第五章 グレゴリー・バーンズ
リーヴは目覚めて、ふと自分の腕に走る痛みが軽くなっていることに気付く。
握りしめられていたアルマの手から、小さく光が漏れ出していた。その光が光塵の光であると気付いて、リーヴは目を疑う。その光はまるで意志をもっているかのように、独りでにリーヴの腕の中に入り込んでいた。
龍呪回路にその光塵が入り込むことによって、腕の痛みと違和感が和らいでいたのだ。
龍呪回路が、アルマの体内にある光塵を刺激しているのだろうか。そう思ったリーヴは、慌ててアルマの手を振り払おうとする。
堕天獣から人間へと戻るリハビリをしている状態のアルマに、光塵を使わせることは危険なことだったからだ。
「っ……」
慌ててアルマの手を振り払おうとしたリーヴだが、直前で思い直し、ゆっくりとアルマの手を、もう片方の手を使って離させた。
アルマはどうやら、あのまま眠ってしまったらしい。こくりこくりと船をこいで眠るアルマを見て、リーヴは苦笑する。
その体を抱きかかえるようにして、自分と入れ替わりにベットに寝かせて、リーヴは起き上がった。龍呪回路の痛みはまだあるものの、動くのに問題がない程度には、痛みが治まっていた。これなら、ラナに回路の交換をしてもらえば問題はないだろう。
神学者であるラナは、龍呪回路についても当然、その技術や方法、理論を知っている。
ユグドラシルから逃げたリーヴが、初めて龍呪回路が焼け付いた時、ラナと出会えたのは幸運以外のなにものでもなかった。その幸運がなければ、リーヴは龍呪回路なしで塵狩りとして生活しなければならず、堕天獣に食われるか、聖道教会に捕まっていたかもしれない。
自分が犠牲になった龍呪回路という技術は、金属を体に入れることによる病気の危険性を無くすことが出来ず、一般の塵狩りたちに普及することはなかった。その危険性はリーヴも同じだが、リーヴは元々天使であったことを利用し、体の中にある光塵を龍呪回路へ常に補給することによって、その危険性を出来るだけ少なくしているのだ。
銅線が体の中に入っていても、動きに問題がないという状態を作るためには、大量の光塵が必要だった。シーとの戦い。そして、考え無しにグレゴリーへと光塵を込めた弾丸を何度も撃ち放ったことによって、リーヴの体内における光塵が少なくなっているのだろう。
これは、リーヴのミスと言えた。どんなときに戦いが起こるかわからない状態で、次の戦いに即応できる状況を作れなかったのは、戦いを生業とする者として、極めて不覚を取った状態であると言わざるを得ない。いつ起こるかわからない戦闘に対応するためにも、リーヴは一刻も早く、ラナから龍呪回路の交換を受ける必要があった。
自分の腕の感覚を確かめながら、リーヴは窓に向かって歩く。日の昇り具合から、時刻は朝方といったところだろうか。どうやら、リーヴは一日中眠ってしまったようだった。
この時間なら、ラナももう起きているはずだろう。
本来ならアルマを守る護衛として出来るだけ早く、昨日にはラナの元に龍呪回路の交換へと訪れるべきだったと、リーヴは反省する。
「むにゅ……うにゅ、ふぅ……」
反省しながらも後ろから聞こえた声にリーヴが振り返ると、そこには起き上がったアルマの姿があった。今も眠いのか、寝ぼけ眼でくしくしと顔を擦るアルマの姿は、まるで子猫のように愛らしいものだった。
「おはよう」
自分とは違い、無防備に眠れるアルマの姿に、あのキャラバンにいた少年と同じような羨望を抱きながら、リーヴはそう朝の挨拶をする。
「え、あ……おはようございます!」
リーヴの言葉に少し不思議そうな顔を浮かべた後、慌てて姿勢を整えて挨拶するアルマ。
しかし、アルマの瞳は眠そうにとろんと潤んでいた。その瞳を見て、可哀想だとは思いながらも、リーヴは口を開く。
「起き抜けのところ悪いが…………少し出かけるぞ。ラナのところに、腕の治療をしてもらいに行く」
「えっ?」
リーヴが自分の腕を動かす度に、少し痛そうに顔をしかめるのを見て、アルマは昨日のことを思い出したのだろう。その顔に心配そうな表情を浮かべて、リーヴの方へと視線を送る。
けれど、リーヴはアルマを安心させるために、そんな自分の状態など気にしていないかのように荒っぽく、外に出る準備を整え始めた。
しかし、声を出すための微弱な震えにすら過敏に反応し、両腕が痛みを発するのだ。
自然といつものロングコートを着ようとした瞬間、リーヴは呻き声を上げてしまう。
「うっ!」
痛みが腕の中を走り、リーヴはコートを着る手を止めてしまった。
「ダメですよ! 無理をしちゃ!」
アルマは血相を変え、そう叫ぶのを、リーヴは痛みに動きを止めながら聞いていた。
「く……そっ」
痛みすらも吐き捨てるつもりで呟き、リーヴは今度こそロングコートを荒っぽく着て、アルマに視線を合わせる。
「心配させて、悪い……けど、この痛みを治せるのは、ラナしかいないんだ……!」
そう声を出すリーヴのことを、アルマは今にも泣きそうな目で見つめていた。
「だから、俺はあいつのもとに行かないといけない。そうしないと……お前を守れない」
自分が過去、守れなかったもの。その顔を、その残骸の有り様を見てしまっただけに、リーヴはかつての後悔を繰り返したくなかった。だから、リーヴは自分の力が十全に発揮できない今の状況を、漫然と受け入れるわけにはいかなかったのである。
「わかり、ました……」
リーヴの意志が固いことに気付いたからか、何も反論せずに出かける準備を始めるアルマ。だが、アルマの視線はずっと、リーヴを心配そうに見つめていた。そんなアルマの不安を解消するために、平然とした表情を努めて顔に浮かべるリーヴ。
アルマが出かける準備を終えるのを待ちながら、リーヴは気を引き締める。程なくして、アルマの準備が完了したのだろう。アルマは走って、こちらに向かってきた。
そのことを確認して、リーヴは外に出る。すでに街は活気に満ちあふれ、熱い太陽の光が降り注いでいた。
「つ……」
その不快感に顔をしかめながら、リーヴはアルマの前を歩く。
急かす気持ちが、足を自然と前へ送り出していた。しばらく歩いたところで、リーヴはようやく、後ろから聞こえてくるアルマの呼吸音に気付く。後ろを振り返ると、大人と子供の歩幅の違いからか、アルマはリーヴに追いつくために、小走りで走っていた。
「くそ……」
自分の失態に頭を殴りつけたくなる気持ちを抑えながら、リーヴは歩く速度を緩める。出来るだけ遅く、アルマが落ち着いて歩けるように気を遣いながら、リーヴは歩いた。
そんなリーヴの気遣いにも、アルマはただ心配そうな顔をリーヴに向けていた。アルマの視線から逃れるように、リーヴは前を向く。守るべき相手に、心配される自分に対して、リーヴは心底情けないと感じた。
急ぐ気持ちを無理矢理押さえ込み、ゆっくりと歩く。
リーヴにとっては短いようで長い時間が終わり、ついに、リーヴたちはラナの孤児院近くにある廃屋ばかりが並ぶ地域に辿り着いた。そんな場所を通り抜けなければ、ラナの孤児院に辿り着くことは出来ない。それは、子供たちへと向けられる周囲の大人たちの警戒の表れだ。
そして、自分たちが危険視されているという居心地の悪さから、ラナが子供たちを守ろうと精一杯、配慮をした結果でもあった。
「くそったれ」
そんな廃屋ばかりが並ぶ場所に、見覚えのある人影が見て、リーヴは悪態をつく。その人影は、グレゴリーの率いていた原罪教団の信者たちであった。周囲に人がいなく、それも、雨風をしのげる建物があるこの廃墟地帯は、彼らのような無法者にとって、実に都合のいい場所なのだろう。彼らはすでに、もう聖道教会の人間ではなく、原罪教団の人間だ。原罪教団は、ラナの経営するような孤児院にとって、もっとも身近な災いである。
彼らのほとんどが多くの場合、子供を手に入れる入手先として選ぶのが、個人が経営する孤児院だったからだ。彼らがそんな個人経営の孤児院の近くにいる危険性を、リーヴは見過ごすわけにはいかなかった。
「アルマ、少し待っててくれ」
