10話 提案されたものは
その数日後のこと、同心の加藤が長屋を訪ねてきた。
横川にある〈おみや〉と呼ばれる木綿売りの店主がスリに遭い、調書を取ってきて欲しいとのことである。
「まったく。不用心にもほどがありますよ」
麦湯を啜りながら、甲高いオカマ口調で加藤は言う。
「何をスられたんで?」
「懐に入れていた銭だそうです。二朱銀が三枚入った袋だとか」
ひえっとお鈴は後ろに手をついた。
「左衛門のおっちゃん、何でそんなに持ち歩いてんだよお」
「吉原に繰り出そうとしたらしいですよ。まったく、男はスケベなんですから」
鼻白んだように、加藤は音を立てて麦湯を啜る。
これにはお鈴も、ああ、と納得の声を発した。
「ですが、問題はスリなのです」
「へえ。何か手がかりが?」
「気付いたとき、このような文が入っていたようですよ」
加藤が懐から取りだしたのは、二つ折りになった小さな紙であった。
――ありがたく、ちょうだいしました
見るなり、お鈴の顔が険しくなった。
横で見守っていたヴィフトールは、字が読めない。何だと訊ねると、
「通称〈文返しのお文〉と言う女で、スリをしたあと、その懐に名の通り文を差し入れるのですよ。これまで被害が多いのですが、それよりも――」
チラりと加藤に目を向けられ、お鈴は言葉を継いだ。
「お文は、福蔵の女なんだよ」
忌々しげに。そして大きな舌打ちをした。
福蔵一家の親玉の愛妾で、最近では神田の方で活動していたと言う。
「先の手下どもをやっつけたことが、理由にあるかもしれませんよ。コトが大きくなる前に手立てを考えてくださいね」
麦湯が入っていた器を置いて、加藤は立ち上がる。
玄関先まで見送り、頭を下げるお鈴の手は、痛いほど硬く握られていた。
◇
おみやと呼ばれる木綿売りは、横川の南・本所を越えた両国橋の近くに店を構えていた。
中を覗けば一目で被害者だと分かる、ションボリと肩を落とした男。その後ろを、イライラを足音にして行き来する妻らしき女の姿があった。
「左衛門のおっちゃん、とんだ不幸に遭っちまったなあ」
のれんをくぐると、男はパッと顔を明るくした。
「お鈴ちゃん! 来てくれたのかい!」
「あったりめえだろう。さあ状況を詳しく訊かせておくんな」
後ろで睨む女房を見ない振りをしながら、左衛門と呼ばれた男は店の奥・客間へと案内される。
ヴィフトールもその後ろを追うのだが、女の前でふと足を止め、
「鬱憤を晴らす相手が欲しければ、遠慮なく言うがいい」
小声でささやきかける。
「馬鹿言うんじゃないよ」
女は笑いながら、尻に伸びる手を叩くのだった。
◇
「おっちゃん。イイ年して吉原に通うかあ?」
「いやはや、これはその……」
客間の中。呆れるお鈴の前に、左衛門はばつが悪そうに頭を掻く。
その姿はさながら、娘に叱られる父である。
「しっかし、ちと臭うな。銭を持っているところを狙われるなんてよ」
吉原で接待を受けることはあっても、自らの足で通うことはない。
だがスリの被害を受けた日、急に思い立って足が動いたのだという。
「――そう仕向けられたのだ」
横で聞いていたヴィフトールは、重い口調で告げた。
「仕向けられた、だあ?」
「そうだ。聞くところ吉原とやらは色街であろう? 最近どこかで名を耳に入れられ、女の温もりを思い出したのだろう」
左衛門は顔を赤く、そう言えば、と考える素振りをみせた。
「客が『吉原に着てゆく服を』と言ったり、飲み屋で名前を聞いたり……確かによく耳にした!」
そして、あっ、と声をあげたかと思うと、
「そうか、二朱銀二枚……!」
叫ぶように言い、腰を浮かせる。
「木綿を買いにきた男が言っていたんでえ。『吉原の門にいる男に二朱銀二枚渡せば、初会と裏を飛ばせられる』と……」
「……どういうことでえ?」
左衛門は説明した。
遊女と一席設けても、すぐに床入りとはゆかない。
まず顔合わせの“初会”にて五千文を支払い、次に“裏”にて同等の額を。そして次に“馴染み”となり、そこで初めて愉しむことができる――と。
小判にして十両。それが二朱銀が二枚で済むなら、今しかないと思ってしまうのが男の性である。
「そんな胡散臭い話に食いつくなっての。一緒に寝るだけで十両もするとこで、いきなり値下げなんて裏があるに決まってらあ」
と、憤慨しながら腕を踏むお鈴。
口ぶりから、吉原で何をするか分かっていないな、とヴィフトールは推察した。
「ま、下手人は割れてんだ。アタシに任せておきな」
「よろしく頼む。このままじゃ、かかあの視線が痛くて痛くて……」
畳に両手をつき、深々と頭を下げる左衛門。
