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2話 いざ江ノ島

 江ノ島へ連れてゆく少年は、奏太(そうた)と名乗る。

 手形の発行も済み、挨拶もかねて長屋に訪れたのだが……大立ち回りをした後のような親分に言葉を飲み、続けて立ち上がった大男に尻餅をついた。

 しかし、そこは商人の息子か。

 不安そうにしていたものの、旅の流れを話しているうちに次第に緊張がほぐれ、子供らしい笑顔を見せた。

 そして出発の日――半合羽を肩にかけ、股引に脚絆、傘を被った奏太が緊張の面持ちで、江戸の入り口となる赤坂御門に立っていた。


「お前、本当にその恰好で行くのかあ……?」


 見送るお鈴は、小袖に裁付袴のヴィフトールに確認する。

 恰好は旅装束なのだが、鉄を打ち付けた小手とブーツ、小袖の下にはミスリルの鎖帷子を着こんでいる。またその背中には、いつもの斧ではなく、旅のためにあつらえた大きな蛮刀を背負う。

 手甲に草鞋、振分け荷物の奏太に比べれば、ヴィフトールのいでたちは、旅と言うより出兵であった。


「これでも荷は少ない方だ」


 店主の重久や見送りに来ている奉公人に対し、傍らに控える重久の妻は不安げな表情を崩さない。

 いよいよ耐えかねたのか、前へ進み出るや子の肩を掴んだ。


「決して自分に負けず、成し遂げるのですよ」

「はい。母上」


 自分に言い聞かせるような言葉であった。


(重久より、武家の出戻りの女と聞いていたが、なるほど……産まず女と家に帰されたのなら、なお可愛いことだろう。奏太の規律正しい動作を見れば、心身を鍛えるのは子だけではないか)


