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第四章 アルフレッド・コーフィ

 結局、パーティーは後日行われることになった。リーヴにとって実の父親とも言える存在が死んだこと、それが原因だったのではない。アルマとシーの喜びように張り切ったラナが、準備に手間をかけすぎたのだ。

 塵狩りを営むリーヴの無骨な事務所には似合わない華やかな装飾を見て、今日は休みにするべきだなと嘆息混じりにリーヴは思う。事務所は依頼人と会い、そして依頼人が自分を見極める大切な場所だ。その場所がこんなに華美な装飾をされていては、依頼人も落ち着かないことだろう。

「はぁ……」

 ため息をはき出し、リーヴはアルマとシー、ラナが眠っているだろう二階を見上げる。

 この事務所として使っている民家は、神の降臨以前の代物だ。木製の家で、大きく作られた一階と、それとは対照的に控えめに作られた二階があり、二階の部屋は外から螺旋階段でつながっている。そんな秘密基地のような作りがリーヴの中に燻っていた子供心を惹き付けた。

 一目惚れ、と言っていいだろう。元々、塵狩りとして生活するつもりであったリーヴにとって、事務所と自宅を分けて生活できるこの民家は非常に都合が良かった。

 普段はリーヴの寝室として使っているやや小さめの二階で、女性陣は眠っている。子供っぽいとは思っても、お気に入りの部屋に他人が入り込んでいることに、リーヴは少しの不満を抱いていた。

 眠りが浅かったことによって、痛む頭を押さえながら、リーヴは水飲み場に歩み寄った。事務所にはラナから授けられた銃、リヴァイアサンのメンテナンスのために様々な道具が転がっており、それらがまた、昨日の準備を滞らせた原因だった。

 適当なコップであらかじめ井戸水を汲んでおいた水瓶から水を汲み、飲み干す。生温い水だか、少しは気付けになったらしい。目が覚めていくのを感じながら、リーヴはあたりを見渡した。

 きらびやかな装飾をさらに輝かせる外からの日の光。そんな日の光が、一瞬、遮られるのをリーヴは見て取った。

「呼んでない客が来た、か」

 寝不足で痛む頭を抑えながらも、リーヴは起き上がり、クローゼットから取り出したロングコートを羽織る。昨日からずっとアルマに貸しているロングコートとは違うものだが、基本的な作りは同じだ。

 アルマに貸したコートにもこのコートにも切れ込みが入っており、それをジッパーで閉じることが出来るようになっている。様々な加工によって、基本のデザインがわからないように工夫が施されているコート。それはかつて、リーヴが所属していた聖道教会で、神父が着る服と同じデザインのものだ。

 同じ作りをしたロングコート、それが三着も入ったクローゼットを閉める。

 三つあるコートの内、リーヴが取り出したのは、その中でもやけに作りがしっかりとしたものだった。ほかのものと同じような加工が施されているものの、ぼろぼろで、それでも丁寧に扱われていたのだろうということがわかる一品。

 そのコートを着た瞬間、リーヴの胸に懐かしい気持ちが蘇った。まだ、このコートに初めて袖を通した時の記憶を、リーヴは忘れてはいない。自分の記憶を他人事のように感じながら、リーヴは腰から首までのジッパーを胸まで締め上げる。

 アルマに貸したコートは今、リーヴが着ているコートのデッドコピーだ。今、リーヴが着ているコートこそ、リーヴがかつて、聖道教会で神父の活動をしていた時に着ていたコートだった。かつての制服に着替えたことによって、急速に目が覚めていくのを感じながら、リーヴは家の外に出る。

 すると、まるでその時を見越していたかのように、一人の男がリーヴの口を塞ごうと手を伸ばしてきた。屈み、男の攻撃を避けながら、リーヴは空を見上げる。

 朝特有の白みがかった空が見えた。

「いい朝の運動になりそうだな……っと!」

「ぐはっ」

 伸びをするかのように身体を伸ばし、拳で男の顎を殴り抜けつつ、リーヴは外に出る。

 肩を回し、首の間接を鳴らして周囲を見渡すリーヴ。そんなリーヴの視界の動きについてくるかのように、周囲から多くの人が現れ、リーヴに殴り飛ばされた男を守るかのように集まってくる。

 男たちは皆、同じように元は高級品だったのだろうと思われるぼろぼろの衣服を纏い、垢に塗れた体を恥ずかしそうに隠していた。

 元権力者の浮浪者、といったところだろうかと、リーヴは相手の素性にあたりをつける。

 十中八九、ここを狙った理由は物盗りといったところだろう。リーヴの住む家は街の中で、それなりに良い場所に位置する。近くに井戸があり、家も元々神の降臨以前に作られ、今でも残っている確かな作りのものだ。

 そのため、リーヴの家が物取りに狙われることは多かった。

「来いよ」

 そう挑発しながらリーヴは頭の中で、戦い終わったらもう一度場所を変えて寝直そうと思っていた。

 家の中に他人が居たからか、微妙に寝足りない。寝不足特有の頭の芯が痛むような感覚の中で、リーヴを戦おうとしていた。

 男たちはそんなリーヴの状態など知らず、真面目に懐からナイフを取り出して、戦闘準備を整える。

「やれ!」

 一人の男がそう叫び、周りの男たちはリーヴに襲いかかる。

 次々に繰り出されるナイフを避けながら、リーヴはあくびをかみ殺す。

 良くも悪くも、戦闘に慣れていない動きだった。腰が引けていて、その割に殺意はあるのか真っ直ぐにナイフを突いてくる。リーヴが手頃な鈍器代わりにリヴァイアサンを引きぬこうとすると、どこからか、その手を狙ってナイフが飛んできた。

「ちっ」

 先程、周りの男たちに指示を出した男が投げたナイフは、的確にリーヴを狙っていた。

 うっとうしいと舌打ちしながら、リーヴはリヴァイアサンを引き抜く機会を窺う。だが、後ろに待機している男は、的確にリーヴの邪魔をしてくる。そんな二人の攻防など気付く様子もなく、へっぴり腰でナイフを突き出してくる周りの男たち。

「ああっ、ったく……面倒くさい」

 叫び、リーヴは周りにいる男たちを蹴り飛ばした。男たちは派手にふっとび、ぴくぴくと痙攣して気絶する。

 その隙を狙って、投げナイフの男がリーヴの急所を狙い、ナイフを投げてくる。

 周りにいる男たちを盾にするように動きながら、リーヴはそのナイフをかわし、他の男たちを殴り、蹴り飛ばす。

「……退け、退くんだ! 撤退するよ!」

 周りを取り囲む男たちに、そう叫ぶ投げナイフの男。周りにいる男たちが撤退するのを見逃しながら、リーヴは投げナイフの男を見つめていた。

 どこか、リーヴはその男の声に聞き覚えがあったのだ。

「久しぶりだね……リーヴ」

 今までの口調とは打って変わって、幼げな口調で投げナイフの男がそう言って、もったいぶるかのようにゆっくり、フードを外した。成人男性にしては低い身長に、高い声色。そして、少し色が抜けて茶色というより赤色に近い髪をした少年のような青年。

 男の赤毛が日の光に反射するのを見て、リーヴは全力でリヴァイアサンを引き抜いた。

「グレゴリィィィィー!」

 リーヴは喉が引き裂けても構わないと言わんばかりに全力で、その男の名を叫ぶ。

 子供じみた顔立ちに赤毛。その顔にこちらを嘲るような笑みを浮かべたその男は、リーヴにとって心の底から憎い男だった。

 何も言わず、引き金を引き絞るリーヴ。しかし、撃ちだされたリヴァイアサンの弾丸はグレゴリーが張った力場によって止められる。

「危ないじゃないか。リーヴ」

 グレゴリーの背中からは、まるで堕天獣となったアルマと同じように光塵が噴き出し、翼を形作っていた。アルマの時とは違い、その翼は安定して形を保っている。それが龍と並ぶ力を持つとされる「天使」。聖道教会が唯一この世界で持つ力。人の形と理性を保ったまま、堕天獣としての力を振るえる存在の証であった。

 光翼と呼ばれる光塵の翼は、天使の背中から突きだした肺と直接繋がった骨から排出されている。その吐き出された光塵が偶然、翼にも似た形を持つことから光翼と名付けられた。

 その効果は、絶大だ。光翼によって、天使の体内から吐き出された光塵は、天使の周囲を漂い、その意志に従って異世界を作りだす。

 その異世界は、例えば自分に対して危害を与える可能性のある銃弾などをはじき返すなどという、自分に都合のいい設定を作り出し、世界を操ることが出来るのだ。

 それが局所的にも、異世界を作り出すという異能がもたらす力である。

 天使の資質によって、操れるものに違いはある。だが、光翼によって物理法則を操り、作り出された異世界において、天使は絶対の力を誇るのだ。

 上位の天使の力はあの龍にすら匹敵する。それは質量の違いを考えれば、到底あり得ないことだろう。貧弱な人間の身体一つでは、自ずと振るえる力に限度がある。けれど、天使はその限界を自らの周囲を異世界に変えることによって、法則を変え、圧倒的な力を振るうのだ。

