その名はテペヨロトル
一晩明けてから、改めて行動を開始した。
残忍のジープに荷物を詰め込んでから、ミコの呼び掛けによって木々を退かせて作った道を進んでいくことになった。だが、悪路であることには変わりないし、ミコは乗り物に物凄く弱いことが判明したため、速度は出さずに走った。
ミコが目覚めさせてくれた精霊──トナルがジープに宿っているとはいえ、動力源がガソリンであることには変わりはなく、それには限りがあるからだ。出来る限り燃費を少なくしつつ距離を稼ぐには、安全運転に勝るものはない。
後部座席に座る鬼無里は、顔色が芳しくないミコを窺いつつ、運転に集中している残忍も気にしていた。愛車を引っ張り出す際に一悶着あったこともあり、空腹が極まっていたこともあり、昨夜は上手く寝付けなかったのだ。だから、明らかに残忍は機嫌が悪かった。血糖値が上がっていないに違いない。
「仕方ない……」
鬼無里はキャリーバッグを開けて中を探り、飴玉の入った袋を取り出した。プロレスラーである以上、何かと酷使する喉を労わるためでもあり、単純に甘いものが欲しい時に食べるために入れておいたのだが、こんな時に役立つとは思わなかった。
「先輩」
「ん、おう」
鬼無里が飴玉入りの小袋を運転席に差し出すと、残忍はそれを受け取り、一旦車を停めてから口に入れた。
「ミコちゃんもいる?」
鬼無里が飴玉を差し出すと、ミコは横目に窺ってきた。
「なんですか、それ?」
「飴玉。レモン味だけど」
「キラキラしていて綺麗ですね! 昼間の太陽みたい!」
透明な小袋に包まれた飴玉を見、ミコは目を輝かせる。
「じゃ、どうぞ」
鬼無里がレモン味の飴玉を差し出すと、ミコはおずおずと手のひらを広げた。だが、昨日の一件があるので触れ合うことはなく、鬼無里は飴玉をミコの手に落とした。ミコは小袋を開けるのにひどく苦労していたが、黒曜石で出来た槍の穂先で切り、やっと飴玉を取り出せた。黄色く透き通った飴玉をまじまじと眺めていたが、意を決して口に放り込んだ。がりごりと歯にぶつけながら、不慣れな様子で口の中で飴玉を転がしていたが、目を輝かせた。
「甘い! ちょっと酸っぱいけど甘い!」
「それで、少しは車酔いが落ち着いた?」
鬼無里が問うが、ミコは飴玉を舐めることに集中しているのか、うっとりして答えもしなかった。だが、徐々に顔色が良くなってきているので、気分が紛れているのは確かだろう。
「甘いものは御馳走だからなぁ」
俺達はその感覚が薄れちまっているけど、と残忍はバックミラー越しに鬼無里とミコを窺った。
「ですねぇ……」
鬼無里はしみじみと感じ入り、自身も飴玉を味わった。異世界に連れてこられてからは、何かと不便だから、物資が溢れ返っている現代社会がいかに潤沢なものかを嫌というほど思い知らされる。
「バニラアイスを摂取したい。シチューライスも食べたい」
鬼無里がぽつりと呟くと、残忍も力なく呟いた。
「夕子のメシならなんでもいい。あと、日本酒で一杯やりたい」
「この際、超日のちゃんこでも構いませんよ」
「水道橋駅の立ち食いそばでもいいぞ」
「いっそのこと、サービスエリアのカレーでもいいです。あの、レトルトで冷凍食品の粉っぽいコロッケが乗っているようなやつです」
「やめようや……。ひもじくなってくるから」
残忍の切なげな声色に、鬼無里は頷くしかなかった。思い出せば思い出すほど空しくなるのに、食べ物のことばかりは振り払えない。二人の会話の意味が解らなかったのか、それとも飴玉に感激しすぎて聞く耳を持たなかったのか、ミコは終始にこにこしていた。
気が紛れたのなら、いいのだが。
それから、ジープは走り続けた。
ミコの道案内とジープのトナルに導かれるままに進み続けると、木々がまばらになってきた。その理由は明白で、何者かによって気が間引かれているらしく、切り株がまばらに残っていた。ということは、集落が近くにあるのだろう。