「それはそうと、もう一つ」
「ん? どした?」
そして居住まいを正し、両袖の中に手を差し入れた。
「今度なあ、それぞれの町が集まって、祭りを催そうかとの話が出ていてよお」
「いいじゃないか! それで、何をするんだ?」
柏手を打って奉公の小僧を呼び、店に何かを取りにゆかせる。
ぱたぱたと足音を立て、やってきた小僧から一枚の紙を受け取り、そのまま二人の前に置いた。
「――仁王様に、これに出てもらえねえかと」
紙に描かれていたのは、太った男たちが組み合う図――相撲の絵であった。
◇
江戸っ子は無類の相撲好き。
最初に挙がったのは、横川だけで行われる大食い大会だった。
しかし誰かが冗談で『相撲の方がもっと盛り上がるのではないか』との言葉が鶴の一声となり、あちこちの町を巻き込んだものとなったらしい。
相撲は神事なのだが、広く知れ渡ることになった木間屋の火事に乗じ、収益の一部を寄付金として納めることを名目にしたことで、公儀から許可を貰った結果と言う。
「――よし、きやがれ!」
浅草のある寺に、威勢のいい声とバチーンと肌がぶつかり合う音が響いた。
丸い輪の中に、上半身裸のガタイのいい男二人――片方は毛むくじゃらのヴィフトール。もう片方は、火消しの臥煙・紋次郎である。
どちらも鍛え上げた身体。引き締まった筋肉に汗の珠を浮かばせ、一進一退の攻防を続けるサマは、日に日に見物客を増やしていた。
「いいぞ、紋次郎ー!」
「仁王、踏ん張れいー!」
男たちが囲う外では、若い女たちが黄色い声をあげてははしゃぐ。中には御忍びの女房らしき姿もあり、うっとりと恍惚めいた表情で眺め続けていた。
一方、組み合う紋次郎は、ヴィフトールを一気に土俵際まで押し込む。
ヴィフトールはこれを足を踏ん張って堪える。
紋次郎が一気呵成に攻め入るところを、一瞬の隙を見つけ、力任せに横倒しに転がした。
「くそったれっ、もうちょっとだったのに!」
身体中を泥まみれに、しかし紋次郎の口ぶりは楽しげだった。
そのまま休憩に入ると、見物客たちは差し入れを置いて引き揚げてゆく。境内はあっという間に、関係者のみとなった。
「相撲を知ったばかりとは思えねえや。これなら優勝も間違いねえなあ」
汗を拭い、冷ました麦湯を飲みながら紋次郎が言うが、ヴィフトールはどこか冴えない。
と言うのも、紋次郎が相手にしての勝敗は五分。
勝ち方も力に物を言わせたもので、先ほどのように運任せなのだ。
素人相手なら勝てるだろうが、それでは不安要素しかない。
「殴るのは駄目なのは厳しいな。狭い輪の中で、転ばすか押し出すかの二択は動きづらい」
「はははっ、そりゃあ力比べだからな。横綱となりゃあ凄えもんだ、土俵際に追い込まれても目が離せねえ。まったく、いい祭りを考えたもんだぜ」
しばらく楽しめらあ、と笑う紋次郎。
【町対抗相撲大会】
そう銘打った読み売りは、みな奪い合うように求めた。
江戸の東側。上野・神田・浅草・日本橋・八丁堀……協賛したそれぞれの町から選ばれた代表が相撲を取り、その優勝者を決めるというもの。
だが、相撲もさることながら優勝賞金がなんと三両。
参加を表明する男たちがあとを絶たず、ヴィフトールや紋次郎のように、あちこちで相撲の練習に励む男たちの姿が見られた。
「誰もが自分が優勝できるとは思っちゃいねえし、お遊びでやるぐらいがちょうどいいや」
「む、それはどうしてだ?」
「選出されるのは、最終的に各町の相撲部屋のモンだ。賞金もあるが、どの町も勝ちてえからよ」
「俺は賞金が欲しい」
「はははっ、そいつあ高望みってやつだ。なんせ浅草の代表は、高見部屋の横綱・大鹿角だからよ。現役横綱に勝てるわけがねえ」
む、と口を曲げたヴィフトールであるが、ちょうどそこに、
『おーい!』
てえへんだ、と駆けてくるお鈴の姿があった。
各町の代表となる相撲取りの調査に出かけると大義名分を掲げ、相撲見物に出かけていたのである。
「に、日本橋で、かの大横綱、吾妻丸が、ど、土俵に、復帰するって……!」
「なっ、なんだとぉッ! そいつあ本当かッ!」
息も絶え絶えに、お鈴は何度も頷く。
かつて江戸に敵なしと呼ばれた英雄的存在。それが祭りの日限定で復帰すると宣言し、各地で大きな話題となっているらしい。
臥煙の手下たちも歓喜に震え、中には手を叩いて喜ぶ者の姿もあった。
「こうしちゃいられねえ! 見物にゆくぞ!」
おお、と頭に従う手下たち。
あっという間に寺は、ヴィフトールとお鈴だけに。遠のいてゆく者たちの背を見ながら、
「これは気合いを入れねばならぬな」
と、腕に力を込めるのだった。




