↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/4

天のイグナクト  拡大版/第一話『天の胎動』

〖天のイグナクト〗

それは【新時代の“社会派”ハードSF超弩級戦記】であり、同時に【日本の一次産業現場の誇り、想いを世へ届けるための水先案内人】として作り上げた近未来/日本を中心とした地球の物語です。

一話は必要最低数、そう思いながらも多くの文字を敷き詰めなければならない。

世界の背骨となる情報を積み上げていく話なので文字数多めです。


読者の生きるこの世界、リアル/現実の延長線上の物語として徹底した取材のちに書き上げた作品です。その空気感、キャラ達の息吹を感じ取って頂ければ幸いです。


正直言いますと1話は導入部のため情報量からも【気軽に読む】ではない物量です。2話以降は各話1/3(1万文字前後)くらいで推移します。

各地の取材で得たモノをフル投入し既に完結までほぼ書き終えています。

修正したものから順次公開予定、完結までほぼノンストップで行くつもりです。

どうか最後までお付き合い頂けましたら幸いです。


冴祈統乾(さえきとうま)  2026年7月31日


■Xアカウント■

【下駄のイグナクト】

(取材/ロケ/備忘録※本格稼働はお盆明けとなります。)

https://x.com/getanoignact


天のイグナクト

『天の胎動』


【潮騒】


夕汐が足元でそっと囁く波打ちの丘。 傾きかけた陽光を浴び、淡い象牙色に染まる小さな洋館がある。 テラスからは、黄昏を待つ弓なりの海岸線が一望できた。


地球の輪郭をなぞるように広大な弧を描く海原。その潮風を受け止めてきたデッキは、今や美しい銀灰色の歳月をまとっている。西日を吸い込み、それ自体が穏やかに発光するかのような、磨き抜かれた特等席。白い建物を縁取るその場所には、一対の椅子とテーブルが静かに佇んでいた。


テラスへと赴く壮年の女性。一歩踏み出すたび、過酷な季節に鍛え上げられた硬質なデッキは、静かで確かな温もりを足裏からそっと伝えてくる。やや長髪寄りのセミロングの美しい黒髪。しなやかな肢体を思わせるシルエットは、女性らしさを纏いながらも弱さを感じさせない。様々な経験を重ねてきたのであろう、佇まいからも一人の人間として成熟した様が伺えた。


女性は椅子に腰を下ろすと、手にした本を開いた。慈しむ様に文字をなぞる、それは彼女の直筆。時折記憶を反芻するかのように、開いたページに手を重ね目を閉じる。彼女は静かに、自身の左の手の甲へ視線を落とした。そこには薬指から手首内側に向かい、うっすらと痣が見える。


おおよそ女性の手にある痣は、忌むべき傷や隠すべき過去として扱われるものかもしれない。だが彼女にとってその痕跡は、決して消えることのない確かな絆の証であり、今も胸の奥を温め続ける大切な記憶の拠り所だった。


傾きかけた陽が夕焼けの陽光となりテラスを橙に染め上げると、同時にリビングから声が届く。


『そろそろ夕飯の支度が整うよ。』


その言葉通り、テラスには食事の気配が芳醇な香りとなり、空気をふんわりと満たし始めていた。


『今日も手の込んだことしたんでしょ?ありがとう。』


当たり前の日常への感謝、その尊さを理解していることが、彼女の笑顔からは見て取れた。何事もなく過ぎていく当たり前の一日。地平線の彼方へと夕日が静かにその身を沈めていくたび、その何気ない日々のひとかけらが自らの人生を紡いでいく。彼女は大切な記憶を愛おしむように、見えない心の絆を深く確かに重ねていく――



【悪意の深淵】


深淵の宇宙。宇宙そらの彼方。凄まじい光の渦の只中に、それはいた。50㌔を超える巨大な紫がかった岩塊。渦中の事態を別にすれば、一見それは虚空を漂うただの隕石と差異はないように思える。だが時折明滅を繰り返す緑の網状の光が、その認識を即座に拒絶した。


不気味な明滅を繰り返す緑の光は、生物の毛細血管のように岩塊全体へ張り巡らされている。その光の網は要所要所の結節点で眩い光玉へと集約され、次の瞬間には閃光となり岩塊表層より放たれていく。その光軸の先には、銀色の六角錐の柱が二柱。


岩塊を中心に取り囲むように位置する銀の柱の全長は約15㌔ほど。

この銀の柱もまた、表層に光の筋が走る。岩塊の緑に対し、銀の柱の放つ光は眩い赤色の発光。同様に光軸の交わる幾つかへ光が集約すると、光球を形成し閃光となり放たれる。岩塊と違い、銀の柱はその滑らかな表層に走る光が幾何学模様を描き出している。岩塊の緑の光の筋を有機的発生を基軸とする無造作の痕とするならば、銀の柱に描き出されるそれは美しいジオメトリック・パターン。様式からも、なんらかの高度な知の介在を予感させる。


双方から放たれる閃光、その応酬は一筋の閃光を、互いの接触の瞬間目も眩む光球へと変貌させた。互いの表層を焼く強烈な光は何らかの化学変化を伴い、様々な色のガスを発生させる。見ようによっては、暗闇の宇宙空間で瞬く狂気の火花のようにすら見える。


立ち込める様々な色のガス、その噴煙を拭うように柱の一本がその向きを変え始める。岩塊に対し縦軸で対していたそれが横倒しになった瞬間、これを脅威と認識した岩塊からは幾本もの閃光が横倒しとなった銀の柱へ殺到する。無数の光軸に晒された柱の表層から、先程の非ではない量の噴煙が巻き起こる。


残された一方の柱がその間に割って入る。

あまりに激しい大量の閃光が、互いを焼き払う勢いで放たれ双方を灼熱の渦へ誘う。横倒しとなった柱は、その隙を突くように深淵の宇宙へ急加速を始める。


何もない漆黒の空間、ただ一点のなにかを見定め、使命を帯びる様に。銀の柱は自身を光の矢に変え、宇宙を貫く閃光となった――



【西暦2039年初頭】


世界は天体観測から端を発する隕石騒動の最中にいた。所属に関わらず、プロフェッショナル/アマチュアの垣根を超えた天体観測者の世界最大団体 【外宇宙天体観測協会(The Deep Space Observation Society)】 が発表したそれは、衝撃の内容であった。


≪地球への衝突コースを避けられない未知の小天体が存在する≫


この報は、世界に困惑と混迷、そして絶望と共に報じられた。また同様に、驚愕の事実も人々の知るところとなる。当初この天体は強烈な発光現象を伴い、初観測から二次観測の時点で導き出された速度は推定秒速9,000km。つまり光速の約3%という凄まじい速度で飛行中であったことが判明。その後急速に速度を落とし、幾度かの軌道変更を重ね地球への進路を取るに至る。


事の発端は2035年、中国青海省(冷湖行政区)。ゴビ砂漠に囲まれた標高4,000メートル級の山々の連なる地帯。この世界でも有数の天体観測の盛んな地で、事態は確認された。


白 星叡(Bái Xīngruì/バイ・シンルイ)。アマチュア天体観測コミュニティでも名の知られ始めていた若手観測者。冷湖レンフーを拠点として活動する彼が捉えた明滅する天体が始まりとなる。その天体は発光と共に塵状のガスの帯を排出、当初彗星かとも思われたが、天体としてはあまりに不規則な挙動から、白 星叡はこの未知の天体の存在に警告を発するため様々な呼びかけを開始する。


後に彼は自身への身の危険からアメリカへ亡命。アメリカ政府の協力を求めるも、公表は時期尚早との判断から事実上の黙殺を強いられる。2038年4月、彼の訴えに耳を傾ける者達も次第に実態を把握し始める。観測史上でも特異な点が多く、最大級重大事項とのことから先の団体、外宇宙天体観測協会を動かす事態へ発展。同会からの公式な発表として、観測の仔細が公表された。これにより事態を隠すことができなくなった各国政府も、足並みをそろえるように公式に存在を認める声明を出し始めた。


様々な観測が全世界規模で進められる中、天体の挙動から隕石ではない、衝突ではなく接触を試みる何らかの知的文明の可能性を含む、意図的な飛来物との見方が強まる。



【西暦2039年暮れ】


12月20日。宇宙、衛星軌道上、複数の観測望遠鏡が高解像度の飛来する小天体を捉え始める。複数計測データを突き合わせ事態を見つめる世界の観測者たち。


これにより明らかとなった小天体の詳細は、全長約15.00km、外周約3.30km、直径約1.05km。表面が銀色の金属光沢を放つ物体であること。時折複数の赤の光を放つことも確認される。赤い光の筋、その直線が交わり明滅する姿は動画にも収められ公開。これは明らかな文明の力による創造物であり、またそれは人類のテクノロジーを遥かに超越した物体であることが理解できる。


この時点で地球よりの距離は約130万キロ。

天体の航行速度は秒速約2.5km(時速約9,000km)となっていた。何を推進に使い加速したのか、どのような手段で減速しているのか。全てが人類の知見の外にある物体。地上からも観測が盛んに行われ、

『侵略者だ。』

『宇宙よりの来訪者。』

『地球の破滅だ。』

様々な論争が巻き起こり、暴動から内紛へと混乱を極める国も出始める。



【西暦2040年】


1月1日。もはや肉眼でも捉えられるその天体は大気圏に突入。だが現実に起こっていることが信じられないような超減速状態のまま、それは降りてきた。

そう、決してそれは【突入】ではなく、ましてや【飛来】ですらない。なんらかの機構を駆動する音もなく、静かに風のみをまとい、天より舞い降りてきたのである。神々しさすら漂う光の反射と共に、銀の柱は完全に大気圏にその姿を下す。


この時点で多くの人は、侵略や破壊ではない、その存在と行動に何らかの高度な【知】の介在、少なくとも害意を持つモノでないことだけは理解していた。


銀色の物体はその後もさらに減速、1月3日の午前8時、その巨躯からは一見すると静止しているかのような速度で、日本近海――下田、浜松、伊豆七島、沼津、駿河、三河、伊勢湾から視認できる海域へと着水した。


様々な海流がぶつかる沖合、着水してからもその巨躯は海中へ身を下し続け、先端が海底に到達してからも止まることなく潜航を続けた。銀の柱はその後も徐々に海底岩盤を削りながら、地球へ侵食の度合いを深めている。


この間、体感することはない小地震が数日にわたり継続。ゆっくりとだが巨大質量が海面に着水することの影響で、満潮時には湾岸周辺に小規模な海面上昇を伴う。これにより一部では軽度ながら浸水する家屋も出始めていた。


1月11日正午過ぎ、銀の柱は完全にその挙動を収める。

最終的には海面から約5000mを覗かせるところまで沈降し、完全にその活動を停止した。



――


時は過ぎ、2075年2月1日。愛知県豊根村。愛知の中でも最山間部に属するこの土地。その土地の村役場。薄明漂う空、東の低空からうっすらと空気が明るさを帯び始める時間帯。この辺りでは珍しい、ややコンパクトな赤い軽キャンピングカーが滑り込んでくる。