だが、鬼無里も残忍もそれを喜べる気分ではなかった。現地住民からしてみれば、明らかに怪しいモノに乗り、見慣れない服を着た男達がやってきたのだから、確実に警戒されるだろう。ミコが一緒ではあるが、だからといって安心するのは早計だ。ミコはどうにも頼りないからである。
「どうする?」
車を一旦止め、残忍は後部座席に振り返った。
「この場合、車から下りない方がいいのでは?」
と、鬼無里は提案したが、ふと影が過ぎったので目を上げた。直後、ボンネットに何かが降ってきた。ミコが降ってきた時よりも衝撃が大きく、車体全体が大きく揺れた。残忍はハンドルを握り、鬼無里は踏ん張ったが、ミコは耐え切れずに吹っ飛んだ。
「ぎゃう!」
上下逆さに転がり、床に落ちてしまい、ミコは涙目になる。
「びっくりしたぁ……」
「どいつもこいつも俺の車に何の恨みがあるってんだよぉっ、ンノヤロォオオオッ!」
残忍は怒鳴りながら身を乗り出したが、硬直した。鬼無里もまた、フロントガラス越しにその者を見て固まった。なぜなら、そこにいたのは獣人だったからだ。黒い斑点模様が付いた体毛に覆われた肌、丸い耳、突き出したマズル、口元から覗く太い牙、太い尻尾。筋肉質な上腕にはターコイズの填まった金の腕輪が付いていて、ポンチョに似た刺繍入りの布で下半身を覆っていた。骨格は逞しく、毛皮越しでも解るほどの鍛え上げられた筋肉を備えている。
「あ、ジャガーマンだ」
鬼無里が頭に浮かんだ単語をそのまま口にすると、残忍はちょっと毒気を抜かれた。
「そのまんまじゃねぇか」
「何奴だ」
ジャガーマンの金色の瞳が二人を捉え、手にした槍を構える。不安定な足場であっても、しっかりと腰を据えているので、手練れの狩人だと一目で見て取れる。へっぴり腰のミコとは大違いである。
「……えーと」
ごそごそと後部座席の床から身を起こし、ミコが顔を出すと、ジャガーマンは構えを緩めかけたが──解かなかった。
「お前か。こいつらは何なんだ」
「えと、まずは話を聞いて下さいませんか。首長様」
「話だと? 下賎たる身の上のお前が、この俺と言葉を交わせるなどと思い上がるな!」
そう叫ぶや否や、ジャガーマンが槍を突き立てようとしたので、残忍は咄嗟にクラクションを鳴らした。甲高い音が響くと、ジャガーマンは尻尾をぶわっと膨らませて背を丸め、びょんっ、とボンネットから飛び退いて距離を取った。
「この隙に逃げる!」
残忍は素早くギアを切り替えてから、アクセルを踏み込んだ。急発進したことで、鬼無里とミコはまたもや振り回されたが、なんとか座席に戻った。タフなエンジン音を轟かせながら突っ走るジープには、さすがのジャガーマンも追いつけまい、と鬼無里はバックガラスを見やるが────。
「先輩、もう追い付かれそうですけど」
ジャガーマンは恐ろしく足が速かった。槍を持っていては速度が落ちると判断したのか、手近な木に投げつけて刺してから、身を低くして駆けてくる。目が完全に据わっていて、鬼無里はさすがに寒気がした。恐らく、かなり高貴な身分のジャガーマンなのだろう。だから、ミコと見知らぬ男達に侮辱されたと認識したらしい。これでは、言葉は通じても解り合える気はしない。
しかし、土地勘のないジャングルを逃げ続けられるわけがない。残忍もそれを解っているので、どうしたものかと悩んでいるようだった。それでもアクセルを緩めないのは、愛車をこれ以上壊されたくないという執念である。
ざっ、ざっ、ざっ、と左右の木々が不自然に揺れた。かと思ったら、突然ジャガーマンが前方に立ちはだかった。車に追い付くどころか、脚力を駆使して三角飛びを繰り返して追い抜いたのだ。
