カントリー・アンド・ホワイトボード
秋の空は青くどこまでも澄み渡っていて、鳥の羽根のような雲が至る所に浮き上がっていた。
風に吹かれれば消えてしまいそうに薄く儚げなあの雲は――なんだろう? それはまるで純白のヴェールのように空へとかかり、淡い色彩を交えていた。
――どうしたの?
袖を引かれる感覚に誘われて傍らに視線を移すと、マナが不思議そうにこちらを見つめていた。優しげな瞳をして、桜色に頬を染めて。上目づかいにじっと見つめるマナの仕草に、僕は自然と頬が赤くなっていくのを感じた。
「ああ、ごめん。雲がね、少し珍しいなって思ったんだ」
鳥の羽根のように薄く緩やかに広がる雲の模様。あれはなんていう名前なのだろう。
僕の話を聞いてマナは空を見上げる。一生懸命に上を向いて、僕を見つめたようにじっと。肩まで揃えた栗色の髪が風に吹かれてゆらゆらと揺れ、それから彼女は僕の方に視線を戻し、照れ隠しをするようににこりと笑った。
わからないや、ごめんね。彼女の表情は僕にそう伝えていた。
「ううん、大丈夫だよ。ただ気になっただけなんだ」
ただ、気になっただけ。僕があの雲に抱く理由はそんな小さなちっぽけなものでしかない。知らないのならそのままに、数分後には忘れてしまっている。そういう類のものだ。
儚げで朧げで、すこし可哀想だなんて思ってしまった、ただそれだけの。
マナはそんな僕の様子を見てまた不思議そうに首を傾げる。どうしたのだろう、なにかあったのかな。そんなふうに僕を見つめる彼女の姿に、僕は思わずくすくすと笑ってしまった。
だってこんなの、可愛らしくて。自然と笑ってしまうにきまってる。
くすくす くすくす。音を立てないように肩を揺らす僕を見てマナは頬を赤くし、拗ねた子供のように唇を尖らせ俯いてしまった。
けれど本当に怒っているわけじゃないんだ、マナは。僕が悪意をもって笑うことはないってわかっているから。だからこれはマナの芝居で、僕はそのように応じればいい。
ごめんね、もう笑わないから。悪気があったわけじゃないんだ。僕はそう言って頭を下げる。そうすると――ほら。マナはまた顔を上げてくれて、にこりと笑ってくれるんだ。
嬉しげに楽しげに、それから僕の腕をとって――ぎゅっ。マナの柔らかな感触が僕の腕に伝わる。
頬を寄せて、顔をうずめて。ふわりと舞った髪からほのかな芳香が立ち上り、鼻をくすぐっていく。
甘くて、優しい匂い。
僕は辺りを見渡し、人通りがないことを確認してほっと息をはく。もう慣れたものだけれど、幼馴染みとはいえ人前で見られるのはさすがに恥ずかしい。
っというより、もしかして高校三年にもなって幼馴染みどうしでこうやって腕を組んだりするのは、僕ら以外にいないんじゃないだろうか。なにかしらの距離感ができてお互いに離れていくのが普通のようなそんなふうな……思い起こしてみると、僕らにはそのようなことがまったくなかったような気がする。
お互いに交友関係も少なかったし、特定の異性を好きになることもなかったし、それどころか数年前まで一緒にお風呂に入ってたし……。まあ、だからこそ僕らはこうして上手くやってこられたのかもしれない。
腕を伸ばし頭を撫でてやると、マナは嬉しそうに頭を揺らした。さら、さらり。栗色のマナの髪は指の間をするりと抜けていく。滑らかで優しい、髪の感触。
なでなで なでなで。
しばらくするとマナはゆっくりと顔を上げ、道の先へと身を翻した。そうして顔だけを僕の方に向け、