5人乗りをベースに専門のビルダーにて改造されたその仕様は、やや硬派な割り切りの仕上げになっている。

フロントに突き出るバンクは就寝スペースとしては定番の造詣だが、リア上部に増設されたカーゴスペース、上部には前方に向け約4度の傾斜をつけたソーラーパネルを兼ねたウイング。その特徴的な外観が、走りへの確かなこだわりを無言で主張している。

車内には一通りの車中泊仕様に冷蔵庫と簡易キッチン。

割り切りと拘りを同居させたその車のオーナーは27歳の青年。身長は170㎝後半だろうか、ウインドブレーカーの袖から覗く適度に鍛えられた腕からは、相応の身体能力を持ち合わせていることが伺えた。


『思ったよりまだ寒いかな?』


青年は身にまとうウインドブレーカーに、追加のダウンジャケットの必要性を感じ装備からそれを取り出した。ここ豊根村は茶臼山高原スキー場を有する、愛知でただ一つウインタースポーツを楽しめるほどの標高に位置する。そのため冬は想像以上に鋭い寒さを伴う。


青年の名は橘真鎖人(たちばなまさと/27歳)。

休暇を利用し、愛知山中にて趣味の昆虫採集に訪れていた。晩冬の昆虫採集の基本は『材割』が主役となる。手斧などを使用し朽ち木を砕き、中の幼虫や越冬中の成虫(新成虫)を採集することが主となる、やや特殊なジャンルの趣味に位置する。ある程度の経験と関連する知識がないと難しい趣味で、簡単に考え行うと遭難の恐れすらある。だが彼は手慣れた様子で装備を整えると、山にグイグイと踏み入っていく。


けもの道をかき分けると、そのまま足場の確認をこなしていた。

事前の情報通り、この辺り一帯は30年前からキノコ栽培のために植林整備が進んでいる。一大コナラ/クヌギの森として再生された山は、近隣に分散する形で残されていた小さな生態系を丸々受け入れる形で拡大し、昆虫たちの新たな生態繁殖地帯と化していた。元々豊かな山林と良質な水資源に恵まれた地域ではあったが、過疎化による住民減少が著しい地域でもある。


天竜川を主としたこの一帯は、人口減少を抑えるための目ぼしい産業が少なく衰退の一途を辿っていた。そんな中この村に新規事業を興そうと、2000年頃より元々あった養殖業を拡大する政策が盛んに進められる。主にアマゴ/イワナの放流など釣りレジャーを主軸とし、その資源維持のための稚魚の確保と人材育成に予算を拡充する政策がとられている。合わせて付加価値の高いチョウザメ養殖を確立し、東海地方では最大のキャビア生産拠点として近年食通たちからも注目を集めるようになっていた。


そこへ第三の矢として、食にこだわるトップシェフ達へのアプローチとして菌床ではなく天然の木材、原木使用を徹底するキノコ栽培へ舵を切る。大量生産の容易な菌床栽培との決別は生産サイクルとして非効率ではあるが、味においては圧倒的な差をもたらす。原木栽培の特徴として手間がかかるが、得られるキノコは高品質。肉厚で引き締まった強い歯ごたえ(プリプリ感)があり、森の香りと旨味が圧倒的で濃厚な仕上がりとなる。食にこだわりを持つ都市部の料理人、またそのシェフたちの皿を求める食通の間でも評価の高いものとして定着していた。


この原木栽培を維持するためには良質なコナラ/クヌギの生産が必須でもあり、そのため森の管理を徹底していかなければならない。その過程で【台場】という、伐採・育成を繰り返した樹木の特殊な状態が形成される。木を地上から約1〜2メートルの高さで水平に伐採し、そこから生えてくる細い枝を何度も繰り返し収穫(約7〜10年周期)する。これがキノコ栽培の原木となるのだが、そうやって繰り返しの伐採で形成されるゴツゴツとした独特の形状がうろを形成していく。これが結果として昆虫たちの隠れ家としての機能を果たし、多くの虫たちを引き寄せることになった。杉が主体だった暗い人工林はクヌギ/コナラの里山として再生し、昆虫たちが爆発的に集まる地域と化し、今ではクワガタマニアの聖地の一つとしても名を馳せている。


ガッガッ、朽ち木を砕く手斧の鈍い音が数度鳴る。固い木に幼虫は住まないことを把握している者であれば、ある程度の当たりをつけて朽ち木を砕くことは容易である。彼もまた手慣れた様子で、倒木などの目星をつけた場所を砕いていく。ある程度表面を削いだ状態になれば、手で毟り取るように材を解体。黒い帯状の蝕痕跡を辿る様に解体を進め、幾匹かの幼虫へ辿り着く。彼は荷より小さな容器を取り出した。中にはあらかじめおが屑に菌糸をまとわせた物を詰めており、そこに幼虫と共に元の成育環境の木片を投入していく。


そうやっていくつかの材を解体していると、黒光りする物体を見つけた。


『おっ、居た。』


オオクワガタの成虫だ。クワガタも生息実態の解明が進み、多くの種で飼育環境・繁殖方法が確立されて久しい。オオクワガタもそういう意味では一般的な普通種に分類される。だが彼のように野生個体を採集する者が絶えず存在することの意味は、こういった一連の採集行為もさることながら、得られる個体が人工飼育環境からのそれとは違った形状的な特徴を備えるからでもある。


一般、興味の薄い人達には教えられても大差ない・わからない微細な点にロマンを感じる層は、これに限らずどのジャンルにもいる。食、酒、たばこ、オーディオ、車――全てにおいてそれぞれが求めることのゴールが違うため細分化し、それぞれに至高の価値が存在する。そういった探求の心に取りつかれた者が何かを求め続けてきた所産として、文化が存在する。もっとも、その探求にのめり込んでいる者達の大半にその自覚がないのも共通している。それ程に夢中になれる熱量こそが、文化醸成の土台として必須なのかもしれない。


そうこうしている内に日は暮れ、灯りの必要性を認識して彼の手は止まった。

初めて入る一帯、辺りの地理的知識はなく端末の電波も届かない。概ねその周辺の樹勢配置のみ頭に入れてきている。端的に言えば遭難している状態だが、彼には豊富なサバイバル知識がある。高所や難所で季節が悪くなければ、仮に遭難しても日が昇るタイミングで人里へ戻る事は容易。


『こう茂っていると動くより野宿かな?』


そう決断し、辺りに適当な平面を確保。簡単な風よけの囲いを組み立て、準備していた荷から簡潔な調理器具と食材を取り出すと瞬く間に二品ほどの調理を済ませた。12センチほどの鉄板の上で食材を手早く混ぜ合わせバーナー加熱調理、アルミホイルを被せ鉄板の余熱で中まで火を通す。余熱調理の間に野菜を手でちぎり取り、ビニールの袋で調味料と合わせる。山中で取る食事としては十分に食を楽しめる仕上がり。樹脂製のカップに水筒からコーヒーとスープを注ぎ食事を済ませると、そのままシェラフに身を潜り込ませた。


『朝になったら方角だけ確認しよう……』


そう呟くと、彼は宵闇に意識を潜り込ませた。


――


豊根村、御滝堂不動滝周辺。村役場から北に5㌔ほど進んだところにそれはある。豊根村は地域的には静岡県に近い位置にあり、東の天竜川を含む多くの河川が通る日本でも有数の水源を持つ地帯。御滝堂不動滝も枯れることのない湧水の一つ。この地域は地球の巨大な断層帯である「中央構造線」の東側に位置し、標高1,415mの茶臼山をはじめとする急峻な山々に降った雨や雪がその源として機能している。それらの水は何層もの岩盤を何十年もかけて潜り抜け、ミネラルを適度に変調させながら極めて濁度の低い良質の湧水となって、大入川や複数の渓流へと注ぎ込む。


この豊富な水量を利用した産業の筆頭が、複数魚種での養殖業である。その中でも近年発展の核となっているのが、チョウザメ養殖によるキャビア生産。このキャビアは日本全国の食通からも最高級キャビアとしてインペリアルの称号で親しまれており、村の特産品としても広く流通するまでに発展している。そういった養殖場の一つがここにある。チョウザメは雌雄の判別が難しく、その判定には早い種で約3年、長いものでは5年の飼育を要する。また卵の採集・キャビアとしての商品出荷にも長期を要するため、コスト管理の面でシビアな選択を迫られる側面がある。


この御滝堂不動滝養殖場は、複数種のチョウザメを一つの施設で飼育する方式を確立しており、それぞれの種にエキスパートとなるべく専門の職人を配置、厳格なグレード管理を徹底しているのが特徴。またオスのチョウザメを食用として上品な味に仕上げることの研鑽も深く、様々な活用法を模索している。


早朝より始まったそのチョウザメの出荷はひと段落。今は一日の仕上げとして日が暮れる前に、各水槽への振り分けサイズ選定とキャビアの採集が行われていた。慌ただしく水槽のチョウザメを救い上げカーゴに乗せていく職人たち。


『それで最後だ!サイズ選定したら水槽に振り分けといてくれ。』


多くの職人達に手早く指示を出し、水槽への選別個体調整を担当するこの者は、施設長の小早川逞志こばやかわたけし56歳。

豊根村のチョウザメ養殖は2000年代初頭、熊咲人志くまさきひとしという人物が立ち上げた村おこしプロジェクトが起点である。その直接の指導を受けた数少ない者の一人がこの小早川逞志である。

自身でも養殖場を複数経営していたが、今はそれを子に任せ現在はこの御滝堂不動滝養殖場に籍を置く。その理由は、ここ御滝堂不動滝養殖場が国内主流のコチョウザメではなく、品種改良のない天然ロシアチョウザメを扱う点に端を発する。生育期間の長いチョウザメだが、その中でもロシアチョウザメは出荷まで更に長期の飼育を要する。

だが採れるキャビアもまた至高の一品。

その最高級品質のキャビア生産を目指す取り組みに踏み出した点にある。そういった熱量・心意気に共感した経緯がある。職人としての夢を形にしようとしている志、そこへ情熱を注ぐ次世代に対する深い共感が、彼にこの選択を快諾させた。

そしてその共感を寄せた相手が、この施設のオーナー。


『逞志さん!!空いたカーゴまとめて上に運んどくね!』


威勢の良い声が響く。声の主、彼女がそのオーナー・銛旭柰もりあさな29歳。


『了解!出荷調整連絡はやっとくからそちらも適当に切りいいところで上がって』


旭柰は水産会社(株)霽寿せいじゅ商店三代目として、先代・銛燈志もりたかし66歳より


『海は任せた~あとは山で気楽に生きるべ。』


との突然の引退宣言を受け、若干24歳で事業を継承。元々学生時代より父の仕事を手伝っていたため、引き継ぎ・継承自体はスムーズに行われた。しかし様々慣れないことへの取り組みも増加し、慌ただしい日々を過ごしていた。


本来であればここへ来ることは月に二度であるが、小早川より先のロシアチョウザメの初キャビアが取れそうだとの報を耳にし、いてもたってもいられず急ぎ訪れた。メインの養殖個体とは別に試験的に父の代から先行飼育していた個体群、その多くがメスだと判明。言葉通り山に消え、普段概ね消息不明、稀に電話やメールで連絡が取れる以外は何処で何をしているのか教えてくれない父へこの事を伝えたところ、