色んな意味でとんでもない。さすがはジャガーマンだ。などと感心している余裕などなく、残忍はブレーキを掛けた。地面が柔らかいので若干ドリフトしつつも、ジャガーマンを引く手前で止めた。
「下賎の娘! 一度ならず二度も俺に無礼を働くとは、それでもお前はナワルか!」
ジャガーマンは腹の底から力強く声を張り上げ、牙を剥く。
「ひいいいいん」
ミコは後部座席で丸まり、頭を抱えた。すっかり怯えている。だが、それでは話が前に進まないので、残忍はミコに言った。
「ミコちゃん、なんかよく知らねぇけど謝った方がいいぞ」
「謝ると言っても、私はナワルとしての務めを果たしているだけであって」
「黒の神のナワルたる者はこの俺だと、お前も解っているであろう! その役割は俺が果たすべきものだ、神殿も供物も譲るがいい! なぜ、それが解らぬ!」
ジャガーマンは大股に迫ってくると、怒鳴り散らしてきた。
「無理ですよぉ、そればっかりは! 私だって自分がナワルだって知ったのはついこの前で、黒の神様と通じる方法もまだよく解っていませんけど、誰かに譲れるものじゃないんですよ!」
ミコは気圧されて声を上擦らせながらも、必死に言い返した。
「なんだ、あっちがごねているだけか」
鬼無里が拍子抜けすると、残忍は腕を組んだ。
「んで、どうする?」
「ミコちゃんの味方をするしかないんじゃないですかね? 俺達はジャガーマンの意見に賛成出来る立場じゃない、というか、俺と先輩の後ろ盾であるミコちゃんを支えないことには」
「だよなぁ」
「でも、ジャガーマンを納得させることって出来ます?」
「その材料を今から考えるしかねぇだろ」
「食われたら困りますからね」
「……リアルに困るよな」
鬼無里の物騒な軽口に、残忍はひどく真剣に答えた。言葉が通じても話が通じない相手、というのはいくらでもいる。日本人同士でもそうなのだから、異国の獣人ともなれば尚更だ。文化も価値観も違うのだから、折り合いをつける部分を見出すのが難しい。
ミコとの関係もそうだ。こちらが彼女を信用しきれない限り、彼女もまた鬼無里と残忍に心を開いてくれないだろう。だとすれば、ここが踏ん張りどころだ。ジャガーマンを説き伏せ、鬼無里と残忍とジープを召喚することが出来たミコこそが、黒の神のナワルだと信じてもらわなくてならない。
だが、どうやって。
一行は、ジャガーマンの集落に連行された。
車は置いておくようにと命じられ、全員外に出された。相手が一人だけなら逃げられるのでは、と鬼無里はちらりと思ったし、残忍も少しは考えただろうが、先程のジャガーマンの身体能力の高さを見ているとその気が失せた。
先導するジャガーマンの肩の筋肉は分厚く盛り上がり、滑らかな毛皮に包まれた背筋の仕上がり具合など惚れ惚れするほどだ。大方、狩猟で鍛え上げた筋肉だと思われるので、槍を投擲されたらまず勝ち目はないし、致命傷を負うのは確実だ。相手は日々野生動物を相手にしているのだから、いかにプロレスラーと言えども、現代日本で生きてきた人間では勝負をする以前の問題である。無駄な戦いを避けることもまた、立派な知恵だ。
だが、それは活路ありきの話でもある。ミコが頼りになればなぁ、と鬼無里は内心で嘆息するも、当のミコはまた泣きそうになっていた。その気持ちは解らないでもないが、今はしっかりしてほしい。
森が途切れて開けた土地に至ると、石造りの家が並んでいた。集落の中と外を区切るためなのだろう、柵で囲いがされている。彼と似たような背格好のジャガーマンが何人もいたが、身体的特徴からして男ばかりだった。世話役の女達や従者の子供もいるが、こちらはジャガーマンではなく他種族の獣人だった。きっと、獣人の種族によって身分差があるのだろう。
「お帰りなさいませ、首長様」
