『青春逡巡(しゅんじゅん)~人生の果種(たね)~』
~今、悩みを抱えながら青春を送っている君へ~
青春は一度だけである。私にも青春はあった。今、青春している君に、敢えて50年前の私の青春をぶつけたら、何かが生まれそうな気がして、この本を書いた。でも、決して、私の青春を自慢したくて書いたのではない。私の青春は、失敗だらけ、みじめだらけ、頭の中がぐしゃぐしゃになって、気が狂いそうな青春だった。でも、青春なんてこんなものだと、あとで悟った。しかし、こんな青春だって他の誰でもない、この私だけの青春”ひとつだけの花”なのだ。誰からも文句を言われる筋合いはない。だから、君の青春も自信を持って欲しい。たとえどんな青春の日々でも、君だけの”ひとつだけの花”なのだから、大切にしなければいけないよ。
その1「反抗」
昭和43年11月27日朝、ラジオのアナウンサーが、「昨夜、渋谷にある青山学院大学本部建物が、ヘルメットを被った全学闘争委員会を名乗る学生たちに占拠されました。入り口はバリケードで固められ、出勤してきた大学職員は、中に入れずにいます」との速報を耳にし、私は下宿先の部屋で飛び起きた。プチブル学校などと言われていた私の学校にも、前年あたりから、学生運動の波が押し寄せていた。
前年の昭和42年3月、私は、1年浪人した後、東京渋谷区千駄ヶ谷の下宿で、大学生活をスタートさせていた。18年間、群馬の田舎町で過ごしてきた者にとって東京は、両親や親戚や友達や、その他すべてのしがらみから解き放たれた子犬のようにワクワクし、でもこれから何が起こるか分からない不安にドキドキする所だった。
国鉄総武線、千駄ヶ谷駅改札口を出ると、上を首都高速道路が走っていて、目の前に津田塾大学の建物、左に目をやると東京都体育館と屋内プール、その向こうには数年前、日本中が沸き立った東京オリンピックのメイン会場・国立競技場、さらに聖徳記念絵画館、大木に囲まれた外苑広場や銀杏並木などが、整然と区画されて並び、他に日本青年館、明治公園、神宮球場、秩父宮ラグビー場などなど、東京の真ん中にこんなに広く静かな所があることに驚いた。下宿先は、小ぶりの商店街を抜けて、小さな森に囲まれた鳩森神社の横を通り、
住宅街を左に折れ、小さなお寺を右に進むとあった。ここには郷里の友がすでに1年前から下宿していて、私が遊びがてら訪れた時、偶然、隣の空いている部屋を見つけ、大家さんに直談判して契約したもので、学校まで歩いて30分位で行けるというのは、我ながら上出来だったが、その後、学校の友達が飲んだ後、「終電がなくなったので泊めてくれ」と、次々とやって来るのには閉口した。
都内の大学では、昭和40年頃から、東京大学、日本大学、慶応大学、早稲田大学、明治大学などを皮切りに医師法改正問題や、使途不明金疑惑、授業料値上げ反対、などの運動と、授業ボイコットとストライキが、労働組合並みに盛んとなったが、これは昭和40年から始まったベトナムにおけるアメリカ軍の本格的な軍事介入と無関係ではない。米ソ冷戦時代の中、南北に分かれたベトナムで、「日本はアメリカ軍の人殺しの手伝いをするのか?」という思いと、人殺しの支援をする日本政府、アメリカ軍に軍事を始め、様々な物資を提供する産業界、そこに人材や研究技術を送り込む大学であっていいのかという素直な思いが、学生たちにはあった。
「アホ山と思っていたけど、ようやく青山も腰を上げたな」と、同じ下宿に住む早稲田大学の先輩が、茶化しながら声をかけた。「いやあ、まあ、ハハハ・・・」と私は答えようもなく、この先学校はどうなるのか、見当もつかないが、大学側が手をこまねいているはずもなく、何か対応策をこうじてくるはずだが、それにしても建物を占拠した連中は、誰なのか、とりあえず学校に行くことにした。
青学大は青山通りに面していて、色あせた赤レンガの長い塀が、いかにも古くからここに在ることを物語り、昔から学生たちがこの道を通っていたのだろうと想像できるが、青山通りを走っていた15円で乗れる都電が、この年・昭和43年に廃止され、古い風景がまたひとつなくなり、道路はいよいよガソリンをまき散らす車の天下となって、空気も排気ガスでさらに澱んできた。学校の正門を入ると、長い樹齢を生きてきた太い幹の、今まさに真黄色に染まり、沢山のギンナンを落とした銀杏並木が、まっすぐ道の両側に並んで100メートルほど続き、並木と並行して古い校舎が建ち、その奥に蔦がびっしりとからまったチャペルがあって、実に落ち着いた佇まいを見せているのだが、この時期、校舎の入り口や並木道には、大学への抗議文や、ベトナム戦争反対のスローガンなどを墨で大書した立て看板が、所狭しと並び、戦闘モードの光景になっていた。そしてその並木の切れた右側の建物が、大学本部で、今まさにバルコニーのように突き出た屋根から、ヘルメットを被った学生がマイクを握って、建物前に集まった学生たちに演説しているところであった。「我々はどこのセクトにも属していない。我々は大学側に対し、また同世代の皆さんに対し、意を決して問いかけるために行動を起こした。暴力を用いて解決しようとは思わない。対等の話し合いをしたい。しかしながら大学側は誠意ある回答を示さない」そしてこうも言う、「私が誰であるか、いずれ大学側にわかるでしょう。その時、退学を言われるかもしれない。それは正直、怖いです。でも私は行動してしまった。闘うしかないんです」一般学生にとって引き込まれる言葉で、拍手が起こり賛意の声がかかる「意義な~し!」。建物の前には、千人から2千人の学生がいるだろうか、じっと演説を聞いたり、友達同士で討論をしたりしていたが、そのうちどこからか学内デモが始まった。白や赤のヘルメットを被り隊列を組んだ集団が、作業着のようなジャンパーを着込んで、拡声器でリズムをとりながら、「大学解放!戦争反対!」などと叫び、構内をジグザグ行進し、周囲の学生を扇動していく。近くに同じクラスの女子学生を見つけ声をかけた。「どこへ行くの?授業は?」通常なら憲法の講義があるはずだが、彼女は、「みんな休講よ。どうなるのかしら、これから?」「さあ、俺にもわからないが・・・」「わからないが・・・何?」「多分これで、青学も全共闘の仲間入りじゃないかな」「やっぱり!そうよね。で、その先は?」「いやまったく、皆目見当もつかないな」すると彼女はこう聞いた。「あなたは左?右?それとも中間?」ズバリ直球で聞かれると答えにくい。「いや、まあ、彼らの気持ちもわからないではないが、力で押してくるのもどうかと・・・?」彼女はどうしたものかという顔つきで、その場から去って行った。
昭和43年から44年にかけて、全国のあらゆる大学で全共闘が組織され、反安保、反戦、さらには大学解体、暴力革命まで叫ぶセクトが現れ、紛争の嵐は燎原の火のように広がった。
下宿先では、早大生、慶大生、中大生、日大生、明大生などがいたが、どの大学も授業ボイコットやストライキで休講続き、暇を持て余して、夜ごとどこかの部屋に集まっては、ビールを飲みながら社会談議。「それでどうなのよ、青学は?」先輩の早大生が、私に聞いた。「まあ、3日後に大学と団体交渉することで、彼らは建物を明け渡したようです」。すると先輩早大生は、「甘いねえ、青学は。やる気あるのかね」。早大は大学闘争では先輩格だ。彼は言う「うちはすごいよ。いつだったか機動隊が入ってきたら、一般学生も加わって学外へ追い返したからね」。「先輩も参加したんですか?」「俺?俺は隣の校舎の3階から、高見の見物さ、ハハハハ・・・」と陽気。すると同学年の先輩慶大生が、「だめだめこんな奴に聞いたって。学生の本分は学ぶこと。学問したほうがいいよ」と口をはさむ。先輩慶大生の場合は、家業が地方の鉄工所関係だそうで、将来家業を継ぐために鉄鋼メーカーに就職し、経営を学ぶという。そしてこう加えた「学生運動もひとつの経験。けど2年生までだな」とハッキリしている。一方、先輩早大生の場合は、親1人、子1人なので、名の知れたしっかりとした企業に就職して、田舎にいる母親を早く呼び寄せたいのだそうだ。一見陽気だけの人に見えたが、そんな事情で学生運動どころではないし、逆に「学生運動なんて、甘ちゃんよ!」と反論した。そこに「押忍!」と入ってきたのは、先輩日大生で、この人は歯学部で、バリバリの空手部員、学生運動を真っ向から否定した。「こっちは毎日、解剖実習やら、講義やら、寝る間もないくらい忙しいってのに、あいつらお茶の水の道路を封鎖しやがって、授業にならねえよ、まったく!」と憤慨する。彼は、父親が開業する地元の歯科医院を継ぐべく必死で、学校がこれ以上休講になるのなら、殴り込みも辞さないと息巻く。「けどよ、上から見てると機動隊と学生の追いかけっこで、テレビより面白え」とも言う。皆、切実な家庭事情を抱えながら、学生生活を送っていた。
しかし、家庭の事情で大学に行きたくても行けない人から見れば、「何と贅沢な悩みを言っているのか」と、妬ましく思われていたはずだ。私の高校時代の友人は、その能力を持ちながら就職し、東京の下町のどこかで働いていたし、中学時代の友人は、中学卒業で金の卵などともてはやされ、大田区の小さな工場に勤めていた。そうした友人から見れば、私を含め大学生は、どんな存在なのか?
