それぞれの朝
この小説に登場する全てのものはフィクションです、実際の人物・団体・事件等とは一切関係がありません。
まだ四月も初めといった、月曜の早朝……。
おそらく、まだ外には新聞配達員が駆るカブのエンジン音と、野良の動物たちの鳴き声やゴミ置き場を漁る音以外、何も聞こえてこないだろうと言う時間……。
私、九尾妖狐は、月曜の早朝という、前日の休みの余韻に浸りながら、そろそろ朝の目覚めを迎えようとしている浅い眠りの時間帯に、出来るだけ瞼を閉じきって、学校の準備をする時間ギリギリまで眠りきってやろうと、無意識下のもと、密かに決意していた。
前日に日干ししたシーツや布団の温もりに包まれながら、ベットの上で寝返りをうつ……すると、私の体と布の生地から、朝の頭には少しだけ鬱陶しい衣擦れ音が聞こえた。
「うー……」
その鬱陶しい音に、つい、私はいやそうな唸りをあげてしまう……まずい、あまりにも浅い眠りだったために、一生懸命に閉じていた瞼が開いてしまいそうだ。
私は、それを防ぐために、寝返りをうったために横寝になっていた体を、すかさずベットにうつ伏せる形に移行した……ああ、胸の重みが消えていく。
しかし、そんな安心を得たのも束の間――――
ジリリリリ!!!!
どこからか、けたたましく非常に耳に障る騒音が聞こえて来た。
目覚まし時計……そう当たりをつけた私は、とりあえず、横を見たら目の前にあった“壁”を、なるべく壊さぬよう、絶妙な足加減を加えながら蹴飛ばした。
ドン!――――という“壁”を蹴飛ばす音と共に、目覚まし時計の音も鳴り続ける。
しばらくの様子見……だが、いまだ、どこかからか聞こえてくる、というより、壁を跨いだ向こう側から聞こえてくる目覚ましの音は、消える気配が無い。
すると新たに、壁の向こう側から“ダダダダダダッ!!”という、よく映画などで聞ける、自動小銃による発砲音が連続して聞こえて来た。
これも、とてもうるさく、非常に耳に来る音なのだが……初めに鳴った、目覚ましと同時に鳴らされると、もはや鈍器で破壊したくなるほどに鬱陶しい。
「……るさいッ!!」
私は、早朝の早い時間帯だというのに、大声を出しながら、再び目の前にあった壁を蹴飛ばす……すると、また新たに『I will P.T. you all until you fucking die!』という、とてもじゃないが、和訳したくない程の下劣な英語の目覚ましが唸りを上げた……もう、我慢の限界だ。
瞬間、私は床に着いていたベットから、布団を放り投げるようにして飛び起きながら、早朝の時間帯だというのに、下の階に住む住人など気にしない、ズカズカというよりドカドカという、力の篭った歩みで、部屋の窓扉を“バン!”と開けた……下手をすれば、ガラスが割れていたかもしれないが、その時はその時だ。この寮の管理人である“ぬらりひょん”の坊主にでも、請求すればいい。
とにもかくにも、自分の部屋の窓扉を開けた私は、段差の下に置いてあったサンダルに足を入れながらベランダに出た……同時に、寝起きの寝癖が目立つ、私の長髪を揺らしながら、ベランダの右に顔を向ける。
そこには、私の部屋のベランダと、隣りの部屋のベランダを仕切る、何とも現代的だが脆そうな、白い仕切りが存在していた。
それを見た私は、寝起きでまだ開ききれない眼つきを、鋭利なものへと変えながら――――もともと、眼つきが悪いと言われるのだが――――ベランダとベランダを仕切る壁に、ゆっくりと、静かに右の人差し指を当てた。
「邪魔ッ!!」
瞬間――――私が苛立たしげに叫ぶと同時に、壁に当てていた右の人差し指の先っぽで、紅色とも見間違えるほど美しい、大量の“炎”が“爆発”した。
その炎が爆発した瞬間、辺りに暴風とも呼べる衝撃を生み出し、私の寝癖が目立つ長髪を後ろに吹かせ、洗濯物をかけるために吊るしてあった竿竹がどこかに吹き飛び、窓ガラスは衝撃に揺れ“ピシ!”と嫌な音を発しながらひび割れを起こした……だがそれは、私側の被害状況で、爆発を発生させた向こう側の状況は、もっと悲惨だ。
先程まで、そこにあった筈の現代的な仕切りは、周りに黒い炭を残しながら消し飛び。爆発の熱で黒くこげたコンクリートが、衝撃や熱が流れた方向を示すようにして、前方に広がっている……うむ、流石は私、今日も“五行妖術”の冴えはバッチリの様だ!!
