1話 怪談話
この日、お鈴は悩んでいた。
「どうしたもんかなあ……」
目の前には、草木染めの小袖がひと揃い。
記憶にない母親の、唯一残る品。睨む視線の先には、親指ほどの穴が空いている。
「繕ってもらうか。だけど、うーん……」
先立つものがないのだ。
財布の紐はお鈴が握っているものの、どういうことか、初暑に入ってから逼迫している。
「どーして銭がないんだろうなあ」
顎を揉んで考えていた、その時、
「――ごめんくださいまし」
「ん? おお、早苗か」
開けたままの玄関の前に、折り目正しく挨拶をする早苗の姿があった。
見慣れたの胴着袴の恰好。整った歩調で上がり框までやってくると、おや、と畳の上に広げた小袖に目を留めた。
「お鈴さんでも小袖を着られるのですね」
「でも、ってどういう意味でえ――って、そう言えば、着た覚えがねえや」
七五三は覚えてんだが、と指折り考え始める姿に、早苗はため息を吐いた。
「私が言うのもなのですが、尻端折りに股引姿だけでなく、もう少し女子らしい恰好をすべきではないでしょうか」
「お前まで父ちゃんみたいなこと言うんじゃねえや。小袖なんていざってえ時に動けねえし。アタシにゃいらねえよ」
「では、その小袖は? それに簪でもさせば、形にはなるかと」
「これは、死んだ母ちゃんのものさ。虫干ししようと出してみたら、ここに穴が空いててよお……」
小袖の襟の下をそっと持ち上げれば、左肩部分に肌の色が浮かぶ。
あらまあ、と早苗が同情の声を発した。
「大切な人の持ち物であれば、お辛いですね……」
「繕うにも、針はできないんだよなあ。銭もないしさ」
すると早苗は、差し出がましいようですが、と身体を前に傾けた。
「よければ私がやりましょうか? 私まで初鰹を頂けましたし、その御礼に」
「え? い、いいのか!」
「ええ。これぐらいなら、針と糸があればすぐです」
そうか、とお鈴は顔を綻ばせた。
「じゃあ、頼むぜえ! ……て、早苗は用があって来たんじゃねえのか?」
「あ、そうでした。仁王様から言づてを預かってまして、『おみやまで来て欲しい』とのことです」
「おみや? 左衛門のおっちゃんに何かあったのか?」
「さあ……そこまでは。他の来客もあるようでしたので、もしかすれば込み入った話ではないかと思い、訊きませんでした」
「来客てえことは、加藤様でも来てんのかね」
お鈴は目明かしの半纏を手に取り、さっと着替えた。
【御礼】
数日前。そう書かれただけの“返し文”と二朱銀が二枚、懐に差し入れられる事件があった。
おみやの店主・左衛門のものだと察するのは易く、受け取ったヴィフトールが返しに行ったのだ。
◇
おみやの客間には、店主の左衛門とヴィフトール、そしてもう一人、紬を着た中年の男が一人。
店の丁稚に案内されてお鈴が来ると、止まっていた会話の続きが始められた。
「来客って、大澤屋の旦那だったかあ」
「ええ。久重と申します。本当はこちらから、ご挨拶に伺うのが筋なのですが、何とぞ――」
久重は畳に両手をつき、深々とお鈴に頭を下げる。
大澤屋と言えば、江戸橋から伸びる運河・伊勢町堀に店を構える廻船問屋。よその町、しかもやくざ者の家に訪ねることは、あらぬ噂を招きかねない。
なので、ツテを頼って接触を図るのは当然のことと言えた。
「実は、仁王様に折り入ってお願いがございまして」
久重は膝を転じ、ヴィフトールに尋ねた。
「仁王様は、旅に出られたことはありますか?」
「旅か」
ドワーフの片眉が大きく持ち上がった。「何の話が聞きたい?」