我々は、ベビーブーム世代と言われ、生まれた時から競争だった。それは戦争の影響だからどうすることも出来ない現実なのだとあきらめるしかなく、さすれば、仲間より頭ひとつ前にでなければ生き残れないと思ったし、さらに「大きな声ではいえないが、仲間を蹴落としても勝て」と、最終的に親たちは本音を漏らした。戦争でさんざん辛酸を舐め、苦労の連続でやっと生き残った親の世代にしてみれば、二度と辛い思いをしたくない、させたくないと思うからで、我々もそう思っていたのだが、蓋を開けてみれば、受験地獄という、悲惨な現実を経験したのみならず、落ちた者は、受かった者を羨み、妬み、時に離れていくという、それまで築いた人間の絆を分断され、さらに悲しいことに差別をも生んでいった。例えば、中学や高校卒業で会社に就職し、あとになって入社してきた大学出の友人が、上役に座るという現実は、耐え難いと思っても無理はない。大学差による社内の出世の違いもしかり。社会は、これを自由で平等な能力主義として是認するが、学歴社会が生んだ差別であり、弊害ではないかとも思う。
そんな社会に大学卒業後、入っていかねばならないことに、我々は少なからず疑問を持っていた。それを“是”とするか“非”とするかの判断は、人それぞれ悩みに悩んだはずだ。私も悩んでいた。大学という場は何なのか?私はその場をどう生かせばよいのか?社会は、このままでいいのか?しかし、いくら考えても結論は出ず、悶々と過ごす日々が続いた。
ラジオから、ブロードサイドフォーの“若者たち”が、流れていた。
その2「学生恋愛」
私は、クラブ活動として、1年生の時、放送研究会に入っていた。部室は、学生会館の4階にあって、お世辞にもきれいとは言えない通路の両側のいろいろなクラブの部室からは、歌を練習している声や、落語を練習している声、サックスやギターの音、時には三味線の音まで聞こえてきて、いかにも大学の学生会館であった。放送研究会の部室の中は、奥行き4~5メートル、幅2メートル位で、中央に傷だらけ落書きだらけの大きな机があり、周囲の棚や戸棚には、テープレコーダーや、アンプ、調整卓などが積み上げられ、マイクスタンド、束ねたコード、資料、放送台本などがそこかしこに置いてあり、いつもタバコの煙が充満していて、5~6人も座れば部室は満席になってしまう。そんな中で、いろんな話が飛び交い、笑い合い、悩み合い、教え合いしている。部屋に入れず狭い廊下で立ち話している者もいる。廊下を見渡せば、どこのクラブもそうで、そんな雰囲気を楽しみながら話をしているようであった。
私は一浪して入学したから、2年生と歳は同じだと思っていたら、さにあらず、放送研究会の男は、1年生も2年生も半分以上が浪人経験者で、中には三浪、四浪の人もいた。本当は早大や慶大に行きたかったが、第二志望に甘んじるという団塊世代の悲哀が漂っていた。
でも、住めば都で、面白い先輩、楽しい先輩、美しい女性先輩がいて、これでこそ大学だと思わせ、胸がワクワクした。昼休みになると、1号館の屋上にアナウンス課やドラマ課の連中が集まってきて、先輩の指導のもと、発声練習をやる。美しい女性先輩が、屋上の端からきれいな透き通る声で、「はい!はじめ~!」と言われるが、上手く声が出ない。「聞こえないわよ~!」と言われ、大きな声を出すが、一向に先輩のいる所まで届かない。そのうち喉を枯らす。どうして先輩の声は、叫ばなくても綺麗な声でこちらに届くのか、不思議だった。
その中で、同学年で「さよ子」という好きな女の子ができた。さよ子は、北海道出身で、英文学科、日本人にしては高い鼻で、すっきりとした目、形のよい唇、ポニーテールの黒髪、透き通るような顔肌が、私を魅了し、そして何よりも“愛”をストレートに投げてくる、無心の情熱、素直な人間性に心を奪われた。私などは、人は疑ってかかるのは当たり前と思っていて、どんな立派な人でもきっと裏があると思っているから、まず全面的には信じないのだが、さよ子の素直さには、こういう人間もいるのかと、目から鱗の心情で、私は毎日、クラブ活動に行って、さよ子に会うのが、楽しくて仕方なかった。時には、自分の授業をすっぽかして、彼女の授業に一緒に出るなどという、不真面目なこともやって、学生恋愛に現を抜かしていたが、その時、彼女は真っ直ぐな目で私を見て、「そういうのはよくないわ。あなたとは、ダラダラとした関係にはなりたくない」と悲しまれ、私は反省すると共に、ますます、さよ子が、好きになった。
さよ子は、世田谷区にある大学女子寮にいて、授業が終わると、部室で待ち合わせ、私は時々、送っていった。クラブ内での恋愛は結構あって、「あの人とあの人は、付き合っているから、手を出すなよ」などと教えられ、先輩の中には、その後、結婚するカップルもいたが、私は、さよ子と結婚するかどうか、現実的な感覚は、湧いてこなかった。というより、恋愛に夢中で、ただただ、さよ子と一緒にいることが楽しくて、本当に純な恋に浸っていた。
5月の気持ちの良い空気に満ちたある日、講義が休講になったので、テニスコート横のベンチに座って、行き来する学生たちを見ていると、偶然、さよ子がやってきて、私の前に立った。ふわっとした薄黄色のスカートに、大きな襟のついた白いシャツ、ポニーテールの髪を真っ赤なリボンでまとめ、数冊の本を小脇に抱えた姿は、すっかり都会人に見え、私は見惚れてしまった。「どうしたの?」と、さよ子に聞かれ、私は「えっ?」と言ったが、何故か唾が気管支に入って、ゴホンゴホンと激しく咳き込み、慌てた。さよ子は、私の背中をさすり、「大丈夫?」と言いながら一冊の本を出し、「よかったら読んでみて」と言って、次の授業に駆け出していった。本は、エーリッヒ・フロム著“愛するということ”と書いてあった。我々の恋愛感情を分析しようというのだろうか。実は、こういう心理を解説するような本は、好きではない。「大きなお世話だ」と思ってしまう。好きという感情を学問の世界から眺めて、どうしようというのか。好きなら好きでいいではないか。それで十分ではないか。だが、さよ子は、自分の恋愛感情の本心を、探りたがっていたのかもしれない。つまり、「何故、私はこの男性を好きなのか?」ということらしい。授業もなく、どうせ暇なので、さよ子から渡された本を開いてみる。愛とは何か、恋愛感情とは何か、分かりやすく解説していたが、それで何なのか、それで私に何を感じろと言うのか、何をしろと言うのか、さよ子の気持ちを計りかねた。「だから、好きなんだから、抱きしめたいから、それで十分じゃないか、なあ!さよ子」と私は心の中でつぶやいた。だが、若い時代の恋愛は、不安定なもの。それは経験の少ない、若さ故の不安とでも言おうか。究極のところで自信が持てないのである。
5月の薫風に花びらが舞って、開いた本の上に落ちる。さよ子は、今頃、教室で授業を受けているだろう。授業が終われば、また私を探して駆けてくるだろう。そう思うこの瞬間、幸せだと思った。しかし、このあと、次第にさよ子の気持ちが、私から離れていくとは、考えもしなかった。
帰り、さよ子と入った喫茶店で、慣れない苦いコーヒーを飲んでいると、佐良直美の“世界は二人のために”が、流れてきて、私は、さよ子の顔をまともに見られなかった。
その3「学内暴発」
こうした恋愛の傍らで、クラブ内には、次第に、時代の動きに、敏感に反応する学生が、出てきた。“この世の中は、おかしい、どこか変だ、みんなで考えて声を上げよう、間違っていたら異議を唱えよう”という、素朴な出発点が、一般学生を動かす全共闘運動に広がっていった。それまでの学生運動は、日本共産党や日本社会党などの既成政党の指導の下で行われていたが、60年安保の失敗で、反日共系のいわゆる三派全学連が結成され、70年安保に向けて過激な運動を展開していたが、これにはなかなか一般学生は同調しなかった。ところが、東大医学部における医師法改正反対運動や、日大における20億円に上る使途不明金ヤミ給与問題、あるいは慶応大学における米軍資金導入問題などが、一般学生の闘争心に火をつけた。他の大学でも様々な問題を一般学生が提起し、全共闘運動化していく。運動の思想は、既成権力・権威の否定、既成概念・文化など、社会のあらゆる構造の解体だった。 こうした運動がクラブ内に広がっていくのに、そう時間はかからなかった。放送研究会としては、これまでのような、趣味やお遊びのようなクラブ活動を否定し、より政治的、革新的、反体制的に、同じ考えを持つ人たちと連帯して活動し、運動していくべきである、ということになっていった。夏合宿では、前年までの和気あいあいとした雰囲気や、キャンプファイヤーでの楽しい歌や、4年生を送り出す言葉や、催しなどすべて中止。いくつかの班に分かれた分科会で、「何故、我々は大学に来ているのか?」「現代社会をどう見るのか?」「その中で我々は何を為すべきか?」など、深夜まで討論したものだから、4年生や執行部に不満を抱く部員が、不平を言い始め、夏合宿は大荒れになった。
こういうことになると、部室には、ヘルメットが並び、ゲバルト棒(略して・ゲバ棒)が立てかけられる。反体制という態度を明確にし、体制と対峙していく意志を表し行動していこうという。しかし、実際に行動していくのは、相当の覚悟と勇気がいる。何故なら、これまで生きてきた社会を否定し、現体制を攻撃し、さらに破壊して、変革していくことになるからだ。それが一体、どういうことなのか、やっている本人もよくわかっていないのだが、永久革命論などという、非現実的な言葉上での理想を夢想しながら、でも本人は確信しながら、反体制行動に移っていく。我が身のレベルで考えるならば、官憲に捕まることも覚悟せねばならない。
放送研究会各部員は、体制側に付くのか、反体制として行動するのか、二者択一を迫られていた。理論武装した執行部に対し、反対する勢力も出てくる。だが反対勢力は理論武装できない。理論よりも感情的に反発しているからだ。こうしたクラブ内騒動は、文化系クラブで多く起きていて、結果、私の所属クラブを含め、多くのクラブが反体制へと傾いていった。部室内には、ヘルメットや反体制のスローガンを書いた旗やゲバ棒が溢れ、通常のクラブ活動どころではなくなる。新入生だった頃、味わった、和気あいあいとした雰囲気はなくなり、なにか殺気立った、攻撃的なクラブになっていった。
私は、理論武装して反体制派に立つほどの能力もなかったし、勇気もなかったので、クラブを辞めることにした。部員総会は荒れて、百20~30人いた部員の半分ほどが辞めた。しかし、この時まだ2年生。あと2年をクラブ活動なしで過ごすのも悔しいので、辞めた仲間とアナウンス愛好会を作ることにした。顧問になってくれる教授を探し、学校側に届けたのだが、許可は下りなかった。文化連合会へも、申請を出したのだが、放送研究会と同じようなクラブは、認められないとのことだった。放送研究会から、横やりも入っていたようだ。それならそれで仕方ないと、自分たちだけで、勝手に活動することにした。部室はないが、教室は借りられるし、発声練習なんかは、屋上や広い公園で出来る。実績を積んでやっていれば、そのうち変化が起こるだろうと、ダラダラとやっていたら、やがて新入部員が入ってきた。正式にどこにも発表してないのに、どうしてアナウンス愛好会の存在がわかったのか聞いたら、放送研究会の部員が教えてくれたのだそうだ。人伝手に聞いて入部したいと、来る者もいた。翌年の春には、新入生が5~6人もやってきて、びっくりした。実は、元の放送研究会が、反体制活動に忙しく、クラブ活動どころではなくなり、新入生が入りたくても、入りづらいという現実があったらしく、それでこっちに来たらしい。一般の学生は、学生運動に理解はあっても、いざ行動となると、そこまではできないという、いわゆる心情左派は、多いのだ。わたしもさしずめその部類だろうと、この当時、自己分析した。
私が放送研究会を辞めた翌年、昭和44年5月、青学大全共闘は、バリケードストライキに突入し、全学を封鎖。大学の門という門を机やベニヤ板を積み上げて塞ぎ、迷路を作って、出入りを管理する。つまり、大学を文字通り自治管理するという、体制側に言わせれば“暴挙”で、反体制の学生側に言わせれば、“快挙”に出たが、この時びっくりしたのは、他大学のヘルメットを被った集団が、いくつもやってきて、バリケード作りに走り回っていたことだ。ヘルメットには、明学全共闘や、日大芸闘の文字が、入っていた。