――ね? 行こっ。
と微笑み、彼女は一歩を踏み出して僕の腕を引いた。
「うん」僕は頷き、それから一緒に歩き出す。
春になると新入生を迎えるように咲き誇る桜並木は、けれど秋になった今葉を落とし、寂しくなった枝だけを空に突き出していた。地面に重なり合う枯れ葉は時折秋風に巻かれてひらひらと舞い上がり、視界の端へと消えていく。
田園に茂る稲穂はざわざわと穂先を揺らし、収穫の時をひそやかに待ち続けていた。あと数日、そうすれば、辺り一面は刈り取った稲の跡で満たされることになるのだろう。
どこまでも続く、なれの果ての――。
マナはくるりと振り向いて僕を見つめた。何かを聞きたいのだろうか、困ったように眉を曇らせる。
「進路のこと?」
こくりと、彼女は頷いた。
「そのことなんだけど、まだ決まってないんだ。一応進学はするつもりだけどさ。それから……どうしたらいいんだろうって。時々思う」
スクールバッグを開けて中から一枚の紙を僕は取り出す。なにも書かれていない真っ白な――ともすれば上部に薄く進路表と書かれたひとひらの。
それを見て僕はうっすらと息をはく。
将来の夢ってなんだろう。なにかになりたいとか、なにかをしたいとか。そういうのってどこから湧いてくるものなのかな。クラスの人たちは簡単そうに書いていたけれど、この気持ちにどう整理をつけているものなのかな。
進学した方がいいのはわかっているけれど、それでなにを勉強すればいいのだろう。興味を持てないものを四年間学ぶなんて、そんなのできないと思う。
僕には夢なんてないし、なにかをしたい、一番になりたいなんて気持ちもない。むしろ自分が一番になったら胸がどくどくと鳴って頭のヒューズが溶けてしまうと思う。普通が好きなんだ、僕は。
でも、誰かに認められたいっていうのも本当の気持ちなのだと思う。だから僕は進学をしようと思っているのだし、こうして将来のことに悩んでいるのだろう。
「マナも、悩んでいたりするの?」
彼女は口元に指を当て考えるような仕草をしたあと、しばらく経ってからまた――わからない、というふうに苦笑した。それから肩から下げたスクールバッグを開けて、ホワイトボードを取り出す。
マジックの蓋を開け、大きめのホワイトボードを一生懸命抱えてマナは文字を書いていく。さらさら、さらさら。少し待つと書き終わったのか、彼女は腕を動かすのをやめてホワイトボードを向けた。
――やりたいこととか、なりたいものはないけど、毎日のことを精一杯やろうって思っているよ。そうすれば、そのうちやりたいことが見つかっても、後悔しないでいられるかもしれないでしょ?
顔の横にボードを掲げ、マナはにこにこと微笑む。
文字を再度追っていると――ふにふに。マナが指で僕の頬をつついてきた。つめたくて、くすぐったくて。その感触に僕は思わず頬をそらす。
すると今度は反対の頬をつつかれてしまい、僕はその感触から逃れることができなかった。白くて小さな彼女の指を前に抵抗もできず、僕は大人しく頬を差し出す。
ひんやりとした指の感触と心地よさと……。こんなの――反則だ。
そのままじっとしていると、マナは満足したのかすっと指を離した。ホワイトボードを抱え、指で消していく。そうしてまたマジックを手に持ち、かきかき。終わるとくるりと回して、僕へと向ける。
――無理に見つけなくてもいいんだよ? それで目指そうとしたものなんて、きっと本当にやりたいことじゃないもの。果報は寝て待て、だよ?