多少汚れはしたが、風通しの良くなったお隣さんのベランダに、私は遠慮などせずに入っていく。
そして、再び右を振り向くと、そこには先程の爆発で全てのガラスを吹き飛ばした窓扉が、無残にも存在していた……。
しかし、それでも尚、私にこの様な行動を決起させた目覚まし時計の騒音は鳴り止まない。
眉間に皺が寄るのを感じた……米神がピクピクと引き攣ったのを感じた。
ああ、私は今、本当に頭きてるのだ……。
現在の心境を再確認すると同時に、私は一気に、そのガラスが全て吹き飛んだ窓扉を開けた。
ガシャン!――――と、脆い音を発しながら、ボロボロの窓扉は開かれる。
そして、窓扉の向こう側……つまり、お隣さんの部屋へと踏み入った私はまず、ある一点に向って素早く歩を進めた。
◇
ベランダは原型は残しているが、無残にも黒焦げになり、外と中を仕切るはずの窓扉も、もはや役割をなせない姿となってしまった……。
そして、部屋の中にも、吹き飛んだ窓ガラスの破片が散らばり、一種の襲撃を受けた情景をなしていた……だが、それでも尚、部屋の所々に置いてある目覚まし時計は、騒がしくなり続ける。
しかし、そんな状況下になっていたとしても、この部屋の主は、窓際と壁の角に設置されたベットで布団に包まったまま、起きる気配を見せない。
とんでもなく神経が図太い人物なのだろう。
「毎度毎度……」
すると、そこに、寝巻きを着崩した、寝起き姿の女性という欲情的な格好をした九尾妖狐が、長い髪で俯かせた顔を隠しながら近づいて来た。
しかし、妖狐は部屋の主の枕元に立つ前に、先程からうるさい、部屋の目覚まし時計たちに“キッ!”という鋭い視線を向けた……瞬間。
「うるさいのだ!! この糞時計どもがッ!!」
同時に、妖狐の足元を中心として、部屋の床全体に、枝分かれした無数の紫電が走った。
その紫電に目覚まし時計たちが接触すると、デジタル表記の時計はデジタルの画面を吹き飛ばし、針時計は、中から黒い嫌な煙を漏らしながら、目覚ましの機能を停止させた。
すると、とたんに静かになる、お隣さんの部屋……しかし、中は既に滅茶苦茶である。
妖狐は、その様子を不機嫌そうに一瞥すると、再び、この部屋の主である、ベットの布団に包まっている男に視線を落とした。
「たく……隣りに住んでるだけだというのに、どうしてこう、毎朝起こしに来ならなくてはならんのだ」
面倒臭そうに、朝の白光を反射する、きめ細かな金髪の前髪をかきあげる妖狐……すると、そこから白面と言っても過言ではないほどに白い肌をした、細く整った顔立ちが露となった。
細く、それでいて優美な曲線を描いた眉毛に、少しだけ吊り上った、切れ長の美しい瞳、口元は不機嫌そうに“への字”に今はなっているが、普段は可愛らしく、少しだけ膨れた唇が印象的な口をしている。スタイルはモデルを思わせる、スマートなラインを誇っているが、着崩れた寝巻きから見える胸元は、ウエストと比較すると、とても大きな部類に入り、形も美乳といっても差し支えない理想的な造型をしている。そして、腰の位置は高く、足もスラリと長い……更に言えば身長は175cmと、非の打ち所が無い、まさに完璧と言って違わない容姿をしている。
そんな完璧な容姿をした妖子に、不機嫌そうに見下ろされている人物はと言うと……。
「ええい! 起きぬか、この馬鹿者!!」
妖狐が、見下ろしていた人物が包まっていた青いシーツの掛け布団を、勢いよくひっぺがした。
そしてそのまま、ひっぺがした布団を、後ろへと投げ捨てる。
「走るのだろう!? だから、朝早くから、こんな大量の目覚まし時計を用意したのだろう!! 起きろ!」
掛け布団が無くなり、その体が露となった人物を、妖狐はユサユサと揺する。
どうでもよいが、相手を揺するたびに揺れる妖狐の胸が、妙に艶めかしい……これは多分、寝る時にブラを着けなかったのだろう。
「う、うぅ~……」
「ほれ、起きろ!! 木偶の坊!! 起きろ!」
しかし、どんなに妖狐が、その厚く彫刻を思わせるような相手の胸を揺すったとしても、一向に起きる気配がない……このとき、妖狐は心底面倒くさいと感じた。