門を守っていた若いジャガーマンが駆け寄ってきたが、俯いているミコと見知らぬ男達を見て耳を曲げた。
「それは、あの」
「この俺を差し置いて、黒の神様のナワルだと言い張る小娘だ。ツノと尻尾が生えている程度でなんだというんだ。黒の神様のナワルは、先祖代々オセロトルと決まっているではないか。テオティワカンの神殿から離れずに息を潜めているのであれば、見逃してやったのだが、神殿から離れたばかりか妙な連中を招き寄せていた。血の儀式の罰を与えなければ、オセロトルの栄誉に関わる」
ジャガーマンの首長は不愉快そうに尻尾を揺すり、こちらを一瞥した。敵意と苛立ちが漲った、鋭い眼差しだった。
「この辺の地名もテオティワカンだったのか」
「というか、地名が全く同じなんですねぇ。意外と」
残忍に鬼無里が返すと、残忍は納得しつつマスクの口元を上げた。
「道理で息苦しいわけだよ。メキシコシティと標高が同じだから、当たり前っちゃ当たり前だよなぁ」
「先輩の場合、マスクを脱げばいいだけのことでは?」
「気合いの問題だ」
「そうですかねぇ」
残忍の言葉に鬼無里が半笑いになると、ジャガーマンの首長が二人を見咎めた。当然である、無駄口を叩いたのだから。太陽を背にして屹立した巨体の獣は拳を固め、手始めに鬼無里の頭上へと振り下ろすが────命中する寸前で何かに弾かれた。
ばちんっ、と電気が爆ぜたような音と衝撃で両者は仰け反り、鬼無里は面食らった。残忍もきょとんとしていたが、一番驚いていたのはジャガーマンの首長だった。
「これは……」
ジャガーマンの首長は余韻が残る拳を凝視していたが、後退り、背を向けた。
「ああ、俺には解る。解ってしまう。解りたくはないが」
「だから、最初からそう言っているじゃないですか!」
ミコが言い返すと、ジャガーマンの首長は苦々しげに振り返る。
「……無礼な真似をした。貴公らが黒の神様に見初められた供物だとは存じ上げず、血気に走った行いをしてしまった。首長にして戦士たる3のジャガー、この過ちを償おう。血の儀式の用意を!」
ジャガーマンの首長が力強く声を張ると、獣人達は一瞬躊躇うも歓声を上げた。
「血の儀式って?」
嫌な予感しかしねぇけど、と残忍がミコに問うと、ミコは舌をべろっと出してみせた。
「舌に穴を開けて血を抜くんです。それだけで済むならいいじゃないですか」
「で、血の儀式をするのは誰? 俺も先輩も嫌なんだけど」
鬼無里が怯えつつ尋ねると、ミコはジャガーマンの首長を指した。
「首長様ですね、この場合は」
「倫理観とか価値観が違うとはいえ、さすがにこれはちょっと」
鬼無里が目を泳がせると、残忍も渋る。
「俺達からするとグロいけどさ、これもまた信仰心の現れだしなぁ……。メヒコの人達がタトゥーを入れまくるのも、こういう感じの信仰心ありきのことだし……。だから、否定するのもなんだし、止めてどうにかなるものでもないしなぁ……」
「大丈夫ですよ。舌先に黒曜石の楔を置かれて、木槌でドスンッてやられて穴が開くだけですから。やられた後はちょっと痛いけど、傷はすぐに塞がるんで大したことないですよ」
ミコは事も無げに笑ったので、残忍は身を引いた。
「ええ……? てか、ミコちゃんもやられたことあるのか?」
「ありますよー。ナワルであることを証明するために色んな儀式をやりましたよ。ナワルはそう簡単には死なないとはいえ、いやあ痛かったですね。一杯血を抜かれたし、生皮も剥がれたし、心臓を切り取られて捧げられたり、手足を切られて食べられちゃったり、とか。まあ、元に戻っちゃうんですけどね」
ミコはいつになく誇らしげに語ったので、根本的な価値観の違いを思い知らされた。鬼無里と残忍はしばらく顔を見合わせていたが、恐る恐る尋ねた。
「その儀式、俺達も同席しなきゃダメ?」
「ダメですね。それも礼儀のうちです」