目の前にいる男たちを顎で示して、アルマに路地裏へと隠れていろと急ぎ、リーヴは身振り手振りで指示を出す。リーヴは迷うことなく、リヴァイアサンを引き抜いた。自分の体調を考え、出来るだけ早く片を付けるべきだろうと考えたのだ。手加減する余裕もなければ、するつもりもなかった。
リーヴは男たちを奇襲できるように、路地裏へと走ろうとする。そんなリーヴを、アルマの小さな手が引き留めた。
「…………どうしたんだ?」
少しでも自分が穏やかな顔を浮かべられるよう、振り返る間の少しの時間で、出来るだけの努力をして、リーヴは振り返る。
その視線の先で、アルマは潤んだ瞳でリーヴの顔をじっと見つめていた。
「……そう心配するなよ。すぐに片付けてくるから」
そう声をかけ、リーヴはアルマの頭を撫でて、彼女を安心させようとした。しかし、アルマは頭をなでられている時も、じっとリーヴを見つめていた。
これは、初めてのことだった。
頭を撫でると、いつもアルマは心地よさそうに目を細めて全身で甘えてきた。それが今、ただひたすらに瞳を揺らすことなく、こちらを見つめている。
行かないで、と縋り付かれているような気持ちになった。
アルマはリーヴが無理をして強がっていることに気付いているのだろう。アルマをどう説得すればいいのか頭を悩ませながら、リーヴは再び男たちを見た。男たちがラナの孤児院を囲むように散っていくのを見て取って、リーヴは顔を引き締める。
もう、時間がなかった。
この廃墟が立ち並ぶ地域を抜ければ、ラナの孤児院はすぐそこにあるのだ。
「心配する気持ちはわかるが…………俺なら絶対に大丈夫だ。だから、なにかあったら呼んでくれ。そしたら、絶対に助けてやる」
以前は出来なかったことを、今度はやってみせる。リーヴが今思うのは、過去の自分を乗り超えたいということ気持ちだった。自分が守らなければならないアルマを守りながら、孤児院にいる子供たちやラナをも守る。
そう決意して、リーヴは走り出した。
「あっ……」
アルマの声を背中で聞きながら、リーヴは路地を走り、まばらな廃屋の影に隠れながら前へと進む。家の影からは、出来るだけ出ないように、リーヴは男たちに狙いを定める。
もうこれ以上時間が経てば、彼らは廃屋の並ぶ地域を抜けてしまうだろう。
そうなれば、今のリーヴでは苦戦する可能性があった。
一人一人を倒すのに時間がかかり、龍呪回路が焼け付いてしまったら、リーヴは激痛にのたうち回ることしかできなくなる。体の中に、本来ありえないものが入り込んでいるという事実に、改めて肝が冷えるような思いをしながら、リーヴは慎重に狙いを定めた。
龍呪回路の消耗を出来るだけ抑えるためにも、少しでも弾を撃つ回数を少なくする必要性があった。そのためには、この廃墟が並ぶ地形を利用するのが一番だろうとリーヴは見当をつけた。
両腕に感じる鈍い痛みを感じながら、リーヴはリヴァイアサンを持ち上げる。
二発。一息に狙いを定めて撃てるのは、その数が限界だった。
「つぅ!」
光塵技術によって作られたリヴァイアサンの小さな反動にも過敏に反応して痛む腕をあやしながら、もう一度狙いをつけてリーヴは引き金を引く。自分たちの仲間がなにかに攻撃を受けていることにようやく気付いたのか、慌ててあたりに散る男たち。
その男たちの中に、グレゴリーの姿は、なかった。
この廃墟は不意打ちをするには絶好の場所だ。相手も当然、リーヴがそう考えることは予想しているだろう。それがあのグレゴリーなら、なおさらだ。
「まさか……」
その事実に、リーヴは背中を冷や汗が伝うのを感じていた。
似通った状況を思い出す。かつて、ノーラを人質に取られた時のことが、リーヴの頭に浮かんだ。その光景を否定するように、リーヴは頭を振って後ろを振り返る。その視線の先で、こちらに走ってくるアルマの姿が見えた。その後ろには、グレゴリーの姿がある。
「くそ!」
一言だけ吐き捨て、リーヴはリヴァイアサンを構えて、集中する。
威力よりも射程距離。リヴァイアサンに取り付けられたウミヘビの細工が、リーヴの腕にある龍呪回路に噛みついた。心臓にあるリーヴの中に移植されたノーラの光晶から龍呪回路、そしてリヴァイアサンへと光塵が弾丸へと流れ込んでいくのを感じながら、リーヴは冷静に狙いをつける。
グレゴリーの手がアルマの背中に触れようとしたその瞬間を狙って、リーヴはリヴァイアサンを放った。
炸裂し、鼻の上を擦るように漂う光塵の匂いを感じながら、リーヴは自分の中にある龍呪回路がついにその力を失ったことを知る。
「ぐ、う、あああ!」
少しでも動かすと激痛を発する腕を庇いながら、リーヴは走り出す。
グレゴリーに向かって放った弾丸は当たったものの、光翼によって発生した力場を貫く事が出来なかった。しかし、少しだけグレゴリーの足止めに成功したことによって、アルマとグレゴリーの距離を引き離されていた。早く、助けに行かなければと焦るリーヴの心とは裏腹に、痛みに呻くリーヴの歩みとしか言えない走りはとても遅いものだった。
「この、野郎!」
不意に後ろから聞こえる声。その声を聞いてすぐに、衝撃がリーヴの背中を襲う。
「ぐっ」
殴り飛ばされたリーヴが倒れると、その衝撃でまた腕に激痛が走り、声もなくリーヴは地面をのたうち回った。痛かった。その痛みはまるで傷口を押し広げられ、えぐられ、塩を塗りたくられるような絶大な痛みだった。
アルマはリーヴの様子に気付いて、こちらに近づいてくる。そのことに気付いて、リーヴは叫んだ。
「そのまま、孤児院まで走り抜けろ!」
そう叫んで、リーヴは立ち上がろうとする。しかし、そんなリーヴの動きを阻止するかのように、リーヴを殴りつけた男は背中を踏みつけてきた。
「ぐっ、くぅ……」
自分の情けなさに呻き声を漏らしながら、リーヴは隙を窺う。少しでも隙を見せたら、逃げ出せるようにと、リーヴはあたりを見渡した。なにか、自分が逃げ出すために使えそうなものはないか。そう思ってあたりを探しても、なにも使えそうなものはなかった。
不意に、リーヴの視界がなにかに遮られる。
リーヴの頭は、震える何かによって抱きしめられていた。小さく震えるその体は、アルマのものだ。アルマはぎゅっと、もう離さないと言わんばかりに強く、リーヴの頭を抱きしめていた。
「アルマ、なにしてる……早く、逃げろ!」
背中を踏まれ、頭はアルマに抱えられている。周囲の状況がなにもわからないまま、リーヴは叫んだ。しかし、アルマはリーヴの言うことを聞こうとせず、リーヴを抱きかかえる。
「もう、無理しないで……わたしが、あなたを守るから」
アルマの声が聞こえると同時に、背中を踏んでいた誰かの足が離れる。手をつき、立ち上がろうとするリーヴ。しかし、その時ついた腕に激痛が走り、リーヴはアルマの体に崩れ落ちてしまう。
「リーヴ……さん!」
自分の名前を呼びながら、体を支え続けてくれているアルマの声を聞くリーヴ。
リーヴはその声に反応して顔を上げ、絶句する。
「え?」
リーヴの口から驚きの声が漏れた。アルマの背中からは光塵が噴き出し、光翼が形作られていた。以前、堕天獣だった時よりも形の整った光の翼。
恐らく、アルマの体内にある光塵の濃度が下がったことによって、体が光塵に適応し、アルマは天使としての覚醒を迎えたのだろう。
その光翼からあふれ出す光塵が、周りにいる男たちに吸い込まれていった。すると、その光塵を吸い込んだ男たちの動きが止まった。
堕天獣と天使。その違いは理性があるかないかの違いでしかない。であるならば、アルマが堕天獣として使っていた能力を天使となった今、使えるのは何の不思議もないことだろう。
すなわち、アルマの天使としての能力は、自らの光塵を吸収させることなのだろう。周囲の光景もリーヴの推測を肯定しているように思えた。
堕天獣相手なら、その光塵を餌として与える事によって餌付けし、言うことを聞かせることも出来るだろう。だが、それが人間にどのような効果を及ぼすのだろうか。
リーヴは疑問に眉をひそめ、男たちの様子を観察する。男たちは体の中に入り込んだ光塵に対しての拒絶反応で体を震わせ、呻いていた。その状態は、かつてグレゴリーの操る光晶を呑み込まされた時のリーヴと同じだった。