 武家は身分を固持せねばならぬ。

 町人に嫁がせ、組み敷かれるのは以ての外のこと。

 しかし、家督を守るにはやむを得ぬ――形式上の契りであったものの、彼女は重久の人柄に惹かれ、晩年にして奏太を授かったらしい。


「仁王様、何卒よろしくお願い申しあげます」

「任せておけ。金が足りなくなれば、そちらの名前でツケておくぞ」

「もちろんでございます」


 横でお鈴が「お前は自分に勝て」と呆れかえっている。


 ◇


 旅は大山街道を歩き、三軒茶屋、二子、溝口を通り、江田で一泊。

 そこから伊勢原へ向かい、大山を登る準備のため早めの宿に入る。

 奏太は足腰の弱さや、おもねるように人に気をつかう臆病なところを除けば、しっかりと頼りになる少年だった。


「して、山に登って寺に参るのだな?」

「はい。大山阿夫利神社と申すところで、ここは――」


 宿の畳の上で横に。肘立てて頭を支えながら、ヴィフトールは「いらん」と手をひらひらと振った。


「参拝はお前が代わりにゆけ」

「え……ですが……」

「俺が信じるのは勝利の女神のみよ。目の届かぬ異なる地とはいえ、頭を下げればいらぬ嫉妬を買う。そんな無用のものに対価を払うならば、酒と女を買うわ」


 奏太は返す言葉が見つからず、ぐっと喉を鳴らした。

 実は面倒くさいので半分は詭弁。しかしこれは、ドワーフなりの教育も兼ねていた。


 ――木々や土の匂いを胸に、岩を枕に大縦断

 ――山、人、心、旅の果てに宝を掴む

 ――供連れの山旅やよし、独り歩く山旅やよし

 ――供と歩けば、供が語り

 ――独りで歩けば、山が語る


 ドワーフの山歩きの歌である。

 独りで己を向き合い、自信をつけさせようとしていた。


「神の前で、賊をするような根性持ちはおるまい?」

「え、ええ。参詣道で人も多くいるから大丈夫でしょう」

「なら構わぬ。道に迷ったら女に声をかけ、ついでに茂みへ誘え」

「茂み、ですか?」

「股にぶら下がっているものを見せつけてこい」


 あっ、と声をあげ、奏太は赤染まった顔を俯かせた。

 道中、ヴィフトールは酒を呑み、そして旅女や物売りなど女とあれば誰彼かまわず尻に手を伸ばす。

 怒るものもいれば、姿を見て態度を変えるものも。その反応を楽しむヴィフトールの傍らで、奏太はずっと顔を赤く、縮こまり続けていたのだ。


 ◇


 その一日は、大山に滞在する。


「うう……信じた僕が馬鹿だったのか……」


 昼過ぎ。奏太は宿に戻るや、がっくりとうな垂れた。


「人のせいにするな。女に誘われたのに、逃げたヘタレなお前が悪い」


 ヴィフトールは酒をあおりながら言う。

 もしかすれば何かの訓練かもしれぬと、道を訊ねた奏太は、思い切って女に『そこの茂みに』と声をかけた。すると女はケラケラ笑いだし、理由を知るなり女から『どんな蛇だろうねえ』と、手を引かれる――。

 からかわれたと知ったのは、走って逃げる最中のことだった。


「まず、年のいった女はいかん。旅の疲れもあって欲求が蓄積されているからな。声をかけるなら若い女だ。お前なら同年(おないどし)を、平手の一つでももらってこぬか」


 やはりロクでもなかった、と更にうな垂れた。

 だがヴィフトールも、タダ酒を呑み、留守の間に女を呼び込んでいるわけではない。

 それは大山を出てすぐのこと。

 強い日差しの中、木陰の山道はありがたい。蝉時雨が降り注ぐだけの中、前を歩いていた二人組の男に追いつこうとしたその時――


「銭を少しばかりくれんか?」


 と、肩を掴み、いきなり思い切り殴りつけたのである。


「やろう――ッ!」


 鼻血を噴き出しながら倒れた男に、片割れが懐から錆びた匕首を出したのを見て、奏太も気付き、反射的に腰に差した守り刀を抜いた。


 ――物取り


 二対一。しかも子供も刀の構えは出来ている。

 物取りは後ずさりし、さっと翻って逃げようとしたものの、ぐうんと伸びた大男・ヴィフトールの蛮刀に背中を裂かれ、悲鳴をあげた。

 続けて最初に殴られた男を。鼻が砕けたのか、指のあいだから(おびただ)しい量の血を滴らせながら、這う這うのていで逃げようとするところを、後ろから斬った――。


「ほう。(むくろ)を見ても吐かぬか」

「ぅぐ……っ、ぼ、僕は侍の血を引いていますがゆえ……!」

「咄嗟に剣も抜いた。言われているほど、お前は気が弱いわけではなさそうだ」


 頭に手をやり、ニッと笑うと、奏太も照れくさそうに微笑んだ。


「ですが、どうしてこの者たちが物取りだと?」

「長く旅をしていると、正しき道を歩んできた者か、血で汚れた道を歩んだ者か分かる。――ま、こいつらは我々に気付き、歩幅を短くしたからだがな」


 道をしばらく戻り、足跡を指し示せば、確かにと奏太が頷く。

 ろくでなしでも山の糧となる。野犬の餌と木の養分になると、死体を道脇の奥へと捨て、再び旅を再開した。

 これが奏太の、ヴィフトールへの評価を覆らせた。


「仁王様。その、女子というのにも見分け方があるのでしょうか……?」


 先の一件もあってか。

 旅の恥はかき捨てとばかりに、奏太は開き直った。

 ヴィフトールはこれに気をよくすると、前を歩く女や茶屋の娘の尻などを指差し、あれがこれが、と男について伝授させてゆく。奏太もまた恥ずかしそうにしていたものの、そのうち楽しそうにそれに耳を傾けていた。