ミコに正され、鬼無里はげんなりした。
「リングの上なら平気、リングの上なら伝説、リングの上なら……」
残忍は彼なりに平常心を保つ努力をしていたが、あまり功を奏していないようだった。プロレスにおけるハードコアマッチも流血沙汰が多いが、それとこれとは訳が違う。
“ハードコア・ジャンキー”という二つ名を持つ残忍は、蛍光灯マッチやカミソリボードマッチや画鋲マッチといった、凶器攻撃ばかりの試合を繰り広げた末、SJPWハードコア王座を戴冠している。だが、それとこれとは別なのか、残忍はマスクを下げて表情を隠していた。
それでも、郷に入れば郷に従うしかない。
血の儀式は祭壇で執り行われた。
集落の中央に建てられていた小型のピラミッドの頂点にて、黄金の首飾りや腕輪や鮮やかな羽飾りといった盛装に身を包んだジャガーマンの首長は、鳥人の神官に身を委ねていた。両手足を押さえ付けられて舌を出し、顎が閉じないように器具を填められ、舌を伸ばして石の台座に乗せられた。ネコ科特有の薄く棘の生えた舌に、黒曜石で出来た楔が乗せられる。そして、神官が木槌を振り下ろすと────。
がぎんっ、と黒曜石の楔が石の台座に激突する。ジャガーマンの首長の押さえ切れなかった呻きが漏れ、縛られた手足がびくつき、尻尾がぶわっと太くなった。貫かれた舌からは新鮮な血が垂れ落ち、神官がそれを木の椀で受け止めると、人々は歓声を上げた。
ミコも彼らと同じく声を上げていたが、鬼無里と残忍は血の気が引いて青ざめていた。舌なんて神経が過敏な部位を、尖ったもので一撃で貫かれるだなんて、想像しただけでも痛すぎる。試合中にうっかり舌を噛んだだけでも、猛烈に痛いのに。
「帰りてぇよお……」
残忍が泣きそうな声を出すと、鬼無里は弱々しく同意した。
「逃げたいですよねぇ……」
「何を言いますか、これからが本番ではないですか」
ミコは二人を見上げ、にんまりする。
「祭事の後は宴会です!」
なるほど。だから、人々のテンションが高かったのか。と、鬼無里は同意しかけたのだが。
「普通の祭事なら、生贄となった者をバラして皆で頂いて、黒の神様に祈りを捧げるんですけど、首長様はナワルなのでそれは出来ません。なので、森で獲ってきた獣が出てきますね」
「えっ、バラされんの!?」
残忍が全力でドン引きすると、ミコはきょとんとする。
「おいしく頂くのも礼儀のうちですよ?」
「う、うううう」
それはそうなのだが、そうかもしれないのだが、しかし。鬼無里は比喩でもなんでもなく、頭が痛くなってきた。これでいいのか、いや、メソアメリカ的にはこれが正しい。だが、現代日本の人間の許容範囲を遥かに超えている。それを受け止めきれるのか。いや、受け止めきらなくてもいい。そうでもないと、メンタルが持たない。
適度にやり過ごそう、と鬼無里は内心で誓った。
その夜、食卓には豪勢な料理が並んだ。
瓜のスープ、トマトと豆の煮物、イモと雑穀の粥、そして────こんがりと焼かれた獣の肉。味付けこそされていないが、じゅうじゅうと肉汁が滴り、炭火で焼かれたので香ばしく食欲をそそる匂いが広がっていた。これはきっと来客に振る舞うための御馳走であり、集落の人々の普段の食事よりも遥かに栄養価が高いだろう。
だが、先程の光景がどうしても忘れられなかったため、鬼無里と残忍は食欲が込み上がり切らなかった。あれだけ空腹だったのに、喉に異物が挟まったような感覚に苛まれていた。しかし、料理に手を付けなければ失礼極まりないので、鬼無里も残忍も機械的に胃の中に押し込んでいった。
「……先輩、旨いですか?」
鬼無里が瓜のスープを啜りながら呟くと、マスクを半分ほどずり上げて口元を出している残忍は俯いた。
「旨いはずなんだが、味が脳に届かねぇよ」
「さっきのアレ、強烈すぎましたからねぇ」