その言葉に思わず僕は笑ってしまう。マナもこれは自覚していたのか口元を隠すように両手を当てて、くすくすと笑った。
難しく考えなくてもいいのかもしれない。本当にやりたいことが見つかるまで毎日のことを一つずつ頑張ってやり遂げる。やらなければならない時は必ず来るのだから、準備をしておく。
そうしていればいつか。
いつか――夢に届くのかもしれない。
漠然とした考えだけれど、そう思う。
マナの言葉には不思議とそう思わせてしまうなにかがあった。
「……そうかもしれないね。こういうのって見つけるものじゃないのかもしれない」
――もしかしたら進学先の授業に興味のあるものが見つかるかも。
「あはは。それだったら嬉しいんだけどね」
けれど、そう。それだっていくらでもやり直すことができるんだ。
「ありがとう。少しだけすっきりしたよ」
――ううん。私ももっと、考えてみるよ。
そうして彼女はボードを両腕いっぱいに抱え直す。ボードが大きいのかマナの体が小さいのか、妙に不格好な姿だ。幼稚園児が子犬を抱いているような、そんな印象。
マナが声を出せなくなったのは、いったい、いつからだろう。
物心ついてすぐの頃から、すでにマナは音で伝える手段を失っていたように思う。僕はマナの声を聞くことができないから彼女の浮かべる表情だけで意図をくみ取って、それでも、幼い僕らにとってそれは容易く、とても自然なものだった。
医者は心因性のものと言っていたけれど、決して治らないものではないということだし、僕らはこのまま毎日を過ごしていけばいいのだろう。
マナの方を向いて僕は口を開く。
「ボード、持とうか?」
僕がそう言うとマナは、んー? とわざとらしく首を傾げ、にこり。僕の手を両手でやんわりと包みこみ、それからぽんぽんと手の甲を叩く。
優しく優しく。手のひらの柔らかさと離した時の涼しげな感触と。
――大丈夫。彼女の仕草は僕にそう伝えていた。
「でも、そんなんじゃ……」
危ないよ、そう言おうとして、ちくり。マナは指の先で軽く僕の甲をつねった。それからゆっくりと指を離し、少しだけ赤くなった肌を優しくなでる。――ごめんね、大丈夫だった? そんなふうにとれる印象を表情の中に混ぜて、マナは僕の目を見つめ――
――や。
いやいやをするように、彼女は顔を横に振るった。
「……危ないよ?」
――いーの。
マナは桜色の頬を膨らませ、僕の手を握って半身を翻す。ふわりとまた栗色の髪が揺れ、甘い匂いが鼻をくすぐった。
ほのかに甘く、優しく優しく――
ああ……ほんとうに。
どうして僕はこうも自分の意思っていうものが弱いのだろうな。
抗うこともできず、僕は半ば顔を隠すように俯き大人しく手を引かれて歩き出す。
女の子の匂いにぼんやりとしてしまうなんて……こんなの、男らしさのかけらもないじゃないか。
マナでさえこんな調子なのだから、僕が他の女の子と話している時なんてとても見れたものじゃないのだろう、きっと。
桜並木を終えて、僕らは小さな古びた橋を渡っていく。小川に架けられたその橋はもう何十年もの間時を止めてしまったかのように佇み、哀愁を伴いながら黒ずんだ体を緩やかに張っていた。
遠く彼方から射す陽の光には微かに朱が混じっていた。夕方が近いのかもしれない。少しだけ暗くなりゆく空の色はどことなく悲しげに見えて――だから、僕自身もそう思っていることがわかった。
悲しいと、思っているんだ、僕は。
この空に橋に。光に色に。
こういった気持ちはたぶん、持ち続けたほうがいいのかもしれない。いつまでも子供のままではいられないし、一時的な自己満足でしかないけれど。それでも、こんなふうに心を痛め素直に思える気持ちって大切なことなんだと思う。
いつか忘れてしまう時が、くるのかな?
大人になるって、どういうことなのかな?