この時、放送研究会は学内解放放送を行い、これがもとで、学校が元に戻ってからクラブ活動を禁止され、解散させられたと聞いている。一方、私たちがつくったアナウンス愛好会は、数年後、正式に学校側に認められ、アナウンス研究会として、いまだに生き残っているから、世の中はわからない。
しかし、昭和44年は、1月の東大安田講堂における、学生と機動隊の攻防を皮切りに、4月には、学生が新橋駅や東京駅で暴れて、騒乱状態を起こし、新宿西口の地下広場では、連日、反戦フォーク集会が、開かれるなど、荒れに荒れた年だった。私もフォーク集会に出かけてみたが、東京都は、地下広場という文字を“通路”に変更し、「ここは通路ですから、止まらないで下さい」などと、集会をさせない作戦に出て、学生から、「やることがせこいなあ」と、非難ごうごうだったが、為政者というのは、悪知恵が働くものだと、感心した。
青学大経営首脳陣はこの後、全共闘学生によって占拠されたキャンパスを取り戻すべく、6月、突如機動隊を導入、ヘルメットを被った学生たちを、次々と逮捕していった。私もたまたま学内にいたが、学外に追い出され、それから3ヵ月間、授業は休講、いわゆるロックアウト体制となった。10月から、ようやく授業再開となったものの、大学側の体制強化に反発する全共闘系学生と警備員との小競り合いや小紛争が絶えず、大学側は再び機動隊を導入した。私も友達と学内にいたが、濃紺の乱闘服、濃紺のヘルメットに身を包み、銀色に光るジュラルミンの盾を持った屈強の機動隊員が、靴音もけたたましく全力疾走で突入してきた。彼らの履いている靴には、鉄板が入っていて、角材や鉄パイプで叩いてもつぶれない程、頑丈に出来ているそうだ。そんな重装備でよくも走れるものだと、改めて彼らの体力に感心するが、のんきに構えている場合ではなかった。あらかじめ調べていたのであろう。機動隊は、文科系のクラブの部室がある学生会館に突入し、全共闘の拠点となっている部室を急襲した。学生たちは逃げ惑う。2階の窓から地面へ跳び下りる者、塀を乗り越える者、とにかく逮捕されては元も子もないから、必死に逃げる。私も、大勢の学生と共に、押し出されるように校門から青山通りへ出たが、そこには機動隊員が一列になって並び、無言の威圧。前を歩いていた集団の女子学生が、憤りに声を震わせて「ひどいわよ~、こんな仕打ちは」と言ったら、数名の機動隊員が、「とっとと歩け~!」と、その女子学生のお尻に、あの重い靴で蹴りを入れた。女子学生のスカートが、スローモーションのようにめくれ上がり、白いものが見えた。女子学生は悲鳴を上げて泣き出した。蹴った隊員はそれに刺激されたのか、なおも蹴ったが空振りに終わった。
こういう権力の暴力を何というのだろうか、合法リンチ?権力は、私的な暴力も合法化される。冷静に見れば、無法以外の何物でもない。
この頃、反戦集会でよく歌われたのが、岡林信康の“友よ”だった。みんなで“夜明けは近い”と歌った時、本当に我々の夜明けは来るように感じたものだ。
その4「下宿生活」
貧乏学生の下宿生活は、厳しさと楽しさ、悲しさと嬉しさが、入り混じって、全てが新鮮だった。時々、下宿の先輩日大生などが、「みんなでめしでも食いに行こう」と誘う。先輩早大生が、「その前に風呂にしよう。汗流してからのほうがうまいし!」というわけで、歩いて10分ほどの、商店街のはずれにある銭湯に出かけることになった。
この当時、入浴料30円で、都電の倍。ちなみに大衆食堂のカレーライスが100円位。私の場合、親からの仕送りが、月2万円で、下宿代4500円を払うと、残り1万5500円で1ヵ月を暮らすのだが、大衆食堂の定食が、250円位だったろうか、1日500円で過ごすのは、きつかった。それでも生意気に1箱70円のたばこ・ハイライトを喫ったりしていたのだから、随分と背伸びしていた。
銭湯は午後3時から、午後11時半まで開いていたが、夕方から夜9時位までは混んでいた。先輩早大生が、番台から5円のカミソリを買って、私に「悪いけどこれで、首後ろの髪を剃り落としてくれ」と言う。床屋代がないので、5円で済まそうというのだ。
番台横にある、牛乳やらコーラが入った冷蔵庫に子供たちが集まり、親にねだっているのを見ると、自分も飲みたいと思うが、財布の中身を考えると諦めざるを得ない。銭湯を出ると、太陽は西に傾いて薄暮となり、商店街は、まぶしい程にネオンが灯り、夜の世界に変わっていた。腹をすかして、いつもの定食屋の扉を開けると、会社帰りのサラリーマンや我々のような学生で、もういっぱいだ。空いているテーブルに陣取って、さて今日は何にしようか?昨日は生姜焼き定食だったから、今日はレバー炒め定食にするか、などと言いながら、店のおばちゃんに注文すると、おばちゃんは、我々学生に、黙っていても、ご飯を大盛りで持ってきてくれる。「おばちゃん、いつもすみません」と礼を言うと、「出世払いでいいよ。つけにしとくからね。礼なんかいらないんだよ」と笑っている。学生というだけで、こういう形の援助は度々あって、恵まれているという感覚はあった。
定食屋を出ると、夜の帳はすっかり下りて、おおきな提灯をぶら下げた一杯飲み屋が、煮込みやおでんの臭いを漂わせ、サラリーマンの客でにぎやかだ。そのうち我々もあんなふうになるのだろうかと、思いながら横目で見ながら下宿へ帰るが、“すまじきものは宮仕え”などと、言われていることを思い出し、私に会社勤めが出来るのか、不安さえ感じ、学生の身分でいることの気楽さに安堵さえ覚え、これで金があったら、学生はやめられないだろうなと思ったが、仕送りしている両親には申し訳ないことで、心の中で打ち消した。
下宿に戻って、明日の学校の準備をしていると、2階の私の部屋の窓に、小石をぶつける音がして、小さな声で私の名前を呼ぶ声がした。窓を開けると、つい先日、公園で知り合った若い男が、紺のスーツ姿で立っていた。部屋に招き入れると、彼は緊迫した焦った様子で、「すいません。これから、夜逃げを手伝ってくれませんか?」と言う。藪から棒の話で、私は棒立ちになった。彼は、私より2歳ほど若く、新宿歌舞伎町で、バーのボーイをやっていると言っていたが、何やら、住んでいるアパートに、悪い仲間がやってくるので、来ないうちに、逃げ出したい、ついては今夜のうちにアパートを出たいと言うのだった。時刻は午後11時を回っていた。車は用意してあって、あとは荷物を載せるだけ、しかし、タンスもあって、1人では載せられないという。私は気の毒に思って、手伝うことにした。アパートは近所で、音を立てないようにしながら、タンスや小型の冷蔵庫をトラックに運び、30分ほどで済んだが、悪い仲間が来やしないかと、冷や汗ものだった。彼は、「本当にありがとうございました。そのうち落ち着いたら、また伺います」と言って去っていったが、あとで、家賃が払えずに夜逃げした男がいるという噂話を聞いて、ああそうだったのかと、騙されたことがわかった。騙されたといっても、体力を提供したぐらいで実害はなく、東京という所に住む人間の裏の一端を知ったのだった。
“東京は、生き馬の目を抜く”などと、田舎にいる時、聞かされた事がある。だから十分用心しなさいというのだが、いくら用心しても、騙される時は簡単に騙される。いつだったか、意気消沈していた時に、道端で急に、スーツを着た中年男性に呼び止められ、倒産した有名な服メーカーのスーツを、今、車に積んでいるのだが、いくらでもいいので買いませんかと、言われたことがあって、じゃあ、見せて下さいと言ったのがいけなかった。飛んで火に入る夏の虫とはこのことで、こっちはちょっと見るだけのつもりが、いつの間にやら相手の口車に乗せられて、財布から5千円も出して買ってしまった。得した気分でいたら、ひどい傷物で、着られたものではなかった。気分はさらに落ち込んだ。騙したほうはあれで、気分がいいのだろうか?いや、気分の問題ではないのだろう。彼は仕事でやっているのであって、目的のためには手段を選ばずで、悪いことを百も承知なのだ。生活のために粗悪品を売り歩く、押し売りと同じかもしれない。悪い人間がこの世にはばかるのは御免蒙りたいが、しかし、何故、悪い人間になっていくのだろう。
そんなことを考えている時、昭和43年秋、東京・京都・名古屋・函館を舞台に、警備員やタクシー運転手など、4人を射殺するという、連続ピストル射殺事件が起こり、全国を股にかけた事件として、新聞、テレビを賑わした。この事件は翌年4月、犯人が捕まるが、捕まえてみれば、何と19歳の男で、私とほとんど同じ年齢だったので驚いた。一体、どういう理由で、こういう事件を起こすのか、興味をもっていたら、それから1年後、「裸の十九歳」(新藤兼人・監督)という映画になって、その中でわかりやすく殺意を推測していた。学生運動盛んなこの当時、よく言われた言葉に、“状況がすべてを規定する”というのがあったが、犯人は、その生い立ち、環境、人間関係などから、つまり、状況の積み重ねによって、必然的に事件を起こしていった、というのだ。つまり、簡単に云えば、社会が犯罪者を生んだというわけだ。そうかもしれない。私だって社会の底辺に暮らしていたら、大学へも行けないし、日々の生活にも困っていたら、・・・いやきっと、そうなんだろうと思った。
容疑者がいる拘置所は、どんな所だろうかと、想像してみた。刑事ドラマに出てくるような冷たいコンクリートの壁に囲まれて、冬などは寒くて眠れないのではないか。そんな時に流行った歌が、加藤登紀子の“ひとり寝の子守唄”だった。
その5「アルバイト」
夏休み、同じ下宿の同年齢のM男に、手っ取り早く、高賃金のアルバイトをしないかと誘われて、田町へ沖仲仕の仕事に出かけたことがある。
「沖仲仕って、何をするの?」するとM男は、「要は、波止場で働く人夫だな」という。力仕事だが、適当にやってればいい。それで1日1800円、日払いでもらえるという。「ただマスクを忘れるな」とM男が言ったのが気になった。この当時、アルバイトといえば1日800円が相場だから、相当いい賃金だが、さてその力仕事とやらはどうなのか、不安と期待が入り混じった気持ちで朝5時起きででかけた。6時に田町に着くと、道はもう日雇いの仕事を探す労働者で、ごった返していた。こんな早朝から、うどん屋、ラーメン屋、弁当屋、パン屋などが、屋台を並べ、日雇い労働者相手に商売をしている。抜け目なく稼ぐというのは、こういうことなんだなと納得した。屋台で働いているおじさんも、実は日雇いだったりする。屋台をまとめている元締めは、実は、ビルまで持っている社長で、都内の大きなお屋敷に住んでいたりするらしい。こんな話を聞くと、世の中、利に聡い人間が生き残るようにできているのだなあと、つくづく思う。「俺はさしずめ、利に疎く、生き残れないのではないか」と妙な確信を持つ。仕事に誘ったM男は、利に長けていて、損得計算がよくわかる男。
道端に立っていると、やがて幌をつけた小型トラックが、ほこりを巻き上げながら何台もやってきて、目の鋭い、一見強面のおじさんが、労働者の物色を始めた。するとM男は、慣れた動作で、そのおじさんに近付き、何やら交渉すると、おじさんは、トラックを指差して「乗れ」と言った。仕事にありついたらしい。たくさんいる労働者の中で、何故、我々のような学生が、ベテラン?労働者を差し置いて、トラックに乗せられるのかというと、学生は真面目に一生懸命に働くし、しかも休まないからだと、M男に教えられた。しかしこれで、ここに仕事を求めて来ている労働者全員が、雇われるのかというと、やはりあぶれる人も出るそうで、そうなると我々学生が来たおかげで、あぶれる人もいるわけで、これはちょっと申し訳ないなと思い、M男に言ったら、「そんなことを気にしてたら、仕事にありつけないぜ」と一笑に伏された。それはそうなのだが、日々の暮らしを日雇い仕事にかけている人達の中に、学生が割り込んで仕事をとっていくというのは、やはり、気になった。