「自分で力を使えるようになるなんて……嬉しい誤算だねぇ……」
楽しそうに笑いながら、背後から近づいてきたグレゴリーが話しかけてくる。振り返ろうとして、リーヴは痛みに呻く。そんなリーヴを庇うようにアルマが飛び出し、腕を突き出して、光翼を操作し、光塵をグレゴリーの方向へと向かわせた。その時のアルマのポーズは、彼女が母と呼ぶシーが龍としての力を使う時のポーズと酷似していた。
アルマが向かわせた光塵を、深呼吸でもするかのように大きく吸い込みながら、グレゴリーは鼻で笑う。
「今、君が持つ力じゃあ…………人間や堕天獣相手には利いても、自分で体内にある光塵を操れる龍や天使には利かないだろう」
そう言って、グレゴリーはその足を振り上げる。
「少し考えれば、わかることだよ……君は、そんなことも考えつかなかったのかい?」
楽しそうに笑いながら、グレゴリーはアルマを蹴り飛ばそうとした。
「ぐっ!」
「リーヴさん!」
グレゴリーの足にすがりつくようにして、動かない体でもアルマを守ろうとしたリーヴ。
そんなリーヴをはじき飛ばし、グレゴリーはアルマに近づいていく。
「その子に……近づくな……!」
腹を蹴られ、悶絶するリーヴの声を、グレゴリーは黙殺する。
「君の能力、それは天使の位階で言うのならば、エハヴ。つまり、僕と同じ位階の能力だ。だから、僕は知っている」
グレゴリーはアルマに語り続ける。
「エハヴの能力は確かにすばらしい。他者の傷を治すことも、他者の体を強化することも……自由自在に行える。けれど、そこにはある法則が存在する」
「ある法則……」
グレゴリーの言葉。そして、アルマの呟きを聞いて、リーヴはもっとも身近にいたエハヴの位階の天使であるノーラの言葉を思い出す。
「他者の同意がなければ……自分で自分の体内にある光塵を操れる天使や龍には、その能力を用いることができない」
「そうさ、リーヴ! 物理法則すら操る光塵を、他者の体内において操ることは……他者の体を操れることに他ならない。だからこそ、君の能力は、自分の体内にある光塵を自在に操る事が出来る天使や龍には通用しない」
グレゴリーは、笑っていた。そんなグレゴリーの顔を見て、リーヴは本来なら痛みという信号を受け取るべき脳の中を、一つの感情によって支配された。痛みを感じることもなく、リーヴは得意げにアルマの能力を説明するグレゴリーに、リヴァイアサンを突きつける。
「グ、レ、ゴ、リーーーー!」
怒り。リーヴが感じるのは、それだけだった。
リヴァイアサンの引き金を引く。いつもより軽い銃声が、リヴァイアサンから響いた。
「ふふっ……」
龍呪回路によって強化されていない弾丸は、もちろんグレゴリーの光翼が作り出す力場を撃ち抜くことが出来なかった。
数多くの弾丸がグレゴリーの力場を揺らすが、グレゴリーに対してはなんの効果もない。
「ぐ、う、ぐぅぅ」
銃を撃つ度に、反動で痛みが走る。
うめき声をあげながら、しかし、リーヴはアルマを守るために引き金を引いた。そんなリーヴを守るために、アルマもまた、光翼を操ってグレゴリーの元へと光塵を運ぶ。
それが無意味なことだということはアルマ自身にもわかっていただろう。しかし、抵抗することを諦めたくないというアルマの強い意志だけは、リーヴにも伝わってきていた。
それは、リーヴも同じ気持ちを抱いていたからだ。
「健気なことだね、リーヴ。それに、アルマ」
しかし、そんな二人をグレゴリーは嘲笑う。
「けれど、ようやく君の中に埋め込んだ龍呪回路は限界を迎えたのだと……確信できたよ」
リーヴの震える腕を、グレゴリーは見つめる。
「それにアルマ。君の力が暴走した時の術を、この僕が用意していないと思ったのかい?」
グレゴリーが高く手を上げて、指で音を鳴らす。
「かはっ」
すると、アルマの口から短い呼吸音が漏れ、その体が崩れ落ちる。
アルマは苦しそうに喉をおさえ、脂汗をかいて震えていた。その状態に、リーヴは見覚えがあった。アルマの能力によって、その光塵を吸い込んだ周囲の男たちと同じ状態だったのだ。恐らく、アルマの体内でも、かつてのリーヴと同じく、グレゴリーの光塵が暴れ回っているのだろう。
アルマの姿に意識を向けていたリーヴ。そんなリーヴの手に握られていたリヴァイアサンの銃身をグレゴリーが足で一気に蹴り飛ばす。咄嗟に銃身を支えようとしたリーヴは、折り曲げた腕の中で龍呪回路が傷口を抉る痛みを存分に味わうことになる。
「がっ、ああっ!」
「うう……くぅ……」
痛みに倒れるリーヴ。そして、息が苦しいと口を開け、ぱくぱくと息を吸おうとしているアルマの二人を前にして、グレゴリーの顔には楽しくて仕方がないと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
「ふん、モルモットに手を噛まれるとは……失態だな。グレゴリー」
そんな言葉と共に、アルマの能力に苦しめられていた原罪教団の男たちが動き出し、グレゴリーのことを口々に非難し始める。男たちの一人は、リーヴに唾を吐き捨てた後、アルマを抱きかかえた。咄嗟にリーヴがアルマに手を伸ばそうとすると、途端に男はナイフをアルマに突きつけてみせる。
アルマを人質に取られ、動けないリーヴ。
「俺は……また……!」
結局、以前と同じような結末になったとリーヴは悔しさに歯を噛みしめる。
自然とリーヴの視線は、この状況を仕組んだグレゴリーの方へと向いた。しかし、リーヴの前でグレゴリーはすっと膝を付き、自らに罵声を吐き捨てる男たちに向かって頭を垂れた。
「申し訳ありません」
グレゴリーの口から、謝罪の言葉が漏れていた。
「なっ!?」
あの人一倍プライドが高いグレゴリーが膝をつき、頭を垂れているという事実に、リーヴは唖然とする。
「昔から若輩者である僕を支持してくれた皆様がいてくれたからこそ、今の僕がいるというのに……このような作戦に付き合っていただき、誠に感謝してもしたりません」
「その通りだ……我らの手を煩わせるとは……もとはと言えば、聖道教会で教会長を務めていられたというのも……それは、我らの支援があったからこそ」
「そんなお前が、原罪教団で我らより高い地位に就いているという事自体、本来ならば間違っていることだ」
「はい、いくら原罪教団の命令とはいえ、恩人である皆様に命令しなければならないこと、心苦しく思っております」
「結局、貴様は……」
目の前で繰り広げられている出来の悪い三文芝居を、リーヴは恐怖すら感じながら見つめていた。過去の栄光に縋り、グレゴリーを罵倒する原罪教団の男たち。そんな男たちに、グレゴリーが付き合っているということ自体に、リーヴはきな臭いものを感じていた。
その証拠に、口々に汚らしい言葉をグレゴリーに吐き捨てていく男たちを見るグレゴリーの目は、嘲りの色が浮かんでいた。しかし、表面上は敬意を払われているということに満足しているのか、かつての権力者たちはそのグレゴリーの目に気付かない。
目の前で繰り広げられる三文芝居から目を逸らしたリーヴの視線に、影が差す。
その影が出来る原因を追って、リーヴは空を見上げた。
その視線の先で、まるで、リーヴが神父として活動していた頃のように、青いロングコートを着て、翼を広げる天使たちの姿が見えた。
その姿を見て取った瞬間、天使たちは降りてくる。自分と原罪教団の男たち、その間に割り込むように降りてこようとする天使たちを見て、リーヴは動いた。リーヴはアルマを抱きかかえる男にのし掛かるように銃口を押しつけ、そのまま撃つ。
「う、あああああ!」
「ぐ、あ!」
足を撃ち抜かれて叫ぶ男の腕からこぼれ落ちるアルマを回収し、リーヴは懸命に後ろへと跳び退った。そんなリーヴを哀れみながらも、確かに悪意を感じさせる笑みを浮かべ、原罪教団の男たちが近づいてくる。
かつてと同じようにギラギラと輝く瞳には、リーヴをいたぶることだけを楽しみにしている黒い欲望が見え透いていた。
