! アタシは目明かしとして、父ちゃんのようにこの横川を守るんでい!」
父娘の諍いを他所に、目明かし、と首を傾げる。
「衛兵のようなものか?」
「えいへい、って何だ?」
「言わば、街の治安維持を担っている者だ」
ああ、と声を弾ませるが、しかしすぐ、うーん、と腕を組んで考える。
「似たものなんだけどよ、上にお裁きをする奉行、与力、市中を廻る同心……ときて、その同心の下について下手人について調べ回るのが、目明かしなんだ」
「つまりは使いっ走りか」
「まー、そーだなあ……アタシら町人じゃそれが精一杯だ。中には士分を売るのがいるから、千両とか渡せばなれるっつーけど、庶民にゃ夢物語かな」
千両とは金のことか。
その疑問を察したのか、お鈴は懐から丸いコインを置いた。
四角の穴が空いた銅貨で、文字のようなものが彫られている。改鋳がなされていないのか、字の一部が欠けたりして質があまりよくない。
手に取ればそれがよく分かった。
続けて、銀貨と金貨があると説明をする。丸ではなく小さな四角の板であるらしい。
金の話になったのを待っていたのか、ひとしきりの説明が終わるやいなや、権六が身を乗り出し、ヴィフトールを覗き込んだ。
「お鈴が置けっつーから置いてやるが、タダとは言わねえ」
「金か。それなら心配いらぬ」
コートのポケットから、一握りの銀を床に撒いた。
これに、父娘はぎょっと目を剥く。
「こ、これ、豆板銀か!?」
初めて見た、と感嘆するお鈴。
同じく呆然としていた権六であったが、ハッと表情を変え、銀粒を集めて押し返した。
「こ、これはなんねえ! 異人なんかの金なんて受け取れば、あとでどんな咎がくるか分かりやしねえ!」
ヴィフトールは面倒くさそうに首を振る。
「ならばこれを溶かせばよい。銀の板とやらが一枚あれば、同じのを造ってやる」
「よ、より駄目に決まってんだろうが! 俺が言いたいのはあれだ、その――手前で働けってことだよ」
思わぬ言葉に眉が上がった。
労働なぞしたことがない。旅の途中にオークの討伐隊に加わったり、装飾品を作り金を持ってそうな者に売りつけたぐらいだ。
お鈴は父に何か言おうとしたものの、倹しい暮らしを強いられているためか、口には出さず。
「お前は何ができるんだ? この江戸じゃあ月に六、七日も働けばやっていけるんだが」
そうアドバイスを送るのが精一杯のようだ。
顎髭を撫でながら、魔法以外なら何でも出来る、と言う。
「なんだそりゃ」
ぷふっと噴き出すお鈴は、そうだ、と手をついて身を乗り出した。
「そいやさっき、銭を造るって言ってたな? てことは、鋳掛けとかもできんのか?」
「ドワーフにそれは、水を飲めるのかと訊ねているのと同じだ」
ヴィフトールは部屋を見渡し、茶色の瞳は土間にある黒い鍋を捉えた。
裏返した鍋底に、親指ほどの穴が空いている。
「道具さえあれば、あの鍋を直してやろう」
「ホントか! よし、鋳掛けの道具なら源じいのとこにあるはず。貰ってくらあ!」
お鈴は言うなり、びゅんと家を飛び出した。
残された男二人・ヴィフトールは権六に目を向けた。
「……あれは本当に女なのか?」
「男であれば、と思ったこともあるさな」
はあ、と大きなため息を吐く様から、娘に相当苦労させられていることが窺い知れた。