「で、あの首長はどこに行ったんだ」
残忍が訝ると、獣の肉にかぶりついていたミコが言った。
「首長様なら、御自分の御屋敷に戻りましたよ。舌の穴ぐらいなら、しばらくすれば塞がるんですけどね」
「いや、穴は塞がっても痛いものは痛ぇだろ」
残忍が経験を踏まえて返すと、ミコは首長の屋敷を見やった。
「痛みもすぐに収まっちゃうんですけどね。どうなさったのかなぁ、首長様」
「そういえば、さっきのアレってなんだったの?」
鬼無里はトマトと豆の煮物を口にしたが、唐辛子が効いていて、見た目よりも辛かった。なので、ほとんど食べずに残忍に寄越してやった。辛いものが苦手なのだ。
「アレって?」
首を傾げたミコに、鬼無里は口直しに粥を啜る。
「俺が首長さんに殴られそうになったけど、ばちんって弾けて当たらなかったじゃない。おかげで俺は痛くもなんともなかったんだけど、あれもやっぱり黒の神様の仕業?」
「そうです! 黒の神様の御加護です。供物である方々は、神殿の祭壇の上でなければ、いかなる攻撃も通用しないようになっているのです!」
得意げなミコに、残忍はトマトと豆の煮物を食べる手を止めた。
「それはつまり、俺らを祭壇っつーかリングに上げなければ無敵ってことだな? よくねぇなー、そういうの。うわ、ダメだな」
「ダメですねぇ」
鬼無里が肩を竦めると、ミコは不思議がる。
「なんでですか? 他国との戦いでは英雄になれますよ? だって、どんなに優れた戦士の槍も当たらないんですから!」
「あのなぁ、ミコちゃん。俺らはプロレスラーであって、兵士でも戦士でもねぇの。そりゃまあ、団体どころかプロレス業界全体で縄張り争いしてはいるけど、それはそれだ。殺し合いはしねぇよ」
残忍は木のコップに入った白い液体に口を付けたが、咳き込んだ。
「強ぇな、この酒!」
「謎の白い液体の正体ですね」
「なんだそりゃ」
「謎の白い液体は謎の白い液体ですよ」
「ああ、これはプルケですけど」
ミコは二人のやり取りを横目に、白く濁った酒を傾けた。それどころか、ぐいっと飲み干した。
「おいおいおいおいおい!」
残忍が慌てるが、ミコはけろっとしていた。
「大丈夫ですよ、ナワルはプルケでは酔いません」
「不安しか感じない展開の数々だ」
俺は知らないからね、と鬼無里は顔を背けた。残忍もまた目を逸らし、黙々と料理を平らげた。その言葉は正しかったらしく、ミコは涼しい顔をしてプルケのお代わりをしていた。超日本プロレスの中でもかなり酒に強い残忍でも辟易するほどの酒精なのに、二杯、三杯と飲み干していく。この辺は人間離れしている。
住民達は三人の様子を気にしながらも、歌い、踊り、楽器を鳴らし、宴会を満喫していた。毒々しささえある、鮮やかな色彩の衣装を身に纏い、位の高い者は黄金の装飾品で着飾り、篝火の輝きを帯び、獣と人が入り混じった肢体を躍動させる。その様は純粋に美しく、生命力に溢れていた。
宴会が一段落した頃合いに、首長が戻ってきた。下働きと思しき人間の少年を従え、儀礼用の大きな羽飾りが付いた衣装を身に纏い、雄々しい面差しは一層引き締まっていた。人々は歌も踊りも中断し、佇まいを直した。ジャガーマンの首長は真っ直ぐに三人の元にやってきたので、鬼無里と残忍も腰を上げた。ミコもそれに倣う。
「神託が下った」
ジャガーマンの首長は両膝を地に付け、こうべを垂れる。
「黒の神様はこう申された。オセロトルの一族に伝わる黒曜石の鏡を巡り、争い、戦い、それを勝ち得た者が神々に喜びをもたらすと。しかし、こうも申された。他の一族に伝わる鏡も得なくては、神々の喜びは足りない、とも。故に、俺は鏡を抱いて出奔しなくてはならない。首長としてではなく、王に仕える戦士ではなく、鏡を守るナワルとして」
ジャガーマンの首長は立ち上がると、二人の異邦人を見据える。
