時空消失のりこさん 5
時として電磁波が暴走すると思わぬ事態を招く。
一、 異変は「チン!」から始まった
秋の気配がほんのりと混じり始めた、平日の午前中のことである。
この家の主婦であるのりこさんは、キッチンで手際よく朝食の食器を洗い、シンクを拭き上げていた。
愛犬でアルプス生まれのシェルティー・チャンスは、日当たりのいいフローリングの上で前脚に顎を乗せ、気持ちよさそうに目を細めている。
静かな時間が流れていた。
カチ、コチ、と柱時計が刻む音と、のりこさんが台拭きを絞る水音だけが響く。
夫のヒロシさんが「行ってきます」と出勤していってから、まだ一時間も経っていない。
その静寂を破ったのは、背後からの音だった。
――チン!
電子レンジの完了音である。のりこさんは手を止め、首をかしげた。
(あら? 私、何か温めてたかしら……?)
冷凍のうどんを出した記憶も、お茶を温め直した覚えもない。
首をひねりながら白い電子レンジの前に立ち、液晶パネルを見る。「00:00」の表示。
のりこさんは何気なく取っ手を引き、扉を開けた。
「……え?」
レンジの中にあったのは、今朝の残り物でもなければ、忘れ去られたマグカップでもなかった。
そこには、料亭かどこかで使われていそうな、薄い木の舟形トレイがちょこんと乗っていた。
そしてその上には、青のりと削り節が美しく躍り、濃密なソースがツヤツヤと光る、焼きたてそっくりの美味しそうなタコ焼きが八個、きれいに並んでいたのである。
「なになに? 何かの懸賞? 電波で届くお中元……?」
あまりの出来事に、のりこさんの思考が一瞬SFチックな方向へ飛ぶ。
湯気こそ出ていないが、香ばしいソースと出汁の香りが鼻腔をくすぐり、思わず生唾を呑み込んでしまうほどの出来栄えだ。
のりこさんはミトンも嵌めずに、木のトレイごとタコ焼きを取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。
その時である。
――ピクッ。
八個のうち、一番手前にあったタコ焼きが、かすかに震えた。
「あら?」
のりこさんが覗き込んだ瞬間、タコ焼きの側面から、爪楊枝ほどの太さの「黒くて細い手足」が、ニュッと四本生えてきた。
「……は?」
声も出ないのりこさんの目の前で、手足を生やしたタコ焼きは、まるで体操選手のように軽やかに立ち上がると、テーブルの上をピョンピョンと跳ね始めた。
続いて二個目、三個目、四個目――。
トレイの上にあったタコ焼きたちが、次々と「ニュッ」と手足を伸ばし、一斉に動き出したのだ。
「ちょっと! 待ちなさい何なのこれ!?」
のりこさんが手を伸ばした瞬間、八個のタコ焼きどもは、蜘蛛の子を散らすようにテーブルの端から飛び降りた。
トトトトトッ!
