有香の決意
慌ただしい一日が過ぎ去った。
静寂の夜も明け、小鳥達がさえずり始める。
日が昇り、三階建ての屋敷の窓に光が射し込む。ただ一室、カーテンが閉じられたままの部屋があった。
藤原有香は昨日から、部屋に引きこもったまま朝を迎えた。
ショックのあまり寝込んだまま、ベッドの布団にくるまり、雪玉のようになっている。
このまま引きこもった状態が、続くかと思われたがそうもいかない。
時間が経つにつれ、有香はもぞもぞと動き出す。生理現象には勝てず、我慢の果てに手洗いに行った。
「ふう」
洗面化粧室で顔を洗うと、有香の頭はすっきりする。
昨日の件はまだ尾を引いてるが、振り払って冷静に考え始めた。
「……やっぱり変だわ」
思い返してみると、不自然な点があるのに気づく。
(一つ、光太郎さんが、私に悪戯をする理由がないわ、何のメリットもないもの。あれだけ藤原家を恐れていて、私を不快にさせるはずがないわ)
(もう一つ、仮に……本を偽装したのだとしても、自分で革のカバーをつけた物を、間違えて持ってくるなんてありえない)
有香は考え込むが、判断材料が足らず疑問は解けない。
「それに、親身になってくれた光太郎さんを、私は信じたい」
どうしたらよいか、相談しようと思った矢先に早紀が近づいてきた。
「お嬢様、どうかお食事をお取りください。昨日は何もお召し上がらず心配です」
「ごめんなさい早紀さん、頂くわ」
パジャマ姿のまま、有香は階段を下りて食堂へと向かう。
食堂には絵画が飾られ、六人掛けのテーブルには燭台がおかれていた。
パンの朝食が用意されており、待っていた樹里が椅子を引いて有香を座らせる。
「ありがとう、樹里さん」
「はい」
従者姉妹は有香の前に座る。ここに英雄を入れて、四人で食事を取るのが日課だ。
今朝は英雄は不在、三人で手を合わせた。
「いただきます」
食べながら、有香は樹里に話しかける。
「お父様はまだ仕事?」
「はい、ラボに監禁……じゃなくて研究員の方達の、指導をしているはずですわ」
「そう、大変ね」
三人は何げない会話をしながら、食事をした。
食後の紅茶を飲み、くつろいでいた有香に樹里が話しかける。
「お嬢様、清原様から御面会の申し出があります」
「断って」
「いえ、是非お目にかかっていただきたいのです」
有香は渋ったが、樹里の顔を見て何かあると踏む。
不要かつ無用な事であれば、樹里が独断で処理しているからだ。
早紀は武術で、樹里は情報収集と交渉で有香を守っていた。
「……わかったわ、支度します」
一時間後、有香と武は応接間で会う。有香の後ろには早紀と樹里が控える。
護衛二人を邪魔だと思いつつ、清原武は口を開く。
「やあやあ有香さん、今日は会ってくれてありがとう。いつもは断られるからね、嬉しいよ」
「申し訳ありません、清原さん。他の殿方が、私をなかなか離してくれないものですから、順番待ちの方が詰まってるんです」
もちろん嘘で、軽い牽制にすぎない。ただ言い方を変えれば、
「寄ってきてる男はお前だけじゃない」と言われたに等しい。
藤原家の財産を狙っている武には、ダメージにはなった。
引きつった笑いを浮かべるのが精一杯。
有香は作り笑いをしながら聞いた。
「今日はどのような、御用件でしょうか?」
「そうそう、これを頼まれて持ってきた」
武は古ぼけた手帳をテーブルの上に置く。
「これは?」
「パソコンショップの店員君から頼まれた。有香さんにとって大事な物らしいので、私が預かって届けにきたわけだよ」
有香の顔から笑みが消える。武を見て怪しんだ。
(……光太郎さんがこんな人に頼むかしら? 昨日の今日で? おかしい)
「ところで休み中にどこかへ遊びに行かないかい? 有香さんの好きな所で……」
「この手帳を受け取ったのはいつ?」
「今日かな」
「本日、マルチコア竹田はお休みです」
樹里が人の悪い顔をしながら、冷淡に答えた。
「すまないね昨日だったかな?」
