第六章 ひねくれ神父と正直な魔女
シーに連れられ、リーヴが向かった先は、すでに廃棄された街外れの教会だった。その教会には珍しく、ステンドグラスや装飾品が残っている。それは多くの場所が崩れ、そうした廃墟を漁ることで生活する人間でも、手を付けられない程に危険だからだ。旧時代の教会が、今も色濃く残る場所。そこに描かれる神の絵は、全てがこの世界の過酷さを皮肉るかのように、優しげで暖かなものばかりだった。
周囲には、かつて誰かが住んでいたと思われる廃墟が立ち並んでいる。
こここそが、神の降臨が起こった場所であった。
丁度、ラナの孤児院とラトリアを挟んだ正反対の位置。多くの廃墟はすでに屋根すらなく、かつて壁だったはずの建材を晒している。
そんな廃墟の中から、何人もの人造天使が現れた。彼ら全員がかつて、リーヴと共に街で暮らした人間だった。リーヴはリヴァイアサンを引き抜いたものの、その銃口を彼らに向けることを躊躇ってしまった。
「くそっ……」
小声で毒づくものの、状況は何も改善されない。 リーヴには、たとえなにがあっても、彼らに銃を向けられない理由があった。彼らがその姿をさらしている原因は、リーヴの弱さにある。彼らを守れなかったのは、リーヴのミスなのだ。
罪の意識を感じることが出来る人間が、自ら殺めた人間に鞭を打つようなことが、出来る訳がなかった。
「この数が相手なら……儂の出番じゃな」
そんなリーヴの様子を見て、シーがリーヴの前に飛び出す。
「シー?」
アルマを助けるのは自分だとシーが拘るものだと思っていたリーヴはしかし、予想外のシーの動きに疑問を感じて問い掛ける。
「儂はもともと、龍じゃ。こういう相手が大勢の時こそ、儂の出番じゃろう?」
しかし、シーの答えは単純明快だった。そうすることで、自分の目的を果たすことが出来ると判断したのだろう。シーは迷いのない鋭い視線で、人造天使たちを睨みつける。
「小僧はさっさと先に行け。ここに居られても、邪魔なだけじゃ」
龍の力は個人を狙うのにも、味方がいる状態で力を振るうのにも、大きすぎる。相手が大勢であればあるほど、真価を発揮するのが龍という種族である。しかし、それはシーが本当に龍と呼ばれる程の力を持つのであれば、だ。今のシーは本体の龍から枝分けされた一匹の堕天獣でしかない。そのはずだった。
「……大丈夫なのか?」
だから、リーヴはそう尋ねた。しかし、シーはリーヴの質問に答えもせず、頼もしげな笑みを浮かべる。そんなリーヴとシーに対して痺れを切らしたかのように、人造天使の集団は一斉に勢い良く襲いかかってきた。思わず、構えたリヴァイアサンの引き金に力を込めるリーヴ。だが、しかし、リーヴは引き金を引ききることが出来なかった。
そんなリーヴを尻目に、シーはむしろ気怠げに髪をかきあげながら、くるりと回転する。
シーから舞い落ちた光塵が空を漂い、地面に触れ、シーは、その細い腕を突き出した。
「気味の悪い小童どもが!」
一喝し、自分が植えた光塵と種を操ることによって成長した木々で、多くの人造天使たちを突き飛ばすシー。かつて、ラナの前で能力を使ってみせた時よりも、遙かに強い。その小さな羽は、眩く輝いており、そんな光を背景に力を振るうシーの姿は、正しく龍の名に恥じないものだった。
「もともと、小僧がもっと早く儂の本体を埋めれば、この程度の力を振るうことなど造作もないのじゃ」
翼を震わせて浮くシーは、改めて人造天使たちに宣戦布告する。
「なにせ……本来なら娘に注ぐはずの光塵を全て、あの枝一本に注いだのじゃからな」
こちらを向かないまま、シーはリーヴに声をかけてくる。
「儂の力は強すぎる。娘の近くに憎む敵がいれば、娘ごと巻き込みかねない力じゃ……だからの……だからのぅ、小僧……貴様に頼む。貴様の力は、儂とは違うのじゃろう?」
シーは静かに微笑み、こちらを見やった。
「貴様の力は、守るためのものじゃ」
何一つ守りきれたことのないリーヴに、シーが優しく告げる。
「なにを、言って……」
だからこそ、リーヴは咄嗟に反論しようとする。そんなリーヴを、シーが優しく首を振って止めた。
「ひねくれた言い訳は無用じゃ……儂は小娘より、貴様がしてきたことを聞いておる」
そう言って、気怠げにシーは溜め息を吐き出す。
「あの小娘……儂とぱーてぃとやらの準備に行った時、貴様の事を聞きもしないのに、詳しく説明しおったのじゃ。その礼代わりに、少しの物まで要求してな」
――なにをやっているんだ、あいつは。
そんなことを思って頭を抱えるリーヴに、シーは今まで一度もリーヴには浮かべたことのなかった笑みを、リーヴに対する親愛の感情を持った笑みを、その顔一面に浮かばせる。
「あの孤児院にいる子らは皆、貴様に助けられたそうじゃな」
確かに、その通りだった。だが、その助けた子供たちには、リーヴが助けたなどと胸を張って言うことが出来ない事情があった。彼らのほとんどは寝たきりで、意識のない植物状態だった。そうすることでようやく、彼らは光塵の影響を最低限に抑えることができ、堕天獣化を抑えることが出来ているのである。その事情のために、リーヴはなにも言えず、シーから視線を逸らす。
「儂の娘のように堕天獣になりかけたもの、堕天獣に襲われたもの。そういった者たちを、塵狩りの立場を利用して…………貴様は守ってきた。その一つが、貴様の中にある龍呪回路。貴様が今も龍呪回路を付けている理由は、塵狩りとして力を求めるだけではない。龍呪回路の研究が、堕天獣化に対する治療の研究にもなるからじゃろう。そう、儂は話を聞いておる」
シーは胸を張り、リーヴを見据える。その視線は力強く、誇り高かった。
「そして……孤児院に住む子らが堕天獣になりかけた時には…………貴様は必死にあがき、己自身の龍呪回路を用いて光塵を吸い上げてでも、子らを助けた。そして、貴様は助けた子供たちに……現実に抗い、絶望せず、己の心を騙してでも、必死に生きることの大切さを説いたのじゃろう?」
「けど……俺は……」
結局、子供たちを救うことは出来なかった。そう言おうと、リーヴは口を開こうとする。しかし、その言葉を遮るように、シーは言葉を続けた。
「勝利とはただ力によって、物事を解決することではない……自らが定めた目的を成し遂げる事こそ、勝利と呼ぶ」
そう言って、シーは教会を指で指し示す。
「貴様が儂との戦いで……儂に勝利したことによって、儂に教えた真実じゃ。それを、果たしてこい」
「シー……」
その言葉を言い終わるか言い終わらないかの瞬間に、シーは全力で木を操り、人造天使たちを吹き飛ばした。
「儂の目的は、娘の救出! そのためには……貴様が一番信頼の置ける人間なのじゃ! この世の誰もが諦めることに慣れていても、そんな世の中に対してひねくれて、何もかもを諦めようとしない。そんな貴様だからこそ、儂は信用できる」
教会の周囲に、さっきまでいた数多くの人造天使たちが、シーの操る木の枝によってはじき飛ばされ、道が開かれる。
「儂の信頼に応えるつもりならば、行け! 我が娘を助ける役目、貴様に任せたぞ…………貴様とは古い言葉遣いで、相手を目上の人だと尊ぶ言葉じゃ…………儂が認めた男の邪魔などさせん!」
「…………ああ!」
シーが切り開いてくれた道を走り抜け、リーヴは前に走る。
