妖怪たちの学び舎
もはや桜並木の道に、走る事で生んだ風で桜吹雪を作ってしまった童子さんの力強い走り。
それに、童子さんの肩に座った体勢で、多少なりとも霊力を使った神通力で障壁を張ったけど、耐え切れずに腹筋が筋肉痛になってしまった私……そして「なぜ、さっきみたいに抱えてくれんのだ……」と、不貞腐れながら、何とも無かったかの様に、童子さんの左脇に抱えられている妖狐さん。
たかだか、転入初日の登校で、色々な事があったけど……。
無事に、私は転入先である国立妖怪学園の校門を通ることが出来ました。
本当に、本当に……腹筋が痛いです。
「う~……お腹が~……」
「何をやっているか童子! 早く、私を降ろさぬか!!」
「すまない……やり過ぎた」
童子さんの脇に抱えられていた妖狐さんが、ジタバタと暴れ始める……あぁ、そんな動いちゃうと、後ろからパンツが見えちゃうよ。
私の目の前には、今、国立妖怪学園の風景が広がっている……。
四階建ての白い校舎が、その何の飾り気も無い外見を、私に見せてくれれば、校門から校舎まで続く道には、ここまでの道同様、桜並木が広がっている。
そして、さらに言えば、私たちみたいに結構危なく遅刻になりそうであった生徒たちが、童子さんからゆっくりと降ろしてもらった私の後ろや、妖狐さんの後ろから、ぞくぞくと校舎の方へと走り去っていく……なかには、人間である私に、先ほどの二人みたいに気づいた生徒もいたようで、何度かこちらを見てくる人たちもいた。
実際、生徒が妖怪などといった、人とは違った存在でなければ、普通の高校の様に見えるなと、私は思った……まあ、みんな、ある程度は変化の術を使ってるから、本当に普通の高校にしか見えないんだけどね。
「たっく。まあよい、行くぞ童子! 間に合ったは良いものの、教室に遅れては、世話無いからな」
「分かった……あぁ、えっと……」
妖狐さんに促された、童子さんが、上から困ったように、私を見下ろしてきた……。
本当に、威圧感が半端無いです。
ですが、多分、別に私に対して威圧感を放っているのではなく、自然と私が感じ取ってしまっているだけなのだと思います……それに、童子さんが困ったような表情をしているのは、違った意味だと思いますし。
「どうしたんですか、童子さん?」
「いや、君の名前が分からないから……」
「あ、そっか! すみません、私、こんなに助けて頂いたのに……」
「いや、別に構わないんだ。困ったときは、お互い様だから……」
「いえいえ! 童子さんと妖狐さんが現れなかったら、私、結界にも気づかなかっただろうし。それに、学園まで運んできてもらちゃったし。お礼を言うのは、こちらの方ですよ!」
本当に、外見に似合わず腰の低い人だ……こんな視界にも入りそうに無い私に、ペコペコと高い位置から頭を下げ続けているし。日本人らしいといえば、らしいのかな?
そして、そういう私も、童子さんに違わず腰の低い人間なのだ……証拠に、さっきから童子さんに負けじと、頭を下げ続けている。
こういうのを、社会じゃ“おじぎ合戦”というのだろう。
多分、日本人は、こんなんだから、何世紀も前から海外の映画とかで、似たような演出をされてしまうのだと思う。
私と童子さんが、延々と続けられそうな“おじぎ合戦”を繰り広げていると……。
「おい童子! 馬鹿をやってないで、急ぐぞっ!!」
いつの間にか、学園校舎の玄関口付近まで歩いていた妖狐さんが、私と童子さんが着いて来ていないのに気がついて、眼にも止まらぬ速さで、童子さんのところまで駆け寄ると、その童子さんの太い右腕を取った。
それと同時に、“キッ!”と私のほうに、鋭い睨みを向ける……。
底冷えしそうな程に、鋭く冷たい睨み……だけど、それでいて見惚れてしまいそうなほどに、白くて綺麗な顔つき。
ここまで美人だと、どんなことをやっても、絵になってしまうのだなと、私はこのとき、見惚れてしまった妖狐さんの睨みを向けられながら感じていた。
「おぬしも早く、職員室に向かったらどうだ? それに、童子はこう見えても“鬼”の一族の者なのだぞ? あまり近づき過ぎるな」
「え……?」
「何を呆けた顔をしておる。童子に喰われたくなかったら、早く職員室に行く事だな」
「おい妖狐。俺は人も妖怪も喰わんぞ?」
「うるさい! 大体、おぬしもおぬしだ!! 人間の女なんぞに、へらへらしおって!!」
あれ……もしかして妖狐さん、童子さんと私の“おじぎ合戦”に「嫉妬などしておらん!」――――うわ! 心を読まれた!?
「ふん! おぬしも神通力に多少の心得はある様だがの、私にかかれば、その程度の人間の技術、本の頁を捲るよりも容易いことだ!」
「は、はぁ……」
なんだか、結構自信のあったうちの一つが、馬鹿にされたみたいで悔しい……だけど、確かに常日頃から、お父さんに『お前の神通力は、ただ力を垂れ流しているだけに過ぎん』とか言われてたから、あながち間違っても無いのかも。
「それよりもほれ! 急ぐぞ童子! 急がねば、SHRに遅れる!」
もう私の事など眼に入らないかの様に、妖狐さんは童子さんの太い腕を両手で綱引きの様に引っ張り続ける。しかし、童子さんの体は、地に根が張っているかのように、びくともしない……なんともシュールな絵だ。
「くそ! なぜ動かん! ほれ行くぞ、童子!」
「待て妖狐。たぶん、この娘は、職員室の場所も知らないと思うんだ」
「もしや、そこも案内する気なのか?」
「ああ」
「却下だ! そんなもん、通りかかった先公にでもやらせれば良いのだ!!」
「だが、しかし……」
「おぬしの言い分など、聞いても碌な事にならん! だから早く行くのだ!」
二人のやり取りに、他の周りにいた生徒達も、何事かと視線を集めてきた。
流石に、なんだか居た堪れなくなってきたので、私は「あ、あの~……大丈夫ですよ? 職員室ぐらいなら、なんとか辿り着いてみせますし」と、二人の間におずおずと割って入った。
私の言葉に振り向いた二人が、同時に高い視線の位置から私を見下ろす……。
正直、とっても威圧感が凄かった……とくに、妖狐さんの“もっと早く言え”というオーラが混じった眼が特に。
「ほれ、こやつも、こう言っておるのだ。私らも、早く教室へ向かうぞ」
「本当に、大丈夫なのか?」
「は、はい。これぐらい出来ないと、これからが心配ですから」
「そうか……なら、“気を付けてな”?」
「え、あ、はい。どうも、ありがとう御座いました」
そう言って、童子さんは、妖狐さんの引かれる手に従って、校舎の玄関まで連れ去られて行ってしまった……あの肉体を引っ張れるなんて、妖狐さんも、やっぱり妖怪なんだなぁ。
二人を見送り、校舎前で一人残されてしまった私は、そんな事を考えながらも、とりあえず、一人で職員室を探そうと、歩を進めるのでした。
◇
特に代わり映えのない玄関に下駄箱……特に代わり映えのしない校舎一階の廊下。
床はワックスがかけられているのか、廊下の明かりを反射させるぐらいに、ぴけぴかに磨かれ、その明かりである蛍光灯も、全て新品の様に白光を放っている。生徒達の教室は全て、二階以降にあるので、一階には教員の雑用を任されている数人の生徒達しかいない……しかし、それでいて、上の階から聞こえてくる生徒達の笑い声や話し声は、鏡花が過ごしていた人間の学校と大差ないくらいに騒がしい。まあ、たまに『これは人なのだろうか?』と思うような奇声も聞こえてくるには聞こえてくるのだが。
そんな中を、鏡花は、下駄箱に常備されている外来者用の借り物スリッパを履きながら、キョロキョロと視線を彷徨わせながら歩いていた。
(本当に、妖怪の方たちが生徒っていう以外は、普通の学校なんだなぁ……まあ、これならすぐに職員室も見つけられそうだし、楽で良いんだけどね)
鏡花は、一階のやたら長い廊下を、スリッパと地面を擦らせる音を鳴らしながら、歩いていく。
パタパタではなく、ス……スっと、静かに響く、その足音は、鏡花の歩き方が、摺り足である事を教えている。
(えっと、職員室、職員室……あ、これは保健室か)
普通、職員室って、校舎の中心辺りにあるもんじゃないの?