こういうのもたぶん、答えなんてないのかもしれない。自然にそうなっていくものなんだろう。僕らが生きる日常は楽しいことだってあるし、とうぜん悲しいことだってある。それを一つ一つ受け取っていくうちに変わっていってしまうのが自然なのかもしれない。
変わっていないと思っていても、やっぱりどこか変わってしまっている。そういう自然的流動の中に。
僕らは――きっと。
前を歩くマナの手は小さくて柔らかくて、寒々しい秋の風が吹くけれど、僕らを繋ぐ手の平だけはとても温かかった。
僕は彼女の背中に目を向ける。小さくて可愛らしい、マナの姿。背が伸びると見込んで買ったのか、少しだけ体に見合わない制服は彼女をすっぽりと覆ってしまっている。
郡上愛菜。
僕の幼馴染み。
思えばどうして彼女と仲良くなったのか、僕はあまり覚えていない。どうしてだっけ? マナと過ごしてきた思い出はたくさんあるのに。……しばしの間頭を悩ませ考えてみるけれど、さっぱり。彼女と出会った日のことを思い出せなかった。
まあ、昔のことなのだから忘れても仕方ないのかもしれない。
一番古い記憶の中に出てくるのは、マナと一緒に近所の駄菓子屋さんに行ったこと。あの時の僕らは中にラムネの入っているアメ玉にご執心で、よく買いに行っていたっけ。舐め続けるとシュワシュワと泡の出てくる丸いアメ玉。一つで十円という値段だったから幼い僕らでも両手いっぱいに買えて、僕らは錆びれたコカコーラのベンチに座り今みたいな午後の遅い時間を過ごしていたんだ。
頬をリスみたいに膨らませて白のワンピースを風に揺らして。少しだけ暑い夏の午後に僕らの影はローラーで転がしたように伸びていって。そうしてお婆さんが店内から出てきて、もうお帰りって僕ら二人が仲良く帰るのを見送ってくれたんだ。
あの頃はわけもなく楽しくて楽しくて。息が切れるまで走って追いかけっこを続けたりしていたのだなんて思い出してみると、なんだか笑ってしまう。
そういえば一緒に山に入って迷子になったこともあったっけ。探検隊だなんて言い出したのは、いったいどっちだったのだろう。裏庭から山に入って雑木林を抜けたところに防空壕の跡を見つけて。二人でクマの洞穴だなんて言い出してやみくもに逃げる内に帰り道がわからなくなってしまったんだ。二人して泣き出して頬を濡らしてしまって。あの時は偶然小学校のグラウンドに出れたからよかったけれど、今考えてみれば遭難してたってことなんだよね。
俯きながら思い出にふけっていると、視界の先にマナの背中が見えた。危うくぶつかりそうになり、僕は慌てて立ち止まる。
「どうしたの?」
僕の問いかけに――すっ――マナは指をさして答える。彼女のさした指の先には十数台の自動販売機がずらりと並んでいた。すっかり町の住人の憩いの場所と化してしまっているそこは、数年前にある物好きな老人の手によって立てられたものだった。
なんでも、たくさん並べた方が見栄えがいいからとかなんとか。
……まあ、僕の祖父なのだけれど。
あのおじいさんはどうしてこういう変なことを思いつくのか。……けれど、そう。人を喜ばせたいビックリさせたい、そういう気持ちからあの人はこういうことをするんだろうな。根が子供で素直な人なんだ、彼は。
マナはボードを手に取りマジックで書いていくと、くるりと向ける。
――喉渇いちゃった。寄っていこう?
「うん」と僕は答える。
マナは自販機の一つに駆け寄っていくと、どれにしようかと考えているのかきょろきょろと眺め始めた。しばしの間迷い、そうして決まるとにこり。彼女はスクールバッグから財布を取り出そうとする。
けれどボードを持っているからか、彼女は取り出すのに少し苦労しているようだった。バッグに手をかけては、わきに挟んだボードがずれてきてしまうのを繰り返している。
「やっぱり……持とうか?」
僕がそう言うと彼女は一連の動作をぴたりとやめ、ボードとバッグとを交互に見ると、――お願い、と言うように申し訳なさげにボードを渡した。
「いいよ」
彼女からボードを任される。こんなちょっとしたことで嬉しくなってしまうのだから、なんて安上がりなんだろうと笑ってしまう。僕にもし犬の尻尾がついていたら、今頃忙しなく揺らして落ち着かないんだろうな。
ようやくマナは財布を取り出し、自販機に硬貨を入れてボタンを押した。ガタン、と大きな音を立てて落ちてきた小さなペットボトルを彼女は大事そうに両手で掴む。
大事そうに大事そうに。手に抱えるボトルのラベルには――ああ、ミルクティーか。乳白色のそれをマナは回して開けようとするけれど、キャップが固いのか顔を赤くして腕を震わせている。
「……貸して」
僕はそう言って、マナからまた手渡してもらう。力を入れると……くるり。キャップは思いのほか簡単に回った。苦労していたからどんなに固いものなのだろうと想像していたのだけれど、これは……マナ、力がなさすぎるよ。
僕の思考を知ってか知らずか、マナは恥ずかしげに苦笑して頬を赤くし、それから――ありがとう、とでも言いたげに軽く頭を揺らした。
どういたしまして、僕はそう言ってマナにミルクティーを返す。
大事そうにぎゅっと握って、マナはミルクティーをこくりこくり。飲み込むたびに、可愛らしく小さな喉が揺れていく。嬉しげに、にこりと微笑んで。こんなふうに一つのことに感情を表せる子って、他にいないんじゃないだろうか。
思わずぼんやりと見つめていると、なにを思ったのかマナはこちらをじぃっと見つめ、ミルクティーをさしだしてきた。
――飲む? 彼女の瞳は僕にそう伝えているようだった。どうやらマナには僕の視線が物欲しそうに見えたらしい。
断る理由もないので素直にそれを手に取ろうとして、僕は気づく。
……これって間接キスってやつじゃないのだろうか?