扉を開け、中に入ると、まるで世界から切り離されたかのように、音が消えた。教会に入ってくる光が急に少なくなり、中が暗くなる。それは恐らく、リーヴたちに対する人造天使たちの介入を嫌ったシーが、この教会そのものを木で覆ったからだろう。
崩れた壁から見える外の光景には、見慣れた大樹が周囲を覆っているのが垣間見える。
その木々が結果的に、教会を外から補修しているのだろう。歩くことすら危険な廃墟の中だというのに周囲の廃墟の中で、この教会だけが建物としての安定感を取り戻していた。
教会の中を、歩くリーヴ。周囲の光がほどよく遮断されたことによって、独特の雰囲気が、教会内に漂っていた。わずかな光を透過して、かすかに輝くステンドグラス。ぼろぼろになった教会内の装飾品が淡く、くすんだ光を反射する。
そのどれもが、歴史の流れを感じさせる骨董品ばかりだった。
教会の奥に置かれた教壇の上に、寝かされたアルマの姿がある。リーヴが貸したロングコートはどこかに捨てられ、危険なほどに薄いワンピース一枚でアルマは寝ているようだ。その傍で、まるで神に祈る敬虔な聖職者のように祈りを捧げるグレゴリーの姿を見て、リーヴは叫んだ。
「グレゴリー!」
リーヴがそう呼びかけると、グレゴリーはもったいぶるかのようにゆっくりと振り返る。
「やっぱり…………君が来たんだね、リーヴ」
リーヴはグレゴリーへと、リヴァイアサンを向けたまま、吠える。
「アルマを返してもらう! その子は……俺が守る。それが俺の仕事なんでね!」
リーヴの言葉に、グレゴリーは嫌味ったらしく肩をすくめてみせた。
「君のそういうひねくれた態度を見せつつも、実は熱血漢なところ……僕は正直、嫌いなんだよね。昔から、そういうところだけはずっと、変わらなかった男を見てきたから」
グレゴリーはその時、初めてリーヴに対して敵意を向けてきた。
「似ているんだよ、君は……兄さんに!」
その視線に、ぐっと気圧されるリーヴ。グレゴリーの視線を作り出す血走った目には、狂気の色すら浮かんでいた。がりがりと頭をかきむしるグレゴリー。しかし、不意にグレゴリーがその手を止め、朗らかな笑顔を浮かべる。その表情は、例えようのないほどに醜悪だった。仮面のような笑顔を浮かべたまま、グレゴリーは語る。
「残念だけど、この子を解放することは出来ないよ。この魔女は、僕の計画に必要な存在だからね」
「魔女? それに計画だって?」
グレゴリーの言葉に、リーヴは眉根を寄せる。
「僕はね…………救われたいんだよ」
突然囁かれるグレゴリーの言葉を聞いて、リーヴは頭の中が一気に熱くなるのを感じた。
「救われたい……だと……!」
グレゴリーが語るその言葉はリーヴにとって、到底許せるものではなかった。
「あれだけのことをしでかしておいて……よくものうのうと!」
グレゴリーはノーラを廃人にし、アルフレッドの幸せを壊し、リーヴやアルマの人生に深い影を落とした。かつてのリーヴと共に暮らした町の人々は皆、今も人造天使となって戦わされている。多くの人間を、不幸に陥れた男が救われたいと言う。それは、とても許せたことではなかった。
「僕は、僕の持つ原罪を贖いたい。そのためなら、多少の罪は犯すさ」
多少の罪。そんな気持ちで、多くの人がその人生を狂わされたのかと思うと、リーヴはグレゴリーに対して、殺意すら抱いた。
そんなことを言う権利が、この男にあるはずがないとリーヴは思う。
「お前が一体、なにをしたって言うんだ? 原罪ってのはなんだ!」
それでも、リーヴはグレゴリーの言う原罪というものがなんなのかを問うた。リーヴは、ただ知りたかった。リーヴやアルマ、ノーラ、アルフレッド、かつて共に暮らした街の人々が、何故こんな目に合わなければならなかったのか。
その理由を、リーヴは知りたかったのである。
「原罪を犯したのは僕じゃない。僕の兄さ」
「なに?」
グレゴリーの兄であるジェラルドが、その肉親であるグレゴリーにも、罪の意識を抱かせるほどの大罪を犯したというのだろうか。それは、ジェラルドに育てられたリーヴにとって、考えられないことだった。
ジェラルドは優しく、そして、偉大な人物だとリーヴは思っていたからだ。
「兄さんは、巷では聖人のように扱われているが、それは大間違いというものだよ」
グレゴリーは、耐えきれないとばかりに大声で笑う。
「あっはははははは! それどころか……この世界で最も重い罪を犯した大罪人なんだよ。兄さんは」
「最も、重い罪……?」
その言葉を聞いて、リーヴはある噂を思い出していた。神の降臨以後の混乱期、まことしやかに囁かれたとある噂。聖道教会の教会長は、神殺しである。
神殺し、それはこの世界に生きる、ほとんどの人にとって恨まれる存在だ。何故なら、この過酷な世界に生きることになったのはその人物のせいなのだと、多くの人々が考えているからだ。この過酷な世界は、神に見捨てられた人々に対する罰なのだと、聖道教会の元となった宗教は語っていた。自分がもうすぐ化け物になるかもしれない恐怖。その恐怖を作り出した人物を、多くの人々は恐れを抱くとともに、恨んでいた。
まさか、その神殺しがジェラルドなのだろうか。
リーヴの考えを肯定するかのように、グレゴリーは何度も頷いた。
「そう、兄さんは神を殺したんだよ! 自分の娘を神に奪われ、怒りに狂って……ねぇ!」
「馬鹿げている!」
そう、リーヴは叫んだ。
あり得ない。自分を助けてくれたジェラルドには、そんな狂った様子などなかった。ただ、なにかを耐えるように、いつも辛そうな顔を浮かべていただけだ。はっと息を飲んで、リーヴは気付く。もしかしたら、ジェラルドが耐えていたなにかとは、神殺しという罪に対しての罪悪感なのかもしれない。
「思い当たる節があるみたいだねぇ、リーヴ?」
「っ……証拠はあるのか!」
そんなことはないと首を振り、自分の中に浮かんだ考えを否定するためにも、リーヴは口早にそう言った。
そうするしかなかった。自分の信じていたものが、崩れ去ってしまうような気がした。ジェラルドによって育てられたリーヴにとって、他の天使たちと同じように、ジェラルドは絶対的な存在だった。
「あるさ」
あっさりと言ったグレゴリーの簡単な答えに、リーヴは絶句する。何も答えることが出来ないまま、グレゴリーの手が動くのを、リーヴは見守ってしまった。グレゴリーの手が、懐へと潜り込み、そこから取り出されたのは、水筒として使えるような革の袋だった。その袋の中には、それと見てすぐにわかるほどの高純度な光晶が入っていた。
「僕の光塵を操作する能力をもってしなければ、すぐに袋を抜けて落ちてしまうほどの高純度な光晶」
「それが、父さんが神殺しを犯した証拠だとでも?」
その光晶をもっていたのが、ジェラルドということだろうか。確かにその光晶は、神から直接取り出したと言われても頷けるほど、普通の光晶とは大きさも純度の目安ともなる輝きも異なっているように見えた。
「これは……死んだ兄さんから取り出した光晶だからね」
「な……に……」
リーヴはその言葉を、すぐに理解することが出来なかった。グレゴリーの言葉が意味しているのは、ジェラルドの墓を暴き、その中にあるはずの死体から光晶を取り出したということだからだ。
リーヴには、信じられなかった。
「そんな、ことを……?」
自分を育ててくれた養父の墓を暴き、その死体から光晶を取り出す。そんなことを、グレゴリーはしたのだろうか?