そんな疑問を抱きながら、鏡花が職員室を探していると……。
「うん……こりゃぁ、人間の匂いか?」
「え?」
鏡花の後ろから、掠れた様な男の声が聞こえてきた……それに驚き、鏡花が振り向くと。
「おぉ、やっぱり人間か。通りで美味そうな匂いが漂ってる訳だ」
「……な、何か用ですか?」
そこには、黒の長髪を肩まで伸ばした、細長い男子生徒が立っていた……ネクタイの色を見るからに、青だったので一年生の様だ。しかし、彼の常にニヤけている表情や、ふらふらとした佇まいが、女性である鏡花の警戒心を煽る。
「いやなに。見たところ二年みたいだけどよぉ……確か、今の学園に人間ってのは一年と三年合わせて“二人”しかいない筈なんだぁ」
「は、はぁ……」
「それなのに、二年の人間が、スリッパ履きながら、こんなところをウロチョロしてやがる……おまけに、美味そうな匂いと、魅力的な霊力を垂れ流しながらなぁ」
言いながら、細長い男子生徒は、少し怯え始めた鏡花へと歩み寄ってきた。
その虚ろな瞳と、ニヤけた表情が、とても不気味だ……。
歩み寄ってきた男子生徒は、鏡花の前へと立つと、その長いストレートロングの黒髪の一房を、長く骨々とした右手の指で、愛でる様に掴み始めた。
「ふん……髪の毛に艶もあって、健康そのものじゃねぇか」
「な、何を……?」
あまりの気味悪さに、鏡花は身動ぎしながらも、男の手から髪の毛を放す。
そして、当然の様に距離を取った。
「眼も丸く見開かれていて、唇も、細い首も、柔らかそうな体も……本当に美味そうだな、お前?」
「さっきから、何を言ってるんですか!?」
鏡花の声音が、思わず強くなる……。
当たり前だ、初対面の男に、美味そうだやら何やら言われたら、流石に体を守るようにして、後ずさりせざる負えない。
そんな鏡花の反応を楽しむかのように、細い男子生徒は、その口端をいやらしく吊り上げる。
「この妖怪学園ってな? 基本的に自己責任で、色々まかり通ってるわけよ……」
「……」
警戒心を緩めない鏡花が、男をその綺麗に見開かれた目で睨みつける……だが、全く持って威圧感が無い。むしろ、小動物の威嚇を見ている様な感覚に陥ってくる。
「まあ俺も、まだ入学したばかりだけどよぉ。話に聞く限りじゃ、年々、この学園じゃ妖怪同士の喧嘩やらなんやらで、死者が出てるらしいじゃねぇか……」
「……そ、そうなんですか?」
男の話に、冷や汗を垂らしながら、聞き返してしまった鏡花……。
「あぁ……それに、これは三年に一度とかのペースらしいが、修行目的で入学した人間が、他の妖怪に喰われるって事件も起きてるらしいんだ。危ないよなぁ? なぁ?」
(ま、まじですか……)
「そんな危ねぇところに……アンタみたいな、美味そうな匂いや霊力を垂れ流した人間が、何の用心もなしにうろついてやがる」
こ、これはもしや、私、目をつけられた?
背筋に、嫌な寒気がしたのを鏡花が感じ取った……。
どう見ても、どう解釈しても、目の前の一年の男子生徒は、私を狙っている……。
お父さんから危ない危ないとは聞かされてたけど、いきなりですか!?
そう警戒心を高めながら、鏡花が、自分の身を守るために、身に纏う霊力を高め、神通力で、体の表面に障壁を構築しようとした、その瞬間……。
「……そんなんだから、いきなりこんな目に合うんだ!」
「えっ!?」
目の前の一年の男子生徒が、視界から突然姿を消した……そう気づいた瞬間には、鏡花の後ろから、突風に似た、鋭い風が吹きすさんだ。
鏡花は、その突風に吹かれる髪の毛を必死に押さえながら、後ろへと振り返った。
そこには……。
「ちっ! なに邪魔してんだ、こら!!」
「邪魔するもなにも、女子の後ろから、いきなり仕掛けてくる様な奴に、返す言葉なんてねえよ」
今しがた、自身の前から姿を消した男子生徒が、鏡花を守るかのように目の前に立ち塞がっていた。
その体の表面からは、何か鋭利な刃物で切りつけられたかのように、赤い切り傷を作っている。
「だ、大丈夫ですか!?」
男子生徒の怪我に鏡花は狼狽するも、修行中の身ではあるが己も陰陽師の端くれと、鞄から数枚の札を取り出し、助けてくれた男の前に出ようとするが……それは、目の前に立つ男子生徒が腕で制した。
「これぐらいは大丈夫だ! とにかく、今は後ろに隠れてろ!」
「で、ですが!」
「いいから隠れてろ! 切り刻まれたいのか!?」
「っ!?」
鏡花を守る男子生徒が声を張り上げるのと同時に、再び、突風ににた鋭い風が、廊下に吹きすさんだ。
「ちっ!?」
その鋭い風を、体の正面で腕をクロスさせながら受けた男子生徒は、制服を切り刻まれ、その奥にある肉体にも、鋭い裂傷を付けられていた。
後ろにいた、鏡花の顔に、男子生徒から飛び出た赤い血が、風に乗って付着した。
それを指でなぞって、驚きに顔を染める。
「こ、これって……っ!?」
「アンタは、そのまま後ろに向かって逃げろ! 正直邪魔だ!」
男子生徒が、正面を見据えたまま叫ぶ。
赤い血を見て、狼狽を隠せない鏡花であったが、この血が何が原因で出たのかを確かめようと、男子生徒の向こう側を覗いた……そこには、両腕の前腕に、半円を描いたような鋭利な刃物を“生やした”、外見自体は人間だが、とても人とは思えない姿をした、妖怪の姿があった。
あの前腕の外側に生えた刃物……もしかして、あの人は“かまいたち”!?
「どけよ、そこの男!!」
「早く!」
鏡花が、そうこうしていると、“かまいたち”の男子生徒が、その両腕に生えた半円の刃物を構えながら、こちらに突貫しようと、後ろ足で廊下の地面を蹴りだした……瞬間、猛烈な突風が起こる廊下。この突風に、廊下のガラスというガラスは割れ、鏡花の長い黒髪は、押さえなければ痛いぐらいに揺らされていた。
あまりの風の強さに、鏡花が目を瞑ってしまう。
しかし、そんな鏡花を置いて、二人の妖怪の闘いは始まった。
いつの間にか、鏡花を守っていた男の目の前に現れた“かまいたち”は、その右腕に生えている刃物で、男を切る付けようと、上から振り降ろすように、その右腕を、男に向かって振り抜いた。
男から見て、左斜め上から、斜めに振り下ろされる刃物……それを男は、後ろにいる鏡花の事を庇う様に、右の前腕と左の前腕をクロスすることで受け止めた。
クロスする前腕と前腕の間に挟まれ、捉えられてしまった“かまいたち”の右の刃……しかし、そのせいで、刃を止めた男の前腕からは、骨が削られる痛みと赤い鮮血が飛び散った。
「つっ!?」
「てめぇには、用はねぇんだよ!!」
刃を止めるために両腕を使ってしまった男の腹に、“かまいたち”の膝を抱え込むようにしてから放った右の前蹴りが突き刺さる……その前蹴りの爪先からは、上履きを貫いて、鋭く尖った“かまいたち”の爪が生えていた。
ザクリと……深く男の右脇腹に突き刺さる“かまいたち”の右の爪先。
「ふぐっ!?」
前蹴りの威力に、肺から空気を吐き出され、鋭い爪先に刺された痛みで、右の脇腹に熱い感覚を感じた男は、思わず“かまいたち”の刃を放してしまう。
「死ね!!」
開放された右腕ではなく“かまいたち”は、今度は反対の左腕を、前蹴りを引いくと同時に生まれた腰の回転を利用しながら、ひるんだ男の首を切り落とそうと、真っ直ぐに突き出した。
前腕の外側に生えていることで、普通に拳で相手を殴る様に前へと突き出せば、まるでギロチンの様に真っ直ぐに飛んでくる“かまいたち”の刃は、寸分違わず、ひるんだ男の右の首筋へと迫っていく。
その時、異変が起こった……。
ガキンッ!!――――金属と金属が衝突したかのような、鋭い衝突音が、廊下に響き渡った。
「ちっ!?」
「な、何してやがる!?」
「私だって、戦えます!」
“かまいたち”の刃は、男の首には届かず、間に割って入った鏡花が両手で前に出して構えている“術札”によって、阻まれていた。打撃戦の間合いというのは、ひと一人、入れるかどうかという狭い場合もあるので、本当にギリギリのタイミングであった。
鏡花の神通力によって強化された“術札”は、“かまいたち”の左の刃を、触れるか触れないかの距離で“押し留め”、相手の攻撃を防いでいた。
“術札”……これは、陰陽師などが好んで使う、言わば商売道具の様な物で。材質は問わず、ただ術者が特殊な文字を書くことで、その効果を発揮する。といっても、主な効果は、術者が“こうなって欲しい”と念じたものを具現化する能力で、例えば、今の様に“相手の刃を防ぐ物になって欲しい”と念じれば、紙の周囲に術者の神通力を使用した鋼鉄の障壁を作り出し、一つの防御として使用出来るようになるといった、大変便利な代物なのだ。しかし、防御になるといっても、相手の攻撃の威力に、持っている術札を放さないぐらいの実力がないと意味も無いのだが……その辺は、陰陽師は自身の体を神通力で強化する事によって補っているのだ。
「陰陽師が! その程度で!!」
「っ!?」
左の刃を、鏡花の術札で止められていた“かまいたちは”。
その刃を引くと同時に、今度は再び、それによって生まれた体の動きを柔軟に使って、右足による、“爪先を立てた”上段廻し蹴りを、鏡花の側頭部……とりわけ、左米神に向けて蹴り放った。
三日月蹴りと呼ばれる、この爪先による廻し蹴りは、両手で“かまいたち”の攻撃を防いでいた鏡花の左肩を悠々と越えて、まるで鎌の様に弧を描いた軌道で迫る。
しかし、またしても“かまいたち”の攻撃は、鏡花が体に張っていた神通力の障壁によって、左米神に刺さるか刺さらないかの位置で防がれてしまう。
苦虫を噛み潰した様な顔をしながら、蹴り出した右足を引き、一旦距離を取る“かまいたち”……。
「てめぇ……ただものじゃねえな?」
術札すら使用しないで、障壁だけで相手の攻撃を防いだ鏡花に、“かまいたち”は警戒の眼差しを向ける……鏡花も、“かまいたち”から視線を外さぬよう、相手の“首下”を見続けてはいたのだが。
(お父さんの嘘つき! 何が接近戦に持ち込まれた時は、相手の“首下”を見ろよ!? 全く相手の胸の動きも腰の動きも腕の動きも……何にも見えないじゃない!!)
