1話 異なる地・大江戸
緩やかな斜面。人通りが多いらしく、乾いた土色の道が延びている。
扉の向こうは山道だった。
ヴィフトールはひとまず坂を昇ってみると、木々の切れ目を発見。そこから景色を眺めてみると――
(なんと)
眼下にそれを収めた瞬間、息を呑んだ。
大きな川が分ける建物群が、果てなく広がっているではないか。
人間の街のようだが、と難しい顔で黒髭を撫でる。
(珍妙な。遠くに見えるのは監視塔か? それにしては非効率な形状だ)
口をへの字に曲げ、最も高い建物を訝しく眺めた。
段々に箱を積み上げ、三角屋根の乗せた形である。監視塔があれば城が近いはずなのだが、と手庇で眺めるも、それらしきものは見当たらない。
もしや、と唇を引き結ぶ。
(城は既に墜ちたか。攻められ、追いやられ、あの監視塔を最後の砦にして集中都市となっているのだな)
となれば、オークに違いない。
ヴィフトールは背負っていた斧を手に、慎重に山を下り始めた。
……のだが、想像に反して遭遇したのは野犬ばかり。人の姿を捉えたのは、山を降り、街に入る門が見える頃になってからのこと。しかしそれも、思わず眉をひそめるものだった。
(……ゴブリンが文化を得たのか?)
ドワーフ並に背が低く、身体は紐のように細い。
髪型と服装はその国の文化を表すものだが、どれも見たことのない珍奇なもの。
男はてっぺんが丸ハゲで、ささやかな抵抗と束ね髪をちょこんと乗せ。女はうなじを露わにする、くるりと巻き上げた髪である。
倹しい者もいれば、豊かな者もいる。
門を守る者に関しては殊更――茶の羽織りに、下着一枚といった姿は、とても戦いに身を置いている風には見えない。
「ふぅむ」
門を前に、ヴィフトールは顎に手をやりつつ唸った。
(造り手の腕は確かなようだ。正確な寸法で切り揃え、歪みなく真っ直ぐ建っている)
だが、その薄っぺらな戸板では、オークの体当たり一発で打ち破られるだろう。
うむうむ、と門を観察するその巨大なドワーフの後ろ――町に入ろうとした者たちは足を止め、呆然と見上げている。
(度重なる戦闘で、物資のみならず財政まで逼迫しているのか。貧民に棒きれ一本しか与えられぬとなると、これは相当な難敵がいるようだな)
国の事情が垣間見え、ヴィフトールは同情の視線を送った。
「――!」
門衛はそこでやっと我に返り、何かを叫びながら、手にしていた棒きれを突き出した。
馬鹿にされたのが癪に障ったのか。
ヴィフトールは、下唇を突き出しておどけ・笑いながら、棒を軽く払い上げる。
「――! ――!」
門を抜けようとすると、門衛がさらに語気を強めた。
何を言っているか分からないが、手にした斧を見ながらなので、通行料をせびっているわけではない、とだけ理解できる。
(言葉が分からぬと不便だな)
ヴィフトールは首にかけた、赤いルビーのネックレスをつまみ上げた。
――翻訳の魔法をかけたルビーだ。いかなる世界であっても言葉を解し、話すことができる
エルフとの和解を結んだ際、相手より贈与された品である。
その意味は『言葉の通じぬ馬鹿に相応しいもの』で、ドワーフが『頭でっかちのクソガキ』の意味を込めた子供用の宝冠を与えると、エルフの王は青筋を浮かべて怒りに耐えた。
言語取得まで適当に酒でも飲んでいればいいだろう。
門衛を無視して進もうとした、まさにその時――
『――ッ!』
背後・街の方向から、何やら物々しい叫び声がした。
首を捻ってみれば、男が一人、何者かに追いかけられているようだ。
それは必死の形相でこちらに。