「神を殺した重罪人が、安らかに眠る権利などあるはずがないだろう?」
にこやかに笑いながら、グレゴリーは光晶を掲げる。
「この純度の高さ。これは、神を殺した重罪人にしか与えられない…………罪の輝きだ。今もなお、光塵は他の物質や生物に溶けて、その純度を失い続けている」
グレゴリーの語る光塵の問題。それは、神学者たちが検証して得た真実だった。光塵の純度を高めることが出来る生物がいることも確かだが、多くの光塵は、今もなお大気や砂漠の砂、そして、多くの生物に溶け続けることによって、純度を薄め続けている。
「だからこそ、これだけの光を放つ光晶は、光塵が発生したその瞬間。つまり、神が死んだあの日、あの場所にいたという証拠に他ならない」
「だが……それは、その時、その場所にいたということの証明にしかならないはずだ!」
悲鳴のようなリーヴの言葉が示す通り、グレゴリーが見つけ出した高純度の光晶という証拠だけでは、ジェラルドが神が死んだその日、その場所にいたことは証明できても、ジェラルドが神を殺した証明にはならない。
なにか、決定的な証拠が必要だった。
「そうだね。けど、僕は聖道教会の教会長になった時、兄さん自身の口から真実を聞いているんだよ」
「……嘘だ」
リーヴの口から、否定の言葉が漏れる。神殺しをしたと語ることは、この世界において、どれだけの恨みを買うかわからない行為だ。その危険性がわからない、ジェラルドではないだろう。もし、それが本当のことでないのなら、語るべきではないことを語る。
ならば、それは真実なのだ。
しかし、ジェラルドは神の降臨以後の混乱期、リーヴと同じような孤児たちを救ってきた人物だ。そんな人物が、何故神と呼ばれる存在を殺さなければならないのか。リーヴにはわからなかった。
「仇討ちだよ、リーヴ。あの人は、神に子供を奪われた。だから、神を殺したんだ。その後、どんな善行をしたとしても……その根底にあったのは、神殺しに対する罪悪感だけだ!」
グレゴリーは激昂し、声を荒げて叫び出す。その言葉を、リーヴは黙って聞いた。
「そんな人のために、僕は神殺しの弟だっていうことを背負わなくちゃいけなくなった! それがどれだけ怖いことなのか……わかるかい、リーヴ? 僕はその秘密を守るために、多くの人の視線を、耳を恐れるようになったんだ」
もし、ジェラルドが本当に神を殺したというのなら、その親族や周囲の人々は迫害を免れないだろう。特にジェラルドに付きまとい、権力を握っていたグレゴリーや町の権力者などは、どれだけ虐げられてきた人々の反撃を受けることだろうか、想像も出来ない。
「だから、僕は街の権力者たちに媚びて、媚びて、媚びまくった。彼らの悪趣味に合わせた趣向を送る度に、内心では怯えていた」
真実を知られているのではないか、と恐怖を感じながら、びくついていたと大仰に語るグレゴリー。
「そして、僕は一つの答えに至った」
狂喜の笑みを浮かべばせながら、グレゴリーは、何か安らぐものを抱きしめているかのように腕を交差させ、目を閉じる。
その姿は、顔に浮かべる狂喜の笑みをのぞけば、この教会にある聖母の像によく似ていた。
「神を復活させればいい……そうすれば、僕を苦しめてきたこの原罪はなくなる」
「ふざけるな! お前が……お前が犯した罪はどうなる、その罪の償いから逃げるのか!」
罪がなくなるわけがないと、リーヴはそう思った。
リーヴはずっとノーラを守りきれなかったことを苦しんできた。アルマやラトリアに住む人々、そして、人造天使となったかつてのリーヴと共に暮らした街の人々。その全てが、グレゴリーによって、苦しめられてきたのだ。だから、そんなグレゴリーが身勝手に救われたいと口にすることが、リーヴには許せなかった。
「光塵は……神の世界へ至るための門だ」
「なにを、言って…………っ、動くな!」
グレゴリーの脈絡もない言葉に、リーヴが気を取られた一瞬、その一瞬でグレゴリーはジェラルドの光晶が入った袋を、アルマの上に差し出した。
「光塵は別世界への入り口だ。だから、天使はこの世界とは別の法則を操り、堕天獣はこの世界にはありえない進化を、そして、龍は自らが生きやすい異世界すら創造してみせる」
リーヴが銃口を向けても、グレゴリーの動きは止まることがない。まるで、今、銃に撃たれても何も問題がないとでも言うかのように。
「かつて降臨した神とは、この世界から神の世界へと人々を送るための箱船だったんだ。けれど、僕の兄さんがその箱船を壊してしまった。それは、過ちだ。だから、僕が正す!」
「何を言っている、グレゴリー!」
「少しずつ……少しずつ、自我を圧迫するほどの光塵を、この少女に入れた。あの龍がいたせいで、この作業をやり直さなければならなくなったのは……痛手だった」
グレゴリーが光晶を握る手とは反対の手で白衣を開く。その下にあるシャツの胸部分は、血で赤く染まっていた。 グレゴリーの語るあの龍とは、シーのことだろう。シーは自分の吐息に含まれる光塵によって、アルマが堕天獣となったと言っていた。
グレゴリーが言っているような、光塵を限界まで体の中に取り込んだ状態で、龍の吐息を浴びれば、堕天獣になるのは必然だと言えた。
「けれど……もともと魔女の技術を使うために、僕の光塵を入れる必要性があったから、構わない。この瞬間を持って、僕は救われる!」
「……魔女の技術だと?」
リーヴにとって聞き捨てならない言葉だった。その技術こそ、この騒動の発端であり、グレゴリーの目的を解き明かす糸口なのだと、今までの会話からリーヴは見当をつけていた。
ラナにこの技術のことを聞き忘れてしまったのは、リーヴにとっての痛手だった。
だからこそ、リーヴはグレゴリーの言葉を聞く。
「魔女の技術。それは己の体内にある光塵をほかの生物の体内に入れることで、その生物が堕天獣となった時、同じ光塵を持つ自分をその堕天獣に……同じ生命体だと誤認させる技術だ。ただ、それだけの技術なんだよ。けれど、光塵を忌避する人々には……その発想に至ることは出来ない」