「ま、僕が君にしたことを考えれば当然か」

 そう言って肩をすくめるグレゴリーに、リーヴは自分の頭に血が上っていくのを感じながら駆け寄った。

「危ない危ない」

 リーヴが駆け寄った勢いそのままに飛びかかり、かつてシーの本体にしたように銃口を押しつけて銃弾を発射しようとした瞬間、グレゴリーは空を飛ぶ。

 光翼を生やし、理性を保ったまま堕天獣としての力を操れる存在が、天使と呼ばれるのには理由があった。光翼による周囲の法則を操る能力。その能力によって、天使は飛ぶことが出来るからだ。

 背中から光輝く翼をはやし、空を飛ぶ存在。だからこそ、人の形をしたまま、異能の力を振るえる存在は天使と呼ばれる。

 グレゴリーは赤い髪を風に撫でさせながら、こちらを見下ろしていた。その手に、ナイフが握られていることに気付いて、リーヴは身構える。

 光翼を広げた天使を相手にして、その手に握る武器がどんなものであれ、その武器は脅威となり得る。周囲の法則を操る、ということは当然重力の操作なども可能とする。周囲の重力を操り、無重力と化した異世界の中を飛ぶことが出来る天使にとって、石一つとっても、普通の人間には耐えられない運動エネルギーを持つ必殺の武器と化すことは可能だった。

「ふふっ」

 そんなリーヴの構えを見て取って、笑みを浮かべるグレゴリーは、ゆっくりとリーヴに見せつけるようにナイフを投げる。そのナイフが落ちる軌跡を、リーヴは目で追うことしか出来なかった。見ることは出来ても、身体の動きがついて行かなかったのだ。

 まるで犬にボールを投げるかのような気軽さで投げつけられたナイフは、光翼によって作られた異世界の法則に従って圧倒的な早さを手に入れ、リーヴのすぐそばに倒れる襲撃者に突き刺さった。

「なに……?」

 思わず呟くリーヴ。リーヴではなく、倒れた襲撃者たちの元へと、グレゴリーはリーヴでは見ることも出来ないナイフを投げつけていく。

「……やめろ!」

 リヴァイアサンを撃ち、その残虐な行為を止めさせようとするリーヴ。

「ふふっ…………ははっ…………!」

 楽しそうに笑いながら、光翼でリヴァイアサンの弾丸を消滅させ、さらにナイフを投げ続けるグレゴリー。そのナイフは狙い違わず、襲撃者たちの頭や胸に突き刺さった。

 襲撃者たちはうめき声すら上げずに、死んでいく。倒れた襲撃者たち、少ないが中には女性も混ざっている彼らの顔を見て、リーヴは驚愕する。

 それはかつて、リーヴが所属していたころの聖道教会に対して、数多くの出資をしていた有力者たちの顔だった。

 見覚えのある顔に驚くリーヴを尻目に、その襲撃者たちの死を確認して、グレゴリーはリーヴの元から去っていく。そんなグレゴリーに、リーヴは怒りのままに、リヴァイアサンを向ける。だが、空を飛ぶグレゴリーはすでに、リヴァイアサンの射程距離外を飛んでいた。

「くそっ!」

 リーヴは苛立ち紛れに、地面を蹴り飛ばす。

 あの男の名はグレゴリー・バーンズ。かつて自分を育ててくれた養父、聖道教会の長であるジェラルド・バーンズと血の繋がった弟であり、リーヴにとっては殺しても許せない存在。その男の急な来訪に、リーヴの心は乱れていた。かつて神父として聖道教会に所属していた頃のリーヴを罠に陥れ、天使としての能力を奪い、龍呪回路を組み込んだ存在。

 それこそが、グレゴリーだったのだ。

「……あのやろう……まだ生きていやがったか……!」

 怒りのあまり唇を噛み、拳を握りしめ、うめき声を漏らすリーヴ。

「う、あぁぁ……!」

 そうしなければ怒りのあまり叫びだし、ところ構わず八つ当たりしてしまいそうだった。

 体の中で荒れ狂う怒りの感情に身もだえするリーヴ。しかし、怒りは長続きしないものだ。自分の中にある怒りの衝動が少しずつ収まっていくのを感じると、リーヴは唇を噛むのを止めて拳を解き、深呼吸をした。

 ようやく怒りが過ぎ去り始めたころ、不意にリーヴは自分を取り囲む男たちの姿を発見してしまう。自分の中にある怒りが手頃な八つ当たりの対象を見つけて再び燃えあがり、自分の唇を凶悪につり上げるのを感じながら、リーヴはあたりを囲む男たちの姿をじっと見つめた。

「ちっ……」

 しかし、その男たちが自分の着ているものと同じ濃紺のロングコートを着ていることに気付いて、リーヴは冷静になる。

 リーヴにとって、そのコートは見慣れたものだった。

「ようやくお出ましかよ……」

 自分の周りを囲む男たちの正体こそ、かつてのリーヴと同じ聖道教会の神父たちであった。この砂漠の中でも活動しやすいようにフードのついた濃紺のロングコートは、聖道教会に所属する神父の制服だ。この聖道砂漠の権力者である聖道教会を敵に回すことは、出来るだけしたくなかった。しかし、リーヴには一つだけ聞かなければならないことがあった。

「お前ら、グレゴリーの部下か?」

 さっきリーヴの前に現れたグレゴリー。あの男はかつて、聖道教会の主であるジェラルド・バーンズに代わり、聖道教会の教会長を務めていた男だ。しかし、その内実は統一神学に狂ったマッドサイエンティスト。

 その立場を利用して、グレゴリーは多くの人間に地獄を見せていた。

「その心配はない」

 そんな男の配下ではないかと聞いたリーヴの言葉に答える男は、神父たちの中でも一際目立つ大男だった。ロングコートの左腕の部分が、あるべきものがないことを主張するかのように風に棚引いている。

 鋭い眼光が、リーヴに注がれる。男のロングコートから覗く首筋や手など小さな肌の露出部には、男が今まで渡ってきた修羅場の数を示すかのようにおびただしい数の古傷が刻まれていた。

 そんな男の傍を、まるで男に仕えるかのように一歩下がった場所でたたずむ女性の姿があった。その女は銀色の髪をなびかせ、修道女が着る服をその身に纏い、静かにこちらを見つめている。

 その視線にわずかな懐かしさが感じるのは、リーヴの気のせいだろうか。

 そんな二人の男女がリーヴに近づくと、男の方はフードを下ろし、リーヴにこう言った。

「久しぶりだな、リーヴ」

 一日に二度も久しぶりと言われるのも珍しいと思いながら、リーヴはその大男を見上げる。そこから覗く顔を見て、リーヴは驚愕に身を震わせた。

「にいさ……アルフレッド」

「もう……兄とは呼んでくれないか……」

 一度、兄さんと呼ぼうとして口ごもったリーヴを見て、悲しそうにそう笑う男。彼こそが、リーヴがかつて兄と呼んだ男、アルフレッド・バーンハードだった。


 その後、呆然とするリーヴがアルフレッドに連れられた先は、引っ越しの最中と言わんばかりに周り一杯に荷物が置かれた、街の中でも一際大きく古い建物だった。

 数日前まで街の権力者がいたはずの建物を借り、聖道教会の支部を作る。その光景は、この聖道砂漠では良くある光景だった。開拓都市が洗礼都市に変わるその光景。もちろん、街の権力者たちは最初、建物を譲ることを渋って見せる。けれど、最終的には折れて、聖道教会の言うことに嬉々として聞いただろう。

 何故ならこの聖道砂漠で、聖道教会にコネを作るチャンスは滅多にないからだ。そして、そのコネは絶対に役立つことが保証されている。聖道教会はグレゴリーと同じような天使を多く配下に持つ。だからこそ、質と量を兼ね備えた部隊を作れ、龍にも対抗できる力を持つと言われているのだ。

 そして、そんな力を持つ聖道教会にコネを作ることを望まない権力者はいなかった。

 聖道教会はこの世界の警察とまで言われるほど、多くの権力を握っている。その権力の切れ端でもつかめれば、悠々自適の暮らしが待っているからだ。そのことを知っているからこそ、多くの権力者たちは自分の邸宅を提供しようとしただろう。そんな建物の中から選りすぐったものだけあって、この建物は確かに広く、いい場所にあった。

 広さはラナのところの孤児院並み。二階建てで、木造建築で作られたこの建物は、神の降臨以後の建物だろう。そんな建物の中、さらに一番上の部屋で、リーヴにアルフレッド、そしてアルフレッドの傍に仕える女性の三人は向かい合っていた。

「で、あんたは一体、なんで俺のことを呼んだんだ? あんなご大層な神父どもに囲まれて、こっちはずいぶん怖い思いをしたんだぜ?」

 それがこの世界で治安を守る役目を背負った聖道教会のやることか、と言わんばかりに軽口を叩きながら、リーヴは目の前にある椅子に座る。だが、アルフレッドはリーヴのそうした軽口に対して苛立ちもせず、ただ懐かしそうに笑っていた。