“かまいたち”の動きの早さに、目が追いつかなかったせいで、とても対峙者としての威圧感は感じられなかった……これがもし、ただの稽古だったのなら、鏡花は情けなく大泣きしていたところであろう。
実際、格闘技などでは、相手の全体を見れるように、人によって、どこに視点を置くかなどがあるのだが、どうやら鏡花には、“首下”の視点は合わなかった様だ。
「っ! おい、アンタ大丈夫か!?」
すると、鏡花の後ろから、あまりのダメージに膝をついてしまった男の驚きの声が聞こえてきた。
え、なに?――――その声に反応した鏡花が、後ろへと意識を向けようとすると。
「うん? へへ……なるほどな、別に、完璧に防いだって訳じゃねえようだな」
鏡花の左の米神辺りから、一筋の赤い血が、ツーッと垂れてきた……。
その光景に、対峙している“かまいたち”は、自身の有利は、まだこちらにある事を確信する。
「代われ! アンタじゃ、もう無理だ!」
「何でですか!? 私より、アナタの方が……」
「左の米神を触ってみろ! 攻撃が通ってるじゃねえか!」
「え、あ! ほ、本当だ!? ど、どどどどうしよう!?」
男の言うとおり、鏡花は米神の血を確認した瞬間、あたふたと動揺をし始める。
「だから代われって言ってんだ! 大体アンタ、相手の動きが全く見えてなかったろ!?」
「うっ!? それは言わないでよ! バレてなかったかもしれないのに!!」
「あんだけ、相手の動きに何一つ動かなけりゃ、誰だって気づくぞ!?」
確かに、鏡花は相手の攻撃に、ある意味で、何一つ微動だにしなかった……最初の男を庇ったときの動きですら、ほぼ偶然に近い、直感による飛び出しで成功させたものだった。
しかし、だからといって、こんな重症の人間を、また自分のために戦わせる訳にはいかない。
「でも、アナタだって、全然相手になってなかったんですから、大人しく、後ろにいてください!」
「言うに事欠いて、何言ってんだ、お前!!」
「おい……てめぇら、俺のこと忘れてないか?」
距離を取り、構えを取り直した“かまいたち”を置いて、言い合いを始めた二人に。“かまいたち”は、微妙に困った様な顔をしながら、自己の存在を主張する。
すると、ここで……この一階での騒ぎを聞きつけた、他の生徒たちや、職員室から出てきた教員たちが、ゾロゾロと集まってきた。
「ち……ギャラリーが増えちまったな」
「そこの三人! 職員室の前で、なに喧嘩をしているのだ!?」
人が集まってきた事に、舌打をした“かまいたち”の後ろから、一人の教員が駆け寄ってきた。
「直ちに喧嘩をやめろ! そろそろ授業が始まるんだぞ!」
教員の声に、鏡花が気づいた。
やった、やっと助けの人が来てくれた!
そう思い、鏡花が助けてくれと、声を張り上げようとすると。
「先生違います! 俺と、そこの男で“序列戦”をしていたのに、急に、そこの女が割って入ってきたんです!」
鏡花が声を張り上げる前に、“かまいたち”が割って入ってきた。
その“かまいたち”の説明に、駆けつけてきた教員は「何?」と、明らかに怒ったような表情をし始めた。
何のことやら、さっぱり分からない鏡花であったが、とにかく助けを求めようと、再び声を張り上げようとするが……。
「そこの女子生徒!! 生徒同士の“序列戦”に助太刀、または妨害をすることは、硬く禁じられていると、生徒手帳に書いてある筈だぞ!?」
「へ? え? 何で、私が怒られてるの?」
いきなりの叱責に、鏡花は訳が分からないといった、困った顔をするが……。
「野郎……パチ扱きやがったな」
状況を理解していた、鏡花の後ろに膝をついていた男が、苛ついた感情を露にしながら、奥歯を噛み締めた。
「どういう事なんですか?」
「たぶん、転入したてのアンタには分からないと思うが。うちの学校には、“序列戦”ってのがあってな……」
言いながら、男は少し辛そうな表情で立ち上がった。
「こいつは、生徒間での強さの位を決める戦いなんだ……」
「強さの位?」
「あぁ……うちの学校は、表向きは妖怪が社会進出するのを目標としてるが。“裏側”は……」
「おい! そこの女生徒は早くどきなさい! いい加減に言うことを聞かないようなら、罰則を与えるぞ!?」
男が話を続けようとすると、教員が、その男の言葉を遮る……。
「ちっ……話す暇も与えてくれねぇのか……すまないな、全部話せなくて」
「いえ……でも、それより、アナタはもう、戦えるような体じゃっ!」
「妖怪を舐めるなって……これぐらい、放っておけば治る」
明らかに虚勢だと分かる態度……しかし男は、そのまま辛そうにしながらも、前にいた鏡花を片手でどかし、“かまいたち”と再び対峙した。
鏡花は、その男の真剣な表情と瞳に、言葉を失ってしまう……。
(なんなの、この学校は……最初に襲ってきたのは、あっちなのに、どうして、こっちが悪いみたいになってるのよ)
いくら経緯を知らないとはいえ、悪いほうの相手の言葉を鵜呑みにする教員……それに対して、意味の分からない理由で、反論もせずに受け入れる、目の前の男子生徒。
例え、人間と妖怪の価値観が違うといえど、この状況に、鏡花は理不尽を覚えずに入られなかった。
「さっきは女の邪魔で仕留めそこなったが、もう、その心配もない。大人しく、首を切られろよ」
「そりゃ、こっちも同じだ……これで、女の心配なんて、せずに済むからな」
「へっ、言ってろよ。どっちにしろ、てめぇみたいな雑魚には、用は無いからな」
そんな鏡花など関係ないかのように、二人は再び対峙する……。
距離は、最初と同じで、接近戦を仕掛けられるような間合いではない……しかし、男の刺し傷から、既にボロボロの制服を染め上げる程の赤い血が滲み出ている。
傍目から見たって、男に勝ち目は無い。
だが、そんな時であった……。
男と“かまいたち”の間の“天井”から、蜘蛛の巣状の裂け目が入ったのは……。
◇
本当に、それは突然でした……。
私たちを襲った“かまいたち”の生徒と、助けてくれた男子生徒の間を別つ様に、一階廊下の天井が、まるで陥没するかのように落下してきたのは。
「な、何だ!?」
「天井が崩れたぞ!?」
「おい! 巻き込まれた生徒はいないか!? すぐに周りで確認し合いなさい!」
視界を遮るほどの埃と、廊下の地面にもの凄い衝突音を轟かせながら、周囲に破片を飛び散らせる、一階の天井だったコンクリートの塊たち……その光景は、まさに混乱の極みを生み出し、周りに集まってきていた人たちが右往左往し始めていた。
だけど、そんな中で、私の目の前にいた、助けてくれた男子生徒は、崩れ落ちてきた瓦礫の上を、ワナワナと震えながら見つめていた。
次第に、最初に割れた窓ガラスのお陰で、視界を遮っていた埃が晴れていく……。
男子生徒が見つめていた場所を、私も埃が入らないように細めていた目を向ける。
そこには……。
「童子さん!? それに妖狐さんまで!?」
先ほど、私と別れて教室へと向かっていた筈の二人が。瓦礫の上に、まるで下々の者達を見下ろす王者の様に、悠々と佇んでいた。
◇
立ち上る埃が薄れていくのと同時に、鏡花の声が、瓦礫の上に立つ二人に届いた。
「ふむ。まあ、無事だったようだな……流石に、転校初日の転入生に死なれては。最後に見送った立場として、目覚めが悪くなるからのぅ」
「あぁ、良かった」
その声を聞いて、二人は互いに安心する……。
「しっかし、まあ……いずれは襲われるとは思ってはいたが、職員室に向かうだけで襲われているとはのぅ。流石に予想外だったわ」
妖怪にとって、人間……ましてや霊力の強い者を食すことは、己の力を底上げする効果を持ち、非常に美味しい獲物として見られることが多い。故に妖狐は、最初に見たときから『あぁ、こいつはトラブルの元になりそうだ』と予想を付けていたのだが、流石にトラブルに巻き込まれるのが速すぎると、ある意味で驚嘆を覚えていた。
「済まないが、妖狐。虎熊を見ていてくれないか? アイツは怪我をしている、匂いで分かる」
「そんなもん、おぬしが“三階から床をぶち抜く”前から知っておるわ。舐めるでない」
「そうか、頼んだぞ」
「任せておけ」
仕方ない奴め……胸中で、そう呟きながら、妖狐は晴れかけている埃煙を突き抜けて、鏡花と、童子に虎熊と呼ばれた男がいる場所へと、瓦礫の小山から飛び降りていった。
童子は、それも見送らずに、“かまいたち”のいる方へと、視線を向け続けていた。
「すまぬ、来るのが遅れた」
埃煙を突き抜けて、瓦礫の前にいた鏡花と虎熊のもとへと下りてきた妖狐は、開口一番、あまり心の篭っていない謝辞を入れた。