確かに、グレゴリーの言う通りだろう。今、神の降臨以後の世界を生きる人々は皆、堕天獣化の恐怖に怯え、自らの体に光塵があるのだという事実すら、認識しようとはしない。
そうすることによって、現実から避難しているのだ。
「光塵の違いによって、他者を認識する堕天獣は……その魔女の技術を使った者との違いがわからなくなる。だから、命令を聞くのさ……たとえば人間が自分の腕を動かす時、脳からきた命令に、腕が疑問を抱くことがないように……外部からの命令を、自分の内部から発せられた命令だと誤認して動くからこそ、人造天使は最高の兵隊になるのさ」
その言葉でリーヴは、グレゴリーの胸元が血で濡れている原因がわかった。恐らく、グレゴリーは自分の光塵を取り出して、アルマの体内に光塵を入れたのだろう。
なら、グレゴリーを止めれば、人造天使たちもまた動きを止めるはずだとリーヴは気付く。
「撃てよ、リーヴ。僕への恨みを晴らすチャンスは、きっと今だけだ」
グレゴリーの言っていたことが確かなら、人造天使がグレゴリーの指示に従っていた理由はそれだけなのかもしれない。
グレゴリーの手が袋の中にあるジェラルドの光晶を、アルマへと落とすために動く。
「くそ!」
その瞬間、リーヴは迷わず天使による力場を撃ち抜き、グレゴリーの手から袋をはじき飛ばすために、引き金を引いた。
「けれど、君が撃っても結局、僕は目的を果たす……今回もまた僕の勝ちで、君の負けだ」
グレゴリーはリーヴを嘲笑いながら、自分の胸を銃弾の前に差し出した。光翼による力場など張らず、銃弾をそのまま胸に受けたグレゴリーは、銃弾の衝撃のまま崩れ落ちた。
しかし、袋から光晶がこぼれ落ち、その光晶はアルマの胸に触れる。
「アルマ!」
すとんと、まるで何も無いかのように光晶がアルマの中に入り込み、一瞬の沈黙が教会内を支配する。そして、次の瞬間、アルマの背中から光翼が生えた。
「さぁ、神よ……僕の作り出した神よ! その御国へと至る門を開き…………僕をそこへ迎え入れてくれ! 僕の世界を、安らぎに満ちた世界へと塗り替えてくれ!」
一瞬、グレゴリーは穏やかな顔を浮かべて、祈りを捧げた。その言葉を最後に、銃弾に胸を貫かれたグレゴリーは息を引き取る。その体に、グレゴリーの指示に従ったアルマの背中から伸びた光翼が、突き刺さった。その光翼が突き刺さった次の瞬間、グレゴリーの体は光の粒となって消える。
「な……?」
まるで、そこにグレゴリーなどという人間がいたのが、幻かなにかのように、光翼に貫かれたグレゴリーは跡形もなく消え去り、残った光塵の輝きもまた、翼に飲み込まれていった。
翼の持ち主、アルマが起き上がり、こちらを見る。その瞳は光塵が発する金色の光に染まっていた。
「アルマ?」
リーヴの言葉に、アルマは何の反応も示さず、ただ光翼だけが動く。
「くっ!」
自分を貫こうとする翼を避けながら、リーヴは驚愕した。アルマの翼が触れたものは全て光の粒になって、消えていた。本当にグレゴリーの言う通り別の世界。神の世界への門が開き、そこに送られているとでもいうのだろうか。
アルマの翼によって、人もなにもかもが、あの神の降臨の時と同じように、かき消えてしまうのだろうか。
不意にリーヴはその時、これまでに見てきたこの世界のことを思い出した。多くの人はこの世界を過酷な世界と言ったが、リーヴにとってのこの世界は輝いていた。何よりもこの過酷な世界で懸命に生きることを選択してきた人の命の輝き。そんなものに、リーヴは魅せられていた。
時には厳しい現実にぶつかることもあったが、リーヴはこの世界で、実に多くの人と出会ったのだ。養父であるジェラルド。自分にとって、義理とはいえ血の繋がった家族のように心を通じ合わせたアルフレッドとノーラ。聖道教会を離れた後、出会ったラナ、シー、そして、アルマ。
それぞれの生き方で、この世界を生き抜き、今もなお生きようとしている人々。ジェラルドは確かに罪悪感からの行動だったかもしれないが、リーヴや多くの子供たちを守り抜き、この世界に生きる人々に、明日を目指すことを思い出させてくれた人だった。アルフレッドは重い責任に耐え、今も人々を守るために戦っているだろう。ノーラはそんなアルフレッドを、壊れた心でなお支えようとしている。
ラナは子供たちと共に、未来を見据えて生きていた。シーはアルマを自分で助けたいという願いをこらえ、リーヴにアルマの救出を任せてくれた。
そして、素直な心で、真っ直ぐにこの世界を見、生きようとしてくれたアルマ。
その未来を、リーヴは守りたいと強く思う。
「グレゴリー」
リーヴは呟きながら、もはや何もいない空間に目を向ける。
「お前は、俺の負けだと言ったな……」
失敗ばかりを繰り返す自分に、なにが出来るのだろうかという思いはあった。しかし、目の前にいるアルマを、放っておくわけにはいかなかった。
「だが、俺の負けは…………まだ決まっていない」
自分の無力さを認めながら、リーヴは最善を尽くそうと心に誓う。
「もともと、俺はアルマを救いにきたんだ……だから、俺はその目的を果たす。それが出来れば……」
アルマの体が、震える。その背中から再び光翼が生え、アルマの背中からは四枚の羽が生えた。その光は神々しく、教会の中を照らしだす。
「俺の勝ちだ……あの世で見てろ、グレゴリー!」
そうして、グレゴリーがいたはずの場所から目を逸らして、リーヴはアルマを見た。
「我が救いを求めるものよ。我に触れよ」
アルマの口から出た声とは思えないほど、威厳に満ちた声が聞こえる。リーヴが知る由もないが、それはかつて、ジェラルドの前に現れた神が言った言葉と同じ発言だった。強く息を吸い込み、アルマは体を丸める。
「Ah――――」
そして、歌うような叫び声と共に全身へと力をこめて、アルマの体を借りた人造の神が、翼を伸ばす。その翼によって、教会に残されたステンドグラスや装飾品、教会を囲むシーの大樹すらもはじき飛ばされ、光の粒子となって消えた。
その衝撃によって、リーヴもまた、教会の外へとはじき飛ばされる。