故に――――
「いい加減に起きろ、この馬鹿“鬼”!!」
瞬間、妖狐が地面につけていた足から、相手の胸に置いていた両手にかけて、瞬く紫電が走る。
バリバリバリ!――――という、無数の破裂音が、今まで起きてこなかった相手の人物を中心に響き渡った。
土気という五行の要素のうちの一つを使った、地熱のエネルギーを紫電という電力に変換させた、軽い“五行妖術”なのだが、明らかに、その紫電の光量は、人が直接浴びせられて良いものではなかった。証拠に、無数の紫電を浴びせられているベットのシーツやマットなどが、化学繊維を燃やしたときの煙を発生させながら、その焦げ目を広げていた……が。
「ぐぬぬぬぬぬッ!!」
「……」
「のおおおおりゃあ!!」
「……」
どんなに妖狐が歯を食いしばっても、気合の叫びを上げ、紫電の威力を上げたとしても。
ベットで寝ている、筋肉の鎧とでも表すような、屈強な肉体をした男を起こすことはできない……。
次第に、妖狐が発生させる紫電の量が、どんどんと減っていき……。
「ハア……ハア……クソったれめ」
仕舞いには、額に汗を浮かべながら、妖狐は息を切らせてしまった……。
既に、この部屋には様々な物が焼け焦げた臭いと、そこから発生した黒い煙が充満していた……が、それでも男は、起きる気配を見せない。
「無駄に打たれ強い肉体をしおってからに……」
言いながら、妖狐が、そのガラス細工の様にきめ細かな長い金髪を、ベットで寝ている男にしなだれかける……というより、完全に朝一番の寝起きで全力を出したせいか、疲れたように、額を前かがみで、寝ている男の胸板に預けた。
すると、今まで寝ていた男に変化が起きた……。
「う~……あ? ああ、妖狐か……おはよう」
なんと、これまで、大量の目覚まし時計や。
ハートマン軍曹のありがたい『I will P.T. you all until you fucking die!』のお言葉。
さらには、妖狐の“五行妖術”ですら目を覚まさなかった男が、言葉を発したではないか。
その様子に、額を男の胸元に預けていた妖狐は、顔を赤くする――――のではなく。
「毎度毎度、どれだけ寝起きが悪いのだ!! おぬしは!!」
再び、大量の紫電と共に、寝起きの男の視界が、真っ白に染まった……。
◇
もはや迫撃砲をぶち込まれたのか?
室内で爆薬でも使ったのかと言うくらいに、荒れかえっている自室の惨状に、男は特に反応を見せず。
寝起きから、すぐにトイレに行き、早朝のロードワークへと出かけるため。ランニング用のTシャツに、軽い素材を使った短パンに着替えた男は。男の体格には、いささか狭い玄関で、陸上用の軽量化されたシューズを履きながら、わざわざ朝早くから起こしに来てくれた妖狐に振り返った。
「じゃあ、行って来る」
「おお、途中で二度寝をかますでないぞ?」
おそらく、寝るときに下着は着けない派の、パジャマ姿の妖狐は。シューズの靴紐を結び終え、厚い鉄製の扉のドアノブに手をかけた男に、面倒くさげに“いてらっしゃい”の言葉をかけた。
男は、そのまま妖狐から振り返り、ドアノブを開け、寮の廊下へと出て行った。
その様子を見送った妖狐は、自身が荒らしに荒らした男の自室を、あくびをしながら歩きつつ、台所の近くの台に設置されていた、部屋の電話の子機を手に取った。
そして、手馴れた手つきで、頭に記憶されていた番号を押す……。
番号を押し終わると、妖狐は、子機に耳を当てながら、コールの音を、眠そうな瞳のまま聞き続けた。
しばらくすると、向こうが電話に出た。
『もしもし? どうしましたか、こんな朝早くから……』
「ぬらりひょんか? すまぬな、朝早くから。とりあえず、“今日も”頼むぞ」
子機から聞こえてきた、相手方の声は、どこか、少年のようなあどけなさを感じさせながらも、それでいて、朝早くということで、眠そうな声であった。
妖狐は、そんな相手のコンディションなど気にするのも億劫といった様に、一方的に相手に向けて言いつける。
『またですか……これで何度目ですか?』