ヴィフトールの脇を抜け、門の外へ。間を置かず、追いかけていた者もすぐにやってくる。女だった。
「――ッ、――ッ!」
「何だ、お前も俺に文句があるのか?」
門衛と違い、罵声を浴びせたことは判る。
逃げる男に意識が向いているので、女に浮気でもバレたか、と思ったものの、
(男女の仲ではないようだ)
門衛の一人も走り始めたので、物取りといったところか。
女は前で軽く結んだ羽織に、丈の短い綿のパンツ。猫のような顔立ちだが、手入れのされていないボサボサの黒髪は“野良猫”との印象を抱く。
お世辞にも男が寄り付くタイプではない。だが活発で、特に毛深そうな女は好みだ。それに素材も悪くない。
ヴィフトールは傍の門衛から棒きれを奪うと、それを大きく振りかぶり、
「ぬうんッ!」
ぶん、と逃げた男に向かって投げたのである。
突然の出来事に周囲は、あっ、と口を開いたまま。顔で棒の行方を追う。
尾を引く音のそれは一直線に、女を追い越し――
『ヴェッ!?』
短い呻きをあげながら吹っ飛び、胸から地面に落ちた。
女はすかさず馬乗りに。腰に据えた縄で縛り上げる。
そして遅れて追いかけた門衛に後を任せ、真っ直ぐヴィフトールに向かって歩いた。
「――!」
感謝を述べているのか。
笑みを浮かべながら、ばんばんと背中を叩き始めた。
(うむ。いい顔で笑うやつだ)
屈託のない笑顔に、どうだと片眉を持ち上げる。
その姿に女は気に入ったらしい。
何かを述べながら服を引っ張り、街の方へと向かおうとし始める。
門衛が止めようとしたが、女が一言で黙らせると、再びヴィフトールに笑みを浮かべた。
◇
女は元気印・忙しく喋り続けた。
指差しているところからして、あちこち紹介しているのだろう。頻繁に聞こえる『エド』との言葉は、この地を示していると推察した。
そのエドは、はてとヴィフトールに腕を組ませる。
人、人、人……。
オークに攻め滅ぼされ、人口が集中しているのなら分からなくもないが、それにしては悲壮感というものがまるで感じられない賑々しさ。
商う店もまた、軒下に並ぶのは紙製の傘や衣類、陶器に紙、果ては土産らしい置物。天秤棒を担いだ物売りが、威勢のいい売り声と共に野菜や魚などを売り歩く。平穏な日常がそこにある。
(オークはおらぬのか? となれば、何ゆえこいつらは痩せ、貧相な面持ちなのだ?)
頭二つほど抜けた大男に、道ゆく者たちはぎょっと目を剥く。
中には女の知り合いらしき者がいて、慄きながらヴィフトールを見て指差すと、女は得意げな表情で何かを話す。それを聞くと、感心したり更に慄いたり、反応はそれぞれだった。
「――」
ふいに、鼻腔をくすぐる香りが漂い始めた。
それと同時に女が急に振り返り、指差しながら何かを訊ねる。青いのれんがかかった建物で、ちょうどそこから満足顔の男が、腹を撫でながら出てくるところだった。
女の目は『入りたい』と言っている。
(酒場か)
うむとヴィフトールが頷くと、女は嬉しそうに腕を引っ張った。
しかし……連れて来られた店は、想像していた酒場とまるで違っていた。
「何だこの机は。こんな粗末なものを作り売った奴の首をはねよ」
ボヤくも、言葉はまだ通じないらしい。
店主らしき壮年の男は怪訝そうに眉を寄せ、カウンターの向こうからヴィフトールを眺める。
「酒をくれ」
ダメ元で言った結果は、当然ダメだった。
代わりに緑の水が出された。池などで汲んだものではなく、やや渋みのある茶だ。
それから間を置かずして、青い陶器の角皿が置かれた。
(粘土板に串を刺したのか……? それと、このかかっている糞みたいなソースは何だ?)