「ちっ!」
舌打ちし、リーヴは考える。桁違いの威力だった。それこそ龍ですら比べものにならない力を、アルマは持っていた。
アルマと向き合い、リーヴはその動きに注目する。あの翼がグレゴリーの言うように、神の世界へと至る門なのか、それはわからない。しかし、その翼による攻撃が、触れたもの全てを消滅させていることは事実だ。
そんな攻撃に、当たるわけにはいかない。
アルマが再び、リーヴの方へと翼を繰り出す。その翼を避けようとしたリーヴ。しかし、足下に転がっていた瓦礫が、リーヴの邪魔をした。足が引っかかり、わずかにけつまづいてしまうリーヴ。リーヴはアルマの光翼を回避するために、無茶な体勢で横に跳ぶことになった。そんな無茶な体勢で跳んだため、低く地面スレスレで跳んだことが、結果的にリーヴの命を救った。
翼は途中で幾本にも枝分かれして、その鋭い切っ先を突き出したのだ。その下をくぐり抜けるようにして、体を回転させながら、リーヴは起き上がる。
「やれやれ……」
偶然、いやはじき飛ばされた破片に囲まれたここでは、必然とも言うべき事故に救われたことに肩をすくめるリーヴ。そして、リーヴはアルマを見て、呆然と呟いた。
「うそ……だろ?」
さっきは四枚生えていた光翼が、六枚に増えていた。その背中からは、恐らく七本目になるであろう光翼の光も見える。あの光翼全てが、相手の近くで枝分かれして広がり、敵を狙う刃となるのだ。時間が経てば経つ程に、リーヴは追い詰められていくだろう。アルマの背中に生えてくる光翼は今もなお、数を増やそうとしているのだから。
しかし、天使でもないリーヴには、あの光翼をかいくぐっていくことなど不可能と思えた。アルマとの距離はかなり離れているというのに、あっという間にこちらへと迫る光翼の枝を何とか避けることが、今のリーヴに出来る精一杯の行動なのだ。
触れて、逸らすことのできない攻撃というのが、どれほどまでに凶悪なものなのか、リーヴは思い知らされた。
そして、ついにその時が訪れる。
何度も何度も攻撃を避けるものの、何一つアルマに対する対策が思いつかないリーヴ。そんなリーヴを嘲笑うかのように、アルマの背中から七枚目の翼が生え、とてもではないが、避けきれない光翼が枝分かれしてリーヴを襲う。
避けきれない。リーヴはその瞬間、死を覚悟した。
リヴァイアサンを胸の前に差し出し、半ば反射的にその一撃を耐えようとする。しかし、翼の攻撃によってリヴァイアサンは消滅し、自分もまた同じ運命を辿るだろうということはわかりきっていた。
「くっ、そ……」
吐き捨てるようにリーヴは、そう呟く。次の瞬間、衝撃がリーヴの体を襲った。
衝撃、体が消えていくという未知の感覚ではなく、慣れ親しんだ衝撃と共に突き飛ばされる感覚。そう、結果としてリーヴの予想は外れたのだ。
はじき飛ばされ、地面に叩きつけられるリーヴ。
「かはっ」
肺の中から絞り出された空気を吐き出しながら、リーヴの頭の中には疑問が浮かんでいた。なぜ、リーヴの体もリヴァイアサンも消滅していないのだろうか。消滅せず、吹き飛ばされたリーヴは、全身を襲う奇妙な体のだるさに悩まされながらも、立ち上がる。そして、そんな疑問を抱えているのは、こちらに視線を向けているアルマも同じようだった。
再び、試すように、また七本の光翼が枝分かれしてリーヴを襲う。今度も避けきれない。そう判断したリーヴは半信半疑のまま、アルマの光翼をリヴァイアサンで弾き飛ばした。当然、はじき飛ばしきれなかった光翼が、リーヴの体を打ち据える。
すると、リヴァイアサンも体も消滅はしなかったものの、体の中にあった気怠さがやけに強くなった。腕を中心に全身の力が抜け、体の調子が悪くなる。次第に腕が痺れ、その痺れが、痛みに変わり始めた。その腕の痛みは、つい数十分前まで感じていた痛み、龍呪回路に光塵がなくなった時の痛みと酷似していた。
――龍呪回路に含まれている光塵が、アルマの光翼に反発しているのか?
そう思ってリーヴは、アルマの攻撃に教会の建材だった木材を投げ込んでみる。すると、光塵の入っていない木材は、いとも簡単に翼によって消滅した。
リーヴは跳び退りながら、光塵の性質を思い出す。堕天獣や人、生物の体内にある光塵は別の性質を持ち、反発する。そのことが影響し、アルマの光翼とリーヴの体内にある光塵が反発し、アルマの光翼を形作る光塵の力を打ち消しているのだ。
だから、リーヴは消滅しなかった。
リヴァイアサンが消滅しなかった理由は恐らく、何度も光塵の混ざった弾丸を撃っている内に、リヴァイアサンの銃身自体に光塵が宿っていたからだろう。グレゴリーがアルマの光翼に貫かれてすぐに消えたのは、すでにアルマへと自分の光塵を分け与えていたからだ。
しかし、この事実によって光翼を防ぐ方法があることはわかったが、これだけではまだアルマを倒すことは出来なかった。防御する術がある以上、この翼をかいくぐり、銃を撃つこともできるだろう。だがしかし、アルマを傷つけず、神の力だけを破壊する。
今、アルマを助けるためにリーヴが求めなければならないのは、そんな夢物語のような方法だった。
最善の未来を見据えて、問題を解決しようと考えながら戦うリーヴに対して、今までは間断なく襲ってきていたアルマの攻撃が止まる。そのことに気付いて、リーヴがアルマを見つめると、その瞳には理性の輝きがあった。
金色の白目と青い瞳、二つの色に染まった瞳がリーヴを見つめていた。
「アルマ?」
「……はい」
リーヴの言葉に、静かに答えるアルマ。その返事を聞いて、リーヴはアルマの方へと歩み寄ろうとする。
「逃げ……て」
そんなリーヴに、アルマは苦しそうな声で囁いた。
「どうしてだ? 俺は、お前を助けに来たんだ!」
アルマに声をかけるリーヴ。アルマが体内にある光塵を操ることに成功し、正気を取り戻し始めたのなら、それ以上の解決方法などないだろう。
しかし、そんなリーヴの目算は儚く消える。
「逃げ……て、くだ、さ……い。リーヴさ、ん」