「懐かしいな……リーヴ」

 そう言って、男は顔にある古傷のせいで引きつった笑みを浮かべた。

「そうやってひねくれたことを言って、相手の出方を見る……変わっていないようで、安心したよ」

「……ったく、やっぱあんたにはお見通しか」

 その言葉に、リーヴもまたようやく確信する。確かにこの男の外見は変わり果てていたが、自分の兄といえる男、アルフレッド・バーンハードそのものだと。

 リーヴの言葉に、アルフレッドは苦笑を浮かべる。よほど、その苦笑を浮かべ慣れているのか、アルフレッドのその苦笑は、先程浮かべた笑みよりも自然なものだった。

「つれないことを言うじゃないか。それこそ……兄弟のように、育てられたというのに」

 再会の挨拶もないリーヴに呆れながら、呟くアルフレッド。しかし、リーヴはそんなアルフレッドよりも、その後ろにいる女性に目を向けていた。

 ここにいるのがアルフレッドなら、目の前にいる女性は、あの女性のはずだとリーヴには心当たりがあったのだ。窓から差し込む陽光の影になるような部屋の隅に、リーヴが知るアルフレッドよりも、更に変わり果てたその女性はいた。

 じっと、リーヴはその女性を見る。その女性の心当たりについて、リーヴは内心、怯えていた。

「ノーラ」

 そんなリーヴを見かねたのか、アルフレッドが彼女の名前を呼ぶ。その名前を聞いて、リーヴはやはりと思いながら、唇を噛みしめて女性をじっと見た。

 リーヴの視線に何も答えず、ノーラはアルフレッドの言葉に反応して歩き出す。その反動でかぶっていたフードが落ち、その変わり果てた顔をリーヴは見ることになった。

 銀色に輝く髪。かつては慈愛にあふれていた聖母のような顔立ちは、灰色に濁った瞳とまるで呆けたように開きっぱなしになった口によって台無しになっていた。よだれを垂れ流し、その美貌を汚す醜態に、リーヴは唇を噛みしめる力を強くする。そして、アルフレッドの背後に立つノーラの姿を見て、噛みしめた唇に力が入りすぎたことからあふれ出た血の味と共にリーヴは思い出す。

 アルフレッドに寄り添うノーラの姿は、かつて当たり前にあった幸せの残りカスとも言えるものだった。

 アルフレッドの婚約相手であったノーラ・バーンハードはかつて、リーヴがグレゴリーから守れなかった女性だった。彼女を見た瞬間、リーヴはかつてのことを思い出す。

 自信に満ちあふれていた自分が、誰かを守れなかった時のことを。

 リーヴはかつて、聖道教会に拾われた孤児だった。その時、すでに自分より先に拾われていたアルフレッドとノーラ。その二人のことをリーヴは兄さん、姉さんと呼んで慕っていた。

 後の聖道教会の長ともなるジェラルド・バーンズ。彼は、リーヴと同じように堕天獣となる危険性から親に恐れられ、捨てられた子供たちを保護し、育て上げようとしていた。しかし、その時代は神の降臨から数年間あった暗黒時代。日の差し込まないことを良いことに、様々な人間が、野望や自棄に駆られて暴れていた。

 そんな時代、多数の子供を育てる余裕など誰にもなく、程なくしてジェラルドは資金難にあえぐことになる。そして、ジェラルドは仕方なく自分自身の類い希な天使としての能力を使い、権力者たちの身の安全を保証することによって、資金提供を受けた。

 それが、聖道教会という組織の成り立ちである。

 聖道教会の原型ができあがって数年の後、リーヴは多くの人を守ろうと無理が祟って倒れたジェラルドの代わりに、神父と呼ばれる要職に就こうとしていた。人々を守るために、天使としての能力を使う許可をもった人物を、神父と呼ぶようになったのはこの頃だ。

 神父にならなければ、天使としての力を使うことは許されない。それは天使と人間が、ともに暮らすための約束だった。例え理性を保ったまま、堕天獣の力を振るえるとはいえ、天使の力は周囲の人間にとって脅威の対象だった。

 天使の力が今の社会を構築するのに必要なものであれ、周囲の人間に光塵の汚染による被害を与える可能性がある天使の力は、ラトリアに住む先住民たちのような人間に恐れられた。

 その神父としての試験を合格し、リーヴは着慣れない濃紺のロングコートをその日、初めて着たのだ。今も着ている神父服。その服は、ジェラルドが現役で活動していたころに着ていた服をモチーフにした制服だった。その制服に袖を通すことで、かつてのリーヴはこらえようのない喜びを感じたのを覚えている。

「リーヴ、きちんと準備はしたわよね?」

 この時は意識もあり、言葉も喋れたノーラがそう言って、リーヴを送り出そうとする。その時のリーヴは、これから先に起こる不幸など知らず、自分とともに育った姉の言葉にただ嬉しさを感じていた。

「おいおい、そういう心配は旦那である兄さんにでもしてやってよ」

 ノーラの言葉に軽口を返すリーヴ。

「もうっ、生意気言って……」

 そんなリーヴの言葉に、顔を真っ赤にして恥ずかしがるノーラ。

 自らの姉と呼べる女性の幸せそうな姿に、リーヴは苦笑を浮かべながらも、幸せを感じていた。同じ時期にジェラルドに拾われて数年来の付き合いを発展させ、幼い時は考えもしなかったが、アルフレッドとノーラはつきあい、今は婚約までかわした仲になっていた。

「リーヴ、準備は出来たか?」

「少し待っててくれよ。兄さん」

 この頃は古傷もなく、明るかったアルフレッドの声に、リーヴは返事を返す。

 神父としての道を選んだリーヴと違って、アルフレッドは聖道教会の幹部になろうとしていた。聖道教会も最初期の全ての行動をジェラルドに一任する形から、組織だった行動をするようになっていた。

 そのため、聖道教会は現場で働く神父と聖道教会の本部で働く幹部。そして、この世界で迫害される子供たちを保護し、養育する保育の部門に分かれていた。

「こっちも仕事があるんだ……早くしてくれ」

 溜め息混じりのアルフレッドの声に肩をすくめて、リーヴは準備を整える。アルフレッドの声には、色濃い疲れが浮かんでいた。その疲れがジェラルドの弟であり、現在の聖道教会で教会長を勤めるグレゴリーに師事していることが原因だと、リーヴは知っていた。

 視界の端では、アルフレッドの声を聞いてぽーっと惚けているノーラの姿があった。

「兄さんと姉さんが結婚式をするころにはさ。こっちも落ち着いてるころだと思うし…………その時は、ちゃんとしてくれよ?」

 そんなノーラにやっかみ半分でリーヴは声をかけるが、惚けたノーラには聞こえていないようだった。ノーラはアルフレッドと付き合い初めて以来、こうしてアルフレッドと会う度に惚けてしまうのだった。

 ただ、アルフレッドを見ているだけで幸せと言わんばかりのその姿に、リーヴは少し食傷気味だった。幼かったリーヴにとって、自分に初めて優しくしてくれた異性こそがノーラであった。そんなノーラに、思春期を迎えたリーヴが何も感じなかったというのは嘘になる。

 正直なことを言えば、リーヴはアルフレッドに嫉妬すら感じていた。けれど、アルフレッドと共に暮らした日々、そしてその日々で培った友情が、リーヴにその嫉妬を押し隠すことを強制していた。

 そんな自分の中で様々な感情が入り乱れる日々に疲れていたリーヴは、神父として活動することを認められてから数ヶ月後、新しい街で生活を始めた。

 その街での生活にも慣れ、リーヴが任された洗礼都市を襲った堕天獣の撃退にも何度か成功し、順風満帆な日々を過ごしていたリーヴ。

 その成功が、リーヴの心の中で気付かぬうちに慢心を呼んでいた。

「ふぅ……」

 溜め息を吐き出し、リーヴは熱い日差しを眩しそうに見上げる。この頃から、光塵によって遮られていた日の光が地上に届き始めていた。人類が神がいなくなった世界で新しい文明を築き始め、これからの未来に期待を抱き始めた時代。

 そんな時代に、リーヴにとって最も忌むべき事件が起こる。

 その発端は聖道教会の中で孤児を引き取り、養育する部門で働いていたノーラが、リーヴの街にやってきたことだ。

 その理由は、リーヴの街で新しい聖道教会の拠点を作り、孤児を養うためだった。当時の子供たちもまた、堕天獣になりやすいという事実によって迫害されていた。そうした子供たちの大半は聖道教会の所有する街、ユグドラシルにて養われていたが、ついに子供たちが増えすぎたのだ。

 そんな訳で神父が治安を任されている街の多くに、新しく聖道教会は孤児を養うための大きな拠点を造ろうとしていた。ジェラルド一人という戦力の限界に拘る必要のなくなった聖道教会は、神の居なくなった世界最大規模の組織としての力を振るい始めていた。

 その力を使った世界進出、それが当時聖道教会の教会長だったグレゴリーが思い描いていた理想なのだろうとリーヴは思う。

 天使という類い希な能力を持つ子供たちを、神父という名の兵士として街に送り出して、聖道教会の権力を高め、次に孤児の保護という人道支援の名目で街の中に拠点を作る。

 それを基本パターンにして、聖道教会はその後、強大な勢力圏を手に入れるようになる。

 しかし、リーヴが担当した街にはもう一つの目的があった。

 孤児院を経営するにあたって、聖道教会に所属する多くの人間が、リーヴが守る街に配属された。その人々はリーヴと同じくグレゴリーを嫌っているという点で気が合い、リーヴはそんな人々と、婚約者と離れたことを寂しがるノーラを慰めながら生活を送っていた。