男たちがリーヴにアルマを、一時的にせよ奪われるほどの隙を見せていた理由。それはリーヴが何をしても、男たちでも対処できるくらいに弱っていたからだ。リーヴは跳び退ったものの、アルマの体を抱きかかえることも出来ないくらいに消耗していた。
こんな状態では、アルマを抱えて逃がすことも出来ないだろう。といっても、今のリーヴがするべきことは原罪教団の男たちから、アルマを少しでも遠くに運ぶことだけだった。
その弱者をいたぶる余裕が、結果的に彼らを悲劇に陥れる。
「久しぶりだな、グレゴリー」
リーヴとアルマを囲んだ原罪教団の男たち。その眼前に立ち塞がるように、ノーラを片腕で抱きかかえたアルフレッドが降りてくる。その視線は原罪教団の男たちではなく、正確にグレゴリーを見据えていた。この場において、グレゴリー以外に警戒するべきものなど何一つないと言わんばかりの態度に、原罪教団の男たちは、ひっとすくみ上がる。
「アルフレッド!」
「何故、貴様がここに……!」
男たちの言葉を聞く価値もないと無視しながら、ノーラをその腕から下ろし、彼女が持つ鞘から、刀を抜くアルフレッド。その刀は大きく分厚く、とても隻腕のアルフレッドが振るえるとは思えないほどに巨大な武器だった。だがしかし、アルフレッドはそんな野太刀と言うべき刀を軽々と振るい、肩に背負う。
アルフレッドが刀を抜きはなったのを見て、ノーラは静かに一歩下がった。
「我らが聖道教会にとって、貴様らは……偉大なる父に寄生した害虫どもに過ぎん。害虫は、駆除されなければならん。それが、わかるか?」
静かに吐き捨てるアルフレッドの言葉には、明確な害意がこもっていた。
「ならば、疾く捕まるといい。さすれば、少しは慈悲などを与えてやらんでもないぞ?」
アルフレッドが刀を切り払うと同時に、多くの聖道教会に所属する天使たちもまた、原罪教団の男たちを囲むように降り立つ。
「奴らを捕らえよ!」
聖道教会を指揮する教会長という立場にふさわしい、威厳のある声でそう指示をするアルフレッド。その指示に従って、降り立った聖道教会の天使たちが、原罪教団の男たちを捕らえ始める。
天使と人間の差、とでもいうべきだろうか。聖道教会で日々、塵狩りたちと同じく堕天獣や龍と戦っている天使たちの戦闘能力は高く、その違いを見せつけるかのように、聖道教会の天使たちは、瞬く間に原罪教団の男たちを捕まえる。そんな中、自らもまた聖道教会に捕まりかねない絶体絶命の状況にありながら、グレゴリーの顔には笑みが浮かんでいた。
その笑みに、背筋が凍るような思いを抱くリーヴ。ノーラを人質にとった時と同じように、はったりをかましているのだろうか? しかし、こんな圧倒的な数の力を前に、はったりなど意味がない。
疑心暗鬼に陥ったリーヴは、ただじっとグレゴリーに視線を注いでいた。
「どうした……みっともなく足掻かないのか? おとなしく捕まれば、少しは罪を軽くすることもできるが……それでも、貴様の極刑は変わらないぞ。グレゴリー」
落ち着いた様子のグレゴリーとは違い、周囲の男たちは包囲の圧迫感に耐えきれず、逃げだそうとして逆に取り押さえられていた。グレゴリーはそんな原罪教団の男たちを見ながら、特になにをするわけでもなく笑っていた。
「はは。そうだね、アルフレッド。わざわざそんな当たり前のことを言ってくれるなんて、君はとても優しいね」
グレゴリーはアルフレッドの言葉を聞いて、さらに楽しそうな笑みを浮かべる。
「なにを……笑っている? なにか企んでいるのか?」
そんなグレゴリーを当然のように警戒するアルフレッド。
「企んでいないわけがないだろう? そんな質問をしないでよ、アルフレッド。種がわかってしまったら、マジックは面白くないだろう?」
「なら、早くそのマジックとやらを披露してみせろ」
グレゴリーの余裕を警戒して、アルフレッドが周囲の様子を伺うのがリーヴには見えた。
「君に教会長としての心得を教えていた時のように……いいよって答えてあげたいけど……そうすると、折角面白いこの瞬間が壊れてしまいそうだからね」
「この瞬間? 面白い?」
グレゴリーの発言のことごとくが理解不能だと、眉をひそめるアルフレッド。
「積年の計画。それが今、実ろうとしているんだ。楽しくてしょうがなくて、当たり前じゃあないか?」
ああ、そうかとリーヴは納得する。グレゴリーの言葉通り、グレゴリーの笑みは、頭を振り絞って考えた悪戯が成功した子供のようだったからだ。その笑みは、リーヴが守る街をグレゴリーが襲った時と同じものだったから。
その笑みに、リーヴはずっと、得体の知れない恐怖と不安を抱いていた。
笑いながら、グレゴリーは聖道教会の天使たちの手を避ける。そして、ついにかわせず、捕まるだろうと思われた瞬間に、グレゴリーは周りにいる男たちを突き飛ばして逃げた。
「な、なにかするなら、早くしろ! グレゴリー!」
そんなグレゴリーに、痺れを切らせたかのように原罪教団の男たちの一人が、グレゴリーの胸元を掴んで叫ぶ。
「じゃ、遠慮なく……」
その叫びを聞いて、グレゴリーが楽しそうに指を鳴らした。少しの間、場が静寂に満たされ、それを見ていた多くの人たちがほっと息を吐いた。
なにも起こらない。そう思ったのだ。しかし、それは違った。突如として、グレゴリーの胸元を掴んでいた男が膝をつき、呻き出す。慌ててリーヴが周囲を見ると、グレゴリーの周りにいた原罪教団の男たちが皆、胸を手で掴み、苦しんでいた。
「なにを……なにをした、グレゴリー!?」
全身を震わせ、苦しそうに言葉を吐き出す男をグレゴリーは蹴り飛ばす。
「なにをする……聖道教会を乗っ取るための支援がどうなってもいいのか!」
恐らく、グレゴリーが男たちに頭を下げていた理由を語りながら、男は倒れる。
そんな男を見下し、蹴り飛ばした足で、そのまま男の顔を踏みつけながら、グレゴリーは、笑った。今度は侮蔑を隠そうともせず、男を嘲笑い、グレゴリーは叫ぶ。
「バーーーカ! そんなの、いるわけないじゃん」
「な、に?」
「耄碌もここまで来ると笑えないねぇ。アルフレッドが、僕がまた教会長になれるような隙なんて……残してくれてるわけがないじゃん」
ねぇ、と言わんばかりにアルフレッドに視線を向けるグレゴリー。そんなグレゴリーを、アルフレッドはしかめっ面のままに、にらみ返した。その視線は、グレゴリーの言葉を間接的に肯定しているようにリーヴには思えた。
「ならば、なぜ……我らに従った? 我らの残した資産がなければ、貴様に何が出来る?」
苦しそうに呻く原罪教団の男。
「わっ、と!」
グレゴリーは周囲の男に構う必要がなくなった聖道教会の天使に押さえつけられながら、楽しそうに笑っていた。
「あっはははは」
「笑うな、グレゴリー。貴様、このようなばかげた真似をして、なにを笑う!」
確かに結果だけ見れば、原罪教団の信者たちは全員、聖道教会の天使たちに取り押さえられている。アルフレッドたち、聖道教会の人間から逃げるための行動としては全く無駄な行為、そう思える結果だった。
「ほんと、耄碌したジジイは…………頭が悪いよね」
「なに…………がっ」
不意に原罪教団の信者たちが、一斉に動きを止める。
「アルマ。今はそう呼ばれるあの子の力に対抗するために、君たちは僕の光塵を飲み込んだんだよ?」
その言葉とともに、原罪教団の男たちが全身を痙攣させる。慌てて、その痙攣を抑えようとする聖道教会の天使たち。アルフレッドは、ただ静かにノーラを庇えるように身構えていた。リーヴもまた、アルマを抱えて、守ろうとする。
「君たちを僕が今まで、お山の大将でいさせてあげたのはね。こういう時のためなんだよ」
グレゴリーの言葉が終わると同時に動きを止め、もはや痙攣するだけとなっていた原罪教団の男たちの背中から光塵が噴き出した。
「天使……?」
誰かの口からその言葉が漏れる。確かに、それは天使に良く似ていた。
動けない体を少しでも動かして、アルマを庇いながらリーヴは見る。まるで出会った時のアルマと同じように、規則性がなく、形の整っていない光塵を背中から噴き出す原罪教団の男たち。その男たちが、聖道教会の天使たちをはじき飛ばし、グレゴリーを助け出す。