「よ、妖狐さん……あっ」
妖狐の姿を見て、これまで“かまいたち”の危機に晒されていた鏡花が、ペタンと腰を廊下の地面に落してしまう。おそらく、先ほどまで感じていた理不尽から開放され、安心したのか、腰が抜けてしまった様であった。
「妖狐様……」
虎熊も、妖狐の姿を確認した瞬間、気の抜けた声を、思わず出してしまう。
そんな二人の姿を見て、妖狐は呆れたように前髪を掻き揚げながら……。
「はぁ~日ノ本最強の鬼とも謳われる、天下の大妖怪、酒天童子の配下である四天王の一人が。たかだか“かまいたち”程度に、この様とは、童子も苦労が絶えぬの……同情すら覚えるわ」
「申し訳御座いません……」
深いため息混じりに、ボロボロの虎熊を罵る妖狐……。
妖狐の言葉に、虎熊は奥歯を噛み締め、拳を思わず固めてしまうほどの悔しみを露にする。
その様子に、腰を抜かしながら安心しきっていた鏡花が、吐き出してしまった様に反論する。
「そ、そんな!? この人は、私を助けるために!」
「おぬしにとっては、そうかもしれぬがの……コヤツは、毎度毎度、こうやって調子に乗っては、大怪我をして童子に尻拭いをさせてしまっているのだ。大方、今回も相手の力量も測らずに、格好を付けて、西洋の騎士でも気取りたかったのであろう。もし相手の力量が測れていたのなら、最初から、娘を連れ去って逃げていれば済んだのだからな」
「で、でも!」
「はい、仰る通りです。申し訳御座いません……」
鏡花が反論を続けようとするも、それを虎熊が震える声で遮る……。
それを、虎熊よりも背の高い妖狐が、見下すように見つめながら、軽く聞き流した……どうやら、虎熊とは、もう話す口は持っていない様であった。
「ところで、さっきは聞き忘れていたのだが、おぬしの名は何と言うのだ?」
虎熊から、視線を地面に腰を抜かしている鏡花に向けると、妖狐は、特に興味も無いといった様子の軽い口調で、名を尋ねた。
突然話題を変えられた鏡花は、一瞬納得が行かないといった表情をするも、取りあえずは名乗っとかないと、今後の会話が続かなそうだったので、名乗る事にした。
「えっと、安部鏡花です……鏡花って呼んでいただいて結構です」
「安部? おぬしは陰陽師であったな? さっき感じた霊力や霊気、神通力からして、私は、そう予想していたのだが……」
これまで鏡花に、特に特別な興味は示していなかった妖狐であったが。鏡花の名字を聞いた瞬間、表情が一変し、真剣なものへと変わった。
「はい、一応陰陽師としての修行として、この妖怪学園に一年遅れで転入させられたんですけど……それが、どうかしましたか?」
「なるほどのぅ……」
鏡花のキョトンとした顔のまま発せられた答えに、妖狐は興味深そうに頷き、目の前で悔しそうに表情を俯かせていた虎熊に視線を戻した。
「虎熊よ、面を上げよ」
「……はい」
「良くやった、私直々に褒めてやる。確り喜びを噛み締めるが良い」
「……は?」
突然の対応の変化に、言われた通り面を上げた虎熊も、鏡花同様、キョトンとした顔をする。
「ふふふ……いつまで経っても、私らの学年に修行に来る人間の陰陽師が来ないと思ったら。なるほど、これは思わぬサプライズだわ。これから楽しくなるぞ……ふふふ♪」
いきなり含み笑いを漏らしながら、意味深な言葉を口にする妖狐に、二人は顔を見合わせながら、首を傾げる……。
そんな二人を無視しながら、妖狐は、「さて、朝の余興も、これで終わる。後はゆっくり、童子の部下の尻拭いを見学するとしようではないか、なあ? 二人とも」と言って、その場から振り返り、既に立ち込めていた埃が晴れた、瓦礫の方へと視線を向けた。
立ち込める埃が収まったころ、童子は、瓦礫の上から己が部下を傷つけた相手を見据えていた。
体は細く引き締まっていて、身長は大体170後半、両腕に生えている半円を描いた弧の字型の刃と、爪先から上履きを貫いて伸びている鋭い爪が武器……顎は細く、目も細い。
「なにジロジロ見てんだよ……人の“序列戦”を邪魔しやがって。ただで済むと思ってんのか!?」
おそらく、これでも変化の術は解いていないのであろうが……ほぼ解けかけている状態であり、これが全力に近い実力と見て間違いない。
「何か喋れよ! おい! 聞いてんのか! この木偶の坊!!」
感じ取れる妖力と妖気は、問題ではない……あえて問題を挙げるとすれば、重心が真っ直ぐに落ち着いているところだろうか?
おそらく、なんらかの格闘技に通じているのであろう。
「ちっ! いけすかねぇな……テメエ」
「おい、君……流石に“彼は止めておいた方が良い”」
「あん! 外野は黙ってろ! こっちは獲物も相手も逃がすわで、苛ついてんだよ!!」
先ほどまで“かまいたち”の“序列戦”を認めていた教員が、恐る恐る“かまいたち”に注意を呼びかけるも、頭に血が上った“かまいたち”には、聞き入れてもらえなかった……教員が去り際に放った“どうなっても知らないぞ”という小さな呟きも、“かまいたち”には届かなかった。
そんな中でも、童子は眠そうな眼のまま、“かまいたち”を静かに見下ろし続ける。
「おい! 降りて来いよ!! こなきゃ、こっちから行くぜ!!」
瓦礫の上で、静かに佇んでいた童子に、“かまいたち”が右腕を振りぬき、次いで左腕を振り抜いた。
どう考えても間合いの外からの“素振り”、だが、その“かまいたち”の素振りは、鋭い風の刃となって、童子の肉体へと迫り狂う。
眼に見えない風の刃が、突風に紛れて、童子の肉体へと迫り、その厚く鍛え上げられた胸板へと衝突した……刹那。
バシュウ――――鋭利な刃物で肉体を切り裂く音ではなく、空気を霧散させる気の抜けた音を発しながら、風の刃は、その刃を散らしていった。“かまいたち”の起こした風の刃は、童子の着ていた無地のTシャツを切り裂き、ザンバラに伸びていた白髪の前髪を揺らすだけに被害を留めてしまった。
「な、何……っ?」
この状況が信じられないのか、“かまいたち”は不思議そうに瓦礫の上に立っている童子を見つめる……。
確かに当たったはずだ……なのに、なんで、あの肉体に傷がついていない?
おかしい、さっきの奴は、全身を浅く切り刻まれるぐらいには傷を作っていた筈なのに。
起こっている事態を受け入れられぬかの様に、“かまいたち”は再度、両腕の刃を立てながら、童子に向けて素振りをする。同時に起こる、突風と風の刃。
しかし、それでも……。
バシュウ――――先ほどと同様、気の抜けた音を発しながら、童子の無地のTシャツを切り裂く程度にしか、効果を発揮しなかった。
「な、何でだよ!? くそっ!!」
再び、“かまいたち”は童子に向けて、両腕の刃を立てながら、何度も素振りを繰り返す。
もはや吹き止まぬ突風、もはや連続で飛んでくる風の刃……。
だが、それでも童子の肉体に、一つとして裂傷を与えることは出来なかった。
(い、意味わかんねぇ……どうして、アイツは何の障壁も張って無いのに、俺の“風斬り”を防げるんだ!?)
何度も何度も繰り返すうちに、次第に“かまいたち”の息は乱れ、ついには両腕の刃を振り回すのも止めてしまう……。
はぁ……はぁ……と、肩で息をする“かまいたち”。
既に、自身の刃の重みも億劫なのか、両腕を垂れ下げている。
「てめぇ……どんな小細工してやがんだ!」
声を張り上げるも、いまだ瓦礫の上から一歩も動いていない童子に反応はない。
ここまで相手に何も出来なかったのは、初めてだ……相手の損害といったら、来ていたTシャツが切り刻まれて、すでに無くなっている事ぐらいだ。
どうなっている……本当に、何がどうなっているんだ!?
“かまいたち”の脳裏に、延々と同じ言葉が流れ続ける……しかし、答えなど見つからない。
そこでふと、“かまいたち”は瓦礫の上で佇む、童子の肉体に眼が奪われた。
厚い鉄板を二枚並べた様な大胸筋に、小さな鉄球を積み重ねた様にハッキリと筋別れた腹筋郡……太く鍛え上げられた首に更なる補強を与えるために、もはや丸みを帯びる程に鍛え上げられた僧帽筋に、それに連なって太い腕を支えている、見事な三角を描いた三角筋……岩石の様に屈強な両腕もそうだが、それよりも、下から見てもハッキリと分かるほどに、胸周りと腹回りが反比例している逆三角形の上半身。
まさか、な……まさか、あの“肉体のみ”で防いだってことは、ねえよな。
童子の上半身を改めて確認した“かまいたち”の脳裏に、もしも真実だとしたら最悪な考えが浮かび始める。
(ありえねぇ……そんなの、絶対にありえねぇ!!)