なにも見えていないと言わんばかりに呆然と周囲へ視線を揺らしながら、アルマは目の前にいるリーヴに向かって、必死に叫んでいた。
アルマの瞳は、なにも捉えてはいなかった。
「逃げて、逃げて……リーヴさん」
アルマはなにも見えないはずの目で、リーヴに対して、手を伸ばす。そんなアルマの姿に、リーヴはグレゴリーの言葉を思い出していた。自我を圧迫するほどの光塵を詰め込んだ、とグレゴリーは言っていた。それは、こういうことなのだろう。アルマはまるで、夢を見ているかのように現実感のない状態で、行動しているのだ。
もし、アルマをこのまま放っておけば、多くの人を現実感のないまま、襲ってしまうかもしれない。そのことに気付いた時、アルマは強いショックを受けるだろう。
そんなことを、リーヴは許す訳にはいかなかった。
「わたしは……リーヴさんの手助けをしたかった」
そんなことを考えている間にも、アルマは見えないはずのリーヴに語り続けていた。
「リーヴさんはずっと、あの時、倒れてからずっと……辛そうで……見ているだけで、心が張り裂けそうで……」
結局、リーヴはまた、自分の弱さによって誰かを追い詰めてしまっていたのだろうか。アルマの言葉に、リーヴは愕然とした。
「だから、わたしは……わたしは、リーヴさんの力になりたかった」
アルマの目から、涙がこぼれ落ちる。
アルマはリーヴを心配していた。思い返してみれば、確かに今朝から、アルマの視線はずっとリーヴを気遣っていた。
「神様にしか話せないようなことだって……リーヴさんは言っていましたよね……なら、わたし、は……神様になってでも、あなたを助けたかった。あなたのためなら、きっと、わたしはなんにだって……なれる、から」
ぷつんと糸が切れるように、アルマの言葉が途切れ、体が崩れ落ちる。
「アルマ!」
その体を支えるように、ついに八枚目の翼が生え、地面に突き刺さった。
「…………救いを与えよう。天に、地に、嘆きに満ちたこの世界の全てに対して」
再び威厳のある声が、アルマの口を使って発せられる。そして、アルマの願いを聞き届けた神の視線が、改めてこちらを見た。その顔は糸が切れるかのようにくずおれたアルマが、最後に浮かべた表情のまま固まっていた。
なにもかもを諦めたかのような、悲しい瞳。絶望が、そこに形作られたような表情。その表情は、リーヴにとって、見慣れた表情だった。
ラナの孤児院に、リーヴという塵狩りの男がいる理由。それは決して用心棒のためにだけ、という訳ではない。光塵に対して、体が許容できる絶対量が少ない子供たちが堕天獣化した時の始末。それこそが、ラナの孤児院に、リーヴのような塵狩りがいる理由である。
アルマが浮かべた表情は、リーヴがかつて足掻き、助けようとしても助けられなかった孤児院の空き部屋に住んでいる子供たちが、最後に浮かべた表情でもあった。
「ふざ、けるな……!」
誰も、リーヴ自身もが聞こえないほどの声で、リーヴは呟く。
翼が、動いた。グレゴリーがアルマに与えたあれだけの純度をもつ光塵に、人体が適応出来るとは思えない。先程のリーヴの考えを否定するこの事実を、リーヴはあらかじめわかっていた。けれど、それでも、希望的な観測にすがりたかったのである。
自分が弱い人間なのだと、リーヴは改めて痛感する。
あまりにも膨大な光塵が、アルマの体を無理矢理変化させているために、あの大量の光翼が生まれているのだろう。それはおそらく、光塵による変化にアルマの肉体が耐えきれず、大半の光塵が体の外に排出されているからだ。
しかし、その光翼は、際限なく増え続けている。丁度風船が割れるように、純度の高い光塵が、アルマの心と体を破壊するまでもう時間がなかった。アルマを守る為には、できるだけ早く、アルマの体内に入り込んだ光晶を破壊することが必要だった。
「もう……うんざりだ」
先程、口の中だけで消えた言葉を、はっきりとリーヴは口にする。
「俺は……救いなんて求めてない」
拳を握りしめながら、リーヴはアルマと向かい合う。
「俺は……救われたいんじゃあない……救いたいんだ。あの人と同じように……父さんと同じように……誰かを救える人間になりたい」
そう言った後、リーヴはアルマの目を見据えた。そこにあるはずの、物事を真っ直ぐに受け入れていこうとする目にこそ、リーヴは自分の気持ちを語りたかった。
けれど、そこにあるのは、涙と絶望で曇った眼だけだ。
「一緒に笑顔を浮かべて、この世界を生きてくれる誰かがいるなら……俺には、それが救いなんだ! 自分の弱さと他人の弱さを受け入れて……それでも生きていくためには……そうやって、一緒に笑ってくれる誰かが必要なんだ!」
自らを救いたいと言ってくれたアルマに答えるため、リーヴは言葉を続ける。
「後悔はある。どうしようもない罪も、過去もある。けれど、それでも俺は……この苦しみから救われたいなんて、一度も思ったことはない。この苦しみを無くしてしまいたいなんて……思ったことはないんだ!」
その言葉は、ひねくれたリーヴが唯一曲げられなかった信念とでも言うべきものだった。
「罪を、痛みを……背負うことを忘れてしまったら……それは、ただの不義理な行いだ。侵してしまった過ちの苦しみは……次に同じ過ちを繰り返さないためにあるものだろう? その苦しみから救われてしまったら、その痛みには、なにも意味がなくなってしまう!」
だからこそ、リーヴはこの辛い世界で、何より辛い現実に直面しながらも、何もかもを御破算にする死というものに憧れはしなかった。その事実を思い出して、リーヴは同じようにあることを思い出す。かつて、リーヴはこの時と同じように圧倒的な力を持ち、この世界を生きることを謳歌する存在に、啖呵を切ったことがある。
「あの時を、思い出す……か」
シーと戦った時、リーヴは同じように、この過酷な世界を生きる苦しみの中でも、死のうと思ったことだけはないと言ったのだ。その事実が、リーヴにあることを思い出させる。
数週間前、アルマと出会った時、堕天獣となったアルマを治療するために使った治療法。それを、今、アルマに使えないだろうか?