「天使じゃあない……人造の、兵器としての天使……さ。名付ける権利が僕にあるというならば、人造天使と呼んで欲しいね」
誰かの言葉に答えながら、グレゴリーは立ち上がり、埃を払う。
「ほかの誰にも出来なかった、この僕の自信作なんだからさ……リーヴやノーラを犠牲にして作り出した、ね」
「だから、どうした? 我らがやるべき事はなに一つ変わらない!」
刀を一振りして、混乱する聖道教会の天使たちを落ち着かせるアルフレッド。
そんなアルフレッドを前に、グレゴリーは手で口元を隠しながら笑った。
「ははっ、変わらないね。君は……でも、だからこそ、君はこういう手段に弱いんだよ!」
指を鳴らし、人造天使たちに指示を出すグレゴリー。あらかじめ打ち合わせがしてあったかのように、声もなく、人造の天使たちは空を飛んで周囲へと散る。
「…………貴様、まさか!」
人造天使たちが向かう方向を見て、アルフレッドは絶句する。彼らが向かう方向は、ラトリアの中心部だった。その方向に向かって急上昇する人造天使たちを見て、アルフレッドは周囲の天使に叫ぶ。
「各自散開! 街の人々を守れ!」
アルフレッドの叫びを聞いて、聖道教会の天使たちもようやく状況を理解したのだろう。慌てて飛び立ち、人造天使たちを追う。
「これで、時間は稼げたね」
そう呟くグレゴリーもまた逃げるために、背中に光翼を生やし、空を飛ぼうとしていた。
「街を人質にとるとは……そこまで堕ちたか、グレゴリー!」
グレゴリーを捕らえるために光翼を生やして、急上昇するアルフレッド。
アルフレッドの言葉通り、グレゴリーは人造天使たちに街を襲わせることによって、街の住民たちを人質にとったのだ。 聖道教会はあくまで、この砂漠に住む人々を守るために作られた組織だ。それは聖道教会の天使たち全員が、助けられたジェラルドの遺志を受け継いでいるからだ。ジェラルドに救われた子供たちが、その遺志を無駄にすることなど、出来るはずがなかった。
グレゴリーの策略に、アルフレッドは愚策とわかっていながらも戦力を分け、街を守るしかない。そうすることでしか、ジェラルドの遺志を守ることが出来ないからだ。
「君なら街を守る、そう思っていたからね」
他者が大切にするものをこそ、人質にとり、道具のように弄ぶ。そんな天性の悪党としての能力が、グレゴリーにはあった。
「外道が……」
楽しそうなグレゴリーの囁きに、辛辣な言葉を吐き捨てるアルフレッド。そんな二人を見上げながら、リーヴは歯がみしていた。
なにも出来ない。天使でもなく、龍呪回路も使えない今の自分では、リーヴの心情を反映するかのように眩しく光り輝き、人の目を眩ませる空を飛ぶ天使と戦うことなどできるわけもない。
空を飛ぶ天使たちを見上げながら、結局、ただの人間でしかないリーヴは歯がみする。
そんなリーヴを励ますように、おっかなびっくりな態度でリーヴの手に触れるアルマ。視線を下に戻し、腕の中でアルマが浮かべる心配そうな瞳に目を合わせられず、リーヴは再び頭上を見上げた。
「くそ……」
なにを呆けているんだ、そう、リーヴは自分の情けなさが嫌になる。
アルマの体を立たせながら、リーヴは立ち上がり、辺りを見渡した。何も言わず、こちらを見るアルマの視線に、痛みで強ばった笑みを浮かべ、リーヴは言った。
「逃げるぞ」
自分がやるべきことは、アルマを守ることだ。
そのことを忘れて、アルフレッドとグレゴリーの戦いに目を奪われていた。
自分がなにをするべきなのか、わかっていなかったのだ。その事実に、リーヴは恥ずかしさすら感じていた。
「リーヴ……さん!」
まだ体の自由が利かないのか、所々つっかえた苦しそうなアルマの声が足早に歩き出そうとするリーヴを引き留める。
「なんだ?」
少しでもアルフレッドの邪魔にならないように、早く逃げるべきだ。リーヴは内心そう思いながら、アルマの声のただ事ではない様子に足を止める。
「あの……人は……」
その言葉と共に、視線をある方向へと向けるアルマ。その視線を追うと、そこには空を呆然と見上げているノーラの姿があった。心に、ちくりと刺すような痛みを感じながら、リーヴはノーラに声をかける。
「こっちだ」
ぼうとうつろな瞳でこちらを見るノーラにそう言って、リーヴは守るべき人とかつて守れなかった人を率いて走った。走る度に腕の中で感じる痛みが、リーヴに顔をしかめさせる。その様子を見て、アルマが小さく動いてリーヴの手を握り、龍呪回路に光塵を流し込んだ。
痛みが和らぎ、リーヴは走る速度を上げた。
「…………ありがとうな」
口の中でリーヴが呟くと、アルマは本当に嬉しそうに微笑んだ。リーヴが後ろを振り返ると、ノーラはぼうっとしたままリーヴの後ろを走っていた。時々、アルフレッドの事が気になるのか、上を見上げていたが、従順にリーヴの後をノーラは走っていた。
ノーラの痛ましい姿を見て、痛みを感じる心を押し隠しながら、リーヴは前へと走る。そんなリーヴの前に、不意に何人かの人影が現れた。その人影たちはあらかじめ、ここでリーヴたちを待ち構えていたかのように、リーヴたちがいる場所から繋がる全ての路地から現れた。
目の前に立つ男たちの顔を見て、リーヴは絶句する。
「嘘、だろ……」
見慣れた顔。かつて、あの街でリーヴとともに暮らした仲間たち。彼らはノーラと同じように、光のない瞳でこちらを見ている。そんな彼らの背中から、歪な光の翼が生えてくるのを、リーヴは見てしまった。
人造天使。恐らく、グレゴリーによって改造されたのだろう。そんな彼らが、アルマへと手を伸ばしてくる。その姿に驚いていたリーヴは、何も反応することが出来なかった。
「きゃ……」
小さな吐息が、漏れる。その小さな腕を掴まれ、逃げようと体をよじるアルマ。その姿を見て、正気を取り戻したリーヴは、人造天使の一人に手を伸ばす。
しかし、その人造天使がこちらを見ると、リーヴは手を止めてしまった。虚ろな瞳。自分が守れなかったからこそ、今、彼らが浮かべているその表情にリーヴは思わず手を止めてしまったのだ。
そんなリーヴを意に介さず、人造天使たちが空を飛ぶ。空を飛ばれてしまうと、今のリーヴにはなにも出来ない。
「くそっ!」
何故、躊躇った。そう後悔しながら、リーヴは届かないとわかっていても、アルマへ手を伸ばし、叫ぶ。
「アルマ!」
「リーヴ……さん!」
結局、また守れず、連れ去られていくアルマを見ながら、リーヴは歯がみした。
「くそっ……くそっ、くそっ……!」
何も学んでこなかったのか。過去に起こった出来事から、何も学んじゃいなかったのか。
「同じような後悔を、なんで繰り返すんだ……俺は!」
後ろを振り返り、リーヴはそこにいたノーラの顔を見る。ノーラはただ、じっとリーヴの目を見ていた。
後悔、絶望、自分に対する失望。そんな声にならない思いが、リーヴの中で荒れ狂った。その思いを、揺らぐことすらなくなったノーラの瞳が、見つめていた。何も映さない瞳。その瞳は、まるで鏡のようにリーヴの内心を反射する。
その瞳に、リーヴはなにかを見出せるような気がした。心の中に荒れ狂う感情をそのままに映し出すノーラの瞳。そこに、まだ、リーヴは自らの心の中にある自分でも気付かない、何かを感じさせられた。そのなにかが具体的に何であるのかを考え込もうとしたリーヴの前に、光塵の光が舞い降りる。
「すまない……ノーラが世話になったな」
そう言って、こちらに心配そうな顔を向けてくるアルフレッド。
その視線に、リーヴは顔を合わせることが出来なかった。
「……お前と一緒に居たあの子は?」
リーヴの様子からなにかがあったのだと気付き、少しの間、アルフレッドはこちらを見やったあとにそう言った。その言葉は今のリーヴにとって、なによりの凶器だった。
「連れ去られた……」
「連れ去られた?」
自分の情けなさに苛立ちを感じながら、リーヴは説明を開始する。自分の目の前で、アルマが連れ去られたこと。そして、グレゴリーはかつて、リーヴが共に暮らした街の人々を人造天使にしていたことを。