当時、ジェラルドが倒れた後釜に座ったグレゴリーに対し、多くの聖道教会に所属する人々は、良い気持ちをもっていなかった。

 そんな人々やそうした人を家族に持つ人が、リーヴが担当する街には集められていたのである。思えば、その事実に気付いた時からおかしいと思うべきだった。

 あくる日、起こるべきして、とある事件が起こる。

 見慣れた堕天獣の襲撃。しかし、その堕天獣は今までの堕天獣とは違っていた。堕天獣は本来、理性のない獣とはいえ、光塵によって進化した生物だ。命の危機に敏感で、なによりも危険を察知することに長けている。

 そんな堕天獣が死ぬまで暴れ回り、人を殺そうとした。本来ならば、ある程度傷を負えば逃げるはずなのに、だ。しかし、その日の堕天獣は違った。まるでなにかに操られているかのように見境なく、周囲の生物を襲い、殺そうとした。

 結局、リーヴが堕天獣を殺したことによって被害は収まったが、それでも疑問は残った。  その数日後、突如として現れた堕天獣の大群によって、街は危機に晒される。

 その堕天獣の大群は、まるで自分の姿を見せびらかすかのように街を包囲していた。堕天獣がまるで統制のとれた軍隊のように行動する。それ自体が異常な事態のはずだった。

 その事実を前に、街を守る責任者であるリーヴは、街にいる飛べず、力の弱い天使たち全員と共に戦う事を決意する。その間、空を飛べる何人かの天使たちが、聖道教会本部に助けを求めるように指示を出した。

 そして、リーヴは街に残り、多くの人々を守る為の戦いに身を投じることになった。

「くそったれ……」

 そう呟き、リーヴは長年使っていた剣を手放す。

 人が持つにはあまりにも長大な剣。しかし、天使の武器としては当たり前のものだった。その剣は長い間、リーヴを支えてきてくれたものだった。しかし、まるで統率のとれた軍隊のように襲撃してくる堕天獣たちを相手取る内に、寿命を迎えてしまったのだ。

 血と錆にまみれ、折れた相棒を捨てる事に罪悪感を感じながらも、リーヴは手近なところにあった誰かの血に濡れた剣を手に立ち上がる。

「大丈夫? リーヴ」

 堕天獣を斬った時、顔に付いた血をぬぐっていて真っ暗な視界の中で、リーヴはノーラの声を聞いた。

 ノーラは数少ない飛べる天使の一人として、街に援軍を呼ぶはずだった。だがしかし、彼女はこの街に残り、その天使としての力を振るって多くの人を助けていた。

 天使はその資質によって、自分の体内にある光塵だけを操れるアモル、自分の周囲にある光塵を操り、飛ぶことが出来たり、物理法則を操ることが出来るストルグ。そして最後に、他者の体内にある光塵すら操り、奇跡のような現象を起こすことが出来るエハヴという三種類の天使が存在する。

 リーヴはその中で天使としての能力が低いアモルに該当するが、ノーラは他者の体内にある光塵を操り、傷を癒やすことが出来るエハヴに該当する天使だった。光翼を広げ、リーヴの体内にある光塵を操り、治療を開始するノーラに身を任せながら、リーヴは辺りを見渡す。

 まるで、大地に流れる血が空に映ったかのような紅い夕暮れ。そして、周囲を柵で囲った街。暖かな日常の場であったかつての街の姿とは打って変わってしまったその姿に、リーヴは嫌な思いを感じた。

「大丈夫だよ……きっと戻れる。きっと、戻れるから」

「ああ……そう、だね」

 その言葉にリーヴはそう答えたが、リーヴの心の中にはぬぐいがたいほどに、強い疲労が溜まっていた。そんなリーヴに、励ましの言葉をかけるノーラ。

 それが、この街を守る限界が近づいていることを、リーヴに教えていた。

「助けだ、助けが来たぞ!」

 誰かが上げた大声に、リーヴは頭上を見上げる。すると、その視線の先で見覚えのある光翼を生やした天使と、その後ろを飛ぶ天使たちの集団がいた。先頭の天使は、街に救援を呼びにいったメンバーの一人だった。その事に気付いて、騒ぎ始める周囲の人々。

 そんな人々を尻目に、先頭の天使が悠々とこちらに降りてくる。次第に大きくなる影。その影を光塵によって強化した視力で見つめていたリーヴだけが、その天使の詳しい様子に気付いた。ぼろぼろ、だった。体中傷にまみれ、血を流し、あれでは意識も朦朧としているだろう。そんな姿でなおも飛んでいられることに驚きながら、リーヴはその天使を受け止めるために走り出す。

「どけ! どいてくれ!」

 叫びながらリーヴは走り、天使を受け止めようとした。

 その瞬間、天使の体が小さく揺れ動く。

「かはっ……」

 漏れ出した吐息。天使の腹には鋭く、小さなナイフが突き刺さっていた。

「なっ……」

 リーヴが漏らした困惑の声はどこにも届かず、虚空に消え、リーヴは天使を貫いたナイフが飛んできた方向を見上げる。

 村の天使が呼んだ増援だと思われる天使たちの一人は、まるでなにかを投げはなった後のように手を伸ばしていた。

「な……に?」

 あり得ないと思っていた事態に頭の回転が止まり、リーヴは間抜けにも、空飛ぶほかの天使たちが降りてくるのをじっと見つめてしまった。

 降りてきた天使たちの真ん中に、一人の男が立っている。

「グ、レゴリー?」

 本来なら助けに来てくれたのだと歓迎する男の名前を呼びながら、リーヴは街で共に暮らした天使の亡骸を抱きしめた。

「よく、もちこたえたね。リーヴ」

 まるでリーヴが望んでいたかのように、この街を助けに来たと言わんばかりの労いの言葉。しかし、その言葉を発するグレゴリーの顔は冷たいものだった。

「本当に……君がいなければ、肝心の戦力を試す前に終わっちゃうところだったよ」

 そう言って、グレゴリーは腕を掲げ、天使たちに指示を与える。

「散れ。存分に、力を……振るっておいで」

 その言葉を聞いてグレゴリーの周りにいた天使たちは飛び立ち、あちこちへと向かった。

 程なくして、天使たちが飛び立った方向から悲鳴や怒号が聞こえ始める。

「な、にを……なにを……!」

「ん、どうかしたの? リーヴ」

 まるで宗教画に描かれているような慈母のように、優しい笑顔を浮かべながら聞いてくるグレゴリーに、リーヴは叫んだ。

「なにをしているんだ、あんたは!」

「……見て、わからないの?」

 余裕たっぷりに肩をすくめて、グレゴリーがそう答える。

「本来助けるべき相手を前に、あんたは一体何をしている!」

 同じ、聖道教会の仲間である村人たちにこんな真似をする理由などないはずだった。

 しかし、グレゴリーはふっと笑うだけで、リーヴの問いに答えようとはしなかった。

「なぜだ……なぜ!」

──答えようによっては……この男を殺さなければならない。

 リーヴはそう思いながら、剣を握りしめる。

「そんな怖い顔をしないでよ、リーヴ」

 しかし、リーヴが抜き身の剣を見せても、グレゴリーは余裕を崩さなかった。いやむしろ、無駄な抵抗をするものだと哀れんでいるかのような視線で、リーヴを見つめ続けている。

 リーヴは、その視線を警戒した。グレゴリーがどれほどの強さを持つのか、リーヴは知らない。ジェラルドの弟だということ以外、リーヴはグレゴリーのことを知らなかったのだ。そんな迷いが、リーヴに悔やんでも悔やみきれない隙を作り出すことになる。

「ようやく、だね……」

 リーヴの視線によって浮き出た冷や汗をぬぐうグレゴリーの視線を目で追って、リーヴは驚愕する。

「はな……して……」

 その視線の先でグレゴリーと共にやってきた天使の一人が、ノーラを抱えている光景が見えた。慌てて助けに入ろうとするリーヴを牽制するかのように、天使はノーラの首をぐっと絞めつけてみせる。

「うっ!」

「姉さん!」

 首を絞められたことによって苦しむノーラの首筋に、天使はこれ見よがしに持っていた剣を突きつけた。

「リーヴ、君は戦闘能力こそ……かつての僕の兄すら凌駕するかもしれないけど……」

 そんなリーヴの背後から、楽しそうな声が響いてきた。その時、リーヴはノーラのことで頭がいっぱいになっていて、あろうことか、グレゴリーに無防備な背中を晒していたのだ。

 その隙を突いて、グレゴリーはリーヴの背後に近寄った。

「うっ!」

 背中からなにかが突き刺さるのを感じた後、リーヴは意識が急速に薄れていくのを感じた。痛みよりも、まず最初に、自分の体が自分のものではなくなっていくかのように、感覚が薄くなっていき、意識が遠のき始める。毒。他者の体内に入り込めば、その体内にある光塵の動きに逆らう他者の光塵そのものという毒が、リーヴの身体を刺したナイフには塗られていた。