幌のついたトラックの荷台に乗り込むと、両サイドにベンチシートがあって、10人も乗れば満員だが、空いているスペースにさらに人が乗り込んでくる。夏の暑さに加え、人肌の熱さでトラックの荷台はムッとする。座り込んで20人位になったろうか、おじさんが後ろの幌を下ろして、トラックのボディをドンと叩くと、トラックは、まるで人が乗っていないかのようなスピードで、乱暴に走り始めた。誰かが叫んだ。「俺たちゃ人間だぞ」。道も悪く、体が宙に浮き、頭が幌を支える鉄棒に当たった。
幌に覆われたトラックの荷台にいると、太陽の熱と人間の体温で、肌に汗がにじみ出る。10分も走ったろうか、トラックは止まった。外から幌が開けられて、ようやく窮屈な空間から解放された。港の一角に降ろされて、見ると小ぶりの運搬船が、桟橋に横づけになっている。誰かが言った、「また砂利船か」。大きなクレーンが、その船に積んである砂利を掻き出し、埠頭に置いてある別の容れ物に落とした。凄まじい音と共に、砂埃が舞い上がり、思わず手で口を押さえる。「だから嫌だってんだ、砂利船は」さっきの男が、咳き込んで苦しそうな表情をした。M男が私の肩をつついて、「マスクを出せ」と言った。「あ、そういうことか」と、ようやくマスクの意味がわかった。現場監督らしいヘルメットを被った男が、「そっちで待機しろ」と言う。M男が説明してくれた。クレーンで船の中の砂利を掻き出した後、船底に残った砂利をシャベルを使って人力で掻き出すのだそうで、それが我々の仕事だという。肉体労働というのは、単純だが、体を酷使する辛いものだと悟った。
クレーンの作業が終わるまで、2時間も待ったろうか。ようやく、我々日雇い労働者に、声がかかった。シャベルを1本ずつ渡されて、船に向かう。歩くとバウンドする細い木の橋を、おっかなびっくり歩き、船のへりから、船の底へ伸びる木橋を降りていくが、小型の船と思っていた船の底の広いこと。テニスコートが2面も取れそうな広さで、船の四隅には、高さ2メートル以上もある砂利の山が待っていた。真上を見上げると、船のへりに囲まれて、空が小さく見える。空気は澱んでいて、砂埃が炎熱の太陽の光線に光りながら漂っている。マスクがなかったら、あっという間に肺炎を起こしそうだった。「砂利を船底の真ん中に持ってこい」現場監督が指示する。私は他の人の見様見真似で、砂利山に挑んだ。足でシャベルを押して、砂利山に差し込み、両手でシャベルを上げようとしたら、重くてバランスを崩し、転倒しそうになって、砂利は床にこぼれた。ベテラン労働者が、「もっと腰を入れろ!」と、喝を入れた。「なるほど、腰か」と思い、今度はしっかり腰を落として、シャベルの砂利を持ち上げると、今度は楽に持ち上がった。「俺にも出来た」と嬉しかった。一度こなすとあとは簡単だ。同じ要領で砂利を運ぶ。何度も何度も。しかし、たちまち汗が噴き出してきた。真夏の太陽光に包まれた船底での仕事は、滝のような汗と、砂ぼこりが入り混じって、、息が詰まりそう。それでも若さにまかせて黙々と砂利を運んでいたら、さっき喝をいれてくれた人が、「学生さん、それじゃ腰を痛めるぜ。こういう仕事は、休み休みやることだ」と言った。そういうものかと思ったが、とくに腰も痛くないし、それから、1時間ほどやって、砂利はひとまず船底の真ん中に集められた。「ようし!上がってくれ。あとはクレーンがやる」。現場監督の声に我々は、船から上がった。汗だらけの体に、港の風は心地よく、生き返ったようだった。砂利船の隣には、いつの間にか別の船が横づけされていて、大きな荷物が、荷揚げされていた。そこで大きなサイレンが鳴り響いた。「よし、めしだ」M男が言った。12時になったらしい。真夏の太陽は天中にあり、しかし、海風が体の熱を奪って心地よい。
埠頭を少し歩くと、掘っ立て小屋のような、簡易な建物があって、弁当やらパンやら、菓子やら、飲み物やらを売っていたので、パンと牛乳を買って、桟橋に腰をおろし昼食にした。潮風と共に、船の汽笛が聞こえてくる。港に入って来る船、港から出ていく船。こんな光景を見ていると、船に乗って外国に行きたいと誰しも思う。M男が言った。「俺、来年、アメリカに行くよ」。「え?アメリカ?」。彼は、デザイナーの学校に行きながら、アメリカ行きを目指していた。「アメリカへ行って、何をするの?」「さしずめ、デザイナーの学校に入って、あとのことは、行ってから考えるさ」。この当時、1ドル・360円の固定レートの時代に、アメリカへ行くなどというのは、国や篤志家から奨学金をもらって行く特別な学生と、金持ち位で、普通の人間がアメリカに行くなんて、まずいなかった。「金はどうするの?」「だからこうしてバイトしてるジャン」。なるほど、そういうことだったのだ。「でもバイトぐらいの金額で、アメリカへ行けるの?」。飛行機代とアメリカでの生活費、半年分位は稼ぎたいと、港の向こうに広がる海を見ながら、M男は真剣な目をしていた。その目は、夢のような目ではなく、絶対に行くのだという、確信の目で、「こいつは、きっと行くな」と思わせた。私は、自分の人生の中で、こういう真っ直ぐな心を持つ男を、初めて知って、衝撃を受けた。透き通った海の中を、銛を手にまっしぐらに、めざす魚を追っていく、少年のように思えた。そういえばM男は、いつもジーパンの後ろポケットに、小ぶりの英語辞書を入れていて、引っ張り出しては、何やらブツクサ言ったり、下宿で、他人の部屋に来ると、いつも他人のラジオを、「お前も聞け」とFEN(アメリカ軍極東放送)にしてしまう。そのようにいつもアメリカに向かって、まっしぐらなのだ。
M男は、横浜生まれの、横浜育ちで、サーフィン大好きの、浜っ子。家庭のことは詳しくは知らないが、極めて自由な人間関係の中で育ったように思えた。それが証拠に、思ったこと、感じたことは、その場ですぐ言うし、邪推もなければ、臆することもない。ストレート、まっすぐなのだ。といって相手を蔑んだり、馬鹿にすることもなく、会話は対等であり、相手の尊厳は守りながら話している。ひねくれた考えはしないのだ。逆に、ひねくれた考えの者には、食って掛かる。私は、そんな彼が好きになった。
沖仲仕のアルバイトは、その後、私は3日で、腰を痛めてリタイアし、別の仕事を探す羽になったが、M男は、1ヵ月やり通し、アメリカ行きの資金の足しにしたようだ。根性もある男だった。
M男とは、別の機会にも、アルバイトをやったことがある。イエローページという、外国人向けの電話帳に、あなたの住所と電話番号を載せませんか、という営業のアルバイトで、私は根っからの営業下手で、3日やっても一件の契約も取れなかったのに対し、M男は、アルバイト仲間の中で、最高の契約数を稼ぎ出し、会社側から、正社員になりませんかと誘われたほどであった。人を真っすぐに見る目と、一生懸命やる素直な気持ちが、相手を引き込んで、ちょっと付き合ってもいいかな、と思わせるらしい。憎めない男なのだ。
このM男が、好きで何度も観た映画が、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロスの「卒業」だった。セリフまで覚えて、アメリカへ行ったら、きっとあんな素敵な女の子を見つけて、奪い取ってまでも結婚するんだと、言った。
実は、さよ子を、M男に会わせたくて、一度、3人で会ったことがある。もっぱらアメリカの話になったが、そしたら、さよ子は「魅力的な人ね」と言ったので、私は少々、M男に嫉妬した。それから数日後、私はさよ子を誘って、映画「卒業」を観に行ったが、その後、さよ子と別れてから、数回、ひとりで観に行って、幾度となく、さよ子のことを回想した。映画で歌われた、サイモン&ガーファンクルの“サウンド・オブ・サイレンス“や”ミセス・ロビンソン“”四月になれば彼女は“などは、さよ子と共に一生忘れられない、想い出の曲となった。
43年の10月、M男は、家族や友人、そして我々下宿仲間に見送られ、羽田空港から、パンアメリカン航空に乗って、飛び立って行った。乗客をゲートブリッジまで誘導する真紅の絨毯の上を、細身のズボン、バン風のジャケットを身に付けてM男が、にこやかに微笑みながら、胸を張って歩いていった姿は、私の目に焼き付いている。有言実行してしまうその強い意志に敬服し、羨ましかった。だが神は、時に無慈悲である。あんなに真っすぐで、ストレートにものを言ういい男が、二度と我々の前に姿を現さなくなるとは、誰もこの時、想像しなかった。
その6「反戦運動」
昭和40年から、45年にかけてのベトナム戦争は、否が応でも、アメリカ統治下の沖縄はもちろん、日本国民を刺激した。B52戦略爆撃機が、日本のアメリカ軍基地に飛来し、空母が寄港し、原子力潜水艦がやってくる。そのうちベトナムで負傷した兵士が、東京北区王子にある、アメリカ陸軍野戦病院に、運ばれる。兵士だけではない、戦闘で損害を受けた戦車が、修理のため、神奈川県相模原のアメリカ陸軍補給廠にやってくる。そしてついに、新宿駅で、アメリカ軍の液体燃料を積んだタンク車と、貨物列車が衝突して、大炎上するという事故まで発生した。まさにベトナム戦争に直結する事象が、我々市民の前で展開し、我々はまさに、ベトナム戦争にアメリカと共に、加担していることを知らされたのであった。だから、それぞれの地元の人たちは、ベトナム戦争反対運動を起こし、学生も立ち上がる。新聞・テレビ・ラジオ各社は、政府からだけの情報だけでなく、独自の行動をとって、情報収集に努め、日米両政府が隠している、都合の悪い情報を暴きながら、国民に知らせる努力を続けたのではないかと思うが、そんな中で、ベトナムで、お坊さんや女性による、戦争反対を訴える焼身自殺が、頻繁に起こった記事が見られた。これが世界に波紋を広げ、1969年・昭和44年3月30日、日曜日、フランスのパリ、凱旋門付近で1人のフランス人女性が、ガソリンをかぶって焼身自殺した。名前をフランシーヌ・ルコントといったが、やがて、この女性をテーマにした歌「フランシーヌの場合」が作られ、日本で大ヒットした。作詞・作曲したのは、郷伍郎さん。この歌詞の中で共感を呼んだのは、「ほんとのことを云ったら、おりこうになれない、ほんとうのことを云ったら、あまりにも悲しい」という部分で、反戦運動やら、学生運動の限界、そして結末を暗示していた。
参考までに当時の国会で、明らかになった、アメリカ軍からの買い付け注文は、軍服110万着、サンドバッグ5百万袋、エンジンや自動車部品、空軍機の修理や迷彩塗装、カメラ、など多岐にわたり、金額でいうと昭和41年は4億9千万ドル、42年は5億ドル、43年は5億8千万ドル、44年はついに6億ドルを突破し、こうしたいわゆるベトナム特需は、戦争が終結する昭和47年まで続いた。(毎日新聞社・一億人の昭和史8より)こうして儲けたお金は、企業を通して、社会に還元され、当然我々の手にも届くのである。つまり、我々は、戦争で儲けたお金を後ろ手に隠し、「戦争は止しましょう」と言いながら、儲けたお金で生活していたのだ。
では、我々はどうしたらよいのか?友人のT君が言った。「やるしかないんだよ」。T君は、空母エンタープライズ寄港に反対する運動に加わるため、長崎県佐世保にでかけていった。しかし、行ったきり、帰って来ない。もしかして、警察に捕まったのだろうかと心配していたら、1ヵ月ほどして、ようやく姿を見せた。問いただしたら、「実は逮捕されたものの、重傷を負い、佐世保市内の病院に入院。でも治ったら改めて逮捕されるので、夜中、病院のトイレの窓から、密かに逃げ出してきた」と語った。
T君は、冷静な判断力を持っていて、頭もいい人間だが、わざわざ佐世保まで出かけていって、反対運動をするとは思わなかったから、私にとっては衝撃的だった。実は、周囲の友人たちは、けっこう反戦運動に参加していた。別の友人I君は、千葉県の成田新国際空港建設反対運動の三里塚闘争に参加していた。
三里塚闘争は、反戦運動とは直接関係はないが、強権力を持って強制的に、農地を接収し、嫌がる農民を排除するという、反民主主義的、非人道的で理不尽な施策ということで、こちらは主に、セクトに属している学生が現地にでかけて、農民と共に暮らしたりしながら、支援活動をしていた。I君は、ほとんど現地に行ったままだったので、会う機会はなく、残念ながらそのまま、お互いに年齢を重ねてしまった。