『それはあれやね、俺の目利きが雌雄を見分けてたということよ。やっぱりわしは天才やな~』


と自信満々の返信が返ってきた。その様から相変わらずの健勝が伺え、当分好きなことして帰ってこないだろうなと悟ってしまう程に、娘としては父の在りようが想像できた。


先代は事業主としては破天荒で型破り。どちらかというと数字のことは母に託し、直感で事態を切り開いてきた感がある。幼少時はその父の姿が勇ましく感じられたが、自身が大人になって思い返すと母がいなかったらどうなっていたんだろう……と感じたりもした。


ともあれこれは父にも娘にも、そして事業全体に対しても予想外の吉報。彼女は手に取る物も適当に急遽名古屋より車を走らせ駆け付けた。そのため到着後も仕事を早く終わらせようと自身も発注票を片手に雑務も処理、ラフテレーンフォークリフトを操り使用済みのカーゴやパレットを搬送していた。通常のフォークリフトとは違い大型のタイヤを搭載するこのフォークリフトは、未舗装の路も走破できる。養殖場周囲はアスファルトの敷かれていない砂利敷設の路が多く、敷地内も同様に多くが未舗装となっていた。


養殖場より裏手に登ったところ、山間に食い込む形で駐車場と荷置き場が整備されている。100mほどの道の先、既に出荷に使用し積み上がった洗浄前パレットの横に、新たに運んだ荷を下ろす。

彼女は手慣れた動作で旋回し、養殖場併設の宿舎への帰路に就く。


『来週は本店限定でキャビア並べられそうね♪試食も楽しみ♪POP描いちゃおうかな。』


スケジュールにない来訪、ついでという事でシベリアチョウザメのキャビアを自身の継承した法人本店で販売しようと、少女のようにウキウキしていた。

彼女のこの様は経営者のソレではなく、自身の楽しみを反芻するようにも見える。旭柰という人は、経営者として事業を展開するよりも前に魚、しいてはそれを扱い人の輪を醸成してきた父とそれを支えた母への敬愛が根底にある。幼少期より父の目利きで選ばれた魚、それを求める地域を跨ぐお客さん、それらを俯瞰できる立場であり、周囲からの愛情も豊かに受けて育った彼女。

それらの中心にいる父が彼女にとって誇りと感じるに足る存在だったことは、想像に難くない。

その父を取り巻く漁師~仲買人~顧客らがいて、この間で醸成される人の心の変遷、それが彼女の根幹にある。

魚に対する感謝の気持ちは、彼女の中で絆の証明のように据えられていた。


ガコッゴゴッ。突然の振動にフォークリフトのブレーキを踏む旭柰。


『あ、なにか踏んじゃったかな?』


一帯は森林に囲まれる地域。未舗装故に雨風で時折大き目の石や倒木が山間傾斜より転がり落ちてくることはままある。今回もその類かなと運転席を降りた瞬間――ガサガサガサッ!!ドっ!突然山間から転がるとも駆け降りるとも判断つかない勢いでナニカが出現。熊!と一瞬身構えるも人であることを確認、変質者か!と思い声を発するのとほぼ同時に、


旭柰『くせもの!』 真鎖人『こんにちは、あっ、もうこんばんわですね……』


同時の発声と相手の敵意のない言葉に、安堵より先に拍子抜けしてしまった。

相手、声の主はよく見ると薄汚れた身なりの青年。立ち振る舞いから別段変質者でないことはすぐに理解できた。


『貴方こんなところでなにしてるの……ひょっとして迷子?』


普段この周辺では地域の人以外に遭遇することもなく、仮に誰かと出会っても皆何かしらで顔を合わせた人が大半。旭柰の存在自体は広く知られていたため、知らない顔+薄汚れている+それなりの装備を持ち合わせている、この三点から遭難、迷子というワードに辿り着いた。


『迷子……ですかね?山に昆虫採集で入ったんですが昨日夜間で方向が分からなくなって。』


どうやら野宿の後も山間を採集で徘徊し、二日続けての野宿となってはならんと山を降りてきたらしい。

旭柰は変質者ではないことに安堵すると共に、少々笑いと呆れ顔で、


『そういうのを迷子っていうのよ。この辺りには何もないからひとまずリフトに乗りなさい。まだ時期少し早いけどこの近くは熊が出たこともあるのよ。』


そういうと彼女は、この遭難者をリフトの後部に乗るよう促した。


『手間をかけさせてしまいすいません。』


そう軽く会釈すると、飛び乗るようにリフトの後部へ身を収めた。その鮮やかな身のこなしに感心した旭柰。


『なにかスポーツでもしてるの?』


と感じたままの疑問を呈した。それほどに軽い身のこなしの青年。目の当たりにした者からは当然の感想として口をついた。


『ええ、まあ昔から色々とかじったり。今は研究職ですが。』


その返答に直感的に昆虫関係学者のフィールドワーク?と解釈し、まだ名を名乗っていなかったことに気が付いた。


『そういえばまだ名乗ってなかったわね。ごめんなさい、私は銛旭柰。この先の施設で養殖場を回してるの。』


それを聞いて彼は咄嗟にチョウザメを思い浮かべた。この辺りがチョウザメ・キャビアの一大生産地となっていることは事前情報で把握していたため、それ以上確認することもなく、


『橘真鎖人です。よろしくお願いします。』


差しさわりのない受け答えに、真面目そうな子ね、と感じた旭柰。


『どこから来たの?』


『刈谷です。そこから車で役場まで。』


『ああ、役場の前の駐車場、あそこに停めてるのね。いいわ、もう今夜は宿舎に泊っていきなさい。明日車で送ってあげるから。』


一瞬真鎖人は、通りに出れば方向もわかるし歩いて戻れると思ったものの、旭柰は、


『それにそんな薄汚れたままじゃなんでしょうし、職人さん達の大風呂も沸いてるから使いなさい。』


『あなた丁度いいわ、今日は試作品の試食もあるのよ。これも何かの縁だから味見していって。』


そうまで言われては断るのは無礼だと感じ、真鎖人は有難くご相伴にあずかるべきと判断した。


『ありがとうございます。お手数おかけしますが試食させて頂きます。』


『素直でよろしい♪決まりね♪食事は大勢の方が楽しいものね♪』


と声を弾ませた。彼女からすれば父親から事業継承した後に形を成すモノの先鋒がチョウザメの安定展開。その高揚もあり、この縁も何か意味のあるものだと好意的に解釈することに何の違和感も持たなかった。


――


宿舎では職人達が一日の業務を終え、食事の準備に入っている。


待ちに待った珠玉のキャビア試食というイベント。


その際に合わせる料理も準備されていた。旭柰が来るとなった時点から仕込みは始まっており、そのための食材を買いに走った者もいる。無論旭柰には内緒である。皆彼女の情熱、事へ挑む熱量を理解している。

ここに集った者はそのための協力というある種の絆で繋がる側面がある。普段から無用の心配や気遣いが彼女の枷とならぬように接している。自然に周囲がそうしてしまうのが、旭柰という女性のカリスマを示しているのかもしれない。


養殖場と併設するように並び立つ宿舎には、舗装された区画が一か所だけ確保されている。

宿舎入り口横のその場所は、リフトの停車兼メンテナンススペースとして簡易的な屋根と釣り上げのクレーンが配置されており、フル活用すれば大型車の整備もこなせる。

職人の中には複数人が特定自主検査者の資格を有している者がいるため、実質ここでかなりの重機関連フルメンテが可能となる。

そもそもがこの一帯での交通手段が車に頼ることになるため、他地域と比べなんらかの技能を有している者も少なくない。旭柰もそれら環境に適応するようにいくつかの資格を所持している。リフトを自在に操るのもある種の必然なのだろう。


リフトの音に主の帰還を感じた職人達が出迎えに現れる。


『社長、なんです?山で男拾ってきたんですか?』


『人さらいまで商売に……』


など皆適当に茶化しはじめる。旭柰にとっては毎度のこと。


『そんなんじゃありません。山で迷ってたみたいで保護したの。橘真鎖人くん。とりあえずお風呂に案内してあげて。』


皆一様に、社長ならそういうこともあるかと納得の様子。様々な面で事の流れはさておき、謎の引きの良さを発揮してくる人だというのは職人達も共通認識としてあるようで、


『橘君、こっち来な。もう何人か入ってるから案内するよ。』


真鎖人は促されるままに、山での汚れを落としに浴場へと向かった。


食堂には職人たちが持ち寄った多様な日本酒が並べられていた。

職人自身の故郷の地酒、単に普段から飲んでる好きな酒、祝いで使おうかと保存していた酒、ひねそうだからとここで消費しちまえ、という打算も含め多様な酒が並べられていた。


その中で一際異彩を放つ四合瓶がある。


特注であろう意匠が凝らされたそれは瀬戸切子という、2000年以降に愛知で作られ始めた新興のガラス細工。江戸切子が1800年代からの歴史を持つ、ある種の【和】を基調とした直線的デザインを特徴に持つのに対し、瀬戸切子は曲線を多用し色にも変化をつけた点が特徴的なガラス工芸。瀬戸切子はやきものの街である愛知県瀬戸市にそのルーツを持つ。

瀬戸市は「せともの」の語源になったほど、1000年以上の陶磁器(瀬戸焼)の歴史を持つ街。しかし瀬戸の土壌からはガラスの原料となる「珪砂けいしゃ」も豊富に採れるため、実はガラス産業との縁も深い土地。そういった土地の産物を生かすため多様な装飾が施され、研鑽を深めた文化的背景がある。その技が凝らされた4合瓶。詰められた酒はそれだけで特別な何かを想像させた。


この酒の正体は、旭柰たち養殖場の皆が契約農家に依頼して育成・収穫した酒米を原材料とし醸した試作品。

水の豊富な土地なのに酒蔵がないこの一帯の特産品とすべく、周辺他地域酒蔵の協力を仰ぎ生産している小ロット品である。

贅沢にも磨き35%としたこの酒は、まだラベルすらない完全社内販売のみに留まる試作の一品。


日本酒は酒米と呼ばれる、普段食する米とは違う特殊な米を原料として作られる。日本酒の原料になる酒造りのために作られた特別な米。正式には「酒造好適米しゅぞうこうてきまい」と呼び、普段食べているご飯のお米(食用品種)と比べ以下のような違いがある。


・粒が大きい:お米の表面を多く削るため、大粒である必要がある。

・「心白しんぱく」がある:米の中心に白く濁ったデンプンの塊(心白)がある。


ここが麹菌こうじきんの住処になり、味の良い香り豊かな良い酒を醸す中核となる。

雑味が少ないため、普段食する米に対しタンパク質や脂質が少量、結果として醸される酒はスッキリした味と香り豊かな吟醸香を纏うことになる。つまり普通のコメでは旨味が強過ぎて酒としてはくどくなってしまう。

今回用意された件の日本酒は、米の65%を削り取る「磨き」といわれる作業をかなり入念に得ている。「35」という数字は、「お米の表面を65%削り落とし、中心の35%だけを残して贅沢に使った」という意味。