「こういう絡み手には弱いよねぇ? ま、あの兄に育てられたのなら、仕方ないけど」

 どさり、と倒れたリーヴの上で、自分が絶対的優位にいることを自覚した勝者の笑みを浮かべるグレゴリー。

「連れていけ」

 その言葉を聞いて、グレゴリーが連れてきた天使たちが動き出す。リーヴとノーラはその天使に抱え上げられ、どこかに連れ去られてしまった。

 目が覚めたのはどれだけ時間が経ったのかもわからない、暗闇の中だった。

「ん、んぐっ!」

 口には猿ぐつわを噛まされ、両手両足は何かに拘束されているようだった。背中には、なにか柔らかいものの感触がある。リーヴはどうやら拘束されたまま、ベットに転がされているようだった。身動きどころか声も上げられない状況で、リーヴは必死に目をこらす。

 まず見えたのは、いくつかの扉の先にある通路だった。

 視界の先で、なにかが動いた。バンという音と共に通路の奥にあった扉が開き、そこから何人もの人間が歩いてくる。

 目をこらし、その人物が何者か見定めようとしたリーヴの視界が、急に明るくなった部屋の照明によって失われる。眩しさによって一時的に視界を奪われ、その隙に扉から入ってきた人間が、リーヴの周囲を取り囲んでいた。

 リーヴの左側には手首を縛られ、猿ぐつわを噛まされたノーラの姿があった。

 その後ろには、自分たちを捕まえた天使たちの影があり、その天使はリーヴの動きを牽制するかのように、ノーラに突きつけたナイフをちらつかせていた。

 身じろぎをして、リーヴを気遣う視線をこちらに向けるノーラを安心させようと、リーヴは笑みを浮かべる。そんなリーヴとノーラの姿を見て、周りを囲む多くの人間が嘲笑うかのように口を歪めるのを、リーヴは見た。

 リーヴは、そんな彼らを睨みつける。自分の周りを囲む人物全員に、リーヴは見覚えがあった。彼らは急激に勢力を拡大し始めた聖道教会に後から資金提供を呼びかけ、聖道教会内部に取り入った周辺の街の権力者たちだった。

 彼らは一様にこの時代を生きる人間にしては、日に焼けていない白い肌をしていた。権力を使って、自分の快楽を優先する。そうした人種だったのだろう。遙か昔、貴族たちが自分たちの白い肌と青い血管を特権階級の証として、ブルーブラッドと呼んで称えていた時代と同じように、彼らは多くの人を犠牲にして、特権階級という甘い蜜を啜っていた。

「皆様、よくお集まりくださいました」

 そう言って両手を広げ、リーヴを囲む権力者たちから一歩足を踏み出し、グレゴリーは語り出す。

「皆様にお集まり頂いたのは、他でもありません。この光塵技術の発展を約束する実験に、同席してもらうためです」

 そんなグレゴリーに、リーヴは憎しみを込めた視線をぶつけた。しかし、そんなリーヴの視線をどこ吹く風と無視し、グレゴリーは意気揚々と語り続ける。

「偉大なる統一神学の発展、そのために……」

 その時、ようやくリーヴは、グレゴリーが統一神学を学ぶ神学者であることを知った。丁度ジェラルドから、グレゴリーに教会長の地位が変わったころ、聖道教会は光塵技術の迫害を始めていた。

 それは恐らく、その技術が結果的に聖道教会の権力を失わせるものだとグレゴリーが判断したからだろう。その予想は、確かに当たっていた。この出来事から数年後、光塵技術の発展によって堕天獣に対抗する技術を得た人々は塵狩りという職業を生みだす。

 その塵狩りたちによって、堕天獣や龍と対抗することで様々な特権を得ていた聖道教会は、少なからず被害を受けることとなる。しかし、それは聖道教会が光塵技術を独占すれば、さらなる利益が聖道教会に舞い込むことを意味していた。結局の所、その時のグレゴリーは塵狩りも神学者も、聖道教会に組み込むつもりだったのだろう。

 今、洗礼都市で使われている光塵技術の大半は、聖道教会の認可を得なければ使用する事が出来ない体制が作られていた。光塵技術の未熟さによって被害を受けた多くの人々は、最初からその危険性を訴えていた聖道教会に、その技術に対する認可を与える機関を作り出させた。技術を使う許可を発行する立場に立つために、一度はその技術を非難する立場に立つ。そうすることによって、結果的に光塵技術を独占することこそ、グレゴリーの狙いだった。

 グレゴリーは組織の経営者としては、卓越した手腕を持っていたのだろう。けれど、宗教組織の頂点に立つ人物としては、圧倒的にカリスマ性が欠けていた。そのカリスマ性を補うために、グレゴリーは刃向かう者に対しては残虐性を。そして、味方となる人物には、その残虐性に裏打ちされたエンターテインメントを提供することによって、自らのカリスマ性を演出していた。

 その発端となったのが、リーヴが神父として担当し、そして、グレゴリーにとって都合の悪い人間が集められたあの街だった。残虐なショーの裏で、グレゴリーは私的な神学者としての実験も行っていた。その為の実験場こそ、リーヴやノーラが連れてこられた場所だったのだろう。

 グレゴリーはそれこそ、敬虔な祈りを捧げる聖職者のように胸に手を当てると、すぐに一つの棒のようなものを取り出した。

 赤茶色に輝くそれを、グレゴリーは熱い視線で見つめる。

「僕が今、ここで実験するのは人工的な龍の創造。これは先日、聖道教会の本部であるユグドラシルの近くで取られた銅を、光塵で汚染したものです」

 聖道教会が活動拠点としているユグドラシルの背後には、確かに銅がとれる鉱山があった。その銅を取り出し、鉱物には定着しないはずの光塵を、天使の力によって無理矢理溶かし込んだ銅線。

 それが稀代のマッドサイエンティスト。グレゴリーが手がけた龍呪回路の正体だった。技術の内容が明かされても、その制作には天使の協力が不可欠という時点で、龍呪回路という技術は普通の人間には再現不可能になる。こうした聖道教会だからこそ出来る優秀な光塵技術を、グレゴリーは専門で研究していた。

 グレゴリーは銅線をしまうと、リーヴの傍に近寄り、猿ぐつわを外す。

「グレゴリー!」

 睨みながら叫ぶリーヴの口に、グレゴリーは光晶を放り込んだ。

「むぐっ」

 目を白黒させながら、その光晶を飲み込んでしまうリーヴ。

 すると、おかしなことが起こった。

 本来、天使は自分の体内にある光塵を、ある程度は操ることが出来る。しかし、グレゴリーに投げ込まれた光塵は、リーヴの意志には従わず、腹の中で溶けて全身を駆け巡った。

「気付けみたいなものだよ」

 何が起こったのかわからないと目を白黒させるリーヴの耳元で、グレゴリーがそう囁く。

「僕の能力で痛みを麻痺させないと、君が死んでしまうからね」

 グレゴリーの言葉と共に、リーヴは急激に体の調子が悪くなるのを感じた。気分が悪く、吐き気がして、体がいうことを聞かない。なにか悪いものを食べてしまったかのように、脂汗が全身から噴き出す。

 熱い。腹の中で熱が生まれ、その熱が全身を駆け巡るのをリーヴは感じた。熱が主に両腕へと集中し始める。すると、両腕の感覚が麻痺するのをリーヴは感じていた。

 しかし、その腕には傍から見ても明らかな異変があった。まるで血管が浮き上がるかのように、光塵がリーヴの腕の中で光輝き、リーヴの体内における光塵の流れを示していた。

 その光景を、リーヴは周囲の権力者たちの瞳に映る風景で知ることになる。

 恐らく、さっきグレゴリーが飲み込ませたのは、グレゴリー自身の光翼から出た光塵なのだろう。その光塵をリーヴの体内において精密に操作することによって、光塵と光塵の反発を出来る限り抑え、リーヴの体内を操っているのだ。

 この時点でグレゴリーの天使として持つ位階が、エハヴであることが確定する。その事実を知り、グレゴリーの背中をよく見ると、小さな光翼が生えているのが見て取れた。グレゴリーの翼は小さく、漏れ出る光塵の量は少ない。それは、天使としての能力が高くとも、基本となる土台が三流の証拠だった。

 天使の位階はあくまで光塵を操ることが出来る技量によって決まる。そのため、土台となる光塵を身体の中に蓄えられる量に差があり、位階に差はあれど、位階の低い方がより多くの光塵を蓄えられることは珍しくなかった。

 だからこそ、リーヴは天使としてもっとも格下のランクであるアモルでありながら、聖道教会内部で有数の力を誇っていたのだった。

「では、始めよう」

 拘束されたリーヴには、グレゴリーの言葉から始まる手術の様子を直接見ることは叶わないように思われた。だがしかし、アモルとしての能力によってリーヴは体内にある光塵を操り、視力を強化することによって、周囲を囲む権力者たちの目に映る風景からその光景を見ることが出来た。