 五日目の朝、藤沢宿からいよいよ江ノ島に。

 この頃になると人が多く。目的を同じくする旅装束姿の者がいた。


「ほう。黒牛にも乗れるのか」

「ええ、確かご婦人らはあれに乗り、江ノ島を眺めながら砂浜を歩くのだと」

「女用とは勿体ない。江戸も馬ばかりだが、牛の方がいい」

「乗られたことが?」

「俺がいた世界では、我が足代わりとなっていた」


 人間の街で三人ほど轢き殺した、と得意げに。

 何と、と驚く奏太に笑いながら、水が引き、渡し道となった浜辺をしばらく歩く。

 祀られているのは弁財天。

 海の神、水の神。芸道上達の功徳を持つ神と仰がれているのだが、奏太は不思議そうに旅人を眺めていた。


「人が、多くありませんか? 男が……」


 女が一であれば、男は九である。

 戻る男はどこか恍惚に、にやけ顔で戻ってゆくではないか。


「お前の親父は、そのためにここに遣わしたのだ」

「へ?」


 幸福・財運を招くとされ、商人にとっても大切な神様である。

 だが、それとは違うような、と首を傾げた。

 いよいよ島に上陸すれば、なんと、と目を瞠る。


「み、みなあそこに?」


 驚くのも無理はない。

 とんでもない人が列をなし、島の先・社を目指しているではないか。

 人の流れはそれほど遅鈍ではなく、ゆっくりと社に向かってゆく。


「異人はもう教えんのかい?」

「おいおい、こんな倅にゃ早えよ」


 前後の男たちが、奏太を指差し笑った。


「凄いらしいな?」


 ヴィフトールが訊ねれば、


「おうよ。一度見たら頭から離れねえ」

「いくら見ても、ありつけねえ絶品だ」


 たちまち一帯が、そうだそうだ、と頷き、朗笑を始めた。

 その会話の内容から、ある程度の想像がついたらしい。いよいよ順番が巡ってきた時には、奏太はすっかり顔を赤らめ、俯いてしまっていた。


「――坊ちゃん、めこを拝みなしい」

「こんな美人を見ないのは失礼ですぜ」


 江ノ島の弁財天。

 それは、琵琶を抱えた裸像だったのである。

 尖った乳首や丸みのある身体……まるで生きているように生々しい。だが男たちが囃し立てるのはそれだけではない、


「う、うう……っ」


 奏太はチラりと見て、すぐに目を伏せた。

 女の秘所まで、しっかりと刻まれているのだ。


「ほうほう。これは一見の甲斐がある。しかしもう少し、陰唇を厚く、色も――」


 顎を撫でながら評論を下すドワーフ。

 それを置いて、さっと去ろうとする奏太に、


「イチモツを出してもバチは当たらんぞー」

「ガキのなら、弁財天も喜ばあ」


 やいのやいのと、男たちが煽り立てる。

 品のない。

 ヴィフトールが追いかけると、奏太は肩をいからせていた。


「――あのような下賎な目で見られるなんて、弁財天様が不憫でなりませんっ」

「うわっはっはっはっ! 冒涜されずして女神は名乗れん。むしろ男たちを扇情するのが、神冥利に尽きるとは思わんか?」

「し、しかし……! と言うか、仁王様は既に信仰している神がいるのではないのですか!」

「裸を見せてくれるのなら、拝むのが男ってものだ」


 ころころと発言を変えるそれに、奏太はがっくりと肩を落とす。

 だが、真なるの目的はここからである。


 ――江ノ島弁財天の裸像もさることながら、宿も凄いのです

 ――兄さんこちら、兄さんこちら、と宿引き女たちが星あまたに


 弁財天の裸で欲情し、宿で娼婦を買う。

 これは〈精進落とし〉と呼ばれ、帰路に多く立ち並ぶ出合茶屋など、色狂いして帰るのが、この江ノ島詣での真なる目的なのだ。


(確かに、これはお鈴には言えぬな)


 全員しょっ引きそうだ。

 江戸まで続く罪人の縄。それを肩をいからせ歩く女の姿を想像すると、思わず笑みがこぼれた。

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