「カクラ平野にあるオークの巣、バルログ討伐、ゴブリンの集落がワイバーンに住み処を奪われ、討伐に向かっていた隊が全滅しかけたこと、他には――」
「お前、首につけてるの外れてねえか?」
お鈴が指差すが、翻訳のペンダントはちゃんと下がっている。
呆気にとられる久重であったが、一つ咳払いをして、「たくさんの経験があるようで……」と、取り繕う。
「本題に入りたいと思います。倅を江ノ島まで連れて行って欲しいのです」
「エノシマ? それはどこだ?」
最後はお鈴に訊ねる。
「江戸から東海道を通った相模の辺りだよ」
「鰹のところか、なるほど」
ええ、と頷く久重は、月代に手をやった。
「身内の恥をお話することになるのですが、倅は気が弱く引っ込み思案で……。奉公人たちにも可愛がってもらっても、それだけでは一城の主人は務まりません。幼い子には旅をさせろ、ここで一度、親から離れさせてみようかと思いまして」
「事情は分かった。それで倅とやらはいくつだ?」
「今年で十二になります」
「なれば、焦らずともこれからだろう。嫁は早くとも、娼婦の一人や二人与え、男にした方が早い」
「仰る通りなのですが……」
チラり、とお鈴に目を配ると、左衛門がそれとなく客室から離れさせた。
部屋を出たのを確かめると、前に手をつき、「実は……」と、声を潜め耳打ちを。ふむふむ、と聞いていたヴィフトールの顔はしだいに歪み、口に下卑な笑みが浮かび始めた。
「――旅には物取りなど危険もつきものです。相撲大会の勇姿、そして色々な噂を耳にし、是非とも仁王様にと思いまして」
「よかろう。だが路銀はそちら持ちだぞ?」
「もちろん。お布施に糸目をつけるつもりはございません」
久重は商人の笑みを浮かべ、再び深々と頭を下げた。
◇
旅の準備に時間を要する。
江戸っ子にとって旅は大娯楽――と、お鈴は話すのだが、
――どうしてアタシはダメなんだよお……
自分は行けないと知るや、しおしおと崩れ落ちた。
権六は『男の世界だ』と一蹴するのだが、行けない理由はもう一つ、〈往来切手〉と〈手形〉の発行にあった。特に女の手形は特別で、幕府の留守居役から〈女手形〉を授からねばならず、発行にも相当な時間を要した。
加えて関所も、【入り鉄砲に出女】と呼ばれるほど、謀反を疑われる武器類と同じくらい、女は厳しく取り締まられるのだ。
江ノ島までなら問題ないのだが、途中、怪しまれると足の進みが遅くなってしまう。
「あー……。腹いせに誰かしょっぴこうかなあ……」
すっかりと気力を失ったお鈴は、畳の上でだらだらと転がる。
横で父親・権六は煙管を吸い、ぷかりと紫煙をくゆらせた。
「だから言ったんでえ。目明かしなんてロクなもんじゃねえってよ」
「下手人が江戸の外に逃げた、って言えば平気だよ」
「ダメに決まってんだろ、馬鹿たれ」
「ちぇー……男はいいよなあ。旅に行こうって思ったらすぐだし、柄杓持ってお伊勢参りだって言えば、みんなに期待されるしよ」
「女ってえのは劣った生き物なんだよ。だから罪も軽いんだろうが」
そうだけどさ、と唇を尖らせる娘と父の会話が続く。
その横ではヴィフトールが、何やら熱心に細い棒を磨いていた。
「で、お前は今朝から何やってんだ? この前はガラスを削ってたかと思えば、今度は棒なんか磨いたりして」
「うむ。本来はそのガラスのみだったが、早苗から言われたのでな」
「早苗から? 何を?」
「教えてやるから頭をだせ」
言葉に従うお鈴。
ヴィフトールは、その毛量の多いボサボサ髪に、すっと何かを挿し込んだ。
「こちらの世界でも、女は髪を飾りたがるとな」