思えば、こんな時にあの街の人々に出会うのは、あまりにもタイミングが良すぎた。もしかしたら、あの人造天使たちは、リーヴの逃げ道を予想したグレゴリーが、リーヴに対して最も効果的だと判断して用意した伏兵だったのかもしれない。
「おかしい……」
そのことを話すと、アルフレッドはそう呟いた。
「なにがだ?」
自分に対する無力感と苛立ちによって、リーヴは半ば噛みつくように、アルフレッドの呟きへと質問を投げかける。
「あの男が、意味のないことをするわけがない。さっき、お前が言った人造天使たちが、グレゴリーの増援として俺を襲っていたのなら……奴らは数の有利でもって俺を殺せただろう。だが、実際には俺を殺そうとせず、アルマという少女を連れて逃げた」
連れ去られたアルマのことを思いながら、リーヴはアルフレッドの話を聞く。
「それはやつらにとって、敵対組織の長である俺を排除することよりも…………お前が保護していた……アルマという少女が、重要な価値を持っていたということになる」
それは、確かにおかしなことだった。今、原罪教団に所属しているグレゴリーにとって最も邪魔なのは、対立する聖道教会の長であるアルフレッドだろう。だというのに、アルフレッドを無視してアルマを確保する理由が、グレゴリーにはあったことになる。
だとするならば、グレゴリーがリーヴの家を襲撃してきたのも、そこにアルマがいたからなのかもしれない。
「なにかが、おかしいぞ。リーヴ。俺たちの知らない価値が、あの少女にはあるはずだ!」
アルフレッドの言葉に、リーヴはグレゴリーが、アルマのことをなにかと知っているような口振りをしていたことを思い出す。
「ああ……確かに…………よくよく考えてみると、おかしいことばかりだ」
リーヴとアルフレッドは少しの間、考えを纏めるために沈黙を共有する。そして、不意にアルフレッドは、リーヴへと視線を向け、問い掛けの言葉を口に出した。
「リーヴ。お前は確か今、塵狩りの仕事をしているんだったな?」
「あ、ああ」
なにを今更、そんなことを聞いてくるのか。そう思いながらも、リーヴはアルフレッドの質問に答えた。
「なら、悪いが依頼をさせてもらおう……アルマという少女が、奴らにとってどんな意味をもつのかを調査し……そして、奴らの目的が危険なものだったら、それを阻止してほしい」
「なに?」
リーヴはあまりのことに、驚きの声を上げた。
「聖道教会は…………動かないのか?」
アルフレッドは、仮にも今は、原罪教団に所属しているグレゴリーの企みを、リーヴ一人の手で止めさせようというのだろうか。だがしかし、原罪教団の計画。そんな大事を前に、聖道教会がその動きを見逃すはずがない。ここまで事が大きくなってしまったのなら、もう聖道教会の力を借りた方が、アルマを確実に助けられるはずだとリーヴは思っていた。
しかし、そんなリーヴの考えに、アルフレッドは首を振る。
「ふがいないことだが……今現在の戦力では、街を守る…………それだけで精一杯だろう。グレゴリーがなにを狙って、アルマという少女をさらったのかもわからない状況では、増援を呼んで、大々的に動くこともできない」
そう言って自嘲するかのように、アルフレッドは苦笑いを浮かべる。
「結局、俺は父とは違う。あの人のように、言葉や行動だけで人を動かすことはできない」
アルフレッドの悄然とした様子を見て、リーヴは何も言えなかった。
「なにか……確固とした証拠や根拠が必要なんだ。巨大すぎる組織を動かすためには、な」
歯がみするアルフレッドの心の中では、自分に対する失望や無力感が荒れ狂っているのだろう。先程まで、同じ気持ちを抱えていたリーヴには、それが良くわかった。
「それでも、俺は聖道教会の教会長として、やるべきことをやるしかない……最善を尽くす。ただ、それだけのために……だから、お前の力も、俺は頼りにしたいんだ」
そう言って、アルフレッドは片方しかない手で、力強くリーヴの肩を掴む。
「頼む。今の俺に、聖道教会に出来るのは……街を守ることだけだ。権力を握った代わりに、自由に動くことが出来ない俺の代わりに……お前が、アルマという少女を守ってやってくれ! そして、願わくば原罪教団を、グレゴリーを止めてくれ!」
その言葉とともに、勢いよくアルフレッドは頭を下げる。その姿を、リーヴはただ黙って見つめていた。最善を尽くす。その言葉が、強くリーヴの心に突き刺さっていた。
「わかった……」
リーヴがそう答えると、アルフレッドは顔を上げて、嬉しそうに笑った。
「お前なら、そう言ってくれると思っていたよ」
アルフレッドは、リーヴに背中を向ける。すると、そのすぐ傍にノーラは近寄っていった。そんなノーラをアルフレッドは抱きかかえると、こちらを振り返り、一言だけ言葉を残す。
「……後を、頼んだぞ」
リーヴを信頼しているからこその言葉だけを残して、後は振り返らずにアルフレッドがノーラとともに空を飛んでいく。
「……はっ」
その後ろ姿を見ながら、リーヴは笑い声を漏らす。
「人を頼り、人を動かす……それが出来るんなら、きっと……兄さん、あんたは父さんを継げる人間になれるだろうさ」
そんな言葉を口にして、すぐにリーヴは気を引き締める。
「さて、やると……するか!」
自分もまたあのジェラルド・バーンズに育てられ、バーンハードの性を持つ男である。
バーンハード、というラストネームには、ある秘密があった。神の降臨以後に生まれた混乱を収めるためには、宗教という形がもっとも効率が良かった。そのために宗教という組織形態を取っただけであるために、聖道教会は、教会という名前とは裏腹に、教義と言えるものが少ない。
この厳しい世界で、それでも未来を求めて生きること。実の所、聖道教会における教義と言えるものはこれだけである。そして、ジェラルド・バーンズの教義とも思想とも言えるそれを共有し、この世界を生きていくことを決意した孤児たち。その孤児たちにジェラルド・バーンズが与えたものこそが、バーンハードという性だったのだ。
その性に恥じぬ生き方をしなければと、リーヴは気合いを入れたのである。そもそも、リーヴは塵狩りとしてラナにアルマを守るよう依頼を受けていた。度重なる出来事に、弱気になって、つい、リーヴはその依頼を放り出そうとしていたのだろう。考えることをやめ、聖道教会に頼ろうとしたのがその証拠だ。冷静に考えてみれば、聖道教会の連中に頼るわけにはいかない理由が、リーヴにはあった。
アルマの魔女の技術を元にした能力も秘匿しなければならないことであるし、そして、なによりも秘密にしないといけないことがある。
「小僧!」
その声の持ち主こそが、リーヴにとって聖道教会を頼るわけにはいかないもの。絶対に聖道教会の人間には知られる訳にいかない存在。それこそ、龍から分けられた枝を元にして生まれた堕天獣、シーであった。アルマにとって、シーは自分を守ってくれる母親なのだ。この世界では珍しい親子の情。それは、孤児であるリーヴにとって憧れの対象であり、壊されないように守るべきものであった。
聖道教会に頼れば、アルマはシーから引き離されるかもしれない。そんなことを、リーヴは許す訳にはいかなかった。
「シー……」
「話は後じゃ。はよう、儂の後を付いてこい」
アルマがさらわれてしまったことを、リーヴは重い口で伝えようとする。だがしかし、シーはリーヴの言葉を遮って、そう言った。
「なに?」
「事の顛末は、ある程度見ておった。あやつらがどこに行ったのかも、後をつけて調べておる。後は、娘を取り戻すだけじゃ」
ラナの孤児院に向かいながら、シーは自分のここまでの行動を説明してくれた。朝、少し席を外した間に、リーヴとアルマが出かけていった事を知ったシーは、そんな二人を慌てて追いかけたらしい。
「なにせ…………我が愛しい娘が、こんな小僧と一緒におるんじゃからな……いつ手を出されるか、心配で堪らなかったわ」
「俺はロリコンじゃねぇ……って、何度も言ってるだろうが!」
「その割には……いや、これはまだ話すことではないか……」
なんだってんだ、と歯切れの悪い言葉を言うシーの様子に、頭を抱えるリーヴ。だが、そんな軽口の間も、シーはなにかを堪えるかのように、ぎゅっと拳を握りしめながら飛んでいた。おそらく、今にもアルマのもとへと飛び出していきたいのを必死に堪えているのだろう。