堕天獣の核である光晶を撃ちぬき、別の光晶を入れ、反発させることによって、堕天獣としての光晶を消滅させる。リーヴはその治療法を思い出し、それしかないだろうと腹をくくる。よくよく考えても、それ以外、今のリーヴに思いつく解決方法はない。
選択の余地はなかった。
リーヴは右手に握るリヴァイアサンに付けられたウミヘビの装飾を龍呪回路に噛みつかせ、全力で弾丸に光塵を流し込む。弾丸の中にある光塵に、さらに光塵を注ぐことによって、光塵の結晶である光晶を作り、さらに高純度の状態とするのだ。それまで、リーヴの体内にある光塵を、弾丸に注ぎ込む必要性があった。
高純度の光晶というものは、塵狩りであるリーヴでさえも、早々持つことの出来ない希少性をもっている。今、都合良くリーヴの手元に光晶があるという事がある訳もなく、リーヴは自分で光晶を作り出す必要性があった。シーの異世界にたどり着くために使った光晶もまた、同じようにリーヴが、ある程度の光塵に自分の体内にある光塵を注ぎ込んで作り出したものである。
しかし、その作業は時間が必要で、今の状況ではなによりも危険なものだった。
「Ah――――」
その間、常にリーヴは攻撃を再開したアルマの光翼を避け続けることを余儀なくされた。体の傍を通っていくアルマの光翼。そこからこぼれ落ちる光塵に触れる度、折角貯めた光塵が反発して消えていく。
ただ必死に逃げて、弾丸に光塵を込めるリーヴ。光翼が伸びる距離は無尽蔵なのか、どんなにリーヴが離れても、アルマが一歩たりとも動くことはなかった。
弾丸に光塵を込める作業は、困難を極めた。少しでも体をかすれば、消滅を避けるために体内の光塵が反応し、リヴァイアサンの中にある光塵もまた奪われる。それは、光塵を溜めなければならないリーヴにとって、極めて厳しい状況だった。
翼を避け、銃に光塵をこめる。しかし遅々として、その作業は進まない。どれだけ光塵を弾丸に込めても、一撃でその光塵を奪われるのだ。なにか、アルマの光翼を触れないで防ぐ方法を考えなくてはならなかった。
リーヴの目的を果たすためには、弾丸の中にある光塵を光晶にし、さらに高純度にするほどの光塵を注ぎ込まなくてはならないのだ。それほどの長い時間、ずっとアルマの光翼による攻撃を避けることは不可能だった。
ついに、リーヴの集中力が途切れ始める。それは、あまりにもわかりやすい隙だった。
ここぞとばかりに襲いかかる光翼が、リーヴの体を貫こうと迫り来る。しかし、そんな時、光翼が目の前で止まった。
アルマが、ギュっと体を抑え、その真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
「たす……けて、リーヴ……さん」
アルマの目から、涙がこぼれ落ちる。
「…………ああ」
不思議とその視線を受けて、リーヴが感じたのは、切なさと少しの嬉しさだった。アルマの助けてという言葉を聞いた。今までは聞けなかった、誰もが諦めて口にしなかった救いを求める声が聞こえたのだ。
その瞬間、リーヴの腕の中にある龍呪回路がうねり、リヴァイアサンが光り輝く。
龍呪回路。リーヴが神父としての資格と、天使としての力の両方を失った代わりに、手に入れた力。己の体内に埋め込まれたこの回路を、ラナに研究させることによって、リーヴは自分の体内に、他の人間から光塵を移す能力を得ていた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!」
声を裏返し、叫びながらも、リーヴは痛みをこらえて目の前にある光翼に自らの腕から、手で半ばほど抜き出した龍呪回路を差し込み、光塵を吸い込むことによって、その光塵を用いて弾丸に装填していく。
――今度は……。
今までの無念を思い出しながら、リーヴを光塵を込めた。
かつて失った天使の力では、堕天獣の核である光塵の破壊、交換はできない。それは、弾丸として光塵を撃ちだすことが出来るリヴァイアサンと龍呪回路の組み合わせがあるからこそ出来ることだ。
――今度……こそは!
そして、龍呪回路に使われる銅線に光塵が込められているからこそ、リーヴの体はアルマの翼に触れても弾丸に光塵を込められる。
――必ず……救ってみせる!
リーヴは度重なる光翼との接触によって、体の中にある光塵をほとんど吸い取られていた。今、リヴァイアサンの中に込められている光塵は、龍呪回路に含まれていた光塵だった。光塵がなくなる度に、腕の中で違和感が広がり、痛みを感じる。
しかし、リーヴは歯を食いしばって痛みに耐えた。そして、ついに高純度の光晶が込められた弾丸が完成する。
シーと戦った時と同じように、リヴァイアサンの銃身自体が光塵の光に包まれ、リーヴは腕の痛みを感じたまま、真っ直ぐに前を見る。
その先に、アルマがいたから。
「アルマ!」
リーヴの叫び声を聞いて、アルマがじっとこちらを見る。後は任せておけとリーヴが頷くとついに、アルマが気を失った。
視線の先にきらきらと輝く光翼。アルマの背中に生えている翼は、十枚にも増えていた。
光塵が体の中を動きまわっているのか、アルマはしきりに体を震わせている。
「行くぜ」
かつて、シーに突撃した時のように宣言して、リーヴは走り出す。
まるでアルマと出会ったあの時のシーのように、膨大な力をそのままに振るうアルマ。さっきは防ぐことが出来た攻撃が、ついにリーヴを貫き始める。
体の中にある光塵がもう残りわずかだったからか、リーヴの体は翼に込められた光塵に反発することなく、食われた。
「ぐっ……」
肩に刺さったように見える光翼。けれど、その実、その先端はリーヴの背後にまで突き抜けていた。
光翼が引き抜かれ、開いた穴からわき上がる大量の血と痛みに呻きながら、リーヴは前進を続ける。リーヴの体内にある光塵が少なくなったことに気付いたのか、それともただ攻撃が通じることに気をよくしたのか、アルマを操る神は次の攻撃で決めようと大技を繰り出した。
枝分かれした光翼がまるで一本の縄のように束ねられた後、一気に広がってリーヴを貫こうとする。それは、まるで白い光の津波のようだった。圧倒的すぎて、神々しさすら感じる力。その攻撃を、喰らうわけにはいかなかった。
しかし、逃げ場はない。横に跳んでも、リーヴの逃げ道を無くすため、前から突き出される光翼の束がさらに枝分かれして、逃げ道を塞ぐだろう。
リーヴはその光翼に対して、リヴァイアサンを投げつけ、跳んだ。
前も横も後ろも無理なら、上しかない。リーヴの本能はそう判断した。自分の体が跳んでいることに、リーヴは行動してから気付いた。本能のまま、リーヴが投げたリヴァイアサンを貫いたことによって出来た、光翼の隙間に足をかける。その隙間は丁度、前に突き出される光翼とリヴァイアサンを貫いたわずかな時間の違いによって、段差のようになっていた。
自分の体に残ったわずかな光塵を足に込めて、リーヴは跳ぶ。
左手に握るために作られたリヴァイアサンが、光の粒となって消える。わずかな間だが、自分を支えてくれた愛銃に目を向けた後、リーヴは右手のリヴァイアサンを前に突き出した。もう、こんな曲芸じみた真似は出来ない。リーヴの体内に存在する光塵はすでに空っぽだった。アルマの光翼に触れれば、あのグレゴリーと同じように消えてしまうだろう。
アルマの姿をした神が光翼を広げ、自らの攻撃の成果を確かめようとする。その目が空を飛ぶリーヴを見て、大きく見開かれた。その神に対して、リーヴは口を開く。
「悪いな、神サマ……ご退場願おうか」
失敗に対する恐れからか、つり上がる口元。その形が笑みに似ていることに気付いて、リーヴは努めて、その表情を笑みに似せようとする。
「あんたの救いはいらない」
グレゴリーはこの存在を神と呼んだ。だから、リーヴはその名前を口にする。
その神を作り出したグレゴリーにも、語りかけるために。