「きのうの何時?」
「いつだっていいじゃないか! それ欲しい物なんだろ! ……失礼した」
武は金や欲しい物さえ渡せば、女はなびくと思い込んでいた。
ルックスにも自信があり、後は適当に相手をしてやれば、騙されてるとも知らずに女は惚れ込む。
今までは上手くいき、金を貢がせ女を泣かせてきた。しかし、有香は武に対して興味すらない。
自惚れが強い男にとって、その態度は許せるわけもなく、イライラし始めた。
「そんなことより、俺とつき……」
「失礼いたします。これを御覧ください」
ここで樹里がテーブルの上に、写真を置く。
写真には、店内で手帳の中身をすり替えている武が、バッチリ写っていた。
武はテーブルを叩き、声を荒げる。
「ねつ造だ! 店内に監視カメラはなかったはずだ」
「ええ、この写真は店の外から撮ったのを拡大した物です」
樹里は有香の害になりそうな、武を常々マークしていた。
この悪行を有香に知らせ、糾弾すべく屋敷に入れた。後は永久に追い払うのみ。
樹里が勝ち誇った顔をすると、武は暴れ始める。
「盗撮じゃないか、訴えてやる! それが嫌なら俺の物になれ!」
発狂した武は立ち上がり、有香につかみかかる。
「お嬢様!」
早紀は取り押さえようとするが、間に合わない!
「いででででで!」
「そう……あなたが仕組んだのね」
有香は武の右腕を難なくつかんだ。そして、怒りをこめ握力を強めていく。
「いいから離せ! この野郎!」
「お黙りなさい! 人をおとしいれて悪いとは思わないの!」
「ぐ……あう……」
有香は怒りに我を忘れていた。武は苦悶の表情で声もだせない。
手の色が変わり始め、慌てて早紀が止める。
「お嬢様どうかお止めください!」
ハッ、となって有香は手を離す。
「あ――いって――!」
武が右腕をまくると、有香の手の跡がくっきりと残っていた。
顔をしかめながら、右腕を左手で押さえる。
早紀が止めなければ、武の腕は潰れていただろう。
「なんて馬鹿力だ、この化け物女め! 慰謝料はとってやるから覚悟しろよ!」
捨て台詞を残して、武は応接間から逃げだす。
世の中すべて自分の思い通りになると、勘違いしていた男の挫折だった。
もっとも、藤原家を敵に回してタダで済むわけがない。
「御心配はいりませんお嬢様。あの不埒者の顔を見ることは二度とありません」
「……そう、ありがとう」
有香は生返事に上の空。
樹里が適切な処置をするのは分かっているので、武のことは気にも止めていない。
気にしたのは、かけられた言葉の方だった。
(化け物か……確かにそうよね。他人から見れば怖いだけ、「力を見せてはいけない」とお父様がおっしゃってた理由がようやくわかったわ……でも彼は……光太郎さんは「羨ましい」と言ってくれた……親切で優しい光太郎さん……光太郎さんに会いたい!)
有香はいてもたってもいられず、手帳を取り立ち上がる。
その前に早紀が立ちはだかった。
「どいて早紀さん!」
「どちらへ行かれるおつもりですか?」
「光太郎さんの所へ参ります」
「会う必要はありません」
「どうして? 光太郎さんは落とし入れられたのよ!」
「それは神山様に隙があったからです。その結果、お嬢様を不快にさせたのですから、謝罪すべきは彼です。こちらが出向く理由は何もありません」
「そんな……」
「お嬢様、あれが本ではなく爆弾でしたら、お命はございませんでした。藤原家を妬む輩は、何をしでかすか分かりません。どうか、お一人での行動はお控えください」
早紀は恭しく頭を下げる。裏腹に顔はほくそ笑んでいた。
(やったわ! これであの男とはおさらばね、お嬢様は私だけのもの――!)
「…………」
有香は黙っていたが、早紀の目論見は外れていた。
(早紀さんが言ってるのは「騙された方が悪い」と同じ犯罪者の屁理屈。そんな無法がまかり通っていいわけがないわ!……光太郎さんが可哀想)
むしろ思いは強くなり、有香は光太郎に会う決意を固めた。