胸中で必死に否定しながらも、他の要因が見つからぬ“かまいたち”。
障壁を張っているような妖気も妖力も感じられない……おまけに、いまだ身動ぎ一つしていない。
なら何だ、なぜ、目の前の瓦礫の小山で佇む、あの木偶の坊は、俺の風の刃を無傷で防げる!?
己が実力に、余程の自信を持っていたのであろう……“かまいたち”の男は、そんな疑心暗鬼を振り払うかのように、もはや考え無しの特攻を、童子に仕掛けた。
特攻のために、後ろ足であった左足を蹴り出すだけで、周囲に突風を巻き起こす“かまいたち”の踏み込みは、一瞬とも言える速度で、瓦礫の小山で佇んでいた童子の前へと辿り着いた。
もはや、既に振りかぶっていた左の刃を、相手の首へと突き出せる間合い……しかし、それは、相手も同じであった。
いつの間にか、これまで身動き一つ取っていなかった童子が、その大きく拳凧の目立つ岩石の様な右拳を、左肩を前に出しながら、肘を曲げた状態で、右の肩甲骨を使って振り絞っているではないか。
(こいつ、俺のスピードに反応してきやがったっ!!?)
驚きに“かまいたち”が眼を見開くも、もう振りかぶっていた左の刃は止まらない。
左の腕に生えた刃を立てながら、“かまいたち”が童子の右首筋目掛けて、振りかぶっていた体勢を開放した。
刃が、真っ直ぐに刃を立てながら、童子の首筋に迫っていく……しかし、あと首筋まで拳二つ分と迫った所で――――
ガシャァァァンッ!!!!
“かまいたち”の左の刃が、童子の眼にも止まらぬ速さで足先や膝、腰や胸まで連動させて振り抜かれた、右のショートフックで、まるで飴細工の様に砕かれてしまった……。
「は?」
そして、童子の右ショートフックの威力と勢いは、刃だけでは飽き足らず“かまいたち”の左前腕まで、“くの字”に折砕いていた……。
あまりの出来事に、折られた左腕を振り抜いた体勢のまま、思考を停止させる“かまいたち”の男……そこに、更なる暴力が襲い掛かる。
右のショートフックを振り抜いていた童子は、左に捻転していた体の捻りを最大限にまで活かして、足の爪先を、今度は反対の右方向へと回し、それに膝を連動させ、力の流れを作り出し、腿、股関節と力が流れたところで、腰を同じく右方向に切る事で、更なる力を流れに加えていき……腹、右の肩甲骨を右方向に切った瞬間に、返す刀の左フックを、飛び込んできた“かまいたち”の右の横っ面に叩き込んだ。
グシャッ!!!!――――と、相手の顎を己が拳が砕く、鈍く生々しい打撃音が、周囲に響き渡る。
童子の拳をもろに受けた“かまいたち”は、打ち抜かれた方向に頭や首を弾き飛ばし、そのままの勢いで、体丸ごと、横の壁に吹き飛ばされた。
壁へと蜘蛛の巣状のひび割れを作りながら叩きつけられた“かまいたち”は一瞬、そこで叩き潰された蚊の様に壁に張り付いていたが、そのままズルズルと、血のラインを引きながら、一階の廊下へとずり落ちていった。
瓦礫が散乱する、一階の廊下へと意識を沈めていった“かまいたち”の男の首は、痛々しい“突起”を作りながら折れ曲がり、顎を砕かれた口からは大量の血を吐き出させ、更には殴られた衝撃で少しだけ飛び出てしまった眼球が、彼の細かった瞼を大きく見開かせていた。
そんな自らが仕留めた相手を、一瞥する事も無く、童子はそのまま瓦礫の小山から降り、妖狐のもとへと向かった。
周囲の妖怪である筈の生徒や教員たちは、この、あまりに単純な暴力が生み出した光景に、ただただ、眼を見開き、驚愕するしかなかった……。
◇
圧倒的だった……。
この言葉しか、童子さんの“戦い”とも呼べなかった出来事に述べる感想は浮かばなかった。
あれ程、私と虎熊さんが手も足も出なかった相手を、たったの二撃……いや、やろうと思えば、多分一撃で倒せていたと思う。
というより、本当に童子さんが、二発だけしか攻撃をしなかったのかも、分からなかった。
どうして二発と判断したのかと聞かれれば、それは私には二回だけ、打撃音だと思われる音が聞こえてきたからだ……だけど実際に、その二発の音も、全く間髪が無かったので、自信は無いのだけど。
「妖狐。その娘と、虎熊の様子はどうだ?」
あまりの出来事に、事態が飲み込みきれていなかった私の目に、上半身裸の童子さんが、瓦礫の小山から降りてくる姿が映った。
「虎熊は少し危ないが、大した事は無い。鏡花は、可愛らしい顔の左米神にちょっとした傷がついているぐらいだ」
“かまいたち”の男を圧倒し、相変わらずの眠そうな眼をした童子さんを、妖狐さんは、何事も無かったかの様に迎えた。
童子さんは、そのまま私の前まで歩いてくると、腰を抜かした私の視線にあわせる様にして膝を地面に着いた。
「すまなかった……やはり、俺が職員室まで着いていけばよかった」
小さく頭を下げながら、私に本当に気にした様子で謝ってくる童子さん……。
そんな、別に童子さんは悪くないのに……。
「いえ、その……別に気になさらなくても良いですよ。実際、助けてもらったのは事実なんですし」
そう言いつつ、私は蜘蛛の巣状のひび割れを起こした壁の付近で転がっている、童子さんが倒した“かまいたち”の男の人へと視線を向けた。
左腕に生えていた刃は、前腕ごと破壊され、首はありえない方向に折れ曲がり、顎にいたっては力なくだれ下がっている……目も少しだけ眼球が外に飛び出た状態で、仰向けで天井を仰ぐようにして倒れている。あれって、生きてるのかな?
昔、修行中に現れた妖怪を、お父さんが倒した時は、もうちょっと綺麗に倒していた気がする。
そんな風に、私が“かまいたち”の男の人を見ていると。
「鏡花。そんなに妖怪が倒れた姿が珍しいか?」
「え?」
妖狐さんが、少し楽しそうな声音で、私に聞いてきた……あれ、なんだか機嫌が良くなってる?
「安心しろ、妖怪は、ああなっても、治癒してくれる者が優秀なら、死にはせん」
「それって、本当なんですか?」
正直信じられないといった表情で、私は見上げる妖狐さんに返す。
だって、あんなになっている状態で、生きているなんて……正直考えられないんだもん。
「本当だ、証拠に、ほれ……先公どもが、落ち着いているだろ? 本当に死人が出れば、どう世間に知られないように揉み消すか、てんやわんやしている筈だからのう」
「揉み消す……ですか」
「あぁ。実際、この学校では毎年死者が出ておる……原因は様々だが、取り分け、今回の様なトラブルや、“序列戦”での事故が多い」
また、“序列戦”……さっきも、虎熊さんと呼ばれている、私を助けてくれた人が言っていたワード。
本当に気になっていた私は、自然と口に出してしまっていた。
「あの、“序列戦”って、何なんですか? こんな事が起きても、他の人たちからの助けがないなんて……」
「異常か? それは、おぬしの価値観であろう? 私らにとっては、ごく当たり前の事だよ。生徒間同士で戦い、相手より自分が強いと証明した者が、序列を上げ、妖怪社会のピラミッドの一段上へと登る……それは、遥か昔から行われてきた、妖怪たちの風俗と言っても良い。いいか? “序列戦”とはな、これを学園のみで行う、妖怪社会の縮図の様な制度なのだ」
妖怪とは、人間と交流を始めた今でも、独自の文化を守り抜きながら生きている……昔、お父さんから聞かされた言葉を、私は今、ふと思い出した。
「まあ今回は、あぬしが狙われたのは“序列戦”とは関係の無いトラブルだったみたいだがのう。覚えておくといい……おぬしも学園に籍を置く限りは、この制度からは逃れられない。次も、私や童子、そこの虎熊の様な助けが入るとは思わぬ事だな。まあ、巻き込まれたくないのなら、強くなれというだけの話だが」
脅かすように、片眉を上げながら、私を見てくる妖狐さん……すると、今まで黙っていた童子さんが、スッと、膝を着けていた廊下の地面から立ち上がった。
「妖狐。俺は、先生方に天井を壊した事と、この騒ぎの事について謝ってくる。だから、二人を頼めないか?」
「おう、好きにしろ」
「分かった、なら、行って来る」
「あぁ、さっきは格好よかったぞ」
そう言って、立ち去ろうとする童子さんに、妖狐さんは思い出したかのように微笑みながら、賛辞の言葉を送った。それに童子さんは、軽く片手を挙げる事で答えて、先生たちのもとへと歩いていった。
この様子を見て、私は何だか妖狐さんの機嫌の良さが、少しだけ理解できた気がした……多分、仲のいい人の、自分の好きな姿を見れて上機嫌になっているのだと思う。
「さて……頼まれたからには、私も何かせんとな」
童子さんを見送った妖狐さんが、私へと歩み寄って来る……。
「ほれ、顔を上げてみぃ」
「え、あ、はい」
私の顎を、妖狐さんは、その白く細い指で“くいっ”と、軽く持ち上げると、なにやらマジマジと私の顔を観察し始めた……。
わわ! 顔が、顔が近いよ!