「うるさい。寮長とは名ばかりで、碌に仕事をせん貴様に、私が自ら仕事を与えてやっているのだぞ? 感謝こそされ、咎められる覚えは無いわ」
『別に咎めてませんよ。ただ、新学期が始まって、部屋が隣同士になった日から、もう四日連続ですよ? 毎朝、所要する妖力を半分くらい使わされる身にもなってくださいよ』
「知らん。だいたい、貴様が部屋割りをしたのであろう? だったら、貴様が最後まで面倒を見ぬか」
『童子さんの隣になりたいってゴネたのは、妖狐さんじゃないですか……』
「私はゴネてなどいない!! むしろ、皆のために思って、あやつの隣になってやっただけだ!!」
『はいはい……はぁ~。これは本気で、もう一度部屋割りを考えないと駄目かなぁ』
「な、何を言っておるか!! 私以外の者が、あやつの隣で住むことになってみろ!! あやつが夜な夜な無意識に発する大量の妖気に当てられて、最悪死人が出るのだぞ!?」
『そんな事を言ったら、上の階や下の階の人だって、もうご臨終してますよ……けど、してないでしょ? 見苦しい嘘を付くのはやめて下さい。“三大妖怪”と呼ばれた、ご先祖様の名が泣きますよ?』
「嘘ではない!! あやつの……」
これまで高厚的な態度を取ってきた妖狐であったが、ぬらりひょんと呼んだ、寮長の呆れた物言いに、どこか、その少しだけ吊り上った、切れ長の美しい目を焦った様に見開かせながら、更なる言い訳を発しようとするが……。
「妖気に長いこと晒されては……うん?」
妖狐が耳に当てていた子機から、向こうの相手が通話を一方的に切ったときの、寂しいというより虚しい電子音が聞こえてきた……。
しだいに、妖狐の肩が、わなわなと震え始める……。
顔を見れば、その白く艶やかな眉間に皺を寄せ、口からは、妖狐の体内からもれ出る妖気が、青い炎となって不気味に揺らめいていた。
「なんなのだ……今の会話は」
言いながら、明らかに怒の感情を露にさせている妖狐が、持っていた子機を、再び五行妖術の土気を用いた電気でショートさせる……嫌な臭いがする煙が、子機の隙間から漏れ出てくる。
「まるで、この私が、あの馬鹿“鬼”から離れたくないと、ダダを捏ねているかのような、情けない感じだったではないか……」
すると今度は、妖狐の女性にしては長身の体から、無数の紫電が発生し始めた……そして。
「あのぬらりひょんのクソ坊主がぁぁぁぁ!!」
実は寝起きの際には不機嫌真っ盛りな妖狐が、理不尽な怒りの怒声をあげながら。再び、先ほど朝のロードワークへと出かけた男の部屋を、無数の紫電で滅茶苦茶にし始めた……。
その時、寮長室で、軽く寝なおそうと考えていた、明らかに、まだ青年にまで達していない体系の男の子“ぬらりひょん”は「ああ、また、これで僕の一日は決定するのか……」と、再び包まった布団の中で、深いため息を吐くのであった……。
◇
春真っ盛りの、暖かく気持ちの良い朝……。
ここは、とある引越し準備を整え、荷物を梱包し終えたダンボールの山が築かれた、寝具以外、何もない部屋……。
カーテンを取り外された窓からは、床のフローリングに、快晴の朝の日差しが差し込んでいた。
既に、この部屋で唯一置かれた、寝具であるベットの布団には、これまで睡眠を取っていた部屋の主の姿は無い。なぜなら、部屋の主は、寝具であるベットからずり落ち、犬畜生よろしくの床寝を決め込んでいたからだ……心なしか、床が固いせいで、寝顔が気持ち良さそうではない。
すると、このダンボールの山が築かれた部屋に、何者かが扉を開けて、ズカズカと入り込んできた。
突然の侵入者……その姿は、線の細い体に、着物と割烹着を身に纏った、どこか、儚げな雰囲気を醸し出す女性。手には、凶器なのか……フライパンとオタマという、いかにも、これから何かをするといった装備を所有していた。
侵入者である女性が、その着物からでも分かるぐらいに“無い胸”を反らし、長くも繊細そうな黒髪を揺らしながら、ゆっくりと息を吸い込み始めた……そして。
「朝ですよ~!!!! 起きなさ~い!!」
ガンガンガンガン!!!!――――と、持っているフライパンとオタマを叩きまくる侵入者!