この磨き込んだ米で醸す酒は大吟醸を名乗れる。


吟醸香という甘美なフルーツを思わせる香りを纏う酒とキャビアの組み合わせ。

合わせる他の食材にも酒同様に工夫が凝らされている。ロシアなどは定番として、ブリニと呼ばれる小麦粉・そば粉のパンケーキのような生地にキャビアを乗せいくつかのアレンジを加えたものが有名。だが日本人としてはここに蕎麦がきで攻めた品をチョイス。アクセントとして無塩バターを使うなど徹底したキャビアに合う調理法の模索がなされていた。

他にも異彩を放つ手の込んだ品として、ニラをコメ油で弱く熱しその油と魚介出汁を使用した冷製カッペリーニ。これにキャビアを乗せる。

磨きの極まった酒との相性も抜群、至高のペアリングが誕生する。


丁度それら多様な品が並べ終わったタイミングで、旭柰も真鎖人と食堂に戻ってきた。職人の一人が、


『よう、にーちゃん酒はいけるのか?』と尋ねる。


『はい、人並みには。』


そのやりとりを見ていた小早川が真鎖人にグラスを渡す。


『経緯は知らんが社長が連れてきたのなら客人だ。飲めるのなら楽しんでいってくれ。』


旭柰も同様に、


『今日はそういう日なの。運がいいわよあなた♪』


と満面の笑顔で述べた。

真鎖人としては全くの部外者の自分を快く迎え入れてくれている人達へ戸惑いつつも、素直に感謝の気持ちを示し宴に参加した。真鎖人のグラスへも秘蔵の酒が注がれる。旭柰と小早川の乾杯の音頭。


2070年代、日本は多くの自治体で人口減少による過疎化の問題は避けては通れない事態となっていた。

だがいくつかの自治体では、産業をダイレクトに海外発信する手段などから人口減少の問題を食い止めるケースも見られ、これら地方創生が起点となり限定的ながら人口増加に転じている自治体も出始めていた。また若者の地方自治体政治参加が顕著に増え、危機感が事態を打開の方向へ動くケースも見られるようになっている。

ここ豊根村は産業主体の官民連帯成功ケースの一つである。地域の特質を生かした独自の商品開発と販路開拓、その結晶がこのテーブルに並んでいる。


酔いも回り、皆がそれぞれの課題と見通しなど喫緊の話を終え、話題は真鎖人自身の事へも及んだ。

趣味の昆虫採集、採集した個体の話など、職人たちは幼少時代の自分達のそれを思い返しながら談笑が続いた。

旭柰は虫が苦手なため苦笑いで深く混ざれない。

特に経験として海外で現地の人も食べる食材だからとしこたま昆虫食をふるまわれたことが、軽くトラウマになっている。だが真鎖人の話は、周辺の環境がキノコ栽培から生態系へそのような変化をしている事に及ぶと、その発生している事態への関心を寄せていた。人が営みを変え環境に関与する事、角度を間違え切り込んだことで環境負荷から破壊に繋がったのが100年前の日本。その教訓が今の社会に生きているとの思いに至る。


亥の刻、時刻が22時を迎えるころに宴は終焉を迎えた。翌日を休日とする狭間の酒宴は、真鎖人と旭柰、職人たちにとって有意義な時間となった。真鎖人に宛がう部屋の説明を終えた旭柰は、自身翌日の動きを伝えた。


『今日はこの部屋を自由に使って。明日10時ごろに私も出るから役場まで送ってあげる。』


『食事に宿泊までご配慮ありがとうございます。』


『気にしなくていいわよ。みんなもあなたの事気に入ってくれたみたいだし。何より貴重な意見も頂けてこちらも感謝よ♪じゃあおやすみなさい。』


試作品に対し様々意見交換をしていた事を指し感謝の意を述べ、彼女は自室へと戻っていった。真鎖人は明日の荷物の整理を済ませ、今日の事には後日礼の一つもせねばなるまいと思案し床に就いた。


――


翌朝。前日の宴よりそのまま宿泊した職人たちは、休日ということもあり皆帰宅し始める。旭柰も自身の持ち帰る成果物の車への積み込みをしていた。


『持ちます。このぐらいは手伝わせてください。』


真鎖人そういうと、旭柰が重そうに抱えていた荷物を軽々と持ち上げ手早く車に積み込んだ。


『やっぱりスポーツで鍛えている人は力持ちね。感心しちゃった。ありがとう。』


と素直に礼と感想を述べた。

真鎖人からすれば手斧振り回し山間徘徊、自身の置かれてきた境遇で勝手に筋力がついているため鍛えているという認識もなかったのだが、そうか普通に他者からはそのように見えるのかと得心していた。元々自身の事にさして頓着のない、やや天然のきらいがあるのを彼は自覚していない。時折なにかの切っ掛けから理詰めで事態を把握、その時初めて人の目線・視線・認識を自覚している。その様が周囲からは飄々としているように見える。彼を知る多くの者が共通する認識の一つである。旭柰も同様の印象を彼に抱いている。


積み込みの終わった車に彼をいざなうと、旭柰は運転席に身を沈め宿舎を後にした。養殖場宿舎から村の役場は5.5㌔ほど、時間にして約10分で到着する。二人が他愛のない会話をしてる間に車は役場へと到着した。


『ありがとうございます。お世話になったお礼のために後日名古屋のお店にも寄らせていただきます。』


真鎖人はそう告げると自身の車に乗り込み帰路へと着いた。走り出す真鎖人の車を見送りながら旭柰は、この出会いの意味を日常の変わった一幕として記憶にとどめ、自身の問題へ思考を走らせた。事業を継承し仕切る側の立場となって数年。養殖場のこと含めまだ父の仕事を把握する最中であることを再認識し、自身を鼓舞していた。


『さあ私も戻ろっと。』


そう呟き気を引き締め帰路に着いた。


――


社会構造、それは絶えず再構築を提示し、なんらかの思惑と対峙しては利権と混ざり、その果てに不完全な解を成す。その過程で発生する様々利潤は為政者たちの懐を潤すこともあれば、純粋に困難へ直面する人への助けとなる事もある。日本は件の宇宙よりの飛来物を取り巻く環境から、社会的な枠組みへそれを組み込む最前線に立たされていた。


2040年、その活動を停止し静岡・浜松の沖合、伊豆諸島の西へその巨躯を固定した銀の柱。この扱いを巡って様々な駆け引きが行われた。事は地球規模の問題。日本は自国の持つ海底探査能力をフルに発揮できる点からも、この柱の調査で各国思惑とは関係なく主導的立場となる。


時の首相・聖清蔵ひじりせいぞうは、自身、政界での地盤を固める意味合いからもこの関連へ大きな賭けに出た。世界各国の関連調査へそれぞれの国の調査団をチームごと受け入れる施設を静岡に整備、調査探索の核となるメンバーの調査船への乗船を保証、その一大プロジェクトを2040年1月の間にまとめ上げてしまった。元々、【地球深部探査船≪ちきゅう≫】という世界的にも並ぶものがないほど突き抜けた船を要する日本。それを操る高度な技量を備える人材を独占的に抱えているため、調査での主導的役割は当然の帰結である。そしてタイミングとしての利点が日本にも聖にも追い風となっていた。


【地球深部探査船≪ちきゅう≫】


2045年を運用限界の年と想定、2038年より後継として【次期地球深部探索船≪きぼう≫】が長崎造船所で建造されていた。船体は2040年・銀の柱の完全停止より前に完了していたが、上部構造物、つまり核となる先端設備の製造を岡山で行う事になっている。一社ではなく二社にわたる建造計画として進められていたのは、1000億を超える規模の造船プロジェクトのリスク分散の側面が強い。そして装備する機構は≪ちきゅう≫同様のライザー掘削を始め、追加的に柱の調査に必要と思われる特殊装備を多数取り入れていた。これら設備を船舶装備として十全に扱える場所が岡山にしかなく、船体と機構を別プロジェクトとする建造が進められていた。


≪きぼう≫の開発と並行する形で2040年2月には日本の調査団が先行、翌月2040年3月には世界25か国から調査団派遣の取り決めが締結。≪ちきゅう≫は退役を目前に、最後の大仕事に臨むこととなる。


【2045年】


この頃には柱の周辺調査は完了、静岡浜松・浜名湖には各国調査団を恒久的に受け入れる場として、幕末、かつての出島のような機能を果たす区画が作られた。元々広大なゴルフ場として運営されていた物を2030年代に国が買い取り国有化していた土地。当初は少子化対策の完全完結型コンパクトタウン構想が組まれていたが、各地で産業を興す支援プロジェクトが活性化、軌道に乗りはじめる自治体も出てきたことから塩漬けになっていた。この場所を滞在設備としてフル活用した格好。


浜松中心からも近く、大都市・愛知・名古屋と首都・東京へのアクセスも良好。なによりほぼ陸路を使わず浜名湖から弁天島を中継、舞阪エリアに新設された


【浜名湖今切国際ハーバー】


これを利用し短時間で外洋に出られるルートを持つ。そのほか東西大都市(東京・愛知)には双方に国際空港があることから、地の利を最大限生かす流れで静岡は開発ラッシュに湧いた。2040年代後半には観測調査が次の段階に突入。銀の柱は周囲をぐるりと取り囲む形で恒久的なメガフロート構想が開始される。先の浜名湖今切国際ハーバーを使うことで、このメガフロートは観光地域としての意味合いも増し、ある種のバブルのような様相を呈していた。


2050年代は柱の構造調査を進める傍ら、周辺海域が未曽有の漁場として発展。元々が和歌山・潮岬から黒潮の流れの直線状にある地帯。豊富な魚種が生息する地域でもあるが、柱定着以降は小型の魚が増え始め、それを追う形で各種マグロまで獲れ始める。原因は不明ながら周辺海域に潮の滞留があるのではないかなど、様々説が唱えられた。


2050年半ばにはメガフロートの拡充に伴い、民間団体の施設、漁業基地としての港湾整備を中心に民間のメガフロートの活用が活発化。また漁業権の取り決めなどで愛知・名古屋の漁師を筆頭とした陳情連盟が発足。中には周辺海域で獲れたマグロを背負い首相・聖清蔵へ直談判に訪れる猛者も現れ、世間を賑わせた。


このようなある種の熱狂を伴う形の柱フィーバーを利用してしまうしたたかさが聖にはあり、その熱の後押しを受ける形でメガフロート特区計画をぶち上げる。世論推移から好機と見るや解散に踏み切り、衆参同時選挙へ突入。公約に特区制定・住民移住を掲げた聖率いる【さきがけにっぽん】は、衆参で圧倒的単独過半数を取り歴史的大勝を飾る。


【2060年】


先の大勝を受け公約でもあった、銀の柱周辺メガフロート特区制定に関する法案が整備。聖自らが議連を率いる形でトップダウンの動きと併せ、強力に進められるそれは


【海洋メガフロート先端国際都市特区】として成立。


特区住民として研究者とその家族を中心に、正式に住民登録が始まる。併せてメガフロートには正式に空港が配備される。


地域一帯は行政法上、伊豆七島・小笠原諸島同様に東京都管轄。財務省はこれらメガフロート一帯を「国定無主地(所有者のない土地)」として取得、国有財産台帳に正式登録。管理権限を「内閣府(特区担当)」および「国土交通省」に集約する。併せて暫定的な治安・裁判権の確保のため治安を「警視庁(東京都警察)」と「東京地方裁判所」の管轄とする政令(閣議決定)を通し、法秩序を維持することとした。