しかし、この三里塚闘争で、ある日、TBSのラジオ放送を聞いていたら、深夜放送のパックインミュージックを担当していたパーソナリティ、桝井論平さんが、現地から実況中継をしていて、農民・学生たちが、機動隊の力によって、排除、または逮捕されていく様子を涙を流しながら放送していた。深夜放送では、いつも早口の甲高い声でリスナーに話し掛け、テンポよく話題を聴かせてくれて楽しかったが、今回は、打って変わって、冷静さを失うほどの感情移入で、私は異常を感じてラジオに聞き入った。「こんな悲しいことがあっていいのでしょうか?こんな理不尽なことがあっていいのでしょうか?」といったようなことを、話し、訴えていたような記憶があり、忘れられない実況中継だったが、残念ながら、その後、桝井論平さんの声は、ラジオから一切、聞かれなくなった。その理由は知らないが、おおよその見当はついた。
昭和44年6月15日、私は、同じ下宿の同郷の友人と、日比谷公園で行われる“全国全共闘統一集会”にでかけた。初のデモ参加だ。有楽町駅を降りると、道路には、警備車両や放水車など、警察車両がズラリと並び、歩道には、機動隊員が、ジュラルミンの盾を揃えて、無言の威圧で立っている。警察車両のスピーカーから、さらに威圧がかかる。「旗竿は畳みなさい。棒や危険な物は、持ち込めません。持ち込む者は逮捕します」。もう最初から挑発的で、何か起これば、我々は、逮捕されても仕方がないという扱いだ。私は血の気が引く思いで緊張した。
公園に近づくと園内から、ピッピッと、笛を吹きながら、反戦コールや、体制を批判する演説の声が、聞こえてきた。同じ仲間がいるのだと心強かった。2か月前の4月には、沖縄反戦デーで、東京駅や新橋駅が、ゲバ棒を持った学生集団によって大きな被害を受けていたので、警察は、今回はそうはさせじと、万全の警備を敷いているようであった。それにしても、園内は、一体、何人集まっているのか、なかなか前に進まず渋滞していた。ようやく噴水のある広い敷地に出て、人をかき分け進んでいくと、何と同郷の友人たちが、かたまっていた。偶然の久しぶりの再会で肩を叩いて喜んだが、今日は同窓会ではない。みんなどんな思いでこの集会に参加したのだろうか。わずか数年前、同郷の学校で遊んでいた仲間が、いろいろな大学へバラバラに別れて、今また再び、偶然同じ場にいる。不思議な気持ちだった。
我々は、広場の噴水から、日比谷公会堂の間のほぼ中間地点にいて、演説しているのは、日比谷公会堂側になるが、突如、大歓声と大拍手が沸き起こり、我々は、演説している正面を見てびっくりした。警察から逮捕状が出ていた、東大全共闘議長の山本義隆氏がいるではないか。白いヘルメットに、白いタオル、薄いベージュのジャンパー姿で演説している。よくぞ警察に捕まらずにと思ったが、でも逮捕覚悟で出て来たのだろうか。身をさらけ出しては、警察も黙ってはいない。ところが、演説が終わったら、山本議長は、まったく同じ格好をした100人ほどの集団に紛れ込み、そのままデモに出発したので、我々はあっけにとられた。
その後、集会は暫時、デモに移り、新橋を経由して、外堀通りを北上、数寄屋橋、八重洲を通って、東京駅で解散となるが、すんなりとはいかなかった。何があったのか分からなかったが、突如、機動隊が、「逮捕~!」と叫んで、1人の学生を追い、デモ隊の中に入ってきた。逃げ惑うデモ隊。機動隊は手向かう者は容赦しないと、ジュラルミン盾を振り回して、その学生を追う。ちょうど数寄屋橋の通りで、一体は騒然。逃げる学生は、もう逃げきれないと覚悟したのか、なんとガードレールにしがみついた。機動隊員20人から、30人は、その学生の手をガードレールから離そうと試みるが、学生は顔を真っ赤にして、手を離さない。周りのデモ隊は、何とか学生を助けようと、機動隊に立ち向かうが、怖くて近寄れない。私は最初、遠巻きで見ていたのだが、いつの間にか前に押し出され、ひとりの機動隊員の前に立っていた。ジュラルミンの盾が水平になって、顔に向かってくると覚悟した時、「中止!」の声がかかり、機動隊員たちは、学生の逮捕を諦めたのであった。周囲から歓声と拍手が起こり、デモの小さな出来事は終わった。その学生の腕は、ガードレールを強く抱いていたため、血だらけであった。近くの店の人だろうか、中年の女性が、手当していた。いつの間にか、空は薄暮で、うっすらと三日月が覗く。デモに参加したのは、午前10時ごろだったのに、ここに来るまで、ずい分時間がかかった。
翌日の新聞に、デモの様子が報道されたが、さて、これで何か変わるのだろうかと思った。何も変わりはしない。人々は、仕事に学校に、また、日常生活へと埋没していく。私だってそうだ。明日の学校の授業の準備をし、クラブ活動の予定や、アルバイトの日程を組む。だが、一体何のために?もちろん将来のために、・・・なのだが、これでいいのか?だから、社会を変えたいがために、デモにも参加しているのに、しかし、社会は変わらないし、変えられない。このジレンマと虚しさは、やりきれないものだ。フォーククルセダーズの歌った“悲しくてやりきれない”が、その当時の我々の心を表現してくれた。
その7「夜の世界」
昭和44年9月、大学先輩の紹介で、私は四谷3丁目にあったスナックで、アルバイトを始めた。学校が大学側のロックアウトで休講続きだったから、丁度よかった。店は夜7時開店で11時まで。店内は10席ほどのカウンターと、奥に4人が座れるボックス席が1つ。オーナーは美人姉妹で、妹は女優を掛け持ち。他に若い板前さんがいて、3人でやっていた。場所柄、出版社やテレビ局の客が多かった。
仕事としては、カウンターの中から、板前さんの指示通りに、ビールなどの飲み物を出したり、お通しを出したり、時に客から話しかけられたら応えたり、といった程度だが、慣れてくると・・・いや慣れるに従って気を遣う商売だなとわかった。初対面はお互いに初めてだから、無垢な気持ちで、何の気遣いもなく話せるが、次第に客の性格や癖がわかってくると、嫌な気持ちになったりして、それが心のしこりとなって圧迫感に変わる。しかし、客だから拒否できないという悩みになる。慣れれば慣れるほど、難しい商売。
この点、美人姉妹は女性だからだろうか、実に上手に客を扱う。不快なことがあっても、根に持たず、翌日には忘れてしまう。
私が関心を持ったのは、実は板前さんだった。寡黙で、黙々と仕事をこなす人で、実直で真面目という印象しか見せない人だったが、ある日、私に、小声でこう聞いた。「今度の日曜日、空いているか?」店は休みの日だ。「はい、空いてます」すると半ば強引に、「俺に付き合え。賭けをするんだ」と言う。「賭けですか?しかし、金はありません」「心配するな、俺が出す」・・・私はびっくりした。真面目の裏側の恐い顔が、突然、現れた。一体、何の賭けだろう?我々が下宿でやっている、5百円程度のトランプのポーカーとは訳が違う気配。板前さんの横顔に、どす黒い影が見えたような気がした。
日曜日、私は、板前さんが指示した京王線の幡ヶ谷駅に降りた。午後9時を回って、人通りは少なく、ひんやりとした秋風が、閑散とした駅構内を渡っていく。やがて、板前さんが、いつもの白い料理人用の服とはまるで違う、派手な柄の真っ赤なシャツで現れ、あごでしゃくるように、「こっちだ」と言った。道を歩きながら、「いいか。俺の言う通りやれ!相手は2人だ。金を渡しておく」渡されたのは、3万円だった。「賭けはオイチョカブ。知ってるか、オイチョカブ?」「ハイ、一応は」「2枚づつ、カードを渡されるから、それ見て、賭けるか、賭けないかを決める。2枚のカードを足して、8以上だったら、賭ける。7以下だったら止めろ!賭ける時は5千円づつ、いいな!」「ハイ」「オイチョカブは、もう1枚もらえるが、あぶねえ橋は渡りたくねえ。もらったカード2枚で決める」そう言って、細い路地裏に入って、とあるアパートの扉を開け、2階へ上がって行った。8畳ほどの部屋で、ほとんど家具もなく、小ぎれいで、そこに座布団1枚を真ん中に置き、それを囲んで4枚の座布団。座って待っていると、やがて2人の男が現れた。その2人に板前さんは、私を紹介した。「俺の知り合いだ。よろしく」それだけだった。2人の男は、別に関心もないというふうに座り、さっそくゲームが始まった。・・・この男たちは何だろう?疑問が湧くが、詮索している暇はない。ゲームは一言もしゃべらず、黙々と進んでいく。しかし、男たちは、次第に熱くなっていくのがわかる。勝ったり、負けたりという状況が、金を動かし、その金額も次第に大きくなっていって、「おう!やったぜ!」とか、「畜生!」とか、出始める。私は、板前さんの言ったようにやっていたが、次第に3万円は減っていった。
午後11時ごろ、板前さんは、「この辺で、お開きとしようか」と言った。2人の男は、顔を見合わせ、「そうするか」と言った。
外に出ると、秋風が気持ちよかった。私も頭に血が昇っていたようだ。残った金を返すと、板前さんは、「賭けは根性なんだよ。人生は賭けだからな、だから根性がものをいう」と言う。わかったような、わからないような理屈だが、板前さんの信念らしい。結局、板前さんは、損金を出し、悔しい結果に終わった。別れ際、「また、付き合えよ。今度は根性でやれよ!」と言われたが、その気はもうなかった。
まるで賭けに命を賭けるような、刹那的な考え方は、悲しすぎて、ついていけない。2時間の賭けゲームは、何だったのか?それとも、彼らは、こうした賭けにしか、生きる楽しみがなくなったのだろうか?その空疎な心を思う時、“人間が生きるとは、何なのか”再度、考えざるを得なかったが、わからない。
駅に向かう途中、周囲のアパートを見渡す。どこかのアパートの一室で、賭場を開いている連中がいるのかもしれない。世の中ってなんだろう?人間って、何だろう?夜風が虚しく体を通りぬけ、不意に高倉健の「唐獅子牡丹」の歌が、頭に浮かんだ。ヤクザな世界って、意外にも身近にあるような気がして、ぞっとした。
その8「クリスマス」
四谷3丁目のスナックのアルバイトは、その後、11月いっぱいで辞めた。大学は、青学全共闘によるバリケードストライキで、5月下旬から、6月下旬まで、学生の自主管理だったが、学校側による機動隊導入で、ストライキ解除。続けて学校側によるロックアウト体制に入り、全学休講。これが9月いっぱいまで続き、10月1日、大勢のガードマンを配し、学生には、通行証を発行して、物々しい中での授業再開となったが、学生たちは黙っていない。再び騒ぎ出したものだから、学校側も再び機動隊導入で、またまた全学休講。こういった具合で昭和44年は、過ぎていった。もはや、両者に話し合いの余地はなく、学校側は“全共闘を相手にせず”の態度を明確にし、排除の方針を打ち出した。
全国の全共闘運動もこの年、ピークを迎え、この後、“賢い”学生たちは少しずつ運動から引いていった。“賢い”とは、“無関心派への転向“で、人生の先に“就職”を見たからである。
この機を逃がさず警察は、デモ隊と一般市民の分断を図ったと思われる。それまでデモでは、取り巻く野次馬がやっかいな存在で、デモ隊を取り締まれなかったのだが、デモの際、集会を開く時点で、「一般市民の方は入らないで下さい」と警告し、集会を開いているのは危険な活動家たちと印象付け、デモにおいても隊列の両側を機動隊員でサンドイッチにして、孤立化させ、一般市民との分断化・差別化を図った。だから、外から見ると、何のデモをしているのか、分からないのである。過激という理由を付けて、表現の自由を奪ったと言える。
私は、12月に入って、さよ子に会いたかったが、突然、さよ子から手紙が届いて、別れを告げられた。「求めていたのは、あなたではなかった。ごめんなさい」と書いてあった。
噂でクラブ内で、新しく入部してきた男と付き合っているらしいと聞いた。私は、いたたまれず、運動着に着替え、ランニングシューズを履いて、初冬の千駄ヶ谷外苑へ飛び出した。北風が吹き始めた空は真っ青で、銀杏並木は、まだ黄色い葉を所々に残し、ハラハラと散る。