その突如、睡眠中の耳を襲った騒音に。これまでベットがあるにも関わらず、床に身をあずけ、睡眠を取っていた部屋の主が「く、空襲ですかっ!?」と、時代錯誤も良いところの台詞を吐きながら、飛び上がるように跳ね起きた。
「お、お母さん!! 敵はどこですか!?」
跳ね起きた部屋の主は、あたふたと周囲を忙しなく周囲を見回しながら、その乱れた浴衣を更に乱れさせていく……。
この朝一番の様子に、フライパンをオタマで殴りつけていた、線の細い女性は「はぁ~」と深く、それでいて呆れたようなため息を漏らす……。
「敵などいません。いるとしたら、年頃である“筈”の娘が、恥も何もへったくれもない姿を晒すのを見て、呆れている母親だけです」
「……へ?」
言われて、年頃である“筈”の娘が、自身の姿を確認するために、視線を下に降ろすと……。
「ッ!?」
顔を真っ赤にして、肌蹴たせいで、胸が丸見えになっていた浴衣の胸元を正した。
「そこだけではないわよ? ほら、下なんてもう隠すきないでしょ?」
さらに、年頃である“筈”の娘は、浴衣の上前と下前が完全に“後ろ”へと流れている事に気づき、急いで、それを正した。
「帯なんて、ほら」
年頃である“筈”の娘の母は、さらにベットの方に、持っていたオタマの先を向けた。
そこには、本来なら部屋の主が占領している筈であったベットが、もはや脱ぎ捨てられていた帯に占領されている光景があった。
それも、年頃である“筈”の娘が、急いで回収し、正した浴衣に締めていく。
「も、もう無いよね?」
朝一番から畳み掛けるように、様々な事を指摘された、年頃である“筈”の娘は、心配そうな上目遣いで、母である女性に問うた……。
「別に無いけど……とりあえず、速く顔を洗ってきなさい。そうしたら、すぐに朝ごはんを皆で食べるから、急ぎなさい」
「は、はい!」
「返事は確り!」
「はい!」
「よろしい……じゃあ急ぎなさいな。皆、アナタ待ちなのよ、鏡花」
急げと、自身の母に促された鏡花こと、阿倍鏡花は、正したばかりの浴衣と、寝癖だらけの、母と同じ黒髪を揺らしながら、ダンボールの山が築かれている部屋を出て行った。
「本当に、あの娘を修行にやって、大丈夫なのかしら……?」
鏡花の母――――安部春花は、扉の向こうの廊下から聞こえてくる、娘の騒がしい足音に、悩ましい仕草で、頬にオタマを持った方の手を当てながら、本当に不安そうな呟きを漏らした。
◇
うわ~……ひどい顔。
私の家で、父の修行を受ける皆が共同で使っている洗面台とは違う。
私やお母さんが使う、真っ白な汚れ一つ無い洗面台の前で、自分の寝起き顔に、思わずうな垂れるような気分に陥ってしまう。
だって、花も恥らう年頃の娘が、目脂や寝癖を盛大にアピールさせた、何の可愛げも無い寝起き顔を晒しているんだもの……うな垂れても、仕方の無いことだと思うんだ。
「どうしてこう……私って、寝相が悪いのかな?」
口から自分に対しての愚痴を零しながら、私は急いで、洗面台の棚からドライヤーや櫛を取り出し、ひどい寝癖を直していく……。
私の髪は、本来なら真っ直ぐな長い黒髪なのだけど……あぁ、寝癖が全然治らない。
いくらドライヤーや櫛で、荒れに荒れた寝癖を梳いたとしても、再びヒョコッと、髪の毛が跳ねてしまう……も~時間が無いのに!
そう考えた私は「こうなったら、朝シャンでも浴びようかな」と、時間に縛られない、大胆な決断をした――――
…………。
………。
……。
…。
結論から言えば、気持ちよかったです♪
朝一番のお湯って、どうして、こうも人の体を覚まし、癒してくれるのでしょうか……。
ポカポカと湯上りの陽気に、暖かい気持ちになりながらも、私はすぐに、当初の目的であった、寝癖直しに取り掛かった。
ふふふ、こうなってしまっては、あれだけ手強かった寝癖も、私の敵ではありません。
ドライヤーのモーター音と共に、濡れた髪の毛を乾かし、櫛で梳いていく……。
別に、習慣づいたことなので、難しい事ではありません。
よし、いつも通りの出来に仕上がったぞ!
前髪は、私の眉毛辺りで、綺麗に切り揃えられ、唯一の自慢でもある、真っ直ぐに流れる、長い黒髪も、至って綺麗にセットされてある。友達から、ハッキリとした綺麗な丸い目だねと言われた通り、あれだけ眠そうだった目も、今はちゃんと見開かれてるし。
これなら、安部家の一人娘としてだけではなく、ようやく修行に出る一人の“見習い陰陽師”として皆の前に出ても恥ずかしくは無いね。
寝起き姿のだらしない格好を、確りと直した私は。意気揚々と、これまで寝癖を直すためにいた、風呂場の脱衣所から出ようとする……。
引き戸の扉前まで近づくと、モザイクガラスの向こう側から、誰かの影が、引き戸を開こうとする仕草を見せていた。
すると、その影が、ガラガラと引き戸を、ノックも何も無しに開いた。
そこに現れたのは、私を、そのまま大人まで成長させたかのような人物。
お母さんであった。
「ごめん、お母さん。もう、準備できたから、今すぐ行くよ!」
「待ちなさい」
「へ?」
お母さんのすぐ隣を、私が通り抜けようとすると。
お母さんが、私の手を掴み、皆が待つ食堂へと行くのを静止した。
そして、手を掴んだまま、私と向き合い、しばらくの間、じ~っと、真剣な表情で見つめられる。
「よし、確り寝癖も、だらしない顔も直したみたいね」
「お母さん心配しすぎ! 私だって、もう修行に出ていいって、お父さんに許しを貰うぐらいに成長したんだよ。あまり子ども扱いしないでよ!」
本当に失礼ったらありゃしない。
私だって、もう背も150後半にまで成長したし、一人でラーメン屋にだって入れるぐらいに、“大人の女性”になったのに……この扱いは無いよ!