「異邦の者、黒の神様に選ばれし供物よ。俺は首長としての名を捨て、新たな名を名乗ろう。オセロトルの中のオセロトル、テペヨロトル!」
首長、否、テペヨロトルが力強く拳を上げて宣言すると、人々はわあっと沸き立った。首長様を神々の戦いに送り出そう、そのためのお祝いだ、と言い出してまた宴会を再開した。人々は次々に食糧を出してくるので、鬼無里と残忍は彼らの備蓄が尽きそうで不安になってきたが、テペヨロトルはそれを諫めはしなかった。ミコの言った通り、舌の穴は塞がっていたが、傷が痛むのか率先して飲み食いはしていなかった。
人々の歌と踊りは、一晩中続いた。
翌朝。
首長の屋敷に招かれた鬼無里と残忍とミコは、家長の部屋に入った。テペヨロトルは首長らしい態度は取っていたが、儀礼用の飾りは全て外していて、戦いに赴く戦士に相応しい装いに着替えていた。麻の服に皮をなめした鎧を身に着けている。
「これが我が一族の鏡だ」
そう言って、テペヨロトルは壁に飾られているものを示した。
「あ」
「えっ?」
残忍が呆気に取られ、鬼無里が声を裏返すと、ミコは感嘆する。
「わあ、綺麗です!」
テペヨロトルがうやうやしく手にしたものは、ミコが感激した眼差しを注いでいるものは、どこからどう見てもチャンピオンベルトだった。黒い革製のベルト地にジャガーが牙を剥いたかのような図柄が目立つ巨大な黄金製のバックル、現地語を用いたロゴ。バックルの中央には黒曜石が填めてあり、鏡のような煌めきを放っていたが、それ以外はチャンピオンベルト以外の何者でもない。それも、恐ろしく豪華な代物だ。
「昨日のあんたの話をまとめると、俺達はそのベルトを巡って抗争を繰り広げなきゃならねぇのか? しかも、他の連中と」
「そうだ」
残忍が問うとテペヨロトルが頷いたので、鬼無里は唸る。
「でも、ただ抗争するだけじゃダメだろうなぁ」
「はうっ!」
すると、ミコが唐突につんのめった。大丈夫かと鬼無里と残忍が目をやると、ミコはゆらりと立ち上がり、目を見開いてヘビの尻尾もぴんと立てた。縦長の瞳孔は広がり、表情も一変している。
「神託が下りました! そうです、鬼無里さんが仰る通りです! 黒の神様はこう申されています、白の神様の陣営との抗争を勃発させ、そして観客を集めろと! ざっと五百人! 期限は1のウサギ!」
「随分とあっさり神託が降りてくるものだな。俺の場合は、きっちりと儀式を行わなければならなかったのだが」
不審げなテペヨロトルに、ミコはしたり顔になる。
「だって、私はナワルですからねー? 血の儀式をしなくてもいいほどに、私は黒の神様に近しいのです。それをまた疑うということは、首長様の、いえ、テペヨロトルの黒の神様に対する信仰心の弱さの表れということになっちゃいますよー?」
「……ふん」
そこまで言われては、テペヨロトルは黙るしかない。己が黒の神のナワルであることを誇るためには、信仰心が不可欠だからだ。それ故に、自身の信仰心を否定する言葉は口に出来ない。この世界における神の重みを思い知らされ、鬼無里は内心で自戒した。ただでさえ一言多い性分なのだから、余計なことは言わないでおこう。でないと、命に関わる。リアルに。
「で、ハコは?」
残忍が問う。
「箱……ああ、会場のことですね。ちょっと待って下さいね、今、神託の続きが来ましたので。テノチティトランでその辺は適当に見繕え、とのことです」
「ミコちゃん、本当にそれだけなの?」
鬼無里が食い下がると、ミコははっと我に返った。瞳孔も縮み、尻尾も下がる。
「それだけでした」
「1のウサギってのは?」
「1のウサギは1のウサギですが」
ミコがきょとんとしたので、鬼無里はしばらく考え込んで記憶を掘り起こした。その単語は、ゲームで見たような気がする。ええとなんだっけ、あれは確か周期を現す単語で、と鬼無里が悶々としていると────テペヨロトルの下働きの少年が日本語で呟いた。