研究施設が恒常的に置かれるため各国調査団からなる外国人の割合も増えるが、定住者ではないため大使館的な機能はなく、結果として日本の国内法による法秩序の担保を優先させた形。


【2062年】


メガフロート移住による人口増加と並行し、都との話し合いから一帯地域の東京都組み込みの一環として【24区設置特別法】が衆参両院で可決される。これを受け地方自治法・大都市地域特別区設置法などの「特例」として、「八丈島西方の指定区域を、東京都の24番目の特別区(一色区)として設置する」ことを法律で確定。


一色の名称は、地域発展と一帯漁師の取り仕切り、漁場の保全枠組みへ多大な貢献を果たした陳情連盟所属の多くが愛知を拠点としていたことからくる。その地にはかつて政治の代償を払うように漁業権を返上し姿を消した【下之一色漁業協同組合】が存在した。そのためこの地の想いを引き継ぐ者達の尽力をねぎらう意味も含め、一色を冠する命名がなされる。


この流れを受け【憲法上の手続き】として、東京都における住民投票――日本国憲法第95条に基づき、この自治体への特別法が投票で過半数の同意として示された。2063年秋には一般住民登録の正式な受付も開始され、豊富な漁場、開発ラッシュの恩恵から一気に5000人を超える移住者が殺到。住所としても東京都一色区が24区として定着していく。


2065年にはこの勢いのまま聖の悲願であった、自衛隊を正式な国の護りの要、中核として据えるための国防軍再編が進められる。銀の柱という人類には未知のテクノロジーが国の真ん中に鎮座することからも国民の国防意識は高まり、議論も活発化。様々既存の枠組みを利用する形で名称を変更しながらも、建付けは現行同様の防衛に徹する形の再編を達成。この大仕事を最後に支持率9割越えを維持しながらも、


『わしゃもうやることやったし爺じゃからの、未来は若人が論じて作ってくのが筋。柱眺めて隠居するべ。んじゃ後は次代諸君よ、よろしゅうたのんます。ほなさいなら。(実際の公式発言・原文まま)』


と世紀の明言を遺し、2066年末、65歳で本当に政界を引退してしまった。引退後は下田の岬に某有名無免医の如く家を建て、遠望に銀の柱を眺める隠遁生活に入る。地域の住人、特に子供たちからはその風貌由来の髭爺として親しまれている。


そして時は過ぎ2075年5月現在――。


一色区は人口2万人を有する漁業と銀の柱観光の地として、発展の最中にあった。一色区は大きく分け柱の東西南北の4か所を区切り、それぞれを北から時計回りに一色区1~4丁目としている。空港を中心とした水産加工施設の多い1丁目、研究施設に観光など商業区の多い2丁目、住民の多い3丁目、漁港中心に船舶ひしめく4丁目。


この配置は偶然こうなったわけではなく、綿密な都市開発計画に基づく。外洋を眺めながらの柱観光というロケーションを主眼に置いている2丁目開発などはその様を可視化している。港・空港を柱西側へ配置しているのも、本土への航路・空路アプローチを意識しての配置。特に空は密集している日本の空路状況からアプローチを北東→西南(またはその逆)で組み立てて、滑走路も周辺空域へ最大限配慮した配置としている。併せて重要施設としての銀の柱研究の中心地でもあるため、この空港は軍港・軍施設としての側面も持ち合わせ、本土基地とも密な連携が取れる規模を有していた。


特に2075年、日本が正式に配備している次世代型AI駆動戦術戦闘機・ライトニングボルト(SX-VF110S)に関しては国内最大数60機配備の規模となる。史上初AI搭載の使役補助機×2機を搭載する機体であり、日本のトウマ重工開発という国産戦闘機。聖の定義した国防軍、その日本の護りの要として万が一の銀の柱への緊急対策を見据え、国内でも最大の防空監視体制を維持していた。


ただ空港自体は民間機用の2000m滑走路を主軸とし、国防軍の多くの機体が垂直離着陸を主となる航空事情も合わせ、敷地面積としては比較的コンパクトに収まっている。このメガフロートの形状は上空からの平面で見ると柱を中心に周囲をぐるりと取り囲むドーナツ状の陸地、そこに全長2000メートルの滑走路が左上に斜めに食い込む形で隣接、陸地の幅は約2500m。総面積は滑走路含め約30平方キロに及ぶ。


これは都内では比較的コンパクトな新宿区と千代田区を合わせたぐらいの面積に匹敵。この2区の住民は総勢約40万人。そこから考えると一色区は住民登録を置く地域住民2万人に軍関係者と研究開発施設の人員(外国籍研究員、その家族含む)が3500人。そこへ観光客が来たとしてもどれほどのゆとりある空間かがうかがい知れる。


このコンパクトな海洋都市でひしめく漁船の受け入れとなるのが一色漁港。関西~関東の広範の漁師漁船が行き交うこの港を仕切る立場に、3つの法人格が存在する。


一つは都内有数の水産卸を主体とする株式会社東京魚類販売。関東の仲卸の中核的な存在。


次に株式会社魚漁一番星ぎょぎょいちばんぼし。元はお笑い芸人・魚★(ぎょせい(星))として名を馳せた芸人コンビの二人(星野八郎ほしのはちろう55歳・魚住淳二うおずみじゅんじ54歳)が、実家の家業継承で双方の会社を合併させ誕生した会社法人。かなりアクが強いが義理人情の二人の性格そのままの社風が特徴。


最後が愛知を根拠地とする霽寿せいじゅ商店。飲食業態を中心に養殖から仲買に漁師組合など、多くの業態を統括内包する。その代表であった銛燈志先代は、この一色区を形成する際の中核となり議員達への陳情集団をまとめ上げてきた立役者。


現在はその娘・銛旭柰が事業を継承し、そのまま一色区の漁港を取り仕切る役目も引き継いでいた。旭柰の継承当時の年齢は若干24歳。引継ぎに際しては当然の如く一騒動が勃発。だが学生時代より水産現場へ出向き熱心に研鑽を深めていることを知っていた競合他社の職人達の後押しもあり鎮静、特に先の魚漁一番星の継承社長コンビなどは、


星野『年寄頭に据えて新しい漁港に街づくりとかアホかわれしばきまわすど!』


魚住『嬢ちゃんの手見てみぃ、長年の包丁の切り傷に包丁だこまでこさえて。若い娘さんがどうやったらこんな手になる?おまえらおっさん何年板場から離れとんねん、小銭持って鉄火場(ばくちの場)たむろしとるだけやろ!』


と反対派を完膚なきまでに粉砕してしまった。実際内心ではこのように感じていたが声を挙げられないままの者達も多く、この様に内心ほくそ笑み、事態は急速に旭柰への協力体制へと集約していった。実際、旭柰はその美しい容姿外見からよく知らぬ者たちに無用の風評を立てられることもあった。だが現場での動きは、そこいらの年季だけ重ねたおっさんなどとは比べ物にならない程の的確な判断と統率力を発揮。


目利きの良さと気風の良さから現場に近い者達ほど彼女への共感、支持は強く、それらが先の社長コンビの評価にも繋がった。決意と覚悟を持ち進む者、その熱量の強い者であれば見ている人は必ず見ている。力量を評価、認めるのであればなおさら相手に対しては敬意と共に相応の共感とリスペクトを持つということなのだろう。


その旭柰が仕切るここ一色漁港、海外へも銀の柱を印象的に利用したブランド展開、国内では良質かつ多種多様な魚種を扱う中からも選りすぐりのマグロを


銀波ぎんばマグロ】、太刀魚を【銀閃ぎんせん太刀魚】


として地理的表示(GI)保護制度を獲得している。


――


深夜1時、辺りは灯を落としていく中、漁港はそれに逆行するように灯が増えていく。漁へと出港準備に入る船が船員を吸い込むようにそのエンジンを稼働し始める。柱の海域では年間通して良質な太刀魚が獲れるため、年中それらを求める漁が盛んに行われる。先のブランド展開などと併せ、最も盛んな漁の一つ。夕方から行われたそれらの漁に出ていた船が戻る時間がこの時間帯。それと入れ替わるようにイカを求める漁船が港を後にする。


5月のこの時期はケンサキイカとホタルイカが旬。ホタルイカは富山の身投げが有名。産卵のために湾岸へ殺到するイカが何らかの理由で続々と波打ち際に押し寄せ、多くの人が網を片手にすくいあげるのは富山の風物詩でもある。だが近年は沼津を中心とした西伊豆でも同様の現象がみられ、それも定着しつつある。ホタルイカは漁となると普段はアジ・サバ狙いの漁船が、この春の僅かな期間だけホタルイカ漁船として駆り出される。銀の柱が定着して以降は柱から北西の海域で定置網に多くのホタルイカがかかるようになり、これもまた名物として定着していた。


早朝4時過ぎ。それらの船と併せ他の漁に出ていた船が戻ってくるのに合わせて漁港全体が活気を帯びてくる。その活気の中に旭柰はいた。一か月の半分はこの一色区で漁港の仕入れに従事、連休のある週末や締めに関わるタイミングは本土名古屋の複数の店舗や都内近郊の講演などに参じる。それ以外でも精力的に全国を駆け巡る様は、周囲からすれば『いつ休んでるんだろう社長……』と心配する声が上がるほどだ。


本人的には仕事が楽しくその愉しみが疲労を上回っているのだが、社員たちは体調を慮り専務重役たちと結託する形で時折強制的に休ませている。だが当人は周囲のそんな心配と何処吹く風。


『さあ!今日はどんな(魚)のが揚がってるかな~♪』


と水揚げばかり気にしている。お供の部下達は、


『社長~もういい加減この辺の業務は俺達に任せて寝ててもいいですよ。』


と訴えている。年の頃は40程、目利きも含め熟練のこの男性は口にした。


『モチベーションの問題なのよ。水揚げの魚見てると一日気合入っちゃうのよ。』


やれやれという顔を隠すこともなく部下達はそれぞれの担当箇所へと散っていく。こうやって各自分担して仕入れた魚はほぼそのまま空路を使い愛知の各店舗へ空輸されていく。選別含む一部は一色区の旗艦店へ納入され、料理人たちの手にゆだねられる。


旭柰は継承後も頻繁に店に立ち、直接訪れる客たちとの接点を大事にすることを自身のモットーとしている。結果としてオーナーでありながらも看板娘という異色の立ち回り。一色区は魚との距離が極端に近い。その点と相まって、魚食文化の発展にも貢献する街として日本でも注目度の高い土地となっていた。その中心に彼女はいる。その志は天に向かってそびえる銀の柱と共に、ただただ空を見上げていた……


【2075年5月10日】


世界へ再び宇宙からの天体飛来の報が発せられる。35年前の激震と同様、それは天体観測者の世界最大団体【外宇宙天体観測協会(The Deep Space Observation Society)】からのモノだった。時をほぼ同じく、世界各国で同様の報道がなされる。前回を政府の隠蔽と取られた格好の各国為政者、同じ轍は踏むまいと今回は足並みをほぼ揃えた格好。