黒い漆塗りの棒の端に、小さな筒が一つ添えられている。
「お、もしかしてこれ簪か! ちょうど欲しかったんだ」
「今晩は何やら、恐怖話をするのに長屋連中が集まるのだろう? それを付けてゆけば、もっと面白いことになるぞ」
ヴィフトールは片眉を持ち上げ、悪い笑みを浮かべた。
「お、なんだなんだっ!」
「内緒だ」
教えろよーと、じゃれ合う二人の横で、
「お福、娘を無知に育てた俺を許してくれえ……」
と、天を仰ぎながら、手を合わせていた――。
◇
夏場。湿度が高い江戸では、吹く風は生暖かく涼が得がたい。
それに加えて今年は特に暑いらしく、長屋ではタライに水を張って行水をする母子の姿も多く見受けられる。ヴィフトールはそれを眺めにゆき、水を浴びるのだった。
しかし、それだけでは物足りぬ。
江戸の者たちは内からも涼しくなろうと、
「――でな、その井戸のつるべを上げてみると、首をくくった女の身体が」
夜に集まり、蝋燭を囲いながら怪談話をすのが夏の風物詩であるようだ。
隣の壁を取って一つにした、話合い用の部屋。
井戸に身投げした女の話に、周りがヒェッと声をあげ、語った男が得意げに茶をすすった。
「じゃあ、次は仁王だぞ」
水を向けられ、ヴィフトールは髭を撫でた。
困った。恐怖話と聞いたので、肝を冷やしたものだと思っていたが、
(目覚めたら、領主の妻が横で眠っていたのは違うようだ)
どちらかと言えば幽霊との遭遇した創作話のようだ。
ふむ、しばらく間を置いて、
「墓場の住人の話をしてやろう」
それは、ヴィフトールがまだ若かりし時のこと。
山越えの最中、突然の雨に見舞われ難儀していた。どこか雨を凌げる場所はないか。見渡すと、斜面の下に村らしきものが見えたのだが――
「そこは人を喰らう屍鬼の巣となっていた。生ける者はすべて食われ、俺の来訪に気付いたそれは、口から血を滴らせながら振り向いた。目の前には若い女の死体――最も美味いのであろうな、手にした太ももの柔肉か、新鮮な肉か迷った様子で対峙していたよ」
直後。一斉に襲いくるグールの群れ。
何とか片付けたものの、奥から山のように膨れ上がる土を見て、一斉に逃げ出した。その一帯は、今もなおグールの住み処となっていて、知らぬ者が踏み入れれば彼らの仲間入りとなる――。
話し終えれば、みな、橙色の灯りの中で固まっていた。
「つ、次はアタシだけど、ちょっとシッコしてくらあ」
お鈴がいそいそと外へ。
それで場が少し和み、胸に手をやりほっと息を吐いた。
「本当にそんな、“ぐうる”って化け物がいるのかい……?」
長屋の女房に訊ねられながら、待っていたその時、
『お、ま、た、せえ~』
と戸が開き、にゅっと影が差した。
声からして女。お鈴と断定するのは容易いのだが、それにしては少し様子がおかしい。長屋の者たちが目を凝らすも、橙火の外のため、ぼんやりとした輪郭しか見えないようだ。
それが数歩前に、灯りに照らされた瞬間――背後に髑髏が映され、中にいた女房の一人が恐怖に顔を歪めた。
「ヒィアアアアアアァァァァーーッッ!?」
絶叫を合図に。
中の者たちも尻をついたまま、壁まで後ずさりする。
顔も引きつり、ガタガタ震えている。
「な、なんでえ? そりゃ柄に合わねえと思うけど、そこまで――」
「じょ、成仏しておくれっお福ちゃん……ッ! お鈴ちゃんは、ちゃんと私らが見てるから……ッ」
は? と見渡す影の正体、それはお鈴であった。