「あんたは救うと言ったな……それはつまり、俺みたいなひねくれた人間から言わせれば、あんたにとって、この世界に生きる人間が、救われなければならないほどに哀れな存在だと言われているようなもんさ」
ひねくれた神父。リーヴはそう言って、にやりと笑い、着地する。
「だから、俺はあんたにこう言おう……あんたにとって、今この世界を生きる人がどれだけ不幸に見えても、俺たちは懸命に生きている」
地に足を付け、リーヴはその時、様々なことを思い返した。
アルマを引き取ってから、急に追いかけてきた自分の過去。守れなかった人。そして、今を生きて抜いている尊敬すべき人たちの強さ。助けを求めてくれたアルマのことを。
「神に求める救いなんて……隣にいる誰かに、救いを求めることすら出来ない誰かが口にする身勝手な欲望さ」
かつての、堕天獣であった時のアルマ。その目を思い出している。全てを覚悟して、銃弾を受け入れる覚悟をした時の、気高いアルマの瞳。他にも、様々な目をリーヴはアルマを通して見てきた。
隣に立ち、憧れの目で自分を見上げるアルマの目。そして、助けてと言ったアルマの目。
それは、この厳しい世界で生きようとするアルマの意志が込められた目だ。
その目に応えたい、とリーヴは思った。アルマを助けたい、そう強く思えた。だから、リーヴは、光翼に貫かれた時にも足を踏み出すことが出来た。
「だから、この世界で生きようと……」
そこで、リーヴは言葉を句切る。次の言葉を言うために。アルマに、自分が助けられたことを、勇気づけられたことを認めて、口にするために。
「…………隣に立って、助け合い、生きようとする人々に、あんたの救いなんて――傍迷惑なのさ!」
最後にリーヴは、自分の気持ちを正直に口にする。
「あんたが神様だからって…………今を生きている俺たちを見くびるな!」
厳しいこの世界でも、助け合って生きていくことを選択している人間に、他の世界で救われることに何の意味があるだろう。
グレゴリーは言った。天国へと向かわせてくれ、と。だが、リーヴはこう思う。
この世界で生きるために、幸せになるために、生きる権利をくれと。
だから、リーヴは人造の神に、引き金を引く。
「アルマ…………帰ってこい!」
祈るように叫んだリーヴの手に握られたリヴァイアサンの銃口から、弾丸が飛び出す。
リヴァイアサンが撃ちだした弾丸は、正確にアルマの胸を貫いた。高純度の光晶が込められた弾丸が、アルマの中にある光晶に触れ、その光晶を砕き、外に排出させた。
その時、一際大きく、アルマの光翼が吐き出す光塵の量が増える。
アルマの顔を借りた人造の神が浮かべた表情は、全てを許すかのような微笑みだった。
「人の子よ。養父と同じその言葉、忘れることなかれ……」
神の言葉に、リーヴは言葉を失った。リーヴと同じように、ジェラルドもまた、自分の守るべき人と、一緒に幸せになる権利を欲したのかと。復讐ではなく、それこそが神を殺すに至ったジェラルドの真実だったのかと、リーヴは知ることが出来た。
だとするのなら、救いを求めない人々に、この神はなにを思ったのだろう。
神は、この世界を懸命に生きようとする人間の権利を一度は認めた。そして、身勝手な救いを求める声に今回も答えた。人間の身勝手で生まれ、そして消えていく神を見ながら、リーヴはただじっとその神へと敬意の視線を向けていた。
「つっ」
体のだるさにこらえきれず、リーヴの体が崩れ落ちる。
そして、リーヴが顔を上げるまでの間に、神の名残とも言える光塵の輝きは消えていた。
人間は神によって作られたもの。聖道教会の基となった宗教では、そう語られていた。
なら、人間が神の救いを否定したことは、成長した子供が、親に自分はこれから一人で歩くと主張するようなものなのかもしれない。
だからこそ、神はこの世界から消え去ったのだ。
「……は、ははっ」
ふと浮かんだ自分の考えを笑いながら、リーヴは糸が切れたかのように、倒れるアルマを抱きしめる。
「終わったのか?」
自分は、守りきれたのだろうか。そう、リーヴは思い返す。
リーヴは今までずっと、なにかを守ろうとしても、守りきれなかった。だから、内心に不安を抱えながら、リーヴは腕の中に眠るアルマの顔をじっと見つめる。
「う、ううん……」
だからか、アルマが吐息を漏らした瞬間、リーヴは不覚にも、死ぬほど安堵した。
「はぁ……」
生まれて初めて、自分はやると決めたことをやり通すことが出来た。そのことに喜びを感じながら、リーヴはアルマの顔を覗き込む。
「大丈夫か、アルマ?」
優しく、リーヴはアルマに声をかける。
「早く起きろ、ねぼすけが」
自分でも恥ずかしくなるような優しげな声に、リーヴは恥ずかしさを押し隠すため、ぶっきらぼうにそう言い放った。
アルマがその声に、ようやく目を覚ます。
「リーヴ……さん……」
目を覚ましたアルマは、リーヴの名前を呼んだ後、こらえきれないとばかりに、瞳から大きな涙を流し始めた。
「お、おい?」
眉をひそめるリーヴは、抱きしめているアルマの体が、小さく震えていることに気付く。
「ごめんなさい……リーヴさん、ごめんなさい!」
リーヴはそっとアルマの体を抱きしめて、背中を叩いた。
「気にするな…………もう、怖いことは終わった」
アルマが恐怖によって泣いているのだろうと思ったリーヴは、そう言うしかなかった。
「どうして……なんですか?」
しかし、アルマはリーヴの言葉に首を振り、問い掛けてきた。
「わたしはリーヴさんに迷惑をかけてばかりでいて……リーヴさんが困っている時に、助ける事も出来なくて……」
そんな私をどうして助けてくれたのでしょうか?
そう、アルマの目がリーヴに問い掛けているような気がした。アルマの疑問に依頼だから、と答えることは簡単なことだった。けれど、アルマが求める答えはそうではないのだろう。
「お前を守りたい。それだけの価値があるんだって……そう思えたから。だから、俺はお前を守ったんだ」
自分の本音を隠したいという気持ちにすらひねくれて、リーヴは自分の気持ちを正直に伝えることにした。
「それに、パーティーの準備もしただろう? あれを一人で片付けるのは、骨が折れる」
けれど、最後にはいつも通り、余計な言葉を付け加えてしまうリーヴ。
もし、アルマを助けることが出来なかったら、その後、自分はどうしていたのだろうか。
あの歓迎パーティーの準備だけが済んだ事務所の中で、主役不在という形で中止になってしまったパーティーの準備を見て、どう思うのか。
ぞっとするような想像。けれど、それはあくまで想像だ。
ぎゅっとアルマの実在を確かめるように、リーヴはアルマの体を抱きしめる。
「お前を守れて……良かったよ」
また、リーヴが自分でも恥ずかしくなるような優しげな声を出してしまう。けれど、その声が、アルマの心を安堵させたのだろう。
「う、ああ。わぁぁぁぁぁ」
リーヴの腕の中で、アルマは涙を流し始めてしまった。涙を流すことによって、自分の気持ちを素直に表現するアルマをリーヴはひねくれた自分と比較して、好ましく思う。
その涙が流れ落ちるのを待って、リーヴは軽口を叩いた。
「早く、どいてくれないか? そうしてくれないと、俺が立てない」
その言葉に、リーヴはアルマが顔を赤らめて、すぐに立ち上がろうとするものだと思っていた。しかし、結論から言ってしまえば、リーヴのその予想は外れる。
顔を赤らめて、慌てて立ち上がろうとするまでは、リーヴの予想通りだった。
だがしかし、アルマが立ち上がるのをじっと待っていたリーヴとアルマの視線が重なり、その距離は次第に詰められていく。
「ありがとう……リーヴ、さん」
リーヴはそんなアルマの声と、赤らんだ顔を見ながら、唇に残る淡い感触に呆然とする。
恥ずかしそうにこちらを上目遣いで見上げながら、神の光翼が生えたことによって、ボロボロになった衣服のまま笑うアルマの姿は、とても可愛らしいものだった。