 リーヴの腕に何も言わぬまま、不意にグレゴリーがナイフを突き立てる。

「っ……」

 当然のように予想していた激痛は訪れず、痺れだけが、リーヴの感じる全てだった。恐らくは、これがグレゴリーが飲ませた光塵の効果なのだろう。麻酔の効果を、リーヴの体内で発生させているのだ。

「うぐっ……」

 リーヴが体を突き刺されても、かすかに呻き声を漏らすだけだったことに不満を持った一部の権力者たちの視線がグレゴリーに向いた。

「ご心配なく」

 悪戯小僧のような笑みをリーヴの血が付いた顔に浮かべつつ、グレゴリーが手術を続ける。

 龍呪回路。龍の持つ物質に光塵を通すという性質を利用して、一般人にも光塵を扱えるようにしようとした実験。

 その結果は今もなお、リーヴの腕のなかに残っている。その回路があるからこそ、リーヴは天使としての能力を失ったものの、今も戦い続けることが出来ているのだ。

 しかし、それはジェラルドに育てられたリーヴにとって、あまりに苦痛な出来事だった。神父としてジェラルドの助けが出来ると喜んでいた天使の頃にはもう戻れない。そんな事実を、今なおリーヴに突きつけるものこそ、龍呪回路だった。

 だがしかし、本当の意味でリーヴが絶望するのはこの後のことだった。

 手術が終わり、消耗したリーヴは未だベットに拘束されたままだった。ぐったりと首を倒したままのリーヴを、グレゴリーや周りの男たちがベットごと起こし、全身を拘束し直す。

 視界が目の前に固定され、リーヴはそこに自分を拘束するベットと同じものがあることに気付いた。

「では、もう一つのショーを始めましょう」

 そう楽しそうに言うグレゴリーに、周りを囲んでいた権力者たちの一部が喜びの表情を浮かべていた。その表情を浮かべた権力者たちは全て、先程、リーヴが悲鳴をあげないことに不満そうな顔を見せた者たちである。

 嫌な予感が、リーヴを襲う。さっきまでリーヴの隣で捕まえられていたノーラが、目の前にあるベットに括り付けられ始めていたからだ。

「天使は、その希少性から……それはもう……大切に、されてきました。その事実を改善するために、天使の人工的な製造方法を研究した神学者がいました」

グレゴリーが語り出した内容は、事実だった。天使というものが人間としての理性を残したまま、堕天獣としての力を持つということがわかって以来、街に住む多くの権力者たちは天使の力を手に入れようとした。

 しかし、天使の絶対数は少なく、そして、その多くは神の降臨が終わった時に子供だった者たちだ。光塵という環境の変化に過敏に反応し、適応した乳幼児こそ、今の天使と呼ばれる存在が生まれた背景であったのだ。

 だからこそ、神の降臨後の混乱期、孤児を救うことを目的に活動していた聖道教会は、結果的に多くの天使をその組織内部に参入させることとなる。

 しかし、その事実を快く思わない権力者たちは多かった。彼らの多くは自らの手駒となる天使を欲していた。だからこそ、その研究が行われたのだ。しかし、その研究は上手くいかなかった。元々、天使とは堕天獣にならず、人間の理性をもったまま、堕天獣の力を使えるようになった者のことである。何が足りなかったのかはわからなかったが、結局、天使を人工的に製造することは出来なかった。

 そうした研究で作られた人工の天使は、ほとんどが堕天獣となってしまったのだ。

「けど、その実験は成功しなかった。でも、もし、天使から光晶を移植することが出来るのなら?」

 耳を疑いたくなるような言葉に、リーヴの思考が停止する。確かに、そんな方法をリーヴは聞いたことがなかった。

「しかし、もしそれが可能だったとしても、それには多量の光塵を受け入れる土台がすでにあることが前提条件。急に体内における光塵の量が増えれば、人は堕天獣になりますからね」

 確かにそれはその通りだった。なら、その実験は天使を増やすことが出来ない無意味なものだ、とリーヴは思う。それは周りにいる権力者たちも同じだったのだろう。リーヴと同じ、怪訝な表情を浮かべる者もいた。

 しかし、グレゴリーはある言葉を囁く。

「ですが、天使から天使にならどうでしょうか? 貴重な能力を持つ天使が死んだとき、その光晶を、能力が劣っても土台が優れた天使に移植することによって能力を再現させる……それは不可能なのでしょうか?」

 だから、その実験をするために光晶がなくなっても、生命を維持する程度には力を使えるよう龍呪回路を組み込まれたリーヴが用意されたのだ。実験に事前の準備が必要な時点で、その時は未完成の技術だったのだと、後にグレゴリーはリーヴに語る。リーヴが元々天使であったのに、一般人が光塵を使えるようになるための龍呪回路を組み込まれた理由はそういうことだった。

 消耗したリーヴの胸元に、グレゴリーがナイフを突き立てる。

「ぐ、くあああ!」

 今度は光塵を飲まされてから随分と時間が経っていたからか、痛みを感じるリーヴ。

「ぐ、く、ぎっ、がぁぁ!」

 胸元を切り開かれる痛み。それはあまりに耐え難く、リーヴは気が狂いそうになる。

「ほらほら、きちんと回路を稼働させて肉体の強度をあげないと…………死んじゃうよ?」

 体の中にある違和感を押さえて、全身に光塵を巡らせようとするリーヴ。しかし、元々天使として活動していたリーヴはその光塵の流れを意識してしまい、龍呪回路をうまく作動させることが出来ないでいた。

 しかし、グレゴリーの言葉通り、光塵を利用して肉体を強化しなければ、死んでしまう。選択の余地はなかった。

 龍呪回路という正体不明の何か。天使であるリーヴだからこそ、感じられるその異物の感覚に、リーヴは大量の光塵を流し込んでいく。すると、その龍呪回路は最初に光塵をため込み、その後、体中に光塵を流し返した。

 グレゴリーはリーヴの両腕に組み込まれた龍呪回路が無事起動していることを確認すると、再び光晶を取り出す。

「僕は光塵を操ることだけが得意でね。戦闘にはそれほど役に立たないけど、僕の能力があれば……こういうことも出来る」

 そう言って、自分の能力をひけらかすように、グレゴリーは光晶に手を触れる。その手が光晶に触れた時、光晶の純度が高まった。恐らく光晶に自分の光塵を注ぐことによって、純度を上げたのだろう。

 光輝く光晶を、グレゴリーはリーヴの胸元の傷から放り込んだ。

「ぐっ……がっ……」

 グレゴリーがリーヴの体内にある光晶を操作しているのか、体の中に入り込んだ光晶はリーヴの体内にある光塵と反発することなく体に溶けた。

「ごふっ!」

 急激に体の中で光塵が増えたことによって、全身に悪寒が走る。すると次の瞬間、胸の傷から天使としての能力を振るうために必要な光晶が転がり落ちるのをリーヴは見た。吐き出された光晶を回収し、リーヴの傷口を塞いだ後、グレゴリーはノーラに近寄った。

 怯え、目に涙を浮かべながらもグレゴリーを睨むノーラ。

 しかし、そんなノーラへグレゴリーは言葉もかけず、胸を引き裂いた。

「あ、あああああああ!」

 リーヴにとって、一生聞きたくはなかった人物の悲鳴。その悲鳴に顔を歪めると、権力者の一人はそんなリーヴの表情を見て笑っていた。

 目の前で、実験は淡々と行われた。その中で叫び声を上げ、痛いと目で訴えるノーラ。そんなノーラに、リーヴは何もすることが出来なかった。

 結局、自らの光晶を摘出され、さらに余ったリーヴの光晶を入れられたノーラはそのショックからか、精神を破壊されて言葉を失い、その目は正気の光を失った。

 その後、気絶したリーヴは恐らく、胸の中にノーラの光晶を入れられたのだろう。しばらくの経過観察の後、天使としての能力を使えないことを確認され、用済みと実験の後、放り出されたリーヴはユグドラシルへと逃げ込む。

 本当はノーラを助け出したかったのだが、その時のリーヴには天使としての力がなく、グレゴリーに従う天使たちを倒すことが出来なかったからだ。しかし、ユグドラシルでリーヴは自分の味方であった聖道教会の人間に追われることとなる。

 グレゴリーの指示によって、光塵技術の迫害はすでに始まっていた。リーヴはその光塵技術に力を求め、身を捧げた異端者とされていたのである。しかも、リーヴは自らの力を得る為に姉であるノーラを差し出したという疑いまでかけられていた。

 それが、リーヴの逃走を許したグレゴリーの悪趣味な罠であった。

 実際、光塵技術の一つである龍呪回路を埋め込まれたリーヴに反論する術はなかった。グレゴリーにやられたのだと叫んだところで、それを信じてくれる人間などいない。誰が自分が迫害すると決めた技術を、グレゴリー自身が学んでいると思うだろう。

 結局、リーヴはユグトラシルからも逃げ出さなければならなかった。そこからは生きるために塵狩りとなり、洗礼都市を回って、開拓都市であるラトリアに辿り着くまで、リーヴはずっと旅をしてきた。

 聖道教会の勢力圏が広がっていく度に、リーヴは住み慣れた街を出て行かなければならなくなった。

 しかし、その間ずっと、リーヴは心の中で後悔し続けていた。もっと、自分が強かったのなら、もっと自分が賢かったのなら。そうすれば、ノーラや共に暮らした街の人々をも守ることが出来たのではないか。

