12話 誘う女・誘われた髭
柔術の稽古は、ある程度教わっただけで打ち切られた。
その理由は分からないが、
『あとは一人でどうにかなるだろ。あれに近づくんじゃねえぞ』
お鈴は目をつり上げながら言う。
なので、ヴィフトールは自主稽古ばかりとなるのだが、それが終えれば湯屋で汗を流すのは変わらない。
皐月を迎えると、湯屋は相撲大会の話題をさし置き、いよいよ迎える初鰹の話題であふれた。
その執着ぶりたるや、強欲なドワーフでも顎を引くほどなのだが、どうやら見栄ばかりではないらしい。
「鰹と言やあ、やっぱ相模の鰹だなあ」
「いやいや、鰹は土佐に限らあ。一度仕事で行ったんだが、藁で表面を炙ったたたきは、この世の食いもんかと思っちまったほどだ。包丁を入れれば虹色に光る赤身、厚めに切ったこれに刻み生姜と葱をちょんと乗せれば、こりゃもう酒が止まらねえ」
これにみなが前のめりになり、喉を鳴らした。
酒に合う。熱い風呂の中も手伝って、ヴィフトールはますます食べてみたくなった。
とは言え、庶民が買えるようになるのはまだ先のことだ。
何とか手に入らないものか。
考えていると、ふと、ぶ厚い湯気の中に覚えのある後ろ姿に気付いた。
(あの尻は)
白くむっちりと、しかしハリのある尻。
腰周りの肉づきもまたいい。初めてこの湯屋を訪れ、通いつめる理由となった女の後ろ姿であった。
(――おっと、お鈴に言われておったな)
触ってはならない。
馬鹿正直に遵守する必要もないが、廉潔な目明かしを目指すお鈴の手前である。伸ばそうとした手を下ろし、あとを追って機を窺うことにした。
湯屋を出るとすぐ、女は人ごみの中に身を投じた。
ドワーフの目はしっかりと、しゃなりと歩く後ろ姿を捉えている。どこかの店の角を曲がり、路地に入るのも見逃さない。
いつ仕掛けるか。
つかず離れずの距離を保ちつつ、女は奥まった場所に入ってゆく。
「む」
何度目かの角を折れた時、女が忽然と姿を消した。
そこは、廃墟を思わせるボロ長屋が並ぶ通り。真っ直ぐ二百メートルほどの長さで、荒廃地特有の淀んだ空気が一帯を覆う。
(いや、それだけではないな)
ボロ長屋が軋音を立て、人影が次々と姿を表し始めたのである。
手には片刃の短刀・匕首と呼ばれる、ならず者が好む武器を。他にも刀や棍棒のようなものを持ち、迷い込んだ来訪者を歓迎するニヤついた笑みを浮かべている。
その中に二名、見覚えのある顔――お鈴に『仁と吉助』と呼ばれた、福蔵一家の手下だ。
なるほど、そういうことか。
六、七……ヴィフトールは指さし数え、髭を撫でた。
「へへ、いくら武辺者でも、丸腰じゃどうしようもねえよなあ」
兄貴分の仁は、鍔のない刀を肩に担ぎながらにじり寄る。
正々堂々とした勝負を美徳とする者もいれば、勝利を美徳とする者もいる。相手の言い分は尤もであり、それを卑怯と謗る気はない。
ヴィフトールがやくざ者の一人を捉え、おっ、と声が出た。
その手に持つのは、火消しが使っていた大木槌ではないか――。
◇
四半刻。ならず者たちが背後で呻く。
この兵隊を率いていたらしい仁と吉助は、身体ごと壁に突っ込み、ぐったりとうな垂れていた。
――ドワーフがハンマーを持てば、千のオークを破る
そのようなこと、ならず者たちは知るよしもない。
大木槌を奪ったヴィフトールは、迫りくるやくざ者を次々と打ち飛ばしたのである。
総数九名。勢い込んだのは、せいぜい最初の五名程度で、残る四名は力量の差に及び腰に。桶に逃げ隠れたのもおり、頭を出したところを叩かれた。