しかし、いつもの半纏に股引ではなく。草木染めの小袖姿で現れたのである。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ……お福ちゃん、どうか、どうか……」
「おばちゃん、なーにやってんだ。アタシは生きてるっての」
「へ……?」
頓狂な声をあげ、顔を上げる女房。
手を合わせて拝んでいた者たちも倣い、顔を上げた。
「……お鈴ちゃん、かい?」
「そーだよ」
「お、お、お福ちゃんじゃない、よね?」
「違うよ。……って、お福って母ちゃんのことか?」
全員、こくこくと一斉に頷いた。
お鈴は自身の顔をペタペタ撫でる。
ボサボサ髪を櫛で削ったのか。野良猫のような顔は変わっていないものの、女らしさが醸し出されていた。
「そうか、母ちゃんと似ているのか」
どこか照れくさそうに、へへっ、と笑う娘。
「だけど、せっかく化け狸の娘っこの話しようとしたのになあ。小袖から尻尾が出てくるのが見せ場だったのに」
残念、と背中に挿したハタキを取りだした。
「ひょっとして、その小袖……お福ちゃんのかい?」
「ああ。虫に食われてたのを、知り合いが縫ってくれたんでえ。そこで面白い怪談話きいて、やろうと思ったんだ」
「その恰好で現れただけで、じゅうぶん化け狸だよ……」
胸に手をやり息を整えると、女房は、あっと声を上げた。
「それ、権六の親分に見せてやりなよ!」
「へ? 父ちゃんに?」
「うんうん。きっと、私ら以上に驚くよー」
「驚く……そうか!」
娘の顔は、たちまちイタズラ顔に。
並々ならぬ悲鳴を聞きつけ、住民たちは表に出ていた。そして小袖姿のお鈴を見れば、揃って「ぎゃっ」と悲鳴をあげ、尻餅をつく。それが楽しいのか、お鈴はけらけら笑った。
「いやあ、皆がこうなら、父ちゃんはどうなるんだろうなあ」
ぽっくり逝っちまうかも。
そう言いながら、「ごめんくださいまし」と、戸を小さく叩いた。
「お前さん、出てきておくれ……」
下手な女言葉であったが、中から『誰でえ』と、不機嫌な声が。
そして、ガタガタと音を立てながら戸が開かれるのと同時に、お鈴は袖で顔を隠す。
「なんだあ? いったい誰――」
「お前さん、あの世から帰って参りましたよ」
そっと顔を上げるやいなや、権六の目は飛び出んばかりに見開かれ、あわわ、と尻餅をついた。
「あっはっはっ! 父ちゃんの顔――」
「す、すまねえ……っ、お福……っ!」
見るなり、父は土下座を始めた。
「お鈴の財布からいくらかガメて、岡場所に行ったが許せないのは分かる……! け、けれど、どうしても我慢できなかったんでえ!」
「……今、なんて?」
「た、確かにあれは生活費だが、あ、あんな春絵を見せられちゃあ、何と言うか……!」
「銭が、ないと思ったら……」
「お福……?」
権六はおそるおそる、顔を上げた。
怒りの形相に歪む女の後ろには、大きな髑髏が。簪に据え付けた筒は魔鏡となっており、月明かりを受け浮かばせていた。
それが、目の前にいるのが幽霊などではなく、生きた娘と気づくまで時間を必要とさせた。
「ま、まさか……お前、お鈴……か?」
「父ちゃんの――っ」
「ま、待てお鈴っ、これにはワケが……!」
「父ちゃんの馬鹿たれエェェェェッ!」
拳を振り上げる娘。女とは思えない腰の入れ方で、地面を転げながら必死で弁明するしかない父。
「やっぱり、お福ちゃんが戻ってるんじゃないかねえ……」
「いつも親分がボッコボコにされてたもんねえ……」
「上方訛りでどつき回すの姿は圧巻だったねえ……」
突如として始まった親子喧嘩。
容赦の無い娘の殴打を眺めながら、長屋の者たちは何度も頷くのだった。