前回はその騒動の渦中、事の隠蔽に関わったと噂される為政者は軒並み槍玉にあがり、失脚落選引退へと追い込まれていたため、政治を志す者達には大きな教訓と映ったのだろう。そういうこともあり今回は正確な観測をありのまま公表していく事にかけ、とても迅速であった。


だが公表されるそれらは前回と同様ではなく、当初は本当の飛来天体のように速度変更のないまま地球へ接近していた。速度約4万300km、マッハ約33もの超スピードで飛来してくる巨大な物体。ただやはり奇妙な点は幾つかあり、地球とのランデブーコースに現れたのが5月5日。それまではどうやら太陽の方向から接近してきたようである。存在を隠すためブラインドスポットを意図的に飛行後に向きを変え、地球衝突コースに乗ったかのような不自然さ。加えて本来であればこのような急速な進路変更を意図的にした場合、速度の面でいささか不自然さが残る。ただこの時点でも天体観測上はあり得る速度。だがここへなんらかの意図があるような不自然さを感じた者は多い。仮に向きを変えたのが意図的であるとすれば、もっと減速していてもおかしくない。だがまだかなりの速度を保ったままでいる。ここへ自然発生的なそれを否定する違和感、なんらかの意志の介在が感じられた。


この速度を維持したとすれば地球到達は5月18日前後。衝突すれば世界規模で地表はめくれ上がり、巻き上がった岩石は散弾状の飛来物と化し、地表は地獄の業火に晒される。間違いなく人類どころか地球上の生命は一片の痕跡もなく完全に死滅消滅する……


絶望的な観測結果が発表された直後の5月12日。リアルタイム観測を発表していたアメリカと中国にロシア、外宇宙天体観測協会から同時に次報が出される。天体の速度が劇的に低下、秒速1.12km(時速約4,000km、マッハ約3.3)、約1/10まで飛行速度が低下していたのだ。更に翌週の5月23日には秒速112メートル(時速約400km)へと減速していく。人類は新たな文明からの飛来物だとの確信のもと、光学的な撮影観測を試みる。


そこに映し出されている映像に世界は息をのんだ。銀の柱とは対極に位置する姿。暗く沈むよどんだ色、緑の筋状の光を明滅させる巨大で不気味な岩塊。邪悪な臭気が立ち込めているかのような錯覚すら覚えるそれは、5月29日大気圏へ突入……日本時間午前6時13分……大幅な減速ののち悪意が咆哮を上げるかのような轟音と共に、ロシア・チェルスキー山脈の麓に到達した。極寒の白き大地にそびえ立つ巨大な岩塊。体表のどす黒い紫と筋状に明滅する緑光。その光景はまるで脈動する悪意そのもの。人類は有史以来初めて、破壊と絶望を内包する宇宙からの来訪者と対峙した……


――


5月29日、同日AM08時過ぎ。地球到達より僅か2時間後。岩塊より無数の飛翔体が射出される。飛翔体は全長10~18メートルのオーバル形状で大きさも形も複数が確認される。共通なのはそれぞれが2対の微小突起を両端に備えている点。それ以外全体の形状自体も微妙な差異があり、それらはまるでイナゴの大群が舞うかの如くロシアを南北に横断、中国北端からトルコ、ヨーロッパを襲撃。世界各地で抗戦を開始した。


これに人類側も応戦、様々な手段で迎撃を試みるも、多くの兵器は敵機目標到達前に破壊。重火器での射撃に対しても、到達直前で蒸散という不可思議な事態に直面。決定的な有効打を見いだせないまま、ほぼ一方的に蹂躙されていた。


ただこれら多くは全て領海領空への侵犯に対しての人類側攻撃対応に対する迎撃反応での戦闘。敵機からの明確な攻撃対象とされて破壊されたのは都市や人ではなく、明らかな軍事施設と工業地帯、それも進行方向に対しての障害排除として機能しているようにも見えた。


その破壊行動は苛烈を極め、対象となった基地は完全に機能停止まで破壊し尽くされている。特にロシア・ドロジノ空軍基地、サリ・シャガン防空基地、トルコ・インジルリク空軍基地などは灰燼に帰すほど徹底的な破壊を受ける。その後はカザフスタン・コスタナイ、コーカサスの一帯に敵母艦と見受けられる、全長500メートルを超えるやや流線型、岩塊のような飛翔体が数か所に固定、地底を掘り進む様が観測される。人類は僅か5日の間に、世界各地で正体不明の相手より意図の見えない破壊侵略に晒される。有効な対抗手段を見いだせない状態での防戦敗北撤退は、焦燥感だけを残していた。


世界が未曽有の混迷と混乱に落とされた悪夢の一週間。その只中でも経済活動は止まることなく稼働していく。人々は様々な手段で報じられるこの混乱の実態を現実のモノと捉えながらも、日々の生活を続けるしかなかった。もう一つの宇宙からの飛来物が存在するここ、日本の一色区も同様。各国の惨状を目の当たりにし、否応なしにも注目が集まるこの銀の柱。必然的に関連性含む動きを検証する流れが活発になっていた。


メガフロートの西側、大小漁船ひしめくこの一帯も、日々伝わる世界情勢の波をジワリと受け始めている。世界規模での流通網の乱れと一気に広がった戦火。これらは経済活動の中核、燃料価格へダイレクトに影響を出し始めている。早晩養殖に使われる飼料関連にも影響が出る。そうなれば現場の混乱は避けられない。


早急に手を打たなければ耐えきれない事態に陥ることは明白。僅か一週間ほどで発生したこの特殊な状況は拡がることはあれど、終息の芽などどこにもない事をみな自覚していた。それ程に今、目の前にある銀の柱、そして今回のシベリアを発端とする未知の存在は、人類のそれまでの知見と科学を超えた現象である。この現実を再認識させられる事態として、この一週間のインパクトは充分であった。だからといって経済活動を止めてしまっては意味がない事も理解している。旭柰は漁港の運営方針と支援体制に対し、取れる手を尽くしていた。


『このままじゃ無理ね。船を出すだけで赤字になってしまうところも出てくるわ……今の内に支援の枠組みの目星はつけておかないと。』


電卓を叩きながら上がってくる現在直近の漁協取引状況を確認している。事務所内には複数のスタッフが同様議論を展開、方策の検討が続けられていた。父の代から議員陳情の訴えを続けていた人達の中には、今も現役の人達が多くいる。これらのスタッフは社を超えその当時のノウハウと伝手を生かし、既に陳情の資料を作成、既知の議員へのアポを取り始めていた。


『今更だけど父のしてきたことに感謝するしかないわ……緊急時の対応で動けるノウハウなんて私にはないもの。』


そう呟く旭柰をみて、スタッフの一人が応える。


『おやっさん(先代)は色々手段を残してくれましたからね。』


彼はそう答えるとおもむろに一冊のファイルを開いた。中には議員や政策秘書、要人たちの名刺がずらずらとファイリングされ、一部にはプライベートの連絡先まで添えられたものがある。先代が陳情がてら足を使って得た個人情報の山である。


『この辺は俺達に任せてもらっていいですよ。陳情ロビー活動なんて久しぶりですが勝手はわかりますし。』


『ありがとう、ほんとに頼りにしてます。』


こういった声が頼もしく、旭柰も今回ばかりはそれに頼り任せる他ないと感じていた。そういって自分の席に戻った彼女のデスクには、筆記具と共に強い銀の光沢を放つ消しゴムほどの金属片が置かれている。


遡ること8日前、彼女は自身の管理する漁船定置網から水揚げの未利用魚(あまり値のつかない魚種)を自宅用に引き取っていた。その魚を捌いている際に胃から出てきたモノ。最初はその魚が何か呑み込んだのかなぐらいの認識だったのだが、手に取ると思いのほか重量がある。汚れを洗い流すと、それはとても強い銀光沢を放っていた。しばらくそのまま放置していたのだが、ふと金属片の光沢が銀の柱のソレと同質であることに気が付く。


関連する何かなのかもしれないと軍への提出を考え始めたころに、先の飛翔体による戦火拡大の報に触れた。以降はその余波への対応に追われ今に至る。他では見る事のない独特の美しい光沢を放つ金属片。たとえ小さな物でもそれが世界へ拡がる今の事態へ無関係であると断ずる気にはなれない。これら宇宙からの飛来物が見せた現実の様々は、人類の常識を遥かに超えたものばかりだ。


銀の柱が下りてきた当時の映像は旭柰も目にしている。まるでハリウッドの映画のようなシーン、それが見慣れた風景と重なるところで起こっていた事実は、映像からでも強烈な印象として焼き付いている。その延長にあるかもしれない様が世界で発生している……彼女はそれをリアルな現実として捉え始めていた。


――


6月3日、午前8時過ぎ。国防軍一色基地防衛司令部はけたたましい警報音が鳴り響いていた。遡る事95分前、シベリアの岩塊より再び無数の飛翔体一群が射出された事に端を発する。それらは射出後南下を開始。樺太の東の海上をかすめる形で日本の領空へ侵入した。


空中早期警戒機が防空識別圏(ADIZ)に接近する航空機を常時監視しているが、そんな事態ではないことは明白。すぐさまスクランブル発令、警告などする必要はないし通じるわけもないと政府と国防軍が双方の意見を戦わせる。意見に対しすり合わせの対応すらままならないまま、北部航空方面隊・千歳基地が攻撃を受け始める。幸い全面的な抗戦ではなく、敵機4機が飛来、基地の滑走路を無作為に攻撃したのち南下する本体方面へ飛び去った。


この事態を受け対応する哨戒・観測班は、敵勢力の進路から目標は一色区・銀の柱と断定。北部・中部航空方面隊が緊急発進する事態へ。国防軍始まって以来、国家主権を護る為の【緊急防衛出動】が発令される。北緯38度、東経142.9度~143度付近、三陸の沖合約100㌔の地点で戦闘が開始。


各国報告にあったとおり、地対空ミサイル(SAM)の類は敵機到達前に爆散、通常の射撃装備・機関砲も同様到達前に白煙をあげ蒸散している。ただ唯一、ライトニングボルト(SX-VF110S)の主兵装・70式空対空電磁加速砲レールガンのみが敵機の迎撃に有効であると確認される。だがこれは一発発射ごとにチャージ・30秒を有する上に、連続発射にも砲身の耐久性から限界がある。いわゆる一撃必殺の切り札としての兵装であり、AI僚機との連携で確実に敵機をしとめる用途に特化している。高速で飛来する無数の敵機飛翔体に対しては、物量の面で決定的な困難に晒されている。起動性能としては対抗できたとしても、撃墜の手段が限定され過ぎている現状では、じりじりと撤退戦を強いられることになる。


同日午前09時16分。敵勢力、千葉・立山の南、房総半島南方沖まで侵攻。既に全国へ発令されているアラートとは別に、伊豆七島含む全住民に屋内退避指示が出される。現在に至るまで軍事基地以外への大規模攻撃は確認されていないため、これ以外の指示が出せない状況。緊急放送に防災アラート、あらゆる手段でそのための情報が周知される。同時に軍事施設と密接な位置関係にある一色区は、区民の本土避難勧告が発令、民間航空機、漁港漁船がフル稼働する形で20000人の避難撤退が開始される。軍事基地と兵站に住民、この三者が同居するような一色24区はそれそのもの自体が敵勢力の攻撃目標と判断されてもおかしくない。ましてや相手の判定基準などは皆目見当がつかない中では、全市民をピストン輸送で本島移動、最低でも24区外の海上避難をさせるしかない。