「うわっはっはっ! ――さあ、どこだあー?」
ボロ長屋の戸を、一つ一つ開けてゆく。
ここは福蔵一家が持つシマのようだが、本拠点はまた別にあるらしい。
十棟ある長屋の中で、人の暮らしが見えたのが二棟だけ。あとはネズミと野良猫の相部屋ばかり。
そしてその、奥まった場所の戸を引くと、
「ひ……っ!?」
今まさに、長屋に空いた壁穴をくぐろうとする、藤色の着物姿の女があった。
長屋に抜け穴がある。ドワーフの鼻は一件目でそれを嗅ぎつけ、女を追い詰めるように、わざと一つずつ戸を開けていたのである。
結果、恐る恐る持ち上げた顔、乾ききっていない濡れ髪は、たっぷりと埃で汚れていた。
「次は、お前の穴をくぐらせてもらうとしよう」
「ま、まま、まっておくれよ! このままもイイけれど、ちょっと一杯引っかけてからやろうじゃないか、ね?」
女は身をよじりながら、するりと着物をはだける。
ヴィフトールは、ほう、と目を細めた。
たわわな胸の間に、小さな徳利が一本、挟まっているではないか。
「酒は人肌に温めたのがいい――さあ、呑んでおくれよ」
あられもない姿で男を誘う女。
これに何の警戒もせず、汚れた畳に上がるヴィフトール。
酒を一気に、ぐいと飲み干せば、女はそっとしだれかかる。
◇
日はすっかりと暮れていた。
ボロ長屋の中では、ドワーフの高いびきがしている。真っ裸で、満足気に。
なので、月明かりを背に受け、長い影が差すのに気付いていない。
「――! ――!」
聞き覚えのある声と共に揺すられ、むうと唸る。
やっと身体を持ち上げ、顎が外れるかのような大あくびをして、やっと声の主を検めた。
「なんだ」
女・お鈴は、きょとんとした顔をしている。
思えば真っ裸だ。視線を動かし、脱ぎ捨てた服を探したものの、
――してやられた
火竜の革を使った服とブーツ。バックルに銀細工をあしらったベルト……すべて無くなっていた。
手に残るは柔肉の感触のみ。当然ながら、身体の下で身悶えを続けた女の姿はない。
(酒に眠り薬でも混ぜていたか。……しかし、俺を倒すのが目的なら、寝入ったところを刺せばいいものを)
律儀な女だ。
目を向けた薄ぐら闇の中で、恍惚に染まった表情を思い出す。
「そう言えば、外にいた連中はどうした」
「――?」
ソー……? と首を傾げるお鈴。
何かがおかしい。言葉が通じていないと気付くまで時間を要せず、胸に手をやれば、
「なるほど」
首に提げていたペンダントまで無くなっていたのである。
異なる地でも言葉を解することができるもの。エルフと和解の際、贈られた品で紛失しようが構わないのだが、言葉が解らなくなるのは少し面倒だ。
さてこれは困った。
恐らく『何があった』と訊ねているであろう、心配顔のお鈴。目明かしである彼女に、ヴィフトールは何かを書く仕草をしてみせた。
「――」
意図を理解したらしく、調書に使う携行筆と紙を受け取る。
そして迷わず、すらすらと筆を走らせた。
エルフは芸術に長けているが、ドワーフも負けていない。手本もないのにあっという間に描いたのは、先ほどまで抱いていた女の顔、艶めかしい曲線をした女体であった。
「オブン――」
お鈴は言った。
オブン。それは確かスリ師であり、また福蔵の愛妾の名である。
(スリだけでなく、〈甘い罠〉まで仕掛けるか)
関心するばかりだ。
残されたのは褌一枚。しかし、ヴィフトールはこれを恥じることなく、
(暑い季節だ。ちょうどいい)
横で文句を言うお鈴を無視して、真っ裸のまま、上機嫌にボロ屋を後にするのだった。