 その思いが、今のひねくれたリーヴを作り出した背景だった。


 脳裏で蘇る過去に、不覚にも浮かんでしまった涙をぬぐうリーヴ。その間、アルフレッドは静かに待っていた。リーヴが顔を上げると、ノーラは再び部屋の隅に移動していた。

「……大丈夫か?」

 アルフレッドが信じられないほどに優しい表情を浮かべて、こちらを見る。

「ああ……」

 内心では、溢れる罪悪感に溺死してしまいそうになりながらも、リーヴは返事をした。

「ふっ……」

 それを知ってか知らずか、微笑みを浮かべるアルフレッド。

「手短に話そう……リーヴ。お前にかけられた疑いは、もう晴れている。だから、今日ここで話したいのは、あの男…………グレゴリー・バーンズと原罪教団に堕ちた街の権力者どもについてだ。お前の話を聞かせてくれ」

 アルフレッドが顔を引き締め、そう聞いてくる。一言一言、アルフレッドの言葉を聞く度に過去の思い出が蘇って、リーヴを苦しめる。だが、その苦しみを振り払って、リーヴはアルフレッドを見た。

 アルフレッドに聞かなくてはいけないことが、リーヴにもあったのだ。

「俺も、聞かなきゃいけないことがある」

 グレゴリー・バーンズ。リーヴにとって憎んでも憎みきれない相手であり、一時期は聖道教会のトップにも立ったあの男が、何故あんなみすぼらしい服装でここにいたのか。

 思えば、それは普通に考えればありえないことだった。グレゴリーは聖道教会の発展に力を尽くした男だ。

 そんな男が、そう簡単にその功績を捨てるだろうか。

 周りにいた聖道教会を支援していた街の権力者たちのこともそうだ。彼らはグレゴリーの実験に同席した者達ばかりだった。その誰も彼もが、簡単に権力を手放す者達ではないとリーヴは知っていたからだ。

「今朝いきなり襲撃を仕掛けられたんだ。その時、俺は、あの男を……グレゴリーを見た」

「やはりか……」

 そう呟いて、アルフレッドは納得したかのように頷いた。

「やはり? 一体どういうことだ?」

 リーヴは当然アルフレッドの言葉にかみつき、その真意を確かめようとする。

「あの男が……グレゴリーがそう簡単に、聖道教会を離れるとは思えない。一体、俺がいなくなった後の聖道教会に、何があったんだ」

「ふむ……」

 腕がかつてあった頃の癖だろうか、アルフレッドが腕を組もうとして、左腕がないために失敗する。格好がつかないなと笑いながらも、話を再開するアルフレッドの姿が、リーヴにはとても痛々しいものに見えた。

 かつては静かだが、明るく、朗らかな笑みを浮かべる人だった。そんなアルフレッドが、今や安穏とした日常など遠い地平線の彼方にあると言わんばかりに、酷い傷跡をさらしている。それが、アルフレッドがどんなに優しい人間なのかを知っているリーヴには、あまりにも苦い光景に思えた。

「それにはまず、現状の聖道教会についての説明が必要だな」 

 そう言って、アルフレッドは自分のことを指差した。

「今の教会長は……俺だ」

「え?」

 突如、語られた衝撃の事実にリーヴは硬直する。

「我らの父であるジェラルドが亡くなってから……後継者を決めるための戦争が起きた」

 リーヴが絶句している間も、アルフレッドは説明を続ける。

「その戦争に負けたからこそ、あの男、グレゴリーは聖道教会に対抗できる唯一の組織である原罪教団に身を寄せたのだろう。再び、聖道教会の頂点へと返り咲くためにな」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

怒濤の勢いで語られる衝撃の真実に、リーヴはアルフレッドの言葉を一度止める。

 アルフレッドが語った事実を頭が理解するのを待って、リーヴは恐る恐るアルフレッドに確認し始めた。

「まずは、父さんが死んだ……それは本当のことなのか? それは、いつのことなんだ?」

 リーヴが神父になった理由も、ジェラルドが体調を崩していたからこそだ。しかし、聖人とも言われるジェラルドの死が、今の世界に与える影響は大きいだろう。だというのに、リーヴがつい先日まで何も知らないというのはおかしなことだった。

「……まさか、知らなかったのか? もう、一月も経つというのに」

 リーヴのその反応に、アルフレッドが驚いたようにこちらを見る。しかし、その視線にリーヴは頷きを返すことしか出来なかった。厳密に言えば、知らなかったというよりは知るのが遅すぎたこと、それがリーヴにかつての経験から恐怖を与えていた。

 リーヴの養父でもあり、この世界で一大勢力でもある聖道教会を作り上げた男であるジェラルド・バーンズ。その男の死は世界に動揺を与えるにふさわしい一大ニュースのはずだ。

 けれど、そのニュースをリーヴが知ったのはつい先日。明らかにおかしかった。

「そうか……確かにここはユグドラシルとは遠い。情報が伝わっていない可能性も……確かにあるが……」

「それでも、アルフレッド。あんたが驚いたってことは……こんな田舎の町でも、伝わっていないのが、おかしいくらい、派手な葬式だって行われたんだろう?」

 リーヴの言葉に、アルフレッドは沈黙したまま首肯だけを返した。少しの間、沈黙が、部屋の中を支配した。少しずつ時間は流れ、リーヴは不意にアルフレッドと視線を合わせる。

「父さんは……安らかに死ねたのか?」

 せめて、それだけは聞いておきたい。そう思い、絞るように質問の言葉を吐き出すリーヴ。

 そんなリーヴの思いを受け取るかのように少し黙った後、アルフレッドは厳かに語りだす。

「……あの人は、安らかに死ねたよ。それは、間違いない」

「そう、か……」

 アルフレッドの言葉に、リーヴは心の底から安堵する。

「…………すまないが、話の続きといこう」

 その後、アルフレッドに説明を求められたリーヴは出来るだけグレゴリーについて詳しい情報を話した。だがしかし、懸命な話し合いにも関わらず、リーヴが朝、いきなり襲われたということしかわかることはなく、情報の不可解な遅れにも説明がつく事実の発見はなかった。

 そして、すぐに二人の会話は終わってしまう。

 結局、わかったのは、リーヴの周囲に聖道教会から追われているグレゴリーが、わざわざ立ち寄る何かがあるということだけだった。

「グレゴリーが、この街にいることがわかった。それだけでも収穫だろう……もう、行っても構わないぞ」

 話を終えるとアルフレッドはそう言い、リーヴはアルフレッドの言葉に押されるように立ち上がった。あるいは、話が終わったと同時に、アルフレッドに寄り添うノーラの姿から、リーヴは逃げ出したかったのかもしれない。

 しかし、リーヴは部屋を出る直前で立ち止まり、アルフレッドに言葉を投げかけた。

「俺を……恨まないのか?」

 そう言って、リーヴはアルフレッドの反応をうかがう。リーヴにはそれしかできなかった。面と向かって聞くことなど、出来るわけもなかった。

 自分がアルフレッドとノーラの幸せを破壊した張本人であると、リーヴは知っていたから。

「あの事件の真相は……知っている。だから、お前が気に病むことはない」

 その言葉を聞いて、リーヴは歯がみし、拳を握りながら部屋を出た。

「アルフレッド……」

 違うんだ、とリーヴは言いたかった。リーヴがあの時のことを後悔しているその理由は、決して殊勝なものではない。あの時のリーヴは、小さな成功に自信をつけて、自分もまたジェラルドと同じように、人を守れる存在になったのだと粋がっていた。

 そんなリーヴの思い上がりが、アルフレッドの幸せを、そしてノーラの幸せを奪ったのだ。そう、リーヴは思っていた。

「つっ」

 不意にリーヴは腕の疼きを感じて、自分の世界から立ち戻る。リーヴは腕に、違和感と痛みを感じ始めていた。風に舞う砂埃に混ざった光塵が、龍呪回路と反応しているようだ。それは龍呪回路自体に含まれる光塵が少なくなっているということを意味していた。

 龍呪回路はその名の通り、龍が持つ光塵を操るための回路を、人体で再現したものだ。その再現のために、水分を持たず、光塵を体内に蓄えられないために龍と化すことが出来ない自然。つまり、鉱物に無理矢理光塵を流し込み、一時的に龍を作り出す。

 その龍を人体の内部に入れることによって、その人体こそを龍の体、光塵を巡らせる場所として龍に誤認させ、擬似的に人を龍へと覚醒させる。

 光塵は水分があれば、その動植物の中に溶け込んで入り込むことができるのだが、水分のない鉱物が相手では、光塵はその体内に溶け込むことが出来ず、塵のまま、風に吹かれて動植物のいる場所まで移動する性質を持っていることが、最近の研究によって判明した。

 だが、その擬似的な龍を体内に入れるということは、自分の体の中に一つの擬似的な生命を飼っているのと同じことだ。当然、光塵という餌が無くなれば、人体の中にいる龍は飢えて暴れる。元々、体内に銅線を入れるという無茶を可能にしているのは光塵だ。銅線自体に光塵を多量に含ませることによって、光と同じ性質を持たせ、体の拒絶反応を無理矢理に誤魔化しているのだ。