「別に、子ども扱いはしてないわよ……。でも、アナタは変なところで、色々抜けてるからね~」
「も~酷いよ~……」
「腐らない腐らない。とにかく、食堂に行きましょ。皆、もうお腹が空いて、我慢の限界に来てるかもしれないから」
「は~い」
何か微笑ましそうに、私のことを見る、お母さんの目に「あ、これ分かってくれてない」と、私は内心で察した。
あ~あ……どうしてもう、お母さんは私のこと子ども扱いするんだろう?
自分だって、胸が小さいくせに……む、胸が小さいくせに。
ははは……思いのほか、自分にもグサっとくる言葉だよね、これ。
◇
我が家の食堂は、まるでお寺の住職たちが、集団で食事を取るような、純和風の畳が敷き詰められたお座敷だ。
そこに私は、これもお寺の様な廊下から、襖を開けて入っていく。
「おはよう、お父さん。皆も、待たせてゴメンね」
「早く自分の場所に座りなさい、鏡花。お前のせいで、皆の朝食を遅らせてしまっているのだからな」
「は~い」
“食堂”と呼ばれる、皆が集まっている座敷へと入ってきた私に、いきなりご機嫌斜めの声をかけてきたのは。威厳たっぷりの顔をした、まだ40代だというのに皺が目立ち始めている、私のお父さん、安部大鏡。
私のお父さんは、この日ノ本に数多く存在する、陰陽師の長で、かの有名な安部朝明の直系の子孫だと言われている……というより、国にも、そう認められているので、まず間違いない。ただ、何代目かは、いまだ不明だということらしい……理由は、どうやら文献などの記録が、あまりにも古すぎて、読み取れなくなっていたためとか、家系図自体、すでに、この世には無くなっていたからだそうな。
なら、なぜ直系の子孫だと認定されたのかというと、どうやら、その血に混じった“神通力”や“霊力”が、高祖父の代の頃に測ったところ。大昔に、お父さんや私のご先祖様である、安部朝明が修行したといわれる、安部文殊院から測定されたものと、一致したからだと言うからだ。
更にいえば、その時代……世界中の人間と“妖怪”が、自分達の生存のために争い、その後おとずれた、世界の危機のために立ち上がり、協力した時代に、最強の陰陽師として、高祖父が名を馳せていたのが、最後の決め手となったのだという。また、陰陽師にも、様々な家が存在するが、現在の代でも、阿部家のお父さんが、全てにおいて最強らしい。
だけど……。
「なんだ鏡花? そんな、お父さんを残念な眼で見る前に、早く席に着いたらどうだ?」
この、どうみても、その辺の休日中のオッサンみたいな格好をした、40代の男が、当代最強の陰陽師だとは思えないんだよな~白い無地のTシャツに、着古された甚平って、絶対、娘に好かれる気ゼロでしょ。
「別に~何でもないよ」
でも、それでも当代最強と謳われる陰陽師で、現代の陰陽師たちを束ねる長なのだ……ついでに、私の父親でもある。
この食堂に集まっている修行中の方々には、仏様にでも見えているんだろうな~……陰陽道って、仏教とか儒教は関係ないんだけどね?