旭柰たち漁港の関係者達は、全ての漁船へ乗船基準ギリギリまでの住民を乗せ、区からの退避に追われていた。慌ただしい現場の中でひときわデカいおっさんが、魚漁一番星・社長・魚住淳二。


『あほか、そなら救命いかだも出せ。それに少数乗せて牽引させればいい。ひとまず沖合で待機、おっつけ本土から海保や救援の船もくる。そっちに繋げ!今は区内から脱出優先や、ええな。』


口は悪いが指示は的確。場合によっては少々のリスクも取れる彼の采配は、緊急時には最適解を導き出す。裁けるだけの手を尽くし次の手を模索する。


『旭ちゃん、こっちは出せるだけの船はもう手配し切きっちまった。あとは先発組が折り返してくるのが早いか本土の救援待ちや。』


そう言い終えてはたと気が付く。


『そういや空港にも民間乗り入れの退避(支援要請)が来とるやろ。ヘリ関連はこっちにも下ろせるから動けんかな?』


『その連絡を取りたいんだけど空港側もパンクしてるみたいで繋がらないの。うちの空輸用のヘリもあるから出したいんだけどみんな船の方で手が空いてなくて。』


既にその路を模索していた旭柰は、避難開始の初手で自身が出した指示が失策であったことを悔やんでいる。悲痛な叫び、旭柰が自社で抱える多くのヘリ操縦パイロットは、元々船舶で動いていた者達がここの立地だとヘリの扱いもできれば便利だよねと事業用操縦士免許を取得した経緯がある。船も操舵できるパイロット達ということで手近の漁港の動きを優先したことが、ここにきて裏目に出ていた。ヘリを持っているのは旭柰の法人だけ。漁港からの空港関連業務、空路搬送窓口など仔細を霽寿せいじゅ商店が受けていた。


『旭ちゃんこっちは俺に任せといていいから行きな。あっち(空港)の事は俺より旭ちゃんのがわかるだろ。』


そういうと自身の車のキーを旭柰へ放り投げた。


『ごめん、魚住さん。ここお願い、すぐ見てくる。』


『あっちがどうなってるかわからんけど危ななったらすぐ逃げなよ。』


旭柰はデスクの鞄を手にすると、車で空港へ急いだ。


――


一色空港。一色区上空はライトニングボルトを中心に配備されている多くの機が上がっていた。これまでの既存兵器が意味をなさない相手、そのインターセプトミッションへ取れる手として、フレアを満載した無人AI機【IPG-227A・グランセプター】が初めて実戦投入される。ライトニングボルトとの連携ソフトウェアの最新Verを搭載してはいるが、未知の相手にどこまで支援足り得るのかは誰にもわからない。だが街への被害を抑えるために出せる全てを投入する決断が下された。民間人避難に関しても転用可能な機を使い、動きは漁港同様フル稼働。


上空のライトニングボルトは大半を銀の柱北東の海上へ展開、残りの機体で滑走路上空の安全を確保しつつ警戒に当たっていた。敵勢力に対してはレールガンが有効だという情報は共有されているが、現実問題として放てる弾数に対して敵の物量が大幅に勝る。有効な武器があるとはいえ、針で大群を相手にどこまで支え切れるのかという絶望的状況であることは変わりない。


既に抗戦経験ある各国はこれよりも酷い状況だったのであろうと、操縦桿を握りしめ指示を出すパイロット。名を南雲信路なぐもしんじ42歳。中部航空方面隊 第7航空防衛大隊 飛行群司令(一等空佐)として銀の柱を含む首都方面のパイロットの実質的トップ。


『このまま引き返してくれればいいがそんな希望は捨てるべきだな……』


決断を決意と共に噛みしめながら兵装選択スイッチをレールガンに固定する南雲。


『……コンタクト。敵前衛、レーダー端に捕捉。全機、これより先は各エレメントの裁量に委ねる。我々の誇りにかけ連中の柱区域への侵入を拒絶せよ。――各機、迎撃開始エンゲージ


その号令と共に50機程のライトニングボルトが一斉に加速する。ライトニングボルトは機体左右の尾翼と接合するように各一機、合計2機のAI自立駆動僚機を要する。本来であれば2機一組でエレメントを構成するところを単独で陽動・攪乱・撃墜まで完遂できる運用を前提としている。本来であれば僚機にも【撃墜】を担えるだけの戦闘力があるのだが、多くの通常兵器が意味をなさない以上撃墜は人の手に委ねられる。AI僚機のモードを【Diversion(ダイバージョン・陽動)】へ設定したライトニングボルトの編隊が戦闘空域へ突入していく。


絶望的な戦力差の中で彼が見出している勝機は、住民の避難完了までの時間稼ぎと本土隊からの応援を含めて撤退戦をどう演じるかというところにある。悲観的と思われるが、銀の柱の防衛、一色24区の死守ではなく、いかに死者を出さずに撤退を完了させるかが肝要だと感じている。現場のパイロット司令官としてはこの絶望的な状況でも冷静に思考を巡らせることができる時点で、彼がどれほど優秀かが理解できる。並の丹力では相対することすらできない状況。


ファーストコンタクト、各機がレールガンで初撃を打ち込み始める。それは確かに報告にあったとおり、敵機の装甲と思しき表面を貫き撃破していく。


『なるほど確かに通るッ、がっ、ここからだ!!』


レールガンは一発撃つごとに30秒の電力チャージを必要とする。機体に搭載されている他の兵装は連中には通じない。残された手はAI僚機をおとり陽動とし敵機の索敵を乱す。その間に他兵装で攪乱、次弾へのチャージの時間を稼ぐしかない。綱渡りのような30秒間が、彼らパイロットに重くのしかかっていく……


敵機は確認されているだけで大小4種の形状的差異を持つ。そのどれもがレールガンによってのみ撃破された記録がある。懸吊兵器けんちょうへいき・外部搭載兵器の使用が意味を為さない以上、この空域はミサイルを用いない純粋なドックファイトを強いられる。100km~160km以上離れた距離からレーダーとデータリンクを駆使してミサイルを撃ち合うBVR(視程外射程)戦闘が主流の現在、純粋にドックファイトでこれだけの規模の戦闘が行われるのは、人類史上では約100年ぶりの事態である。


上空では文字通り死闘が繰り広げられている。旭柰は一抹の不安を抱え空港への道を急いでいた。遠めに見る限りまだ空港含むメガフロートへの被害は出ていない。上空を複数の国防軍の航空機が飛び交い、東の海上からは時折遠雷の様な音が鳴る。敵機の駆動音は基本的に響くほどではないのだが、時折明滅に連動する形で雷のような音がこだまする。旭柰が聞いている音はその残響なのだが、まだ多くの人はそれを知らない。民間人などは特にその傾向が顕著なため、事態を把握できないまま直面するこれらはそのまま恐怖へ直結していくことは想像に難くない。多くに共通する事実として【知らない・わからない】という事態は、対処含めて選択の一つ一つが恐怖と隣り合わせの側面がある。旭柰も例外ではなく、この空気を引裂く音に気圧されそうになる。だが使命感で恐怖を捻じ伏せるだけの丹力を彼女は持つ。いかに困難に直面しようと、どれほどの混乱を伴おうと、そこで吞まれることなく活路を見出すための思考を維持できる、その強さが旭柰にはある。だからこそ周囲が彼女を認めてきた。困難な場面でも前を見据える意思、それこそが多くの者たちが彼女に見た希望なのだ。


彼女の走らせる車が飛行場、空港搬入路前の24区・国防軍ラボに差し掛かった時、上空より轟音と共に機体の破片が落下してくる。慌てて車を急停止させたその前方約150m、追撃のようにそれらに関連する破片が散乱した。惨状を前に車の外へ一歩踏み出した瞬間、軽く喉を焼くような熱気が海風に攫われ通り過ぎる。灯油を何倍も濃くし、そこにプラスチックを混ぜて燃やしたような、鋭い化学薬品の臭気。地面のあちこちで青白い炎を上げる水溜り、黒い煤を含んだ煙、それらが辺りを日常から戦場へと染め上げていく。


立ち尽くす旭柰の前に、目の前のラボから複数の職員たちが消火剤を持って現れた。混乱の中でも必死に自分にできることがないか思考を巡らせていると、


『ここは危ない、民間人は下がってッ、……旭柰?さん…』


そう言って言葉を詰まらせた青年を認めた瞬間、彼女も同様に、


『……あなた……豊根村のッ……』


青年はあの豊根村で突然山中から現れた橘真鎖人だった。わずか半日の邂逅だったが、旭柰にとっては自身の事業の成果の一つ、その達成の場に居合わせた一人、出会いとしてはあまりにも特殊な経緯から真鎖人のことは鮮明に記憶していた。


『どうして…あなたがここに…』


『国防軍の研究ラボ、俺はここの研究員なんです、さあこっちへ、』


そういうと真鎖人は旭柰の手を引き、熱気から安全な距離を取ろうとする。


『ダメなの、まだ、港の方に沢山の人が、空港に応援を頼まなきゃ!』


混乱の思考から要点だけを拾い集め、吐き出すように言葉を紡ぐ。


『まだ避難しきれてない状況は把握してます、』


一瞬の思索ののちに彼は動き出す。


『旭柰さん、来てください、中に案内します。』


煙により空港正面の搬入路は塞がれているが、西に行くと特殊な資材(慎重に運ぶ必要がある荷などをダイレクトに航空機へ搬入する場合)を運搬する特別搬入路がある。そこからなら格納庫脇をすり抜ける形で管制塔へたどり着ける。真鎖人はその辺りの配置を立体として熟知している。旭柰の言葉から自身の把握している状況と併せ、最適解を導き出す。彼女の目的とする住民避難へ手隙の機体を港に回す手筈なども、管制への連絡が最短だと判断した。


日常的に触れていなければ知らないし通らない裏道を通過し、二人が管制塔ターミナルを視界に捉えたその瞬間、まさしく今飛び立とうとしていた大型輸送機が敵機よりの攻撃を受け爆散炎上……とっさに飛び散る火の粉と破片から旭柰を守るために彼女へ覆いかぶさり盾となる。


ゴォォォォーーーー!!!!ドーーーーンッッッ!!!!