「1のウサギは二十日後という意味です。数えて覚えました」
「え」
「あ?」
鬼無里が面食らうと、残忍も変な声を出した。
「なんだ。お前、喋れたのか?」
テペヨロトルが片耳を曲げると、少年は安堵と不安とその他諸々が入り混じった顔になり、ぐしゃりと歪めた。
「お願いします、なんでもしますから、ここから連れ出して下さい! あなた方は日本人ですよね? 僕もそうなんです、日本から来たんです、気付いたらここにいて、森の中で迷って、死にかけていたところを拾われたけど、奴隷にされてしまって! 助けて下さい!」
悲痛な叫び声を上げ、少年は死に物狂いで縋り付いてきた。残忍のカーゴパンツを掴む手は泥に汚れていて、栄養失調気味なのか爪がひび割れていた。髪はぼさぼさで、日に焼けているが顔付きはまだ幼く、十六歳前後といったところか。よく見ると、彼が身に着けているベルトは学生服のそれと同じで、擦り切れているがスラックスを履いている。昨日は暗がりだったので、気付けなかったのだ。
「覆面の男よ、俺の奴隷を買うのか?」
テペヨロトルが残忍に詰め寄ったので、残忍は少し考えてから、今にも泣き出しそうな少年を見下ろした。
「名前は? どこから来た?」
「あ……」
少年が口をぽかんと開くと、残忍は凄む。
「どうなんだ、あぁ?」
「あっ、はい、すみません。僕は伊瀬海人といって、東京の高校生で、その」
残忍は少年の肩を掴み、安心させるように揺すってから、テペヨアトルの目を真っ直ぐに睨んだ。
「いくらだ?」
「先輩、本気ですか?」
鬼無里がぎょっとすると、残忍は両手を上向ける。
「この状況で、子供を見捨てられるかよ。でもって、公平かつ手っ取り早い方法はそれしかねぇだろ」
「カカオ豆を五百粒。それだけ払えるのなら、くれてやる」
「よーし、解った。その代金は、テノチティトランの興行のファイトマネーで払ってやらぁな! でもって、そのベルトも俺が戴冠してやる! 相手が誰だか知らねぇが、プロレスに持ち込めるんならこっちのもんだ! 行くぞミコちゃん、俺の車を出すぞ!」
うわははははは、と変な笑い声を上げながら、残忍はミコの手を引っ張って出ていった。鬼無里はその場に取り残され、テペヨロトルと目を合わせたが、彼はベルトを担いで出ていった。
「行くしかなさそうだなぁ」
先輩は適当なことを言いやがる、でもそれが先輩だ、と内心で零しつつ、鬼無里は体を少しでも解そうとストレッチをした。関節を回して筋を伸ばしたが、昨夜の御馳走の余韻なのか、心なしか体が弛んでいるような気がする。
ここしばらく、ゴタゴタしていたせいで筋トレしている余裕がなかった。走り込みもしていないから、体力も落ちているだろう。当然ながら練習も疎かになっているので、こんなコンディションではまともな試合にはならない。テノチティトランで大会を開催する前に、練習環境も整えたいところだ。
テペヨロトルのおかげで神々の代理戦争の内訳は理解出来たが、それを実行するには準備が不可欠だ。しかし、大きな問題も生じた。鬼無里と残忍はあくまでも一選手であり、プロレス興行を執り行った経験はない。どちらも超日本プロレスの生え抜きなので、フリーランスで売り込みをしたことはないし、試合会場を押さえるための資金繰りもしたことはない。超日本プロレスの社長である小倉定利に電話してノウハウを聞き出したくなったが、異世界で電話が通じるわけがないので、鬼無里はため息と共に懸念を吐き出した。
体一つで金を稼げるのは、プロレスラーの最大の利点ではないか。
※ムーンライトに投稿した焼き直し版の「超日本プロレス獣臨録」が完結したので、こっちも完結扱いにします。させてくれ。