床に落ちたタコ焼きたちは、驚くべき俊敏さでフローリングを駆け抜け、ソファの下、テレビ台の裏、冷蔵庫の隙間へと、あっという間に分散して隠れてしまった。
残されたのは、からっぽになった木のトレイと、香ばしいソースの匂いだけである。
「な、なんですって……!?」
のりこさんは腰に手を当て、茫然と立ち尽くした。
事態を察知したチャンスが、パタパタと廊下から駆け寄ってきた。鼻をピクピクさせながら「ワン?」と首を傾げる。
「チャンス、大変よ。うちのタコ焼きが……ううん、どこかから来たタコ焼きが、家に逃げ込んじゃったわ!」
チャンスはクンクンと床の匂いを嗅ぎ始めたが、すぐに「くしゅん!」とくしゃみをした。
部屋中にすでにソースの甘辛い匂いが充満しており、これではどこに本物が隠れているのか、犬の鼻でも特定できないようだった。
二、 隠れんぼとサバの味噌煮
その日の午後、のりこさんは通常のエプロンから「戦闘服」とも言える頑丈なかっぽう着に着替え、掃除機とハタキを手捜索作戦を開始した。
「出てきなさーい! 家賃も払わずに勝手に住み着いちゃダメよ!」
掃除機のノズルをソファの下に突っ込み、暗がりを照らしてみる。
「……チッチッ」
奥の隙間から、まるでネズミのような、あるいはタコ焼きの油が跳ねるような、かすかな嘲笑が聞こえた気がした。
だが、ノズルを届かせようとすると、スルスルと壁の巾木を伝ってエアコンの裏あたりへ逃げていってしまう。
家具を動かそうにも、相手はたかだか直径四センチの球体だ。家中のあらゆる隙間が彼らの隠れ家になっていた。
夕方になり、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。……ん? なんかいい匂いがするな。のりこさん、今夜はタコ焼き?」
カバンを下げたヒロシさんが、鼻を鳴らしながらリビングに入ってきた。
「おかえりなさい、ヒロシさん。残念ながら今夜はサバの味噌煮よ」
のりこさんはお玉を持ちながら、平静を装って答えた。
「えっ? でもこのソースと青のりの匂いは……」
「気のせいよ。ほら、手洗いうがいをしてきてちょうだい」
ここで「実は電子レンジから手足の生えたタコ焼きが跳ね出てきて家中に隠れているの」などと言えば、ヒロシさんは疲れから幻覚でも見ているのかと本気で心配するだろう。
のりこさんは事を荒立てず、まずは夕食を済ませることにした。
だが、夜が更けてからが本当の地獄だった。
電気を消し、寝室で布団に入ると――。
カサカサ……。
トトトトトッ……。
天井裏や廊下、ベッドのすぐ脇で、小さな手足が床を叩く音が響き始めた。
のりこさんがガバッと起き上がり、壁のスイッチを押して電気をつける。
パッ!
「そこね!?」
しかし、光が灯った瞬間に「ササッ!」と影が走り、壁の隙間やクローゼットの陰へ消えてしまう。
電気をつけると隠れ、消すと走り回る。
隣でヒロシさんが「うーん……なんか運動会でもやってるのか……?」とうわごとを言いながら寝返りを打った。
結局、のりこさんは一睡もできぬまま、朝を迎えることになったのである。
三、 捜索作戦と主婦の推理
翌朝。
目の下に深いくまを作ったヒロシさんが、寝不足の目をこすりながら出勤していった。
「行ってきます……のりこさん、なんか家の中、変な走る音がしなかったかい……?」
「ううん、気のせいよ。気をつけてね、ヒロシさん」
夫を見送り、玄関のドアが閉まった瞬間、のりこさんの目つきが変わった。
「さて……今日こそ決着をつけるわよ、チャンス!」
「ワンッ!」
チャンスも昨夜の騒音で寝不足だったのか、キリリと凛々しい表情で応える。
のりこさんはまず、作戦の第一段階を実行した。
『換気作戦』である。
家中の窓という窓をすべて全開にし、キッチンと浴室の換気扇を「強」で回した。
初秋の冷たい風が室内を吹き抜け、家の中にこもっていた濃厚なソースと青のりの匂いを外へと追い出していく。
三十分もすると、部屋の中はすっかり清々しい空気と、かすかな草の匂いに満たされた。
「よし、チャンス。今ならいけるわ!」
チャンスは低く構え、床に鼻を擦り付けるようにしてクンクンと匂いを追い始めた。
「クィン!」
チャンスがテレビ台の脚を前脚で引っかく。
のりこさんがすかさず長い定規を差し込むと――ピョン!と躍り出てきたタコ焼きが一匹!