さよ子の私を見るまっすぐな瞳や、時々発する北海道弁や、手の温もり、作ってくれたピクニックのお弁当、そして、夏休み中、交換した手紙の数々、ありとあらゆる、さよ子の想い出が、頭の中に去来する。走りながら涙が止まらず、芝生に伏せて、周りに人がいないのを確かめて声をあげて泣いた。土の臭い、時々通り過ぎる車の音、空を見れば弱く光を放つ星々。その日から私は、しばらく放心状態になった。
そんな中、友達がクリスマスの短期アルバイトを紹介してくれ、さよ子のことで頭がおかしくなっていたので、やることにした。中央線の三鷹駅前、商店街にあるスーパーの店先でクリスマスに使う電飾や飾り物を売る仕事だが、外でしかも夕方から閉店までとあって、体の芯まで冷える仕事だった。もちろん朝から昼間は学校だから、図らずも忙しい12月となったが、さよ子のことを考えずに済むのは、助かった。しかし、そうはいってもふと思い出しては、悲しい気持ちになる。もうすぐ学校も冬休みで、さよ子も故郷に帰るだろう。いつだったか、夏休みに、さよ子が故郷に帰る日、上野駅まで見送りに行って、人目も憚らず、さよ子に抱きつかれたことがあって吃驚したが、嬉しくて、天にも上る心地だったが、もうそんなことはないと思うと、悲しさに涙が溢れ出る。不意に「これ下さい」と、小さな子供連れの女性から声をかけられ、慌てて涙をぬぐって返事をし、商品を袋に入れて「ありがとうございます」と手渡すが、料金をもらうのを忘れて、その母子を見つめていたら、「あの~、おいくら?」と聞かれ、やっと現実に戻った。さよ子から別れを告げられた後遺症は、大きかった。この様子を隣で見ていた、やはり、アルバイトの女の子が、「大丈夫?」と声をかけてきた。この女の子も大学生で、やはり、私と同じように、スーパーの店外で、別の会社のクリスマス用品を、売っている。寒風に見舞われながらの仕事で、相身互いの気持ちなのだ。「いや、大丈夫。ありがとう」と返す。そういえば、この女の子は、店仕舞いすると、時々、スポーツカーに乗った大学生らしき男が現れ、車に乗って去っていく。この私とは段違いのお嬢さんである。そんなお嬢さんなら、アルバイトなどせずに済むだろうにと思ったが、人それぞれ事情というものがある。アルバイトをしなければならない、何か理由があるのだろう。
アルバイトも12月25日を迎え、クリスマス商品販売の最終日となり、午後9時、私も、隣の女の子も店仕舞い。すると女の子は、「よかったら、途中まで一緒に帰りませんか?」と言う。思わず聞いた。「あれ?いつも来るスポーツカーの人は?」「今日は用事で来ないの。私も今日は用事があって・・・。スポーツカーなんかで来るから、きっと私もお金持ちのお嬢さんと、思われているかもしれないけど、私はお金持ちなんかじゃないわ」と言ったので、私は正直、ホッとした。やはり人それぞれの事情があったのだ。
お互いの傷を舐めあって慰め合うような感覚で、2人、電車に乗り帰路につく。すると新宿駅で、その女の子は、「ちょっとそこまで付き合ってくれません?」という。私はてっきり勘違いをしていて、新しい彼女になってくれるのかなあ、などと、胸をドキドキさせていたら、駅の改札口で「ちょっとここで待ってて」と言う。待つこと5分位、小さなクリスマスのリボンをつけた箱を私に差し出し、「これ、よかったら家で食べてね。じゃ、私はここから私鉄で帰るから。さようなら」と去っていった。私は、あっけにとられてその女の子の後ろ姿を見送るばかりだった。クリスマスパーティの帰りだろうか、賑やかな男女の一団や、ケーキを抱えたお父さんらしき人たちが、急ぎ足で構内を過ぎていく。私ひとり取り残されたような気持ちで、上を見上げると、駅の時計が午後10時を指していた。
さよ子も、アルバイトの女の子も去ってしまったが、両手の中に、小さなプレゼントが残され、温かかった。下宿の部屋に帰って、小さなテーブルに白い布を敷き、プレゼントの箱を開けると、小さなかわいいケーキが、入っていた。付属の小さなローソクを立て、火を点け、部屋の電気を消すと、テーブルがパーッと輝いた。さみしいけれど、人の温もりが伝わる、涙いっぱいのクリスマスになった。
由紀さおりの、「夜明けのスキャット」が、風に運ばれて、聞こえてきた。
その9「故郷」
もうすぐ正月がやってくる。昭和44年晦日、傷心を抱えながら桐生へ帰省した。本当は、独りでいたかったのだが、財布の中身が、無駄遣いを許さなかった。それに何といっても故郷はホッとする。時々、心配の手紙を送って来る母と、手紙は送って来ないが、母の陰に隠れて心配している父の息づかいが感じられて、離れて暮らしていると、両親の有り難みがよくわかる。
故郷の駅を降りると、高校時代、学校に通った道が、いつもと変わらずそこにあって、時間が、昔のままのような錯覚に陥り、さっきまでいた東京が、夢の世界の出来事だったような気がしてくる。「俺は、東京で、何をしているのだろう?」と、地に足がついていない自分を見つける。さよ子のことや、大学での騒動、いろいろなアルバイトでの出来事などは、私にとって何なのか、これからどうなっていくのか、頭に靄がかかったような状態になった。
家の玄関に入って、「ただいま!」というと、母が待ちかねたように出てきた。「おかえり!今日は、お前の好きなすいとんだから、早く着替えておいで。お父さんもお酒買ってきて待ってるよ」。私は、一人っ子なので、まさに両親の愛情を一身に受けて育ったから、実は内心、息苦しかったが、離れて暮らして、初めて両親の愛情がわかった。6畳の居間に電気ゴタツを囲んで、久しぶりの親子3人の夕餉。これが幸せというものだろうか。
テレビのニュースでは、どこかの大学の学生騒動を取り上げている。母が私に心配そうに聞いた。「お前もこんなことをやっているの?」私はすかさず否定した。「俺はやってないよ」、父がかぶせるように言う、「こんなことをやっちゃあいかん!これは、アカだ!」。青春を戦争で過ごした父の世代は、共産主義や社会主義は、“アカ”と言い、反社会的行為として教育されたから、学生運動を真っ向から否定する。私は、父に対して、政治論をぶつけようとは、思わなかった。父とやりあって喧嘩しては、たった3人しかいない家族なのに、母がかわいそうだったからである。それに、母は、私を大学に行かせるために、桐生の自動車工場で、パート従業員として、朝早くから、夕方まで働いていた。何故、母を悲しませることができようか。こういう事情があると、正直、本格的に学生運動に入っていけないものである。まあ、私の場合、学生運動に興味はあっても、マルクスの「資本論」を研究したわけでもなし、レーニンの「国家と革命」を読んだわけでもない。いい加減で、中途半端な係わり方だったので、丁度よかったのかもしれない。
翌日、町の楽器店にでかけ、アルバイトで稼いだお金で、小ぶりのギターと、フォークソングの楽譜が載った、ギター教則本を購入、家で練習を始めた。フォークソングという名前が、出始めたのは、高石友也の「受験生ブルース」や、岡林信康の「山谷ブルース」あたりからだろうか。それまでにアメリカから、ボブディランや、ピーター・ポール&マリーなどのフォークソングが、ラジオの深夜放送で流され、日本の若者に影響を与えていたから、その日本版が、続々と生まれ、我々のような若者が、反戦活動と共に、歌い広げていったといえる。ギターを弾くといっても、楽譜が読めなくても、歌が歌えれば、進行コードを押さえるだけだから簡単、気軽に歌えた。冬休み中に5~6曲マスターし、友達の家へ行って、暇に任せて弾きまくっていたが、学生だから出来た贅沢な時間であった。
自分の部屋に引きこもって深夜放送を聞いていると、高校時代の自分を思い出す。ここは、桐生市の郊外にあって、畑が多く、地元農家と、新しい民家が入り混じって、また、東京から進出してきた会社の工場などもあって、これからどんどん変わっていこうとする機運が見られた。実は、私の父も、東京から進出してきた有名会社に就職できたおかげで、私たち一家は、桐生市内から郊外の社宅に引っ越してきたのだった。すぐ近くに足尾線が通り、遠くに両毛線の汽車が通る。両線とも電化されてなくて、汽車かディーゼル車なのだが、時々、汽車の汽笛が鳴ると、特に夜などは、切なくなってくる。こんな寂しい、こんな田舎に、いつまでもいられるものか、絶対、東京へ行くんだと、東の空を見ながら、固く決意したことを思い出す。
実は、密かにダンサーになる夢を見ていた。テレビの音楽番組などで、歌手の後ろで踊っているダンサーを見て、やってみたいと、思うようになった。若い時は、怖いもの知らずである。勉強なんかそっちのけで、ダンサーになるにはどうしたらよいか調べ始めた。ある時、テレビで有名なダンスの先生が紹介され、食い入るように見つめたが、それが私の憧れの方となり、この先生しかいない、この先生の所に行こうと、心に決めてしまった。
この当時、エレキギターブーム。ベンチャーズの曲が、私に踊れとばかりに、流行していた。
その10「迷い道」
もちろん、親には相談もできないことである。両親は、息子は大学へ行くものと思っている。そこで一計を案じた。大学に行く振りをして、自分の考えを強行突破させる。親への裏切りであるが、自分の考えを通すには、これしかなかった。
東京の有名私立大学3校受験し、発表の日、わざわざ東京まで出かけて不合格を確認したあと、近くの公衆電話ボックスに入って、あらかじめ調べておいた、ダンスの先生のお宅の電話番号を回した。群馬の田舎から出てきた、右も左もわからない若造が、見ず知らずの大先生にいきなり電話をするのである。上がらないわけがない。ダイヤルに指を入れて回すが、相反する不安と期待が最高潮に達し、頭がカッカと熱くなり、指が震えて上手く回せない。体中から汗が噴き出した。心の中の自分が叫ぶ。「どうした!それくらいのことで、くじけるな」電話ボックスの外は、大学に合格したのだろう、明日を約束された学生たちが、はしゃぎながら通り過ぎていく。また心の中の自分が叫ぶ、「あいつらにまけるな」。そこでようやく落ち着きを取り戻した。「そうだよ、俺はダンスを習ってテレビに出て、あいつらを見返すんだ」。意を決して、今度はしっかりとダイヤルを回した。呼び出しコールが鳴る。電話口に出たのは、女性だった。「はい、大川でございます」一瞬、頭の中が真っ白になる。しかし、気を取り直して「あ、あ、あの、先生はいらっしゃるでしょうか?わたくし墨島と申します」「はい、少々お待ち下さい」。運のいいことに、この時、すぐそばに先生がいた。最初に出た女性は、あとで、お手伝いさんだとわかった。「はい、大川ですが・・・」「あ、先生ですか、突然ですみません。あの、弟子にしていただけませんでしょうか?」・・・思えば迷惑な話である。しかし、その時の私には、こんな行動しかとれなかった。電話口で、とにかくお会いしたいと、懇願した。すると先生は、会う約束をしてくれた。会う日と時間を決め、「ありがとう、ございました」と電話を切った時、背中は汗びっしょりだったが、ボックスの外に出て、不合格になった大学を見上げながら、「ざまあみろ!俺はダンスの先生の試験に合格したんだ」と心の中で叫んだ。若いということは、世間知らずで、未完成で、無謀である。だが、この時は、自分の道を自分で切り拓いた位の自負があって、慢心していた。
5月初旬、木々が芽吹き、若い葉の衣を付ける頃、私は、両親の悲しみを振り切って、目指すダンスの世界へ旅立ったのだが、・・・現実は甘くなかった。先生から、「まずは、ソーシャルダンスを習って、ソーシャルダンスの先生になりなさい」と言われたのである。
当時、社交ダンスというと、何か、夜のイメージがつきまとい、踊り子と踊るダンスホールや、キャバレーなどで踊る、というより、男女が抱き合っている姿、という印象が強く、とてもまともなダンスとは言えない部分があり、そんなダンスを何故、自分がしなければならないのか、という思いが強くあった。それでもいつか、モダンダンスやタップダンスが習えるなら、ソーシャルダンスでも我慢しようと心に決めたのだが、一向にその気配はないどころか、このままいったら、完全に、一介の社交ダンスの先生で終わることに確信が持てたから、私は、失望して、辞める決意をしたのだった。この間、たかだか4ヵ月ほどの出来事なのだが、18歳の私にとっては、衝撃の人生経験だった。