マナの方にもう一度視線を移すと、彼女は無垢な表情をしてにこにこ。飲みたそうだったから渡しただけ、マナはそれ以上のことは思ってなさそうだった。僕が考えすぎってことなのだろうか。
僕は自分の手にあるミルクティーに視線を戻す。
まあ……いいか。幼馴染みだし、ただの友達だし。いちいち気にするものか。気にしてやるものか。……心理学的に言う合理化ってやつだけど。
迷いを断ち切るように勢いよくひと口飲む。温かくて甘ったるい味が口内を満たし紅茶の葉の風味が鼻に抜けていく。舌に絡むミルクの感触が残るけれど次を促してくれるような、なんだか不思議な味。
――おいしい?
気付くとマナの顔が傍にあった。至近距離十五センチの位置。驚き、あやうく吹き出しそうになってしまう。それから妙に恥ずかしくなって俯き、小さく口を開いて「……おいしい」と言うと彼女は僕の頭にぽんと手を置いた。
――いーこいーこ。
なでなで、なでなで。マナの小さな手のひらが僕の頭に優しく触れる。火照った手のひらはいつもより温かくて柔らかくてくすぐったくて。髪の間を指がさらさらと通るたびに、ひんやりとした秋の風が抜けていく。ミルクティーの甘い匂いがした。
つま先立ちで精一杯に腕を伸ばすマナは可愛らしく、運動会の玉投げを想像して思わず笑ってしまいそうになる。頬が熱くなっていくのを感じ――ああ、ほら。馬鹿なことを考えるからだ――僕はしばらくの間顔を上げることができなかった。
顔を上げる頃には夕日が空を淡い橙の色に染め上げ、地平線には真っ白な三日月が顔を出していた。吹きゆく風には冷たい夜の空気が混ざり、木々にざわざわと音を立てていく。空を見上げると数羽の鳥が雑木林の方へと飛んでいくのが見えた。くの字に隊列を作り時折大きく翼を揺らして。……彼らも、寝床に帰るつもりなのだろう。
「……行こうか」
僕はそう言ってマナの手を取り歩き出す。引かれるように彼女も歩き始め、それからぴたりと横に並んだ。
ホワイトボードをマナに返してやると彼女は嬉しそうにそれを両手で抱きしめた。先程と同じく子犬を抱くように優しく優しく。彼女にはボードが生き物のように見えているのかもしれない。……僕が言いたいのはつまり、それほど愛着があるってことなんだろう、きっと。
けれどこれほどまでに大事にしてくれるとは思わなかったな。クリスマスでも誕生日でもない、ただなんとなくプレゼントしたものだったのだけれど。
「……ありがとうね」
僕がそう言うと彼女は、んー?とまた不思議そうな顔をして上目使いに僕を見上げた。それから聞き間違えたのかなと首を傾げ、またこちらに目を向ける。
「……なんでもないよ」
僕がそう言って笑うと、彼女もまたくすり。それから僕らはゆっくりと前へ向きなおす。
どことなく哀しげな雰囲気に、僕らの歩みは自然と早くなっていった。定まらない胸の痛みから逃れるように背を向けて。堪えようのない衝動に少しだけ息が荒くなる。呼気がもやとなって白く立ち上り、風に呑まれ消えていく。
寒さに体が震えるのを我慢しながらお互いに手を繋いで歩き続け、ようやく僕らは分かれ道までたどり着いた。
僕は右に、マナは左に。そうしてまた明日待ち合わせて――僕らは学校へと通っていく。
明日も、その先も、ずっと。
「それじゃあ、またね」