あろうことか、目の前の女は躊躇せず口に運ぶではないか。
それだけでなく、目をきゅっと細め美味そうに咀嚼を続ける。
ヴィフトールは思わず顎を引いた。
食えるものかと、ためしに皿を持って鼻に近づけてみると――
「臭い」
投げ捨て、皿の割れる音が店に響く。
その直後のこと。女が「何すんだッ!」と表情険しく立ち上がった。
「――せっかく神さんが恵んでくれた食いモンを、粗末にすんじゃねえ!」
おや、とヴィフトールは眉を上げた。言語取得が完了したらしい。
女に叱られるのは初めてだ。しかもそれが第一声になるとは。
怒りで紅潮する女を、顎髭を撫でながら眺めていると、
『な、何をなさるのですっ!?』
外から、困惑する男の声が飛び込んできた。
『うるせえ! 客にこんなモン食わせやがって!』
『江戸市中のみなさーん! この太田屋は、客にハエ入りの蕎麦を食わせようとしましたよー!』
ざわめく通行人たちに、わざとらしく呼びかける声が続く。
『秘伝の味と謳う蕎麦の正体は、何とハエだった』
『よく見りゃ、薬味も変な味が……う、痛たた、は、腹がー』
なんて店でえと憤る声に、店主らしき者が必死で弁明している。
「あいつら、また……!」
女は外を睨み、青い羽織を袖まくり。
ヴィフトールへの怒りを忘れて、大股で店外へと飛び出していった。
『やいッ、仁と吉助! 下手な芝居うちやがって、ここは誰のシマだと思ってんでえ!』
威勢のいい言葉に、男は、おやー、とせせら笑った。
『これは、どこかの負け犬一家の、お鈴嬢さんじゃねえですか』
『ああ、親父の威光……いや遺光を笠にあちこちから袖の下を受け取っている、目明しの』
ふざけんじゃねえ、とお鈴と呼ばれた女は忿怒する。
『アタシはなァ、銭はびた一文も受け取らねえ主義だ! 父ちゃんが病に臥せったのをいいことに、土足でシマを踏み荒らしやがって!』
『シマっつーんならよお、この横川に名だけぇ権六一家サマはいつ助けにきてくれるんでえ? デカいツラしてても、肝心なときに動けねえんなら、やくざ者失格なんだよ』
なるほど。ゴロツキどもの縄張り争いか。
店にいるヴィフトールは、顎髭を撫でながら状況をまとめると、近くにいた店主らしい男を呼びつけた。
「あの連中は何だ?」
「へ、へえ。連中は、この横川を荒らすやくざ者で」
「そのようだ。それで、お鈴とやらは?」
「お鈴ちゃんは、かつて横川を治めていた権六一家のお嬢さんです。『孫の代まで横川は安泰』と語られるくらい、手下配下のみなさんはまじめ堅気な方ばかりでしてねえ」
懐かしむような表情であった。
その親分が床に臥せったことで、一家の解体を宣言。娘だけが納得がゆかぬと目明かしになり、一人で横川を守ろうとしているのだと話す。
なるほどと頷き、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
目明かしとは何かと気になったものの、先の盗人らしき者を捕らえた様子からして、おおよその考えはつく。
「――あと、その粘土のようなものは何だ?」
店主は、床に捨てた灰色のものを持ったまま。
砂に汚れ、さらに食欲が失せる姿になっている。
「で、田楽というもので、これは蒟蒻に味噌をかけたものです」
「ミソ? 糞ではなくてか?」
「え、ええ。大豆を発酵させたもので、その、お鈴ちゃんの好物でして」
ヴィフトールは店主の手から一本ひったくると、土もはらわずがぶりと食らいついた。
もぎゅもぎゅとした食感が気持ち悪い。そして臭い。砂を噛む感触だけが救いだ。
何とか飲み込むと串を机に放り投げる。不味い、と一言。
「この斧を預かっていてくれ」
長柄の斧を投げ渡す。店主は重さによろけ、尻から倒れた。
ヴィフトールはそのまま、右肩を回しながら外に向かって歩を進めてゆく。