一際大きな轟音がこだまする。その轟音とも爆音とも取れない音の残響が収まり、辺りをパチパチと火の粉が舞う。真鎖人が覆いを解き周囲を確認する。旭柰は我に返り、続き周囲を見渡し目の前の惨状に言葉を失う……


『そっ、…そんな…なんてこと…』


離陸しようとしていた機体は中央より無残にへし折れ火の海に包まれている。両のエンジンは脱落しそれを中心に一層激しい火柱の発生している様が地獄の業火を思わせた。折れた翼の根元から漏れ出た燃料がその火柱へ注がれ、火の勢いは収まる気配はない。昨日までの日常が過酷な地獄へと塗り替えられる様を、眼前に彼女は立ち尽くす他なかった。辺りの状況から戦火がメガフロートにも及んできていることを理解した真鎖人は、この場所が更なる危険に見舞われる可能性を理解し、早急に旭柰を安全な場所へ逃がさなければと思考を巡らせる。近くの友軍はこの状況のリアルタイムで発生する危険に対処しているはず。ピンポイントでこちらを把握し迅速に動くこともままならない。


『旭柰さん、ここは危険だ。離れよう。』


再び手を引き格納庫側へ目をやった瞬間、それの存在に気が付く。SX-VF100D/ライトニングボルト。特殊なAI僚機を搭載する(ライトニングボルトSX-VF110S)の練習機として、操縦席の後部、レールガンを排す代わりに後部座席を設置、複座型とした機体。機種転換慣熟飛行までライトニングボルト・パイロットは皆この機体の協力を得る形で一人前になる。ライトニングボルトの配置された基地には必ずあるそれが視界に飛び込んできた。機体に気が付くと彼女を連れ機体傍へ向かう。


『後ろに乗ってください。一旦ここから離れます。』


『え?これ戦闘機、あなたッ』


旭柰の抱く疑問は当然のことと理解しつつも、


『大丈夫です。こいつのことは誰よりもよく知っていますから。さあ早く。』


手早く旭柰を後部座席へといざない、彼女の身体をベルトで固定。計器ひしめくコンソールから手慣れた形で、折りたたまれ格納されていたレバーを展開する。


『揺れが激しい時はここを掴んで離さないでください。』


旭柰は自身の得ている情報からこの青年との会話を手繰り寄せる。【昆虫採集・研究者】主観から勝手に紐づけされていた過去のワード、そこへこの10数分で得られた情報が再統合される。【軍属・研究者・相応に鍛えられた身体】目まぐるしく脳内でロジックが動き出す。そうこうしている内に機体は稼働状態に入り、ゆっくりと格納庫から外へと動き出す。コックピット正面のコンソールのタッチパネルを操作し、機体各部の状態を把握。全ての状況を把握した真鎖人と機体搭載AI。


MASTER RESET AIRCRAFT CONFIGURED: SYSTEM READY FOR DEPARTURE"(機体構成完了:システム出撃(発艦)準備よし)


『よし、飛べる。旭柰さん行きます。』


キィィィィィーーー!!小さく鳴っていた音が鋭い金属音へと変調。タービンが低回転から高速へ移行、小刻みの振動がレバーから伝わり出す。機体は一切の傾きもなくゆっくりと垂直に上昇、20メートルほどの高さに達する。


『旭柰さん、シートに深くもたれてレバーを強く握っててください。』


ガクンっ、一瞬の小さな衝撃。主スラスターが下方から後方へ稼働する振動。


『衝撃!きます。』


言われるがままにレバーを強く握りしめる旭柰に緊張が走る。構えたと同時に機体は加速、旭柰の全身はシートに強く押し付けられる。機体はそのまま更に加速を続け弧を描くように空に向かって上昇。コックピットシートに収まる旭柰はただレバーを握りしめるしかない。急速な加速のGは彼女が今まで経験したどれよりも激しい衝撃。目の前の世界が急速に回転し、次の瞬間には自身がほぼ垂直であることに気が付く。天に向かい突き進み全身がシートへと食い込む様を知覚し、自身の置かれている状況を賢明に把握しようとする。


その旭柰の視界の端に突如銀色の輝きが写り込む。それを見て彼女は、自身が柱を伝う様に垂直に上昇していることを知覚した。彼女が身体固定用のレバーを握りしめるのと同様、操縦席で真鎖人は操縦桿を固く握りしめている。だがそこに迷いはない。真鎖人はこの機体を構造から含め知り尽くしている。操縦桿を通して伝わる全てが、彼のかつての経験から機体の状況を導き出す。だが旭柰からは触れる全てが初めての感触。自身が知覚する感触の全てが初めて知るモノであるのと同時に、真鎖人が何故この機体をこうも自在に操れるのか?疑問の全てが濁流のように旭柰の思考へ割り込んでくる。それへ解を求めるより先に、機体は銀の柱の上空へと踊り出る。


柱の上空、巨大な赤色の球体が柱に埋没する形で見える。機体を上昇させた真鎖人はすぐさま機首を北東へ向ける。自身の左前、下方が戦闘の中心地、柱の北側に当たる。避難のため住民が殺到しているのは柱の西側、つまり真鎖人のほぼ真下に当たる。まだ東側の商業区や南の居住区に戦火は及んでいない。だが戦闘の中心から一群が柱の時計回りへ流れていく様も認められる。早晩メガフロート全域が戦場となることは容易に想像できた。突然の接近アラートがコックピットの静寂を切り裂く。


『きゃあっ!』


旭柰の叫びが、中継同期している操縦桿を握る真鎖人のスピーカーにもこだまする。戦闘空域より上方に位置する真鎖人のライトニングボルトを探知した敵機が、下方から火線を発射する。


WARNING: LOCK-ON Detected(警告:ロックオンを検知)


AIが敵機よりの攻撃意思を感知、誘導兵器の類の存在を示唆、警告の報とほぼ同時にコンソールの表示から状況に対し最適な選択を行う真鎖人。


ECM ACTIVE // COUNTER-LOCK INITIATED(対ロックオン妨害開始)


事前の予備動作の段階から十分な間合いを維持していたため、余裕の回避を見せる真鎖人。だが機体の挙動が理解できない旭柰にそうは映らない。突然始まった敵機との交戦に真鎖人は冷静に対処、旭柰は声を押し殺し耐えるしかない。旋回する最中も周囲の状況を冷静に観測、機体には練習機と言えど通常固定武装としての射撃兵装は搭載されている。その中の補助搭載とされる装備を選択。真鎖人は幾ばくかの回避行動を重ね、その繋ぎの挙動で牽制射撃と共に発光弾を陸地へ向け放っていた。戦闘空域より上空の自分達に迫ってきた敵機の包囲を突破し、安全圏へ抜けた真鎖人が次の手を打ち出す。


『旭柰さん、港の人達を一旦南の桟橋へ誘導する指示を出せますか?』


『どういうこと?』


真鎖人は一連の行動の最中、柱の西南側に友軍艦艇が数隻来ているのを視認していた。旋回、回避行動中の牽制射撃に、友軍へ避難誘導を知らせるための閃光弾を紛れ込ませたのだ。


『柱へ友軍が来ています。万が一の時に港への被害を避けられるかもしれない!繋げます。』


そう言うと旭柰の返答より早く、コード周波数を民間で広く使われているモノへ合わせる。


『わかったやってみる。』


誰が気付くのか繋がるのかすらわからないまま、旭柰は叫ぶ。


『だれか!誰か聞こえていたら返事をして!お願い!』


その悲痛な叫びに即反応がある。


『旭ちゃん!無事なのか!』


旭柰を空港へ送り出した主が反応する。


『魚住さん!』


『ギリギリまで待っててよかった。こっちは戻りの船も出した。外の連中は今応援が来るってんで桟橋へ誘導指示が流れてる。ここはもう店仕舞いだ。』


『よかった…みんな早く逃げて。』


涙をまぶたに湛えたまま絞り出すように答える。真鎖人の放った閃光弾を視認した誰かが、進路を桟橋へ向け救援を港へ知らせたのだろう。真鎖人同様冷静に事態を俯瞰している者が他にもいる。その事実は彼が思考的思索の余裕を得るに十分だった。無線会話維持のためギリギリまでその空域に踏みとどまった彼が感じていた脅威が、直下から現れる。10数機の敵の群れ。


『旭柰さん。しっかり掴まってて下さい!』


『はいっ!』


真鎖人は操縦桿を一瞬押し下げ、同時に閃光弾を撃ち込む。それが光を放つタイミングに合わせ、機体の腹を敵機に向けるとその群れのスレスレを潜り抜ける。戦闘空域の外へ一気に左旋回、直後に急上昇する。瞬く間に戦火の届いていない南側から再度柱の上方、ほぼ真上に機体を重ねた。一切の敵機がいない戦場の空白地帯。真鎖人は旭柰を逃がす手を模索する。旭柰はその一瞬の静寂に安堵、だがそれと同時に柱より赤い光が放たれる。


いや正確には旭柰から放たれいるのかもしれない。その光は次第に大きくなりライトニングボルトの機体そのものを覆い尽くす。予想外の光の照射と身体の受ける緩やかな熱に、一瞬思考が停止する二人。


『なっ、なんだこの光は…』


『真鎖人くんっ!!』


直下では激しい戦火が拡がる。その戦闘の火が燃え盛る中、地球到達より35年もの間沈黙していた銀の柱が、静かに動き出す。宇宙より飛来したセカンドコンタクトとその脅威。人類を襲う未曽有の危機の中、真鎖人と旭柰の運命はうねりとなり、世界を巻き込む大きな歯車が回り始めた……


次回

-天のイグナクト- 第二話

天空そらを貫く雷光】

2026年8月7日公開予定(18~19時30分頃)




■------------------------------------------------------------------------------■

本作は近未来を舞台にしたフィクションです。


作中に登場する国家機関、企業、法制度、地名の一部は、現実に着想を得て取材・調査のうえ創作的に再構成したものであり、実在する団体・法制度の名称や機能を正確に示すものではありません。




また物語上の人物・出来事は、取材や交流を通じて得た着想を基にした創作であり、特定の実在人物の実像や経歴を描写するものではありません。


あわせて特定の実在の個人・団体を意図し、または誹謗中傷する目的は一切ありません。

■------------------------------------------------------------------------------■



(取材/ロケ/その他ログ保管庫※本格稼働はお盆明けとなります。)

【Xアカウント/下駄のイグナクト】

https://x.com/getanoignact

最後まで読んで頂きありがとうございます。


この【天のイグナクト】は私の日々感じていることを取材で確認したのちに感じた世界に対する叫びです。


ただそれを嘆きとするよりは、想いが希望となり未来を変える、光があるからそれに導かれるように明日に向かい歩きだせる、そういった希望として作中に込めています。


ここから二話、三話、物語は一気呵成に一幕目ラストまで突き抜けます。


どうか真鎖人を、旭柰を、イグナクトの駆け抜ける様を見届けてやってください。


次回 天のイグナクト


第二話【天空(そら)を貫く雷光】


2026年8月7日(金)公開予定


■------------------------------------------------------------------------------■

本作は近未来を舞台にしたフィクションです。

作中に登場する国家機関、企業、法制度、地名の一部は、現実に着想を得て取材・調査のうえ創作的に再構成したものであり、実在する団体・法制度の名称や機能を正確に示すものではありません。

また物語上の人物・出来事は、取材や交流を通じて得た着想を基にした創作であり、特定の実在人物の実像や経歴を描写するものではありません。

あわせて特定の実在の個人・団体を意図し、または誹謗中傷する目的は一切ありません。

■------------------------------------------------------------------------------■




■Xアカウント■

【下駄のイグナクト】


(取材/ロケ/備忘録※本格稼働はお盆明けとなります。)


https://x.com/getanoignact

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。