 それだけに、その光塵が無くなった際、暴れ出す龍によって生まれる痛みは壮絶なものとなる。それが、グレゴリーが作り出した龍呪回路の欠陥だった。ちょうど、使い続けた電子回路が焼き付いてしまうのと同じように、龍呪回路もまたそうした欠点を持っていたのだ。

 龍との戦い、そして日々の生活で砂に混ざって舞う光塵に反応し、知らぬ間に龍呪回路の寿命が近づいていたのだろう。

 焼け付いた回路は、交換するしかない。そのためには龍呪回路の元となる銅線を外科手術で取り除き、新しい銅線を入れる必要があった。そして、それが出来るのはラナだけだ。龍呪回路の交換を繰り返さねば、リーヴは塵狩りとしての力を振るうことが出来ない。

 それは、塵狩りとして生活するリーヴにとっては、あまりにも大きな問題だった。

 急ぎ足で、リーヴは裏通りを出る。龍呪回路の交換をするために、ラナの研究室に向かうべきだ。いや、その前に自分の家に向かい、アルマの様子を見に行くべきだろうとリーヴは思い直す。

 かつて、自分が守れなかったノーラの姿を見てしまったからか、急にリーヴはアルマのことが心配になってしまっていた。かつてのように、守ると決めた誰かを、失いたくないとリーヴは思っていた。

 リーヴは腕に感じる違和感と痛みに顔を歪めながらも、家の前に辿り着く。

「リーヴ……さん!」

「よう」

 脂汗が、リーヴの額を流れる。その汗に対する不快感と、アルマが無事だったことに対する安堵感を同時に抱きながら、リーヴはアルマに挨拶をする。アルマはリーヴの帰りを待っていたのか、家の前にある段差に腰掛けていたようだった。

 不意に、リーヴの体を支えていた力が抜ける。予想外の出来事や、過去を思い出したことによって、リーヴの体と精神はいつの間にか限界を迎えていたようである。膝から力が抜け、倒れそうになっているリーヴ。その姿に泡を食ったかのように慌てて立ち上がり、青ざめた顔のままアルマがこちらに近づいてくる。

 その姿を、リーヴは苦笑しながら見つめた。そして、アルマはそんなリーヴに少し怒っているかのように荒っぽく、その肩を背負おうとする。

「おいおい」

 アルマは、リーヴの血の気が引いた手の冷たさに一瞬驚いた様子だったが、すぐに気を取り直して、リーヴの腕を自分の肩に回す。

「心配はいらないって……自分で歩ける」

 そう言って、アルマの肩から手を離そうとするリーヴ。

 そんなリーヴにアルマは、きっ、と涙が浮かんだ目でこちらを睨みつけてきた。

「そんな顔色で、一体なにを言っているんですか!」

 あくまで強がろうとするリーヴに、アルマはその性格からは想像もつかないような激しい口調でそう叫んだ。

「本当に心配をかけたくないと思っているなら……そんな顔色をしないでください!」

 涙を浮かべたままリーヴを睨んで、アルマはその小さな体でリーヴの体を二階の部屋の中へと運ぼうとした。しかし、身長差がありすぎた。

 結局、リーヴはアルマに支えられながらも、ほとんど自分の足で歩き、家の中に入る。

 家の中ではアルマの様子を窓から見守っていたのか、窓に近づいていたシーが、すっとこちらに視線を送ってくるのが見えた。シーはリーヴの様子を見ると少し顔をしかめた後、はぁと溜め息をついて、どこかに飛んで行ってしまった。

 堕天獣である自分がいては、人間であるリーヴに悪影響が出ると思ったのだろうか。そんなことはない、と言ってやりたかったが、そうもいかないようだった。

「はやく!」

 シーが飛んでいく方向に目を奪われていたリーヴは、知らず知らずのうちに足を止めていたらしい。歩みが止まっていたことをアルマにせっつかれ、リーヴはふらつく足を操ることに集中しなければならなかった。そうしなければ、アルマの足を踏んづけてしまいそうだったからだ。

「ああ、悪い悪い」

 アルマの促す声におざなりに謝って、リーヴは歩き出す。

 アルマが開けた扉を通って、ベットに横たわるリーヴ。

「ん?」

 リーヴはその時、改めて気付く。元々、昨日このベットで寝ていたのは誰であったのか。日だまりのような心地よい匂いに体を浮かそうとすると、アルマが慌ててリーヴの体を押さえ込んだ。

「無茶しちゃダメ! です……」

 そう言った後、今更のように自分がリーヴの上にのしかかるような姿勢をしていることに恥じらいを感じたのか、赤面してリーヴから離れるアルマ。

 その姿に、リーヴはかつてのノーラを重ねてしまった。

「あ、あの、今、お水を持ってきますから」

 リーヴが汗をかいていることに体をふれあわせたことによって気付いたのか、アルマはあわあわと慌てながら部屋の外に出ようとする。

 そんなアルマを、リーヴは腕を掴んで引き留めた。

「あっ……」

 リーヴは小さく吐息を漏らすアルマの顔を、じっと見つめる。

「……………………悪い」

 リーヴはアルマが自分の見える場所からいなくなってしまうことが、どうしようもなく不安に感じてしまったのだ。それが過去の記憶に因縁があるということは深く考えなくてもわかった。

 そんなリーヴをアルマは不思議に思ったのか、長い間、じっと見つめていた。ばつの悪い思いが、リーヴにその視線から目をそらさないことを強要していた。

 そんなアルマとすれ違うように、シーがリーヴの前へと入ってくる。

「おかあ、さん?」

 不思議そうに尋ねるアルマの声に頷きだけを返して、シーはリーヴの元に何かを差し出す。もともと小さな顔で見えにくいのに、それでもわかる仏頂面を浮かべながら、シーは体全体であるものを運んでいた。

「ほれ、水じゃ」

 その言葉とともに、差し出されるガラスのコップ。そのコップの中には、透明な水が入っていた。

「……いい、のか?」

 自分のことを嫌っていたはずのシーからの施しに、リーヴは目を疑う。

「ふん……仮にも娘が命を助けられた恩人じゃ。その恩人が倒れた時に、なにもしないでおるのは……龍としての沽券に関わる」

 ぶっきらぼうにそう言って、リーヴがガラスのコップを受け取ると同時に、シーはひゅんと部屋の外に飛んでいく。

「これで、貸し借りは無しじゃ!」

 出て行く間際、そう叫んで、シーはそれ以降何も言わずに飛んでいった。

「おかあさんったら……」

 シーの照れ隠しにくすくすと笑いながら、リーヴの傍にアルマは椅子を持ち出して座る。そんなアルマを尻目に、リーヴはガラスのコップに入った水に口を付けた。冷たく、透き通った水。恐らく、リーヴの家の前にある小さな井戸から汲まれたものだろう。

 わざわざ汲みに行ってくれたのかと感謝しながら、リーヴはその水を飲み干した。喉を通る冷たい水が、リーヴの痛みに火照った体を落ち着かせる。

「なにか…………あったんですか?」

 そんな風に考え事をしながら飲んでいたからか、黄昏れていたリーヴを心配して、アルマが声をかけてくる。

「わたしじゃ、力になれないかもしれないですけど……少しは……話して、欲しいです」

 むんと胸を張るアルマに、リーヴは苦笑を深める。

「……誰かに、話すようなことじゃあないさ」

 リーヴにとって今日の出来事は、今までの人生を振り返らなければならない大きな出来事であった。元上司でもあり、宿敵ともいえるグレゴリーとの出会いに始まり、自分の家族とも呼べるアルフレッド、ノーラとの再会。

「自分で……背負わなきゃいけないことだ」

 そして、苦い過去の記憶。それは良くも悪くも、自分だけで抱えるべきものであって、誰かに背負ってもらえるようなものではない。

 そう、リーヴは思っていた。

「わたしには……話してくれないんですか?」

 しょんぼりと肩を落とすアルマに、リーヴは首を振る。

「自分以外には……それこそ神様くらいにしか知られたくない話なんだよ」

 神が死んだ後の世界だからこそ言える冗談を口にしながら、リーヴはアルマの頭を撫でた。残念そうな顔をしながらも、リーヴの手をアルマは受け入れた。リーヴの手が離れると、少し、名残惜しそうにアルマは自分の手を頭に置く。

「少し、寝る。なにかあったら、すぐに俺を呼んでくれ」

 リーヴはその言葉とともに、目を閉じた。すぐに睡魔が襲ってくるのを感じながら、リーヴは手の平が暖かな感触に包まれるのを感じた。薄く目を開くと、まるで子供を心配する母親のような顔で、アルマはリーヴの手を握っていた。

 リーヴの視線に気付いたのか、こちらを見ながら、にっこりと笑みを浮かべるアルマを前にして、リーヴもまた笑みを浮かべ、再び目を閉じた。

 アルマに手を握られてから、腕の痛みが少し軽くなったのをリーヴは感じる。その時のリーヴは、気付かなかった。眠るリーヴを見つめるアルマの笑みが、少し悲しそうなものに変わっていたことに。

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