あのグレゴリーが作り出した人造天使がもし、聖道教会が保持する力の象徴である天使と同程度の力を持つのなら、シー一人だけではとても勝つことができないからだ。
不意に、前を飛ぶシーの視線がリーヴへと向けられる。
「なんだよ……」
「歯がゆいのう……小僧が今、万全な状態であれば……」
シーはその言葉の後ずっと、リーヴの腕を見つめていた。恐らく、龍呪回路の異常に気付いているのだろう。
リーヴは項垂れて、頭を下げる。
「すまない……俺のミスだ……」
「気にするな。まだ、娘の身には、なにも起こっていないようじゃからのう……」
シーの言葉はつまるところ、アルマの身になにかがあれば、存分にリーヴの責任を追及すると宣言しているのだろう。リーヴは足を速め、その速度にあわせて先行するシーが速度を上げる。
二人は走りながら、さらに情報を交換していった。シーがリーヴとアルマに追いついた時には、すでに二人ともがグレゴリーに捕まっていたらしい。慌てて、助けに入ろうとしたシーだが、間一髪の所で聖道教会の天使たちに気付き、隠れた。その判断は英断と言えるだろう。もし、シーがアルフレッドたち聖道教会の人間に見られたら、エレメンタルだという言い訳は通用せず、堕天獣ということで切り捨てられていてもおかしくなかったからだ。
その後、シーは出るに出られず、アルマがさらわれるのをみすみす見逃すことになる。その後、すぐに上空へと飛び、シーは人造天使の後を追って、アルマが連れ込まれた場所を確認した。しかし、そこで人造天使の一人に見つかったために、追跡を中断して逃げ帰ったとシーは話してくれた。
「まったく、あやつらはなんなのじゃ? 天使のような、堕天獣のような、薄気味悪い光塵の流れをしおって……」
シーが言っている薄気味悪い奴らとは、恐らく人造天使のことだろう。リーヴは堕天獣であるシーならば、あるいは人造天使のことがなにかわかるかもしれないと思い、質問する。
「なぁ、お前から見て、その薄気味悪い奴らには……なにか、変なところはなかったか?」
「変なところ、か……? さっきも言ったじゃろう? 変なところだらけで、なにが逆に変でないのかもわからんほどじゃったよ……」
肩をすくめて答えるシーの言葉は、リーヴの期待から外れたものだと思われた。
しかし、シーはそのまま言葉を続ける。
「まったく……どいつもこいつも他人の光塵が、体の中を流れておるようじゃった…………それが、気味が悪くてのう……」
「…………今、なんて言った?」
思わず詰め寄り、シーに詳しく説明を求めるリーヴ。
「いや、じゃから、あやつらの体内はまるで他人の光塵が流れておるかのようじゃったと」
「……そういうことか?」
リーヴの頭の中によぎったのは、アルマが堕天獣や天使として使った能力のことだ。自分の中にある光塵を他者に与えることで、その光塵を相手に吸収させて操る。
それこそまさに魔女の技術、その本懐なのではないだろうか?
あの人造天使たちは、まるでグレゴリーの意志がわかるかのように、グレゴリーと言葉を交わさずに行動していた。その行動は正しく全てが、グレゴリーの意志によるものであるかのように、状況に合っていた行動だった。
そんなことは、本来ありえない。
人造天使は自我というものを持っているように思えなかった。ならば、あの人工天使は、天使と堕天獣、どちらの方が近いかといえば堕天獣の方だろう。堕天獣は、理性を失っている。そんな堕天獣を相手に命令など、本来は出来るはずがないのだ。
それを可能としたのは、光塵技術の中で禁止された魔女の技術だけである。
「その薄気味悪い連中の光塵……強いて言うなら、誰に似ているものだった?」
リーヴの言葉に、シーは考え込む。その言葉がどういう意味なのか、計りかねているのだろう。リーヴ自身、もしグレゴリーのことを、自らの中に差し込まれた龍呪回路のことを詳しく知らなければ、眉唾物だと思うような考えなのだ。
しばらく、無言のまま、視線を交わすリーヴとシー。すると不意に、リーヴの視線に折れたかのように、肩の力を抜いたシーが答えを言う。おそらくリーヴがたどり着いた懸念に、自分がたどり着けなかったことが不満なのだろう。露骨にシーはふて腐れたかのように唇を淡く結んで、不満げな顔を作っていた。
「あの薄気味悪い連中の体内を流れている光塵は、娘をさらったあの忌々しい男と、ほとんど同じものじゃった」
天使でも龍でもないリーヴには、体内にある光塵の違いなどわかるわけもない。だが、龍であるシーは違うのだろう。体内を流れる光塵が、個々の性質を持つことは周知の事実。それは例え、他者の光塵が原因となって、堕天獣となった人造天使でも変わらないはずだ。
だが、堕天獣ごとに違う性質を持つはずの光塵が同じものであるのならば、そこには必ず、あの人造天使の謎に迫るなにかがあるはずだ。 本来、個々に違うはずの光塵が同じものである理由。少し考えて、リーヴは頭を振った。神学者でもないリーヴに、そんなことがわかるはずもなかった。
適材適所。元々、リーヴが戦うために向かわなければならないラナの元で、その知識を得ることにしようと、リーヴは意識を切り替える。
いつの間にか、リーヴたちは街外れにあるラナの孤児院のすぐ傍までたどり着いていたらしい。ラナの孤児院は街外れにあるためか、人造天使たちには襲われていないようだ。しかし、多くの子供たちと共に、ラナは孤児院の外で啖呵を切っていた。
「なにを、してるんだ?」
思わず呟いたリーヴを尻目に、子供たちがラナの指示に従って外へと走り出す。その行き先が今、リーヴたちが来た方向。つまり、人造天使たちが今も暴れている街の中だと気付いて、リーヴは慌ててラナに駆け寄った。
「おい、なにをしている? 今の街は危険だ! 子供たちを引き返らせろ!」
「リーヴ。あんた、無事だったのね……」
ものすごい剣幕で駆け込んでくるリーヴに体を退きながら、ラナはそう言った。
「俺のことはいい。なにをのんびりしているんだよ、お前は!」
そのどこか間延びした態度に、リーヴは激昂する。
「あんたこそ…………なに言っているかわかってるの?」
しかし、そんなリーヴを、冷たい一言でラナは一喝する。
「な?」
その言葉の迫力に、リーヴは一瞬口ごもってしまった。
「このあたしが必要もなく、子供たちに無茶なことをさせるとでも思っているわけ!?」
憤懣やるせないといった態度で、こちらを、涙を浮かべた目で睨みつけてくるラナ。
そんなラナに、リーヴは気を取り直して言う。
「だったらなんで子供たちを今、町中に向かわせる? 危険過ぎるだろうが!」
「だから、それは訳があって……って、お互い熱くなっててもしょうがないわね」
リーヴの言葉に、ラナは肩をすくめながら溜め息をつく。
「ところであんた、アルマちゃんはどこにやったの?」
あたりを見回して、ラナはアルマがいないことを確認する。どういうこと、とでも言うように、ラナの険しい視線がリーヴに向けられる。
「うぐっ……ぐぅ!」
その視線に、思わずリーヴは悔しそうに顔を歪めながら、拳を握った。その動きによって光塵のなくなった龍呪回路が痛みを生みだし、リーヴは顔をさらにしかめてしまう。腕を押さえて呻くリーヴの様子を見て、何が起こったのか、ある程度わかったのだろう。ラナは顎をしゃくって、離れの研究室へとリーヴたちが移動するよう、促す。
「とりあえず、あんたの龍呪回路を交換するべきなのでしょう? 話はそれから、ね」
リーヴに声をかけた後、ラナは後ろを向く。
「……ああ」
そんなラナに、リーヴは短くそう答えた。屈辱を感じていても、それを覆すためには力が必要だ。その力を得るために、リーヴはここに来たのである。その力を手に入れることに、躊躇うことなどあるはずがなかった。
無言のまま歩きだそうとしたリーヴの前を、シーが飛び回る。
「そうじゃな。まずは、小僧の力を取り戻すことが肝要じゃ」
「あんたもたまには良いこと言うじゃない。優先順位ってものがわかってるみたいね」