「ふむ……やはり、怪我は米神のところだけかのぅ。これなら、薬でも塗っておけば治るな」
「薬、ですか?」
妖狐さんの顔が近い事に、必死になって動揺を隠していた私だけど、たぶん、両頬が熱い事から、相当顔が真っ赤になっていたと思う。
「妖怪には、色々な薬草を調合して、薬として売るのを商売にしている種族もいてな。それから譲り受けたものなら……」
言いながら、妖狐さんはスカートのポケットをガサゴソと弄る……「お、あったあった♪」
スカートのポケットから取り出されたのは、ラベルに“塗り薬っす”と書かれた、絵の具の様な形をしたチューブ式の塗り薬だった……今時チューブなんて、珍しいなぁ。
「“人間には試したことは無いが”、まあ大丈夫だろうからな。我慢しろよ?」
「え?」
今、確実に、妖狐さんは不穏な事を言った……。
人間に試したことが無い?
そういえば、妖怪と人間の体って、頑丈さに比べ物にならない程の差があって、肌も例外ではないって、TVで聞いたことがある……そんな妖怪が使う塗り薬を、人間である私に使う?
これって、もしかして、少し危険なんじゃないかな?
「こうやって、指に塗り薬をちょっとだけ出して……」
私が頭の中でTVで言っていた事を思い出していると、すでに妖狐さんは、その右の細指に、キャップを外したチューブの中身を、ご飯粒程度の小ささで出していた。
そして、全く躊躇することなく、私の左の米神辺りに出来ていた傷に、薬を塗りつけようとする……けど、させない!
「むっ?」
妖狐さんの、薬の付いた右人差し指が、私の米神に迫った瞬間。
私は、眼を瞑るほど力みながら、首を横に振って、薬が付くのを避けた……その様子に、少しだけ目が細まる妖狐さん。
だけど妖狐さんは、細まった視線を私に向けたまま、再び、右の人差し指に付いた薬を、私の米神に塗ろうと手を伸ばす……けど、やらせない!!
「むむっ?」
嫌々と唇が震えるほど噛み締めながら、私はまた、妖狐さんの薬を避けた。
妖狐さんは片眉を吊り上げた……。
そして再度、私の米神に薬を塗りつけようと、右人差し指を近づける……後生だから!!――――ガシっ!――――ああ!?
「うー! うー!」
「ええい! 逃げるな、この小娘!!」
妖狐さんは持っていたチューブを、その辺に捨てると。
何度も薬から逃げようとする、私の顎を、反対の左手で鷲づかみにする……そして、そのまま、私は抵抗虚しく、妖怪御用達の塗り薬を、左の米神にぬりぬりされてしまった。
あれ……なんだかスーってする。
「ふふ、気持ち良いのか? 抵抗する力が無くなってきておるぞ?」
「ふぁ~……」
鷲づかみにされてしまっているせいで、ひょっとこみたいに開きっぱなしの私の口から無意識に、しまりの無い、だらしないため息が漏れ出てしまう……。
だって、しょうがないじゃん……こう、一気に傷口から熱が抜けていく感覚が、スーってしてて気持ち良いんだもん。
「抵抗しなければ、可愛いものじゃないか……食べてしまいたいぐらいだぞ?」
「ほへぇ~」
傷口を触れるか触れないかの絶妙な触れ方で、くりくりと円を描くように、優しく塗ってくれる妖狐さんの神がかった手つき……これに、このスーって感覚が合わさったとき、だらしない顔をしない人間なんて、いないと思うんだ。
そうこうしていると、妖狐さんは、私に薬を塗り終わったみたいで……。
「あっ……」
「何だ? 名残惜しい顔なんてしおって。そんなに気持ち良かったのか?」
終わった途端に、余韻に浸ることなく離される妖狐さんの指に、私は思わず声を漏らしてしまった。
それに“仕方の無いやつめ”といった表情で、私を見下ろしてくる妖狐さん……。
私は、もじもじと恥ずかしがりながらも「は、はい……気持ち良かったです」と素直に答えた。
「そうか。薬を塗ってやっただけで、ここまで喜んでくれるなら、私も嬉しいよ」
優しげに微笑みながら、そう言って、私から離れていく妖狐さん……。
どうやら、私の治療は、もう終わりで、今度は重症の虎熊さんの治療に移る様だった。
「さて、問題はおぬしだが……どうするかの? 私は治療系の術は使えんのだ。放置で良いか?」
「「えぇっ!?」」
然もあらんと、軽い声音で発せられた妖狐さんの言葉に、私と虎熊さんは思わず驚きの声を挙げてしまう……だけど、そんな私と虎熊さんの反応を心外に感じたのか、妖狐さんが、その形の良い大きな胸を張りながら、両手を腰に当てるという堂々とした姿勢を取った。
「何を驚いておる? 私は妖怪だぞ? 人や治癒系の術が得意な種族ならまだしも、私は他人を治す様な便利な術など覚えてはおらん。覚えておるのは、敵を焼き尽くし、蹂躙する様な、ド派手な術だけだ。見くびるでない!」
「いや、見くびってはいないと思いますが……」
さっき、頼まれたからには何とかしないと、とか言ってたじゃん!?
私は、喉の途中まで上り詰めていた、この言葉を、何とか抑えながら、取りあえずは困ったような声を出すことで、その場をしのいだ。
さっきの塗り薬の件もあるし、妖狐さんに逆らうのは止めておいた方がいいと、無意識の内に理解していたのかもしれない……。
いや、そんな事は、どうでもよかったんだ。
それじゃあ、お腹とか刺されてしまった虎熊さんの怪我は、どうすれば良いの?
そんな事を考えていた私は、自分を助けてくれた虎熊さんの事を、いつの間にか心配そうな眼差しで見つめていた。
“かまいたち”の男の人に切られた制服や体には、無数の裂傷がみられ、右の脇腹には、あの鋭い爪先で刺された傷跡が、痛々しく、今も血を流し続けている……気丈に黙って妖狐さんの前で、気を付けの姿勢で立っているけど、多分、相当辛いのだと思う。
ジーっと、虎熊さんの横顔を、腰を抜かしたままの体勢で見つめていると、妖狐さんが、私の視線に気付いたみたいだ。
「おい鏡花? 何を虎熊の横顔を、マジマジと見ているのだ……ハッ! まさか、おぬし、たった一回助けてもらっただけで、心を許してしまったのではあるまいな!? やめておけ。こやつを思ったところで、苦労するのは目に見えておる……おぬしなら、もっと良い男を見つけられる筈だ」
私が虎熊さんを見ている事に気がつくと、妖狐さんは焦ったように、私の両肩を掴み、諭す声音で、真剣な眼差しを向けてきた。
わざわざ膝をついてまで、全力で私を諭そうとする妖狐さん……何も、本人がいる前で、そんな事を言わなくても良いのに。
「べ、別に、そんなんじゃないですよ? ただ、傷が酷いですし、早く治さないとって思っただけです」
「そうか……ふぅ~。若者は、すぐに気の迷いを起こして、どうでも良い男に惚れたりするからの。おぬしも気をつけるのだぞ?」
そう言って、妖狐さんは、額の汗を拭う仕草をとる……別に、汗一つ掻いても無いのに。
でも実際、惚れたりはしないにしても、恩は感じているのは確かだ。
何とか、この恩を返す事は出来ないかな~っと、考えていた私に「そういえば」という考えが浮かんだ。
「うん? なんだ、急に思い出したかのような声を出して?」
「え、あぁ、ちょっと、思い出した事がありまして」
どうやら急に浮かんできてしまった事で、声に出てしまっていた様で、妖狐さんが訝しげな表情で私を見る。
だけど、そんな視線を向けられても、今は良く思い出したと、自分を褒めてやりたい気分なのです。
「何を思い出したのだ? 昨日の晩飯か?」
「そんなどうでも良いことを思い出したぐらいで、嬉しそうに声に出すような人に見えます、私って?」
「いや、外見なら、なかなかに可愛らしくて魅力的だぞ、おぬしは? それに、霊力も神通力も高いし、何より“家柄”が……っと。とにかく、おぬしは愛でたいほどに可愛らしいぞ」
なんだろう……途中、聞き取りづらいところがあったけど。
まあ、今は良いや。
とにかく、妖狐さんの褒め言葉はこそばゆいけど、今は早く、思い出した事を実行しないと。
「えっと、なんだか、そんなに言われると嬉しいんで恐縮ですけど……そんな事より、思い出したんですよ!」
「何をだ?」
「私、治癒系の術が使えるんですよ!」
瞬間、この場の空気が凍りつく……。
うん、分かってますよ……こんな空気と視線を向けられれば、誰だって、相手が何を言いたいのか気付くってものですよね。
「そ、その……あまり、そんな目で見ないでください。私だって、忘れてた事に驚いてるんですから」
「いや、まさか、自分が使える術を忘れるような奴がいたとは……流石に、驚いてしまってのぅ」
気まずそうに、私から視線を逸らす妖狐さん……私は忘れない、さっき、場の空気が変わった瞬間、妖狐さんが、可哀想な者を見る目で、私を見ていたことを。そして、一瞬、虎熊さんが、吹き出しそうになっていた事も……いつか、見返してやるんだから。
「そ、そんな事より! 私、ちゃんと思い出しましたから、早く虎熊さんを治してしまいましょうよ!」
場の空気を変えるために、私は胸の前で“パン”と両手を叩くと、努めて明るい声音で、二人に言った。
「そ、そうだな。とりあえず、今は応急処置ぐらいの術で十分だから、頼めるかのう?」
「は、はい! 任せてください!!」
そう言って、私は元気よく立ち上がろうとするのだけれど……。
「あ、あれ……? た、立てない」
どうやら、まだ腰が抜けていたみたいです……うぅ、情け無いにも程があるよ。
「仕方ないのぅ……虎熊。治してもらえるのだから、おぬしから動かぬか」
「はい……」
妖狐さんの指示で、虎熊さんが、お尻すら床から上げられない、私の前に近づいてきてくれた。
「あのぅ……手が届かないので、もう少し屈んでくれませんか?」
だけど、目の前で立たれてると、私の手が、虎熊さんの傷口に届かなかったので、なるべく上目遣いでお願いする……この辺は、前に友達から教えてもらった“男に自分の言うことを聞かせる3っの方法”が活きたみたいで、虎熊さんは、素直に指示に従ってくれた。
上目遣い様々だ。
「とりあえず、上着を脱いでください」
「分かった」
服の上からだと、治癒術をかける相手の肉体が意識しづらいから、邪魔だったので脱いでもらう。
すると、そこから露となったのが、年頃の男の子の体……。
うわぁ、腹筋って、本来は、こんな風に割れてるんだ……胸も硬そう。
「何を頬を赤らめているのだ?」
「え、あ、はい!? すぐに治します、はい!」
いけないいけない……ついつい、初めて見る、年頃の男の子の上半身を凝視してしまった。
え、童子さんのはって?
