プロローグ
プロローグ
目覚まし時計のアラームが鳴る。
時計の針はちょうど6時を指示していた。
アラームのボリュームがこれから大きくなるというところで布団から伸びた手がアラームを止めた。
彼は、布団から這い出し眼鏡をかけた。
西園 楓、30歳。独身。一人暮らしをしている彼のマンションは黒と白を基調とした殺風景な部屋だ。
本棚には雑多なジャンルの小説や古典文学、歴史書などが丁寧に収納されている。
欠伸を噛み殺しながら彼は、出勤の準備を行った。
西園は十六夜学園の教師である。この若さですでに学年主任を任されている。
出世の速いエリートと周りからは思われているが、彼の心境はそうではない。
「主幹の資格をしっかりと取った上に試験の成績も優秀だ。ゆくゆくは私の跡を継ぐのだからこういう役職には早めについておいた方がいい」
と、叔父である理事長の鶴の一声で昇格してしまった。
周囲の目は非常に冷ややかだった。『いくら私立の学園とはいえ身内贔屓が過ぎる』そういう声も多い。
事実同じ資格を取っても、まだ学年主任になっていない先生もいる。
西園自身『まだ、そんな重責を負いたくない』と心の中で思いつつも、本家筋である叔父の意向に逆らうわけにもいかず、渋々拝命した。もっとも、彼は常に苦虫を噛み潰したような表情のため、叔父は特に気にも留めなかったようだが。
西園が出勤すると、グランドのほうで朝練の声が聞こえる。野球部や陸上部などの運動部が朝練を行っているのだろう。
『そういえば、来期以降の予算削減案を作らなければ。陸上部が予算削減の筆頭だったか…』と、頭の痛い仕事を思い出し、眉根を寄せた。
「西園センセー、おはよーございます」
校庭で女子生徒から声をかけられた。
メガネをかけても視力のあまり良くない西園は目を細めながら、
「おはよう」
と返した。西園は挨拶を返しつつまた苦虫を噛み潰したような顔になる。
この生徒の名前が思い出せない。
名指しで挨拶をしてくるぐらいだから、向こうはこちらの事を知っている。
出来る限り自分が授業を担当している生徒の名前は把握しているはずだが、まだ新学期が始まって一ヶ月。新入生の名前と顔は一致していない。
そのことを恥じ、西園は眉根を寄せた。
女子生徒のほうは不機嫌そうな表情の西園に不安を感じたのか、挨拶を済ませると余所余所しく校舎へと走っていった。
『失敗してしまったな』と頭の中で独り言ちる。
生徒との信頼関係の構築は教師の重要業務である。解っているが、いまいち上手くいっていない。
そんな信頼関係の構築方法を学ぶ前に、担任ではなく学年主任となってしまった。
『まだまだ私は実力不足だ』
溜息を吐きつつ、職員室へと向かった。
時計の針は、まだ7時前。朝練のある部活を担当している教師は部活で忙しく、担当していない教師はまだ出勤するには少し早い。
西園は机に座ると、昨日までのやりかけの書類に目を通した。
学年主任となると授業を行うだけではなく、各クラスの授業の進捗状況や学校行事のスケジュール確認、クラス運営は上手くいっているか、トラブルは起きていないか、部活動での対外行事…etc、その他もろもろのことを頭に叩き込んでいなければならない。
今は大きな行事もないが、あとひと月もすれば中間テストだ。
各科目の授業の進捗報告書を先週末期限で各科目担当にお願いをしていた。
報告書に目を通していると、1科目提出されていないのがある。美術だ。
確か、担当は今年新任の環という女性教師だ。
大学出てすぐに、担任を任せられたのは辛いと思うが、いろいろと危うげで頼りない先生である。
『美術教師が担任持たされるというのも珍しいし、何より経験が足りないのだから、サポートしなければ。中間テストに美術は関係しないから今回は余り言わないでおこう。』
と思いながら、西園はため息をつき諦めて他の教師の報告書を確認する。
書類を確認していくうちに、ますます西園の眉根は寄っていく。
まだ職員室には誰もいないが、近づき難い険悪な雰囲気を出している。とうとう貧乏ゆすりまで始めた。
居てもたってもいられなくなった西園は、数学教師が提出した報告書に赤ペンで添削をしていく。
国語教師である彼は、「てにをは」を欠いた彼の文章が気持ち悪くてしょうがなかった。
それを直していると、今度は社会科の教師の文章まで気になってきた。
仕方なくその教師の書類も手直しをしていく。
気が付くと、職員室には他の教師も出勤してきていた。
時計の針を見ると7時58分。熱中してしまっていたようだ。
朝の連絡事項の時間のため、他の教師が起立をしている。西園もそれに倣って立ち上がった。
ふと見ると、あの美術教師の席が空席である。
西園は学年主任として注意をしなければいけないと思うとため息をついた。
ギリギリのところでドアが空き、環先生が荷物を机に置いて朝礼のため起立した。
遅刻寸前間に合ったようだ。
『注意する言葉をまた変えて、選ばなければ……』
西園は遅刻に対する注意をどう柔らかくすべきか、苦虫を噛み潰しながら教頭の連絡事項に耳を傾けた。
環 灯里はぎりぎり間に合ったことにホッと胸をなでおろした。
隣の机の学年主任は相変わらず怖い表情をしてるけど、今日は急用があったからしょうがない。
おばあ様が、月曜の朝にいきなり呼び出しなんかするから悪いんだ。
そう、私は悪くないの!と、心に決めても、逆光がさす西園先生はメガネだけ光ってて怖い。
長身で整った顔立ちをしてるけど、いっつも不機嫌そうに眉間にシワがあるし、ちょうど逆光で西園先生ほんとドラマの悪役みたい。
ほとんど喋んないのも怖いし、冗談なんか言うのかな、このセンセー。
などと環が考えていると、教頭の連絡事項が終わってしまった。ヤバイ。何言ってたか聞いてない。
多分重要事項とかないよね、うん、大丈夫。と一人頷いてていると、その西園先生から声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
「えっ、はい。聞いてました。たぶん、えっと大丈夫です」
ほんとは何も聞いてなかったけど!
「そうですか。生徒に注意を促さないといけないですね。終わりのホームルームの時にしっかり伝えてください」
え、ウソ! 結構大事な連絡事項があったんだ!
西園先生を見ると苦虫を噛み潰したような目でこちらを見ている。あれ疑ってる。なんか私疑われてる。
「……はい。大丈夫……デス」
そう何とか答えると、西園先生がため息をつき、時計をちらりと見た。
「そろそろ、朝のホームルームの時間ですね」
良かった、助かったー。他の先生に後でこっそり聞いとこう。と環は心に決めて出席簿を持って職員室を出た。