「逃がさないわよ!」
のりこさんは素手でそれをパシッ!とキャッチした。
「……あら?」
捕まえた瞬間、のりこさんは違和感を覚えた。
手に伝わる感触は、柔らかくモチモチしている。
しかし、まったく温かくないのだ。
焼きたてのような見た目と香りを放っているのに、温度は常温、いや、むしろほんのり冷たいくらいだった。
「熱で調理された食べ物じゃないわね、これ……」
のりこさんは、パンを保存するためにキッチンの棚に置いてあった「特大の大型タッパー(四方バックル付き)」の蓋を開け、タコ焼きをポイと放り込んだ。
タコ焼きは深さのあるタッパーの中で「チクショー!」と言わんばかりにジタバタと手足を動かしている。
ここから、のりこさんとチャンスの怒涛のコンビネーションが始まった。
カーテンのひだに隠れていた二個目を、のりこさんがハタキで叩き落として捕獲。
スリッパの中に潜んでいた三個目を、チャンスが前脚で押さえ込んで捕獲。
本棚の隙間にいた四個目と五個目を、掃除機の弱モードで吸い寄せて捕獲。
六個目と七個目は、押入れの陰から同時に飛び出してきたところを、のりこさんが両手でダブルキャッチ。
「よし、これで七個……あと一個!」
最後の一個はしぶとかった。ダイニングの天井近くにある照明のカサの上に乗っていたのだ。
のりこさんは踏み台を持ってくると、大型タッパーの蓋を大きく開けて構えた。
チャンスが下で「ワンワン!」と吠えると、プレッシャーに負けた最後のタコ焼きが「トォッ!」とダイブしてきた。
スポッ!
見事にタッパーの中にホールインワン。すかさず蓋をパチンと閉め、四方のバックルをカチリとロックする。
大型タッパーの中では、八個のタコ焼きたちがぎゅうぎゅう詰めになりながら、互いに身を寄せ合ってプルプルと震えていた。
四、 タッパーと「あたため」ボタン
「ふぅ……全員捕まえたわね」
のりこさんは汗を拭い、リビングの真ん中に置いた特大タッパーを見下ろした。
八個のタコ焼きどもは、タッパーの透明な壁に手足を張り付け、必死に脱出を試みている。
「さて……捕まえたはいいけれど、これをどう処理すればいいのかしら」
生ごみとして捨てるわけにもいかない。かといって、いくらタコ焼きの形をしているからといって、手足が生えて動き回る謎の物体を口に入れる度胸は、いくら逞しいのりこさんにもなかった。
のりこさんは腕を組み、考え込んだ。
事の始まりは、昨日、何も入れていない電子レンジが勝手に「チン!」と鳴ったことだ。
「……そういえば」
のりこさんは昨日の出来事を細かく思い出してみる。
電子レンジの電磁波が何らかの理由で暴走した。
勝手に「チン!」と鳴った。
扉を開けたら、こいつらが存在していた。
「冷たいのよね、この子たち……」
のりこさんはタッパーを覗き込む。
「つまり、熱で温められてできたんじゃない。電磁波の特殊な波動か何かで、異次元から『この世界(こちら側)』へ転送されて実体化しちゃったんだわ。そして『チン!』という音は、転送完了の合図だった……」
一連の時空消失事件をくぐり抜けてきた経験と、長年の家電使用経験からくる察知能力が、一つの結論を弾き出した。
「入ってきた手順の逆をやれば、戻るんじゃないかしら?」
あっちから「温め(送出)」されてこっちに来たのなら、もう一度「あたため」を行えば、あっちの世界へ送り返せるはずだ。
「よし、実験してみましょう」
のりこさんは別の棚から、ひとまわり小ぶりな耐熱性の角型タッパーを取り出した。
もし皿に乗せてレンジに入れたら、扉を開けた瞬間にまた飛び出して逃げられてしまう。絶対に逃がさないためには、密閉容器に入れるのが鉄則だ。
のりこさんは特大タッパーの蓋を少しだけ開け、一番威勢のいいタコ焼きを一個、トングで挟んで素早く小型タッパーへ移動させた。
バシッ!