心の篭っていない返事を返しながらも、私は、上座に座る、お父さんと、まだ来てないお母さんの席を曲がった、修行中の方々の中でも上座に最も近い席に正座で座った。
ふぅ~ようやく朝ごはんだよ。
メニューはご飯に鮭にワカメと豆腐の味噌汁……そして、三枚の海苔だ。
あ~、私も、洋風なスクランブルエッグとかで朝を迎えられるようになりたいな。
私が、毎日ヘルシーにも程がある、朝の献立にがっかりしていると、着物に割烹着を着けたままのお母さんが、この食堂に入ってきた。
「お待たせしました、お父さん」
「おお、ようやく来たか春花。ほれ、早く隣に座りなさい」
「ふふふ、お弟子さんの前でしょ? そんな嬉しそうにハシャがないの♪」
言葉とは裏腹に、高校生の娘をもつ一児の母とは思えない、若い微笑みを見せるお母さん。
それを見て、更に嬉しそうに、鼻の下を伸ばすお父さん。
娘として、両親が仲が良いのは嬉しいことなのだけど……正直、毎日見せられると、鬱陶しいにも程がある。
それにほら、他の弟子の人たちも、若干『またかよ、くそ……』みたいな顔で、苛立ちを見せてるし。迷惑だよね、本当に。
「では、皆、席に着いたようだし、朝食にするとしようか」
お母さんが、所作の正しい正座で、自分の作った朝ごはんの前に座ると、お父さんが、朝食を始める言葉を発した。
◇
我が家の食事は、本当に静かだ……。
もう、静かとしか言いようが無いので、その辺は語ることもありません。
ですが、朝食を負え、皆が片付けに入っている最中、私は、お父さんに呼び止められてしまいました。
「鏡花よ、少し待て」
「え、なに?」
自分が使った食器類を纏めて、お母さんが中心にまわしている、調理場の方へと行こうとしていた私に、お父さんは胡坐をかき、背を向けたままの姿勢で、真剣な声音で言葉を続けた。
「お前は、確かに“神通力”や“霊力”だけを見れば、私以上の素質を持っている」
「ふふん♪ それはどういたしまして!」
「威張るな! それ以外は、その辺のひよっこにも劣るくせに!」
「な! それは言わないでよ! 私だって、努力してるんだから!!」
「努力していたとしても、占いの一つも出来ない陰陽師など、聞いた事も無いぞ!」
「う、占いなんか、現代に必要ないじゃない!」
「馬鹿もの! 基本中の基本だろうが! これくらいの事は、150年前の、インチキと呼ばれていた陰陽師たちでも出来たことだぞ!」
「うぐっ……!」
それを言われてしまうと、何も言い返せない……。
今の“妖怪”や西洋の“妖魔”たちが、ただの怪談話や、都市伝説の類と認識されてしまっていた時代……私達人間が、科学では証明できない事を、頑なにうさんくさいやら、合成写真やらと馬鹿にしていた時代。もう、今から150年も前の話なんだけど、確かに、その時代にも、小さくはあるが、陰陽師の組織は、細々と存在していた。
その時の話は、歴史の勉強とかで習ってたけど。
今の時代から考えると、信じられないぐらいに、陰陽師や霊能力者・超能力者などといった存在が、インチキに捉えられていたそうな。
そんな時代の、国すらも認めていなかった陰陽師たちでも、占いは出来ていたらしい。
なのに、陰陽師が国からも認められ、一端の“戦力”や“財産”と捉えられている時代に生きる私が、占いなどといった、基本中の基本も出来ないというのは、一言でいえば“落ちこぼれ”なのだ。
「それだと言うのに、お前という奴は……自分の力の強さに溺れて、他の修行者たちと比べ、基本的な技術に対しての認識が甘すぎる!」
「で、でも! 火をバババーって起こしたり! 水をドバババーって出したりするのは。私、他の人たちにも負けてないもん!」
これは、“落ちこぼれ”の私にとって、唯一の誇れる所なのだ。
“神通力”というのは、修行する事で、後天的に力を強くしていけるもので、先ほど関係ないといった、仏教にある神秘的な力の事を指すらしいのだけれど……昨今の世の中では、陰陽師たちが“妖怪”たちと争っていた時に改良を加えていったお陰で、かなり認識が変わった力のことなんだけど。六通神? だっけ? それが、確かこう……色々種類があって~、超能力の様な現象とは違った~……ごめんなさい、座学を確りと受けていなかった私には、説明が出来ません。ただ、私に分かるのは、空をビューンて飛んだり、速く動いたり、相手の心を読んだりする能力ってだけです……うう、ごめんなさい。
そして、霊力っていうのは、“妖怪”にとっての“妖気”や“妖力”と同じ、先天的にある、不思議な力の事で。これが大きければ大きいほど、神通力で使う能力の凄さが上がったり、陰陽師の技術で行う技の範囲や強さ、効果が上がったりするんだ。
この二つの能力が、私はもともと、生まれたときから強かったみたい。
えへへ、つまり私は“落ちこぼれ”であると同時に“天才!”というわけ……「確り制御できなければ、ただの宝の持ち腐れだ!」
「うぐ……」
この会話二度目の、それを言われると反論が出来ない……。