大川先生の下宿先から、電車に乗って30分ほど、当時、国鉄・京浜東北線の大森駅の近くのビルに先生のダンススタジオがあって、そこに通った。営業時間は午後1時からで、夜は午後9時頃までだったろうか。働く先生が私を含めて男女合わせて10名位。新人の私は、3週間の特訓のあと、即席の先生の出来上がりとなり、ビギナー客の相手をする。客は何も知らないから、私を先生とみている。私もいっぱしの先生になりきって対応するが、ダンスの現実の一端を見て、18歳の純な心は戸惑い、少なからず失望し、社会への疑心を持ち始めた。「おまえが考えているほど世の中は、甘くはないのよ」と言いながら、荷物をまとめてくれた母親の涙顔を思い出した。「母さん!ご免よ」私は心の中で謝った。だが今さら帰れない。現実は前へ進むしかなかった。
ある日の午後、新しい女性客が入って、私が担当することになったのだが、狼狽えた。真っ白なワンピースのタイトスカートで、「初めてなので、よろしくお願いしますね」と言ったその女性は、ミスワールドにでも出そうな美人だった。何故こんなきれいな人が、こんなダンススタジオに習いにくるのか?しかもこの私に・・・。狼狽えている私に、先輩の浅沼
先生が、「大丈夫!俺が見ているから、いつものようにやりなさい」と言ってくれた。そこでようやく私は、平静に戻り、深呼吸をひとつして、その女性の前に立ったが、それでも教えている間、心臓は早鐘を打ち、足は時々ステップを間違えて、私のほうが初心者のようだった。時々、浅沼先生が、別の客に踊りを教えながら、声をかけてくれたので、何とか済ますことができたが、少しひんやりとした柔らかい手、甘い髪の香り、洋服の布1枚から伝わる体の凹凸、私には、心臓を突き刺す毒であった。周囲で踊っている先輩の先生方が、それとなくこちらを注視しているのがわかった。レッスンを終えて、ハンカチで額の汗を拭った。「いやあ、すごい美人だったなあ。これまで来たお客さんの中で、1・2を争うよ」と中年の先生が言った。浅沼先生は、「びっくりしたかい?きっとどこかのホステスさんだよ。けっこう来るんだよ、ホステスさん。そのうち慣れるさ」と声をかけてくれた。
この浅沼先生という方は、28~29歳で、朗らかで、人あたりがよく、当初から、何かと私を心配してくれた。きっと無謀な若造に見えたのだろう。聞けば、理科系の大学を卒業し、会社に就職したものの、ひょんなことからダンスの世界に入り、今はダンス教師をしているとのことだった。そういえば、中年の男先生は、沖縄から流れて来ただとか、少し色っぽい女先生は、北海道で踊っていたとか、それだけ聞いただけで、こんな小さなダンス教室にも、他人の計り知れない、いろいろな人生があって、みんな懸命に生きているのだなあと知った。
その美人は、しばらく毎日やってきて、そのうち2日に1回、やがて3日に1回、という具合に減ってきたが、ある日、「今度の日曜日、空いていたら、お仕事終わってから、ダンスに付き合って下さらない」と言ってきたので、吃驚した。もちろん、断る理由もなし、付き合うと、麹町にあるダイヤモンドホテルのダンスホールに連れていかれた。踊りながら、彼女の身の上話を聞くことができたが、そこでまた、吃驚させられた。
彼女の仕事は、銀座のあるクラブのホステス。客からダンスを付き合わされるが、苦手でよく客の足を踏んでしまう。そこで苦手ダンスを克服しようと、住まいの大森に近いダンススタジオを探して、やってきたとのことだった。さらに話は続く。数年前に結婚して、女の子を産んだが離婚。女の子は夫にとられ、今、彼女は独りぼっちだと言う。その女の子の写真を見せてくれた。突然、何故そんな話を私にするのか?戸惑った。私には到底慰めるだけの経験も心のゆとりもない。聞いているだけだった。だが、何故こんなきれいな女性が、若い時から、こんな波乱の人生を歩むのか、分からなかったが、腹が立った。「絶対、引き取るべきだよ」私が思わずそう言うと彼女は、踊りながら涙を流していた。私は正直焦った。薄暗いホールの明かりだから、周囲からは、彼女の涙は見えないだろうが、異様な展開に戸惑いながら、ひたすら踊り続けた、ラスト曲の「蛍の光」まで、ただ無言で。
その晩、大森の彼女のアパートに泊めてもらうことになったが、何事も起きなかった。何事も起きなかったが、若い18歳の体と心は、勝手に妄想を続け、夢と現実の間を行ったり来たりしながら朝を迎え、目覚めれば隣に彼女が寝ていた。窓際の薄いカーテンの隙間から一筋の光が差し込み、うっすらと部屋を明るくし、白っぽい雰囲気の壁や和室の襖や天井を映し、昨夜から今朝までの現実を見せる。ほのかな大人の香水を漂わせ、寝ている彼女の横顔を見ながら、また異様な速さになる心臓の鼓動を覚えながら、彼女の気持ちを思う。信用して、私を泊めたのだろうか、それとも・・・。私はいたたまれなくなってトイレに起きた。トイレの小窓を開けると、新鮮な空気が入って来て、大きく息を吸うと、少し落ち着いた。浅い眠りで頭の中がぼうっとしている。昨夜のダンスホールでの出来事が、頭の中でリプレイし、再び昨日の自分の感覚に戻されるが、はっと我に返って、トイレから出ると、1DKのキッチンにパジャマにジーパン姿の彼女が立っていた。「おはよう。眠れた?コーヒー飲む?」ようやく妄想が止まった。
数か月前、高校を卒業したこの私が、どうしてこんな所にいるのか?正直、理解出来なかった。こんなはずではなかった、という思いと、媚薬のような大人の世界の入り口で、おいでおいでと誘われているような思いが交錯して、頭の中は、ハチが飛び回るように混乱していた。彼女が焼いてくれたトーストとコーヒーを口にしながら、改めて、自分の目指した理想と、現実とのギャップを考えた。現実は理想に近づいているのか?少なくとも理想のレールに入ろうとしているのか?・・・正直なところ判断できない。少なくともこのままいけば、一介のダンス教師にはなれそうだ。が、その先は検討がつかない。このままでは俺はダメになる、ダメな道に入る前に、改めて大学進学を目指すべきだと、心の奥で小さな火が灯った気がした。私の高校時代の友人のほとんどは、来年の大学を目指して、予備校に通い、浪人生活を送っていた。私はそんな仲間から離れ、自分の道を歩き出したのではなかったか?そうなのだが、この現実は何なのか。「もう少ししたら、お昼ご飯にでも行きましょう。その後、ダンススタジオにお仕事にいらっしゃいな」美人の彼女が、ニッコリしながら、楽しそうに言った。私は、困惑する顔を悟られまいとしながら、気がついたように、「そうだね」と答えた。とにかく昨夜以来、人生初めてのことばかりで、困惑・混乱・驚愕の連続で、なす術もない。大人の媚薬は、私を虜にし、併せて危険ランプを点滅させていた。
実は、こんな未熟な私を、見守ってくれる人達がいた。私は知らなかったが、同じダンススタジオの浅沼先生を始めとする若い先生たちと、受付でいつも明るい声で喋ったり、笑ったりしている、大学を卒業したての背のすらりとした女性だった。「あなたはまだ若いのだから、何度でもやり直せる。ダンスなんて歳をとってからでもできるのよ」などと、暗にやんわりと、こんなところに来るものではないと、言ってくれ、その中で、積極的に行動を起こしてくれたのは、浅沼先生だった。私が、何となく例の美人と付き合い始めると、「今度3人で飲みに行こう」と、仲間に入ってきたのだ。美人との付き合いに困惑していた私は、助かったという思いと、やはり俺はまだ餓鬼だと悟ったからだった。三人になってからというもの、俄然、楽になってはしゃいだ。
季節は、夏に入り、仕事が終わったある日、浅沼先生の車で、湘南海岸をドライブ。美人の彼女がおいしいおにぎりを作ってくれ、町の夜景を見ながら食べたり、帰ってから、彼女のアパートで、飲み明かしたりした。浅沼先生と彼女の話は、大人の話で、口を挟む余裕などなかったが、どんな話も新鮮で楽しかった。
7月のある日、私は、もう一度、大学を目指したいからと、大川先生のダンススタジオを辞めた。その際、7月分の給料が出ていたが、「そういう理由なら返しなさい」というから、理不尽だと思ったが、ぽっと出の田舎の高校生が迷惑をかけたと思い、自宅まで行って、返した。「世の中はそう、甘くはないんだよ」と言われ、腹も立ったが、大人になってから考えてみると、確かに、無謀な若造の迷惑な行動で、今では、世の中の通念を教えてくれた、授業料だと、思っている。いや、よくぞこんな若造を引き受けてくれたと、感謝さえしている。だって、そうでなければ、浅沼先生にも、美人の彼女にも、他の先生方にも、受付のすらりとした大学での女性にも、会えなかったからだ。貴重な、4か月間の東京暮らしだったが、実は、意を決して家を出た手前、両親の元へ帰るつもりはなく、今までのダンススタジオで働いて貯めたお金で、浅沼先生の紹介で下宿し、東京の予備校の夏期講習を申し込んだのだ。背水の陣構えで、そのうちアルバイトもするつもりでいたら、なんと話が、東京にいる従兄弟から両親へいったらしく、慌てて両親が上京してきて、「そんなら家に帰りなさい」と、襟首掴んでも連れていく勢いで、私はすっかり挫折を味わい、情けなくも家に連れ戻されたのであった。
あのまま突っ張って東京にいたら、どうなっていたであろうか?どうにかなったのかもしれないが、親不孝には間違いなかった。両親、特に母親からは、とくとくと諭され、親子の情は、痛いほど身に沁み、心と体の中は涙でいっぱいになった。実家の夏の夜の畑を渡る風と、虫の音は、傷んだ心を、より一層、孤独にし、受験勉強どころか、俺はどういう人間なのか、自分を見つめる日々で、何も手に付かなかった。たかだか4ヵ月の東京暮らしは、この俺にとって何だったのか?東京行きの荷造りをしながら泣いていた母親の姿が、再び頭の中に浮かんでくる。母に悲しい思いをさせてまで出掛けて行った挙句の果てが、この始末。俺という人間は何者なのだ?自分で自分が分からない。苦悶の顔で畳の上をごろごろ寝転がる。いつの間にか声を挙げて泣いていた。畳が涙で濡れる。藺草の臭いが妙に悲しい。再び戻った実家の周辺は、何もなかったかのようにすましている。遠くを走る両毛線の汽車の汽笛が、いつものように響き、近所の奥さんたちの話声が、風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる。父はいつものように会社に行き、母も俺のために、自動車部品を作る会社で、パートの仕事。今頃は、流れてくるラインの前で、考える余裕もなく、ひたすら手を動かしている。俺は取り残されている。「このままでは・・・」と思う。立ち上がって遠くの空を見つめ、「ここから始めよう」と心に誓った、大学入学前の出来事だった。
荒木一郎の「空に星があるように」というきれいな歌が、ひねくれものには、妬ましく思えた。好きな歌なのに・・・。
その11「エアメール」
年が明けて昭和45年、再び東京の下宿に戻り、残り1年3ヵ月となった大学生活に入る。
大学は、すっかり変わってしまった。正門は閉ざされ、門の向こうにはガードマンが立っていた。通行証を見せないと入れてくれない。私たちは、むき出しの権力に遭い、己の無力感を味わった。その結果が、これなのだろう。いい子は入れるが、悪い子は入れない。ならばいい子になって、入れてもらおうか。しかし、心の中で思う。権力の欺瞞性、暴力性、非人間性を知ってしまうと、人は明日からの生き方を変える。それって、大人になるっていうことなのだろうか。誰かが言った。「世の中、しらけるよな!」いかに若者が叫び狂おうが、現実は、巨大ビルのように、ビクとも動かないものなのだと、思い知らされた。
クラスの友人が、銀杏並木の横を、大学本部のある建物へ歩いていくのが見え、声をかけた。「おい!久しぶりだな、どこへ行く?」すると友人は、「そろそろ就職のことが心配になってな。就職部へ求人票を見に行く」彼は、学生運動の活動家ではないが、運動には理解を示し、デモにも参加していた。しかし、今、自分の心情に蓋をして、社会に入っていく道を選択したようだ。私は、「そうか」と言いながら立ち止まり、「就職か」とつぶやいた。私にとっても、他人事ではないのだが、他人事のような感覚なのだ。急に自分が嫌になり、踵を返して校門を出た。寒風の青山通りを、ひどく落ち込んで歩いた。きらびやかな宝石店や、カラフルなブティックや、アメリカナイズされたスーパーマーケットに車を乗り付け、客が入っていく。私は、ウィンドウに映る自分の姿が、負け犬のように思え、ひどく惨めな気分になった。私は、どこへ行こうとしているのだろう。自分でもわからない。