すかさず四方のバックルをカチリと締め、密閉する。
タッパーの中でタコ焼きが「出せー!」と言わんばかりに壁をボカボカと叩いているが、頑丈なポリプロピレン製には敵わない。
「よし、行くわよ」
のりこさんは小型タッパーを電子レンジの中央に置いた。扉を閉める。
液晶表示は「あたため」。
ダイヤルを回し、とりあえず「30秒」にセット。
――スタート!
ブーン……という回転音とともに、レンジ庫内のライトが点灯し、タッパーが電磁波を浴び始める。
のりこさんは扉のガラス越しに、じっと中を見つめた。
5秒、10秒……。
タッパーの中のタコ焼きが、電磁波を浴びるにつれて、ジジジ……とテレビの砂嵐のように輪郭がぼやけ始めた。
手足が光の粒子となって消えていき、球体の身体も次第に透明になっていく。
20秒、25秒――。
完全にタッパーの中が空っぽになった。
そして。
――チン!
電子レンジが軽快な音を立てて停止した。
のりこさんは慎重に扉を開け、タッパーを取り出した。四方のバックルを外し、蓋を開けてみる。
中は……完全にからっぽだった。
タコ焼きの影も形もない。ただ、ほんのりと香ばしいソースの香りだけが、熱気とともにふわっと漂った。
「大成功ね!」
のりこさんはニヤリと笑った。足元で見ていたチャンスも「ワン!」と嬉しそうに尾を振る。
五、 異次元への帰還
方法がわかれば、あとは作業である。
のりこさんは特大タッパーの中に残った七個のタコ焼きたちに向かって、声を聞かせた。
「はいはい、全員おうちに帰りなさーい。うちにはヒロシさんとチャンスと私しか住めないのよ」
のりこさんは七個のタコ焼きを一気に実験用の小型タッパーへ詰め込んだ。
ぎゅうぎゅう詰めにされたタコ焼きたちは、もはや抵抗する気力もなく、身を寄せ合っている。
パチン、パチンと四方のバックルを固く締め、電子レンジへ。
「一個で30秒だったから……七個で3分30秒ね」
ダイヤルをきっちり「03:30」に合わせ、スタートボタンをポンと押した。
ブーン……。
庫内で電磁波が渦巻く。
タッパーの中で、七個のタコ焼きたちが一斉に光の粒子へと変わり、さらさらと次元の彼方へ溶けていく。
まるで、最初からそこに何も存在しなかったかのように。
――チン!
レンジの扉を開けると、そこにはからっぽのタッパーがあるだけだった。
のりこさんは深々と息を吐き出し、レンジの扉をパタンと閉めた。
「ふぅ……やっと片付いたわね」
ふと見ると、電子レンジの液晶パネルの「00:00」という点滅が消え、通常の時計表示(午前11:30)に戻っていた。
暴走していた電磁波も、どうやら元に戻ったらしい。
時計を見たのりこさんは、「あら大変」と声を上げた。
「もうこんな時間。ヒロシさんの夜のご飯、買い物に行かなくっちゃ」
かっぽう着を脱ぎ、買い物かごを手にする。
「チャンス、お留守番頼むわね。帰ってきたら、美味しいおやつをあげるから」
「ワンッ!」
チャンスは満足そうに尻尾を振り、お気に入りの長座布団の上にごろんと横たわった。
玄関を出て、爽やかな秋空の下を歩きながら、のりこさんはふと考えた。
(あのタコ焼きたち、元の世界で無事にやっているかしら……)
あっちの世界には、手足の生えたタコ焼きたちが群れをなして走っている街でもあるのだろうか。
それとも、ソースの海を泳いでいるのだろうか。
「ま、いっか」
のりこさんは微笑むと、近所のスーパーへと足早に歩を進めた。
今夜の献立は、本物の、手足の生えていない、美味しくて温かい「本物のタコ焼き」にしてあげようか――そんなことを思いながら。
(おわり)