あれは何だか、もはや一つの作品を見てるみたいだったから、恥ずかしいって感じは無かったかな。
「えっと……まずは、この一番酷いところからですね」
邪念を振り払うように、私は、これから行う治療術に集中する事にした。
改めて傷口を確認すると、結構深いところまで刺さっていた事が分かった……こんな怪我をしてても、辛そうだったけど立っていられるなんて、やっぱり人の姿に変わっていても、妖怪なんだなって、しみじみ思う。
指された箇所は右の脇腹……そこからは、いまだ血が流れ続けていて、綺麗に刺された傷跡が、生々しく赤い血液の通った肉を大気に晒していた。
正直、あまり直視はしたくないほど、気持ち悪い光景だけど、そうも言ってられない……これで、少しでも恩を返すんだから。
「目を瞑って、気を落ち着けてください……今から、始めますね」
「……分かった」
そう言って、虎熊さんは、静かに目を瞑った……。
私は、ゆっくりと一度、気を落ち着かせるために、意識を集中させると、虎熊さんの右脇腹の刺し傷に、両掌をかざす様に近づけた。
そして、私も虎熊さん同様、静かに眼を瞑る……。
(集中して……そう、相手の体温と鼓動を感じるように、霊力で相手を包み込む)
すると、私の体から、淡い青色をした、光の様な霊気が発せられ始める……これは、私が先天的に持っている霊力の色。神通力の様な、修行で得るような力ではなく、生まれたときから人自身が持つ、一種の命の色の様なものだ。
その種類はいっぱいあって、青は水、赤は火、緑は木、黄色は土、金は白といった、五行に沿って色分けされたものが主流なんだけど、実際には混在もあるから、本当に数え切れないほどあるらしい。その中でも、青の水は、人の大半を構成している水分を感じ取れる、または操れるために、治療術に最も適した色だと言われている。
私から発せられた、淡い青色の霊気が、目の前にいる虎熊さんの全身を。私がかざしていた両掌を通じて、まるで蚕の繭の様に包み込んだ後、次第に、全身のラインをかたどる様に凝縮されていく。
(体温は、やっぱり少し下がってるけど、問題は無いみたい……鼓動も焦るほどのものじゃない。凄い、これが妖怪の体なんだ……)
虎熊さんの体を包み込んだ霊気を通じて、私に、彼の血液の流れや様々な情報などが流れ込んでくる……これをやっている時は、対象者の体温を全身で感じるため、とても暖かい気持ちになるのだけど。今は、少し虎熊さんの体温が下がっているみたいで、通常よりも暖かくない気がする。だけど、それでも鼓動に異常はないのだからと、私は改めて、妖怪の生命力に驚いた。
(心臓から血液の流れを感じながら、傷がどれだけ深いのか、血管や内臓・筋肉の損傷具合を探る……やっぱり酷い)
胸中で、さっき思い出したばかりの治癒術の基本を復唱しながら、虎熊さんの傷を確認する……どうやら、右脇腹を深く刺されたことで、肝臓に穴が開いてしまっていた様だ。
そこからは大量の血が出ていたけれど、虎熊さんは、それを妖力を使って、塞き止めていたみたいだった……多分これは、以前お父さんが言っていた、妖怪の自己防衛本能が働いた結果だと、私は当たりを付けた。
(よし、刺し傷の具合は確認したから、後は治すだけだね……)
実際、私にとって難しいのは、ここまでの怪我の具合を把握する作業なんだ……理由は、ただ霊力の使い方が大雑把ってだけならしいのだけど。正直、どんなに集中しても、こういうのだけは、何故か得意になれない。
まあ、そんな事はともかく、ちゃっちゃと傷を治しちゃいましょうか。
そう考えた私は、まずは穴の開いた肝臓に、私の水に特化した霊力を注ぎ込む……すると、血管の流れをコントロールされ、水気の霊力を得た肝臓は、みるみる内に、穴の開いた箇所を塞ぎ始めていく。これは、内臓にも筋肉があることが理由の現象で、水気の霊力を流し込まれた筋肉の細胞が、急激に活性化し、その自己再生機能を極限までに高めるのが原因みたいだけど……細かい事は、私には分かりません。
だって、細かい事を考えながらやると、私って失敗しちゃうから、結構感覚でやってる部分が多いんだ……人に言うと、お前頭悪いなとか言われるので、悲しくなるから絶対に言わないけど。
何の問題も無く肝臓の穴を塞いだ私は、この後、同じ要領で、虎熊さんの全ての怪我を治していくのでした……。
◇
(これほどとは……驚いたな)
目の前で、行われている鏡花の治癒術を見て、妖狐は思わず胸中で驚きの声を漏らしてしまう。
青い霊気で包まれた二人……その一方の、虎熊が負っていた全ての傷が、みるみる内に元に戻っていく。
(霊力の使い方は、雑にも程があるが。それにしても、この治癒能力は、凄まじいな……流石は安部家の者、腐っても鯛とは、まさにこの事か)
鏡花の高い霊力と、もともと水に特化している才能によって、細かい技術こそ無いものの、半ばごり押しで進められていく治癒術であったが……結果は一目瞭然、既に虎熊が負っていた傷は、完治寸前にまで来ていた。
心なしか、鏡花の霊気に包まれている虎熊の表情が心地良さそうになっている……。
そんな光景を眺めつつ、妖狐が腕を組みながら黙して立っていると。
「すまない妖狐。俺はこれから、この壊した天井を直す作業を手伝わないといけないらしいから、先に教室に向かっててくれ」
先ほどまで教員に、今回のトラブルの事と、天井の事について謝りに行っていた童子が戻ってきた。
「……はい、終わりました」
同時に、鏡花の治癒術も終わった様であった。
ゆっくりと、虎熊が閉じていた瞼を開ける……。
「……凄い。全部治ってやがる」
自らの体を直に触れながら、さっきまで肝臓に穴が開くほどの深い刺し傷があった右の脇腹を確認した虎熊は、鏡花の治癒術の凄まじさに、思わず驚きの声を漏らしてしまう。
「これ、虎熊よ。まずは礼だろうに」
「あ、すみません妖狐さま……その、ありがとよ、治してくれて」
腕を胸下で組んでいる妖狐が、驚きに呆然としていた虎熊に礼を述べるように注意すると。虎熊は、素直に目の前で、いまだに廊下の地面にお尻をつけていた鏡花に頭を下げる。
「そんな、私こそ、ありがとうございます。虎熊さんが、あの時、庇ってくれなかったら、私、もしかしたら死んでいたかもしれませんから」
頭を下げてきた虎熊に、鏡花も同様に頭を下げる。
「安部さん、俺からも礼を言わせてくれ」
「え?」
すると、そんな二人のやり取りに、突然、いまだ上半身裸の童子が、真剣な面持ちで割って入ってきた……心なしか、眠たげにしていた目が、少しだけ開いている様な気がする。
「君が虎熊を守ろうとしてくれた事は、さっき先生から聞かされた。それに、怪我まで治してもらっては、虎熊の主である俺からも、礼を言わなければ、君に失礼というものだ」
「そ、そんな……別に良いですよ、私だって助けてもらった身ですし」
「いや、そういう訳にはいかない……」
童子は首を振って、鏡花の遠慮を退ける……この時、童子の隣にいた妖狐が「あぁ……また悪い癖が出おった」と、ため息を吐きながら疲れたように呟いていた。
「相手に何かしらの恩義を感じたとき、それを返すのは当然のことだ。もし返さなかったのなら、そいつは恩知らずと言う事になってしまう」
「いや、その理屈は……」
「だから、何か困ったことがあったのなら、その時は俺に言ってくれ。護衛だろうと荷物運びだろうと、何だってやってみせる」
「は、はぁ……」
困ったように生返事を返すことしか出来ない鏡花に、童子は何かを勘違いした様子で満足そうな顔をすると、今度は傷が癒えたばかりの虎熊へと視線を向けた。
「虎熊」
「はっ!」
童子の呼びかけに、短く返事を返しながら居ずまいを正す虎熊……。
その光景に鏡花は、さっきの妖狐の話通り、二人が何らかの主従関係の間柄にある事を、漠然としながらも理解する。
「今回は相手方の妄言という事で、先生に納得してもらえたし、まだ俺が、お前に“序列戦”に参加することを認めていないという事も伝えた……だから、安心しろ」
「はっ! お手を煩わせてしまい、まことに申し訳ございませんでした!」
「別に、そんなに畏まらなくてもいい。俺はただ、お前が無事だったことだけで十分なんだ。今後は、もう無茶はするなよ?」
「はっ!」
二人の妙に仰々しいやり取りに、鏡花は面を喰らった様な気持ちになる。
すると、そんな鏡花に、妖狐が、静かに耳打ちをしてきた。
(さっきも言ったが、童子は虎熊の主でな。その関係は、あやつらの祖先から続いている関係なのだ……)
(そうなんですか?)