そう、そうなのだ……私の力は、確かに他の人に比べて“べらぼー”に強い。
だけど、力を一箇所に集束させたり、絶妙な力加減で、一箇所だけに力を加えるなどといった、繊細な事が出来ないのだ。
「全く……お前は、全然、今日までの自分というものを振り返ってこなかったのだな」
「だ、だって。なぜか私、力を制御しようとすると、変に力が入っちゃって……」
「それは集中力が足らんからだ。お前は昔から、座禅すらもまともに出来なかったからな」
「それは言いすぎだよ! 私だって、座禅“は”出来てたもん」
「ふん、だが“は”だろ? 何を言われても、本来なら言い訳など出来る立場ではないんだぞ?」
「……はい」
シュンとする私……。
ああ、どうして私は、こう、色々抜けてるんだろう……。
お母さんは、私のことを変なところで抜けてるって言ってたけど、あれは確実に、我が子贔屓の目線だ。
纏めた食器を手に持ちながら、落ち込んでいる私に。
相変わらず、胡坐をかき、背を向けたままのお父さんが、改めて真剣な声音で話し始めた。
「だがなあ、お前も、今日から修行のために、“妖怪たちの学園”に通わなくてはならない」
「うん、それは楽しみだよ! ご近所以外の妖怪の人たちと触れ合うなんて、私にとっては初めての経験だから!」
「まあ、確かに、今の世の中の若者は皆、お前と同じ認識かもしれんがな」
「え、何が言いたいの?」
「お前は確かに、何も考えないで戦えば強い。それは認める……だがな、これがもし、何らかのトラブルで妖怪たちと戦う様であれば、お前は確実に苦戦する。更に相手が悪ければ、ただの“餌”にしかならん。また更に言えば、“鬼”からしたら、お前は格好の獲物だ」
「そこまで言わなくても……」
「これは事実だ。私も昔、あの学園で修行をしたが、何度死に掛ける思いをしたか……思い出そうとしても、多すぎて思い出せぬぐらいだ」
「言いすぎって事は?」
「ない。確かに、今の世の中は妖怪も人間も、争いという争いをしようともしないし、差別もしない。むしろ、楽しんで共存しているぐらいだ……だがな、それは社会の眼があるからというのも、また事実。しかし、あの学園には、世界中の妖怪や妖魔が集まっていて、更に言えば、まだ、社会というものを理解していない若者たちもいる」
お父さんの言っていることは、本当のことだ。
現代社会、人間と妖怪は、比較的友好関係の中で生活している……それはもう、近所に妖怪の方が住んでますというぐらいに。
だけど、そんな社会に出ている妖怪たちは、学園で社会に出ていいと許可された方たちだけなのだ。
つまり、これから私が通うことになる学園は、妖怪たちに社会のルールを教える場所でもあるのだ。
「妖怪や妖魔は、お前のような高い霊力や神通力を持った者を喰らうと、自身の力を増すことが出来る……今でこそ、そんな残忍な事は行われなくなったが。お前が生まれる前は、週に一回は、人間同士の殺人の様に事件になっていたのだ。当時ほど危険ではなくなったが、そんな中に、お前は行くのだぞ? 一年は遅れているが」
真面目な、本当に真面目な話をしている最中に、このオッサンは、人の痛いところを的確に突きやがった……もう、別に、仕方ないから遅らせただけなんだもん!
ただ、霊力や神通力以外の項目があまりにも低すぎて、修行を始められなかっただけなんだもん!
はは……私が悪いよね、うん。
だけど、私にも、お父さんには言いたい事がある。
「でも、今は、そんな悪い人はいないんでしょ? だったら、普通に学園生活を満喫するだけで良いじゃん」
「ふん……お前は馬鹿だな」
酷い!
“馬鹿か?”とかじゃなくて、実の娘に向かって、この親は馬鹿だなと、やんわりと断定した!
「何でよ! 時代が違うんだから、お父さんが考えている様な人なんて、少数かいないかのどっちかだよ!」
「その少数が、お前を狙ったらどうする? お前は、自分で自分の身を守れるというのか? もし、相手が、大妖の息子だったり娘だったりすれば、お前など、一瞬で食い殺される」
「こ、怖いこと言わないでよ……不安になっちゃうじゃない」
「私は、それほど、お前が心配なんだ。真面目に基礎に取り組んでいれば、これほど心配しなくても済んだ筈なのだ……だが、それをお前は」
「あ~もういい! 聞き飽きたよ、その言葉は! とにかく、満喫するのは良いけど、しっかりと警戒だけはしておけって事でしょ!? そんなこと、私にだって出来るもん!」
「あ、待て! 話は終わってないぞ!」
いつまでも、うだうだと同じ様な事を言われるのは、堪ったものじゃない……。
もう頭にきてしまった私は、お父さんとの会話を強引に切り上げて、そそくさと持っていた食器を片付け、新しい学び舎へと登校するための仕度に向かった。
だけど、もし、このお父さんとの会話を、もっと真面目に私が聞けていたら……。
この後に待っていた、私の学園生活が、もう少し良いものに変わっていたのかもしれない。