下宿に戻ると、落ち込んだ私を元気づけるように、アメリカへ行ったM男から、エアメールが届いていた。M男が旅立って1年3ヵ月、その間、2~3ヵ月に一度の割合で手紙が届いた。彼の手紙は“今を生きている”という意欲にあふれ、読んでいて楽しく元気をもらえた。最初の年の10月、南部ルイジアナ州バトンルージュという所から手紙が届いたが、渡米1ヵ月で、大した英会話もできないはずなのに、見るもの聞くもの、すべてが楽しくてしょうがない、といった感じで、英語混じりの日本語が躍動していた。英語が出来ないなんて、気にも留めない様子だ。ただ、M男の字の読みにくさには、閉口した。英語のような丸っこい字で判読しにくい。困ったことに手紙が来るごとに英語が増えていく。その都度、私は英語の辞書を引っ張り出して調べる。元々M男は、浜っ子で横浜言葉。“かったるい”という言葉は、M男から教えてもらった。
ある日の手紙に、とんでもないジョークを体験した話が書いてあった。M男が通っているルイジアナ州立大学の友達が、これから楽しいジョークをやるから、3ドル寄付をしないかと誘われ、M男は、寄付をした。寄付金は数十人から集められ、200ドルという、学生にとっては大金となった。ジュークを主催する男の学生は、寄付をした仲間を一室に集め、やおら電話を取って、「これから、フランスのパリにある有名レストラン・マキシマムに電話をする。さあ!いたずらジョークの始まりだ」と楽しそうに電話をかけ始めた。男の学生は、国際電話局を呼び出し、「パリのレストラン、マキシマムにつないでくれたまえ」と厳かな口調で言う。やがて電話口に出たのは、マキシマムのマネジャー。「はい、マキシマムでございます。ご用は何でございましょうか」。すると、男の学生は、「実は飼っている豚のエサが不足してね、もしも、そちらのお店に残飯があるなら、譲ってくれないか?」と話し出した。集まった学生は、クスクス笑い出す、驚きの声を出す者もいる。マキシマムのマネジャーは、「もちろんOKです。ところであなたは、パリの近くに住んでいるのですか?」と聞いた。すると男の学生は、声を一段と張り上げて「アメリカだ!」といった。するとマキシマムのマネジャーは、「アメリカという国は、ヨーロッパにはありませんが・・・?」すかさず男の学生は、「当たり前だ。我々は大西洋を越えたアメリカに住んでいる」次の瞬間、電話口の向こうから、大きな笑い声が聞こえ、電話は切れたのだった。もちろん、寄付をして集まった学生たちからは、爆笑と、してやったりという快哉が響き渡った。寄付金は、パリ・マキシムへの電話代、約5分間で232ドルとして、消えたのだった。
これが、アメリカのジョーク。日本人には、あまり馴染まないジュークだが、それを楽しんでいるM男に「よかった!」と思った。もうすっかりアメリカに溶け込んでいるようだ。M男はその手紙でいう、「アメリカは広く、とてつもない国だ。外国から日本を眺めてみろ。絶対、世の中の見方が変わる。お前も海外へ出ろ!アメリカへ来るならオレが世話をしてやる」嬉しい手紙だった。
ところがそれから、2~3月して、下宿先にM男のお母さんから、電話があった。私は、M男のお母さんとは、M男がアメリカへ行く時、羽田空港でお会いしただけで、それも会釈程度で、よく知らないのだが、そのお母さんから電話だという。何だろう?と出てみると、いきなり「M男が死にました」という。私はあっけにとられた。「え?ど、どういうことですか?」私の頭は、動転した。M男の手紙は、何度も読んでいるし、ついこの間も読んで、元気づけられたのだが、それなのに死んだとは、どういうことだろう?とてもじゃないが、信じられなかった。M男のお母さんは、悔しそうに、残念そうに、話し出した。「M男は、半年ほど前に、中古車を買って、通学を始めたようです。スェーデン人の彼女も出来、将来の結婚の約束までして、いつか日本へ帰ったら、2人で北海道に牧場を買って、生活するんだと言ってましたが、つい先日、学校帰り、どういうわけかハイウェイでハンドルを切り損ねて壁に激突したそうです。幸い一人だったので彼女は助かりました。墨島さんには、たいへんお世話になって、一言、お礼とお知らせと思いお電話しました。いろいろありがとうございました。どうぞ、悔いのない学生生活を送って下さい」。私は、二の句が継げず、その場で受話器を持ったまま、絶句した。絶句するしかなかった。葬儀の日取りもお墓の場所も聞かず・・・そう、聞きたくなかった。M男が死んだなんて、認めたくなかった。
私は、部屋に戻って、M男の手紙を並べ、呆然としていた。部屋の窓から、初春の薄曇りの空が、どんよりとして、風が静かに流れていた。心の中で叫んだ。「M男!何で死んだ?」つい2年前、私の相向かいの部屋にいて、ニコニコしながら私の部屋を開け、私のラジオをFEN放送にして、アメリカの話をした。ジーパンの後ポケットには、いつも英語の辞書。夢を自分の力で実現させた。それなのに何で、交通事故なんかで、命を落とすのか。「バカヤロー!バカヤロー!バカヤロー!」叫んでも叫んでも、物足りない。涙がとめどもなく流れ、頬を伝い、ズボンにポタポタ落ち、ズボンがびしょびしょなった。M男の形見といえば、たった6通のエアメールだけ。私は、この手紙を日記に挟み、一生持ち続けると決心した。
翌年、発売された、歌手・浅川マキの「赤い橋」は、何か、M男のことを言っているようだった。
その12「卒業」
1970年・昭和45年は、日米安保条約自動延長の年だが、勝敗は決していた。そのことは、誰でも知っていたが、それでもなお、学生運動はくすぶり続けていた。
ある友人は、就職に専念し、みごと一流企業の内定をとったが、何と、日米安保条約自動延長のその日、デモに参加した。のちに、一流と呼ばれる会社に入った、同じ年代の人たちに聞くと、「学生運動?・・・やってたよ」とか、「逮捕されたこともあるよ」という人が、少なからずいた。当然、会社の面接の時には、学生運動をやっていたなど、おくびにも出さない。もし正直に、やっていた人は「やっていました」と申告したとし、そういう人たちを採用しなかったとすると、恐らく会社側は、優秀な人材を確保できなかったのではないか。それ程、全共闘運動は、一般学生を巻き込んでいた。雇用する会社側も、そのあたりは許容範囲とし、多少運動していても黙認して、採用していたように思う。
良い悪いは別にして、一般学生というものは、機敏で、賢く、日和見で、切り替えが早いもの。本音は出さない。
こうして会社に入った若者を、マスコミは、“シラケ世代”と呼んだが、高度経済成長の波に乗った会社の社内教育はすさまじく、シラケ世代は、この後、エコノミックアニマルに変身していく。一方、全共闘運動は1970年をもって四分五裂、セクト化、先鋭化して、一般学生は敬遠するようになる。内ゲバが頻発し、一般常識から離れ、数々の事件へと暴発していく。
私は、大学の卒業式にも出ず、証書だけをもらって、静かに卒業した。自分自身に対して、シラケていた。
フォーク歌手・泉谷しげるの歌、「春夏秋冬」が、世の中を冷たく見る自分の心に、静かに流れる。
「柳瀬川の夕暮れ~あとがきにかえて~」
あれから半世紀、遠く過ぎ去った青春の日々を考えながら、私は、住まいに近い東京近郊の柳瀬川の土手を散歩する。熱帯のようなうだる日々もようやく去り、赤とんぼが乱舞する夏の終わりの夕暮れ、茜色に染まった西の空から、心地よいひんやりとした風が肌をなでてゆき、心を落ち着かせてくれる。空気の澄んだ日は、川越しにけっこう大きな富士山が、絵のように現れる。
大学卒業後、私は就職もせず、先輩の紹介で、ラジオの文化放送の深夜番組「走れ歌謡曲」のアシスタントディレクターをやった。パーソナリティは、大人の色気を感じさせることではピカイチの声の持ち主・成田あつ子さん。ご本人は、たいへんさっぱりとした性格で、頭の回転も速く、テキパキと仕事をこなす女性だったが、とにかく声に色気が漂っていた。ああいう声は、これまでお目にかかっていない。実は、夫も子もいらっしゃった身だが、番組では特に言うこともないと、独身を通し、白いシャツとジーンズが似合っていた。かっこいいし、小気味よかった。この方が、深夜の街道を突っ走るトラックの運ちゃんからのお便りを、大人の色気で読むから人気は高い。私は、そばでレコードをかけたり、リクエストの電話を受けたりし、成田あつ子さんと共に2時間の仕事は、誇らしかった。当時、成田あつ子さんが出した本「話そう、夜明けまで」は、DJそのままの口調で書いてあり、今読んでも面白い。
その一部を紹介すれば、成田あつ子さんの愛称が、“瓢箪ナマズ”。入社早々、先輩から付けられたあだ名で、その理由が、「つかみどころのない人間」とのこと。それについてご本人は、「失礼な!」と思っていたが、よく考えてみると、気がふれたたかと友人が心配するほど豹変するし、どこまで本気でどこからが演技なのか、判断しかねると、周囲からよく言われるので、「なるほど!それで瓢箪ナマズ」と納得したとのことだった。その本を出版した時、私も1冊頂いたが、表紙裏にペンで、ひょうきんな瓢箪ナマズの絵を描いてサインしてくれた。正義感というか、熱血的なところもあって、DJの最中、受験生のはがきを読んでいて「ラジオが面白くて勉強が手につかない」との文面を読むや、マイクの向こうの受験生に向かって、「あなた!今すぐラジオを消しなさい!あたしはいつも毎週この時間、たいして得にもならないことをしゃべってるんだ。聞きたかったら、いつでも聴けるから、大学受かってからにしなさい!大学受かるのが先よ!」と、親が子を諭すように叫んだことがあった。これも“瓢箪ナマズ”のなせる業かと。勘違いやズッコケも多く、局内に馬場さんという男性社員がいて、二人で冗談を言い合っていると、遠くから「お~い!ババ~!」と声をかけられ、二人揃って「は~い」と返事をして、局内大爆笑したこともあったとか。話題に事欠かない成田あつ子さんだったが、それから数年後、夫と子を残し病死された。私は、呆然としてしまった。あれから半世紀も経つが、惜しい人を亡くしたと思う。
柳瀬川の水音が、ザーザーと心地よい。人生は川の流れのようにと、歌にあるが、人生は結局・・・いまだに“逡巡=ためらい”である。が、46億年という地球の歴史から見れば大したことではない。昨今、地球温暖化と大騒ぎだが、「それは違う。地球は寒冷化している」と、真剣に訴えている学者もいる。素人にはわからないが、温暖化より寒冷化の方が、恐ろしいと思うが、どちらにしても、そのうちあの世に行くのだから、どっちでもよい。確かなことは、科学の進歩でよくなったこともたくさんあるが、失ったものも、たくさんあるということ。人間は、余りにも地球を傷つけ、破壊し過ぎた。地球上の生きとし生けるものの中で君臨し、人口膨張の悲劇を迎えようとしている。最近、強く認識したのが、“地球は有限”ということ。いつか地球は寿命がきて消滅してしまうが、それまで人間は、限りある資源を大切に使わないといけないことは、はっきりしている。そう思うと、戦争している場合ではない、得して生きようとか、今が良ければ、などと思っている場合ではない、地球の歴史から見れば人生は一瞬なのだから、大事に、慎重に、謙虚に生きたい。そして、地球の自然と共に生きることを目指したい。
柳瀬川の夕暮れが次第に、茜色から静かに、深く青い色に変わろうとしている。ゆっくりと、しかし、確実に自然は時を刻む。東の空には、キラキラと星が瞬き始めた。人生は哀しいが、美しくもある。未来に向かって祈るばかり。だが、いくら理想を掲げても、醜く争う人の世は、永遠に変わらないだろう。
サイモン&ガーファンクルの歌う「セブン・オクロック・ニュース/サイレント・ナイト」が、頭の隅で鳴っている。(終わり)