耳打ちで小声の妖狐に合わせ、鏡花も小声で話し始める。
(あぁ、本当だ。というより、おぬしも陰陽師なのであろう、そのくらいは知っておけ)
(は、はあ……)
よく分からないといった様子で返事を返す鏡花に、少し呆れ顔をするも、妖狐は説明を続ける。
(で、だ……この妖怪学園では、規則として“序列戦”を挑む場合、相手の了承を得た後に始めるというものがあるのだが。これは、まあ妖怪のプライドからして、殆ど断らないのが当たり前での、有って無いようなものなのだ)
(それが、童子さんと虎熊さんの話に、どんな関係があるんですか?)
(この規則には、一つの例外があるのだ)
(例外?)
(そう、例外だ……簡単に言ってしまえば、主従関係にある妖怪で、従者として主人の支配下に入っている妖怪は、主人の許可無く、“序列戦”に参加してはならんというものなのだが……これには理由があっての。もし、従者が勝手に“序列戦”を受け、主人に黙って死んでしまった場合、そこから新たに従者を殺めた相手と主人の争いが始まってしまう。それが妖怪社会で大きな権力を持つ主人なら、下手をすれば、大小問わない戦争が起こっても可笑しくはないのだ)
(戦争……ですか?)
(そうだ)
ゴクリと、鏡花は息を呑んだ……。
昨今の人間と妖怪が交わっている社会では、こと争いという概念が希薄になっては来ていると、“表の情報では”謳われてはいるが、鏡花のような、妖怪たちと争う力を持った者達の間では、小さないざこざから、大きないざこざまで、様々なトラブルが起こっていることは周知の事実なのだ。
その事は、まだ修行中の身とはいえ、鏡花も父親である大鏡から聞かされ、ある程度は理解している。しかし、鏡花の場合は、ただ聞かされただけであって、事実を垣間見たことすらない……それが、今回の命の危険があったトラブルや、身内ではなく他者からの言葉によって、急に現実味を帯びてきた。
人間と妖怪は、一世紀以上前から、ある大きな出来事が切欠で交流を深めてきた。これにより、現在では、妖怪側の戦力も相まって、非常に対等な関係を築けている……鏡花にも、実家の近所には、妖怪や混血の友人が何人かいるくらいだ。だが、争いがあるのも、また事実。
現実というものを理解し始めた鏡花の胸中を察してか、妖狐が、小声ではあるが、少しだけ、気が紛れるような微笑ましい声音で、話を続けた。
(まあ、それも今では殆ど起きてはおらんから、安心しろ……ここ最近、起こった荒事といったら。去年に起った、いけ好かぬ小娘ヴァンパイアが、学園中に夜行人の出来損ないを放った事ぐらいだ)
(それって、普通に危ないじゃないですか……何が原因で、そんな事になったんですか?)
こちらの事を察してくれた妖狐の声音に、少しだけ気が紛れる思いをするも、鏡花は苦笑を禁じ得なかった。
しかし、鏡花に原因を聞かれた妖狐は、何かを思い出したのか……その白面とも言える、美しく整った顔立ちを、怒りに歪ませながら、震える声音で口を開いた。
(いやなに……原因は些細な事だったのだ)
(妖狐さん、顔が怖いです……)
(あの糞小娘が、身の程も弁えずに『童子が欲しい』とほざき始めての……ルーマニアの由緒ある貴族の出らしいが、自身より格上の妖怪を欲しいなどと……片腹痛いを通り越して、腸が煮えくり返ったわ)
もはや、耳打ちはしているが、鏡花を見ていない妖狐の鋭い目は、冗談ではなく人を殺せそうな程にぎらついていた――――あぁ、多分、この原因の途中を聞く限り、妖狐さんと、そのヴァンパイアの娘がトラブルの発端だったんだろうな――――と、鏡花は珍しく察しのいい答えに自然と行き着いた。
「何しているんだ?」
「……うん? おぉ、童子か、もう話は済んだのか?」
そうこうしていると、虎熊との話が終わったのか、童子が不思議そうな視線で、何やらコソコソとしていた二人を見下ろしていた。
かけられた声に気付いた妖狐は、先程までの怒りに歪んだ表情を治めながら、耳打ちしていた鏡花から立ち上がって、童子に向き直った。
「あぁ。もう話も終わって、アイツは教室に戻した」
「そうか、なら、私らも行くとするかの」
「いや、俺はここの修繕を手伝わないといけないから、先に行っててくれ」
「ふん……生真面目なやつめ」
言いながら、童子も含めた、この場にいた三人が、廊下に小山を作るほどの鉄骨やらコンクリートの瓦礫の塊に視線を向けた……。
これの修繕って……上は三階までの吹き抜けになっちゃってるし、どれくらい掛かるんだろう?
「なんだ? 呆けたように天井なんて見おって」
「え? いや、これを直すんですか?」
腰を抜かした状態で、吹き抜けになってしまった一部の天井をホケ~と眺めていた鏡花に、瓦礫の小山から視線を外した妖狐は、締まりの無い彼女の顔を指摘するかのように声をかけた。
それに、鏡花は“こんなもの、学生に直せるの?”というニュアンスを乗せながら尋ねた。
「まあ、直すとは言っても、童子は手伝いだけであろうからな。主にやってくれるのは、用務員の“ぬりかべ”さんだ」
「“ぬりかべ”さんですか……」
「そうだ、“ぬりかべ”さんだ」
もう、何から何まで妖怪尽くしの学校なんだな~と、改めて身に染みたのを感じ、ははは……と、乾いた笑みを浮かべる鏡花。
「では、ほれ、行くぞ鏡花」
「え?」
そんな乾いた笑みを浮かべていると、妖狐が少しだけ身を屈め、腰を抜かした状態の鏡花に手を差し伸べた。
「どっちにしろ、そんな状態では、職員室にも一人で行けぬであろう? 今日はどうせ、朝のSHRは遅れるだろうから、私が連れて行ってやる。感謝するのだな」
そう言って、妖狐はニッコリと微笑む……。
その微笑に、自然と安心感を覚えた鏡花は、廊下の地面にお尻を着いたままであったが、ゆっくりと差し出された手を取った……妖狐と鏡花の掌が重なった瞬間、腰を抜かしていた鏡花が“グイ!”と体ごと引き上げられた。
「まだ、自分では立てぬか?」
「はい……すみません」
「そうか、なら私が抱えてやろう」
「え? うわっ!?」
立ち上げられたものは良いが、ヨロヨロと覚束ない足取りの鏡花の様子を見て。妖狐は、その細腕からは考えられない力強さで、鏡花の膝裏と背中に手を回し、いわゆるお姫様抱っこで、人ひとりを楽々と抱え上げて見せた。
それに驚きの声を上げる鏡花……心なしか、頬が紅潮しているようにも見える。
「まずは職員室に行って、おぬしが在籍するクラスの担任を見つける。そうしたら、後はその担任に任せれば良いからな」
「は、はい!」
同性ではあるが、抱えられた状態で見上げる妖狐の顔立ちや、体に当たってくる豊満な胸は、鏡花の思考を停止寸前までに追い込むには十分な威力を誇っており、思わず可笑しな返事を返してしまう。しかし、それに妖狐は特に気にした様子は見せず、お姫様抱っこで鏡花を抱えたまま、この瓦礫が小山になった廊下を悠然とした歩調で立ち去っていった。
この小説は、これまで作者が書いてきたようなノープランな感じではなく、確りとプロットを建てて書いていこうと考えているので、かなり遅い更新になると思いますが、何とぞ、ご理解の方をお願いします。