「そりゃ、小僧や小娘とは年季が違うからのう……」
昨日とは違い、どこか仲良く言い争う二人を見ながら、リーヴはその後ろを歩いた。自分だけが状況についていけていない。そんな気がした。それは、真実なのだろう。
シーはラナが、孤児院の子供たちをあえて、危険な場所に行かせた理由もわかっているようだった。わかっているからこそ、苦渋の決断をしたラナを、ひねくれた言葉で賞賛しているのだろう。そして、ラナはそんなシーの言葉の真意をわかっているからこそ、噛みつくこともなくひねくれた言葉で返したのだ。
ひねくれた二人の会話を耳にして、リーヴは溜め息を吐き出す。
その後、三人は離れの研究室に入り、リーヴは龍呪回路の交換に必要な手術を受ける。その間、シーは周囲の警戒をすると言って外に出た。
「一体、なんで子供たちをあんな危険な場所に行かせたんだ?」
「悪いけど、話よりはまず龍呪回路の交換を済ませたいわ…………座ってくれる?」
質問するリーヴに、ラナは指で椅子を示した。仕方なくリーヴはラナの指示に従って、椅子に座る。リーヴが座る椅子には、龍呪回路を交換する作業のために作られた特別な装置があった。椅子の少し前方には、腕を乗せるための台があり、椅子と台は、鉄板とボルトで床に固定されている。
椅子、台ともに、腕を動かさないようにするためのベルトがあり、リーヴもラナも手慣れた様子でそのベルトをつけていく。そして、リーヴがタオルを噛み、舌を噛まないようにすると準備が整った。
そこまで準備をして初めて、ラナは後ろにある水槽からあるものを取り出した。光塵を溶け合わせていることによって、光輝く水の中から銅線を取り出す。その銅線もまた、光塵の輝きを纏っていた。それこそが、龍呪回路の元となる銅線だった。グレゴリーの処方を再現するために、リーヴの力によって光塵を大量に溶かし込んだ水の中に銅線を入れていたのである。
「始めるわよ」
痛くても我慢しなさいと目で伝えながら、ラナは真剣な顔つきで銅線を持ち、リーヴの手を開いた。ラナは手早くリーヴの手、正確には指の間から顔を出している銅線を掴み、一気に引き抜く。
「ぐ、う……」
悲鳴をタオルを噛みしめることで耐えながら、リーヴは引き抜かれた銅線を見た。
ラナが持つ龍呪回路に使う銅線には、特殊な細工がしてあり、ぬらぬらと輝いている。光塵を大量に含んだ水に何日もつけ込んでおくことによって、光塵がまるで膜のように銅線を覆っているのだ。その光塵の膜が人体の中でも銅の毒性を阻害し、万が一、光塵を使い果たしたとしても、体の中に現れた銅線が体の内部を傷つけるのを防いでくれる。
これは龍呪回路の度重なる使用によって、銅線それ自体に含まれる光塵を使い切っても使用者の体を守るための仕掛けだった。この仕掛けは、グレゴリーに入れられた最初の龍呪回路にはなかったラナ固有の技術である。
グレゴリーに入れられた最初の龍呪回路は、元々擬似的な龍と化した銅線をそのまま使ったことにより、高い純度の光塵が込められた銅線であった。だがしかし、グレゴリーはその銅線自体に含まれる光塵を使い果たした後のことを考えていなかったのだろう。
そのため、リーヴが最初に龍呪回路の交換をした時には、外科手術が必要だった。
その傷跡は、ロングコートに隠されたリーヴの腕に色濃く残っている。
銅線を引き抜き、すぐさま新しい龍呪回路をリーヴの中に入れるラナ。
元々、龍呪回路が通っていた状態を出来るだけ維持するために、銅線の交換は出来るだけ早く行う必要があった。片手で五本、両手で十本もの銅線を交換する作業を終えた時には、リーヴもラナも、汗にまみれていた。
「で、子供たちを街に行かせた件について……説明するわね?」
その汗を用意していたタオルで拭きながら、ラナはそう言った。
「あ、ああ……」
消耗していたリーヴは短く答え、荒い息を吐き出す。
「あんたは、黙って聞いていればいいわ」
自分の中からなにかが抜き取られ、また再び差し込まれる感触は、吐き気を催すほどおぞましいものだった。その感触に、リーヴの精神は消耗を余儀なくされていた。
「あの堕天獣かどうかもわからない化け物の被害が治まった後のことを考えてみなさい」
「治まった、後……?」
考えようとしても、思考がまとまらない。そんなリーヴの様子を見て取って、ラナは答えを口に出してくれる。
「少なくとも、あの化け物に光塵が関わっているのは明らかでしょう? 光塵を使う技術を研究しているあたしに対して、格好の攻撃材料じゃない」
淡々と語るラナは、口元をへの字に曲げ、半ばふて腐れているようにも見えた。
「それが仕方ない、当然の感情なのはわかってる。なにかの技術によって被害を受ければ、その技術が怖くなるのは当たり前。けど、そんな事件の後、街の連中が、堕天獣になりやすい子供たちに向ける視線はどうなるかしら?」
「……そうか」
光塵による技術を開発するラナは、街に必要不可欠な存在だからそれほど非難されないにしても、堕天獣になる可能性が高い子供たちには、さらに厳しい目が向けられることは想像に難くない。そうなれば光塵に対する危険視から、どんな迫害が起こるのか。想像もしたくもないとリーヴは頭を振った。
「だから、子供たち自身に働いてもらう必要があったの。孤児院を避難場所にして、子供たちに街の連中を助けさせれば、そうした目も少しは収まるからね」
自分の命を助けた恩人に対して、厳しい目を向けることが出来る人間は少ない。そう考えれば、確かに子供たち自身に行動してもらう必要があるのだろう。
ラナの話を聞いて、リーヴは納得すると共に深く反省する。結局、問題が片付いた後のことを、リーヴは考えていなかった。先程の聖道教会に頼ろうとしたことといい、視野が狭く、未熟なところがリーヴにはある。希望的な観測や楽観的な考え。それらがどう悪影響を与えるのかを知っているリーヴは、気を引き締めて頭を回転させる。
「で、あんたの方はどうなの? アルマちゃんは、どこにいるの?」
その言葉に、リーヴは荒れた呼吸が、少しの間、確かに止まるのを感じていた。
「……アルマは、さらわれた」
ラナの言葉にリーヴはうなだれながら、そう答える。
「ふぅん……それで、あんたはなにやってんの?」
「え?」
これから助けに行くとはいえ、一度はアルマを奪われたことをなじられると思っていたリーヴは、意外なほどあっさりとしたラナの言葉に驚きを隠せなかった。
「だから、アルマちゃんがさらわれて、あんたは一体なにをやってんの? 龍呪回路の交換は終わったんだから、早く助けに行くなりなんなりしなさいよ!」
「…………俺に、任せてくれるのか?」
正直、リーヴは依頼を撤回されてもおかしくないだろうと思っていた。しかし、ラナはそんな言葉を投げかけず、ただ、リーヴに行動を促した。
肩すかしを食らって、リーヴは呆然とした表情を浮かべる。
「はぁ……しっかりしなさいよ、リーヴ。さらわれたっていう事は、まだ生きてるんでしょ。アルマちゃん」
簡単なことのように、ラナは言葉を続ける。
「だったら、なんとかなるわよ。命を奪われたわけじゃないんだから……あんたの仕事だって失敗はしたかもしれないけど、終わってはいない」
「はっ……」
苦笑を浮かべながら、リーヴは考える。どいつもこいつも当たり前のように、自分より前を見据えて行動している。
――負けていられるか。
そうリーヴは、素直に思うしかなかった。
「小僧、そろそろ準備は終わったか?」
外の警戒を終えて、シーがこちらに声をかけてくる。
「ああ、今行くさ」
答えながら、リーヴは拳を握る。かつて、リーヴは自分の腕の中にある龍呪回路を、敗北の象徴と考えていた。けれど、今の龍呪回路はまるで、リーヴの決意に応えるかのように強い光を放っている。
拳を握りながら、リーヴは今度こそ、何もかもを守り抜くと決意を新たにする。
「いってらっしゃい、リーヴ。あんたは、あんたのやるべきことをやりなさい」
半ば呆れた声で、ラナがリーヴを送り出した。
その言葉を背中で聞きながら、リーヴはシーの先導に従って飛び出した。