手を離し、僕はマナに腕を振る。彼女は道の先に一歩を踏み出すとくるりとこちらに身を翻し、にこりと笑って両手で手を振った。彼女の髪と制服が儚げに揺れ、次第に止んでいく。
――ばいばい。
手を振り終えるとマナはゆっくりと体の向きを戻し、道の先へと歩いていった。名残惜しげに、ゆっくりとゆっくりと。そうして角を曲がると、彼女の姿はもう見えなくなった。それを見届けてから、僕もまた歩き出す。彼女とは反対の道へと向かって、ゆっくりと。
家の傍まできて空を見上げると、夕闇は夜空へと変わり地平線に薄くあった三日月は淡く黄に輝いていた。緩やかな弧を描いて、周りを囲うように星が瞬いている。
明日になれば、またマナには会える。なにも気に病む必要はない。日は巡り、朝日は昇る。待ち合わせ場所に行けば――ほら、マナがいて、笑顔で僕を迎えてくれて、そうして僕らは一緒に手を繋いで、学校に行って。
そんな日々がずっとずっと続いていけばいいのに。
けれども、やっぱり、そういうことなのだろう。
僕らが過ごす日々というのはまるで夢のようなもので。
いずれ覚めるとわかっているのに、
忘れてしまうはずなのに、
僕らは――それでも求めてしまうんだ。
温もりを。たしかな感触を。
変わらないものなんて、ありはしないのに。
続いていくなんて保証は、どこにもないのに。
――ねえ、マナ?
僕が進路に迷っているのはね、夢に拘っているだけじゃないんだ。
キミと過ごしていける日々がこれから先もくるのかなって、
それもまた、心配しているんだよ。
いずれ訪れる別れに僕らはあまりにも無防備だから、
その日のためにどうするか、
決めておかなくちゃ、いけないから――。
あとがき
LUNOです。「カントリー・アンド・ホワイトボード」ここまで読んでくれてありがとうございました。
季節はめぐり春を迎え、人はまた新しい生活へと慣れていくのでしょう。それは概して悲しみを伴うものですが、それでも変わらずにはいられないものなのだと思います。だからこそ人は今その時を悔いのないように生きて、そしてあの頃の記憶に胸を馳せるのです。温かでくすぐったくて。ほろ苦くとも後々によかったと思えるような、そんな思い出に。
変わらずにはいられないと知った時、それは自分がいる確かな世界の崩壊のようにも思えます。自分が過ごしてきた日常が明日もその先も同じように続いていく保証はどこにもなく、いつか必ず終わりがきてしまうものなのだと。そう思ってしまった時、どうにも自分の周りの人や物が、薄く儚げなモノのように感じてしまうこともあります。
終わりを悔やむくらいなら始めなければよかったのにと、そう思うこともあるのかもしれません。ですが、始めないということはすでに死んでいる事と同じ事なのだと思います。やがては等しく来るものだというのに、どうして自ら早めてしまうことがありましょうか。逃避とはつまり、生きるという事ではないのです。
秋、というのは私の好きな季節というわけではありません。どちらかというのなら、春の方が好きではあります。
温かな陽光に照らされながら歩き、眩しさに目を細めて上を向くと、ひらひらと舞い落ちる桜色。淡い薄紅の小さなひとひらが咲き乱れる様は自然と心までをも温かくしてくれます。
気付けばもう三月の始まり。早く近辺で桜が咲かないものかと、日々待ち望んでおります。
長々と書き連ねてしまいましたが、これで失礼します。