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《化学変異体バーガー》


——世界線CMΩ∅:完食記録——




◆第一層 出現


 女の子は十三歳だった。


 中学一年生だった。


 特に変わったところのない女の子だった——と、後で周囲の人間は言った。でも本人は、毎日「自分は変わっている」と思っていた。なぜか上手く喋れない。なぜかずっと浮いている感じがする。なぜかみんなが当たり前にできることが、自分にはできない。


 名前は、記録されていない。以下では「少女」と呼ぶ。


 学校の帰り道に、バーガーが落ちていた。


 輝く琥珀色のソースが滲んでいた。


 少女は拾った。


 三秒考えた。


 食べた。




◆第二層 変容の記録


▼最初の変容


 体が、液体になった。


 正確には——少し、液体に近くなった。


 完全に溶けたわけではなかった。見た目は普通の女の子のままだった。


 でも指先が、少し、流れた。


 壁に触れると、壁に馴染んだ。


 水に触れると、水に混ざった。


 少女は自分の手を見た。


 少し透けていた。


 怖かった。


 次の瞬間、怖くなくなった。


 体が軽かった。どこにでも入れる気がした。どんな形にもなれる気がした。


「万能感」というものを、初めて知った。




▼翌日の学校


 少女は学校に行った。


 普通に行った。普通に見えた。制服を着ていた。靴を履いていた。


 授業中、消しゴムを落とした。


 机の下に落ちた。


 拾おうとして——少女の指が、机の脚をすり抜けた。


 隣の席の男子が見ていた。


 少女は「気のせいだよ」と言った。


 男子は「うん、気のせい」と言った。


 どちらも、気のせいではないとわかっていた。




▼一週間後


 少女の日記——




>体が液体っぽい。

>

>怖いかというと、怖くない。

>むしろ便利。

>

>今日、体育の着替えの時に困った。

>体が少し滲んで、着替えるのが大変だった。

>でも誰も見てなかったからよかった。

>

>帰り道に雨が降って、水たまりに入ったら

>少し溶けた。急いで固まり直した。

>

>誰かに言いたいけど、言えない。

>「実は体が液体です」って言ったら

>絶対引かれる。

>

>お母さんには特に言えない。

>心配させたくないから。




▼二週間後




>今日、友達のアキとランチした。

>

>アキが「最近なんか変じゃない?」って聞いた。

>「変じゃないよ」って言った。

>

>嘘だった。

>

>でも「実は体が液体になりかけてて」って

>言える人間がどこにいるんだろう。

>

>アキはそれ以上聞かなかった。

>少し寂しかった。

>でも聞かれても困ったと思う。




▼三週間後




>体の液状化が進んでいる。

>

>今日、コップに水を入れて、指を入れたら

>指が溶けた。水と区別がつかなくなった。

>コップを傾けたら指が流れそうになった。

>あわてて固めた。

>

>でも——液体の時、痛くないし、疲れない。

>固体でいるほうが、疲れる。

>

>固体でいるのって、大変なんだと初めて気づいた。

>いつも形を保つのって、すごくエネルギーがいる。

>

>液体の時の方が、楽かもしれない。

>

>でも。

>

>液体の時は、名前がない気がする。

>水に名前はないから。




▼一ヶ月後




>今日、学校でテストがあった。

>

>テスト中、集中できなくて、少し溶けた。

>椅子に染み込みそうになった。

>あわてて固めた。

>

>テストの点数が返ってきた。

>悪かった。

>

>先生に「最近どうした?」って言われた。

>「なんでもないです」って言った。

>

>家に帰ってベッドに横になったら

>少し液体になった。

>ベッドのシーツに染みた。

>

>染みたまま、少しの間いた。

>

>楽だった。

>

>楽だったけど、寂しかった。

>

>シーツに名前はないから。




▼六週間後




>アキが転校することになった。

>

>送別会で、みんなが寄せ書きを書いた。

>私も書いた。

>

>書きながら、少し手が滲んだ。

>ペンを持ちにくくて、字が歪んだ。

>

>アキが寄せ書きを見て「なんか字が変だね」って言った。

>「下手くそだから」って言った。

>

>アキが笑った。

>

>アキが「また会おうね」って言った。

>

>私は「うん」って言った。

>

>また会える気がしなかった。

>私がどんどん液体になっていくから。

>液体は、また会う、ができない気がして。




▼二ヶ月後




>体の半分くらいが液体になった。

>

>固体でいる時間が、短くなってきた。

>

>学校に行くために固体にする。

>家に帰ると液体になる。

>

>固体でいる間、ずっと「溶けないように」を考えている。

>疲れる。

>

>でも液体でいると、自分がいない気がする。

>

>固体の時は疲れる。

>液体の時は消える。

>

>どっちがいいかわからない。

>

>今日、お母さんが「最近顔色悪いね」って言った。

>「そうかな」って言った。

>

>お母さんは少し心配そうだった。

>でも何も言わなかった。

>

>私も何も言わなかった。




▼三ヶ月後




>今日、下水道に落ちた。

>

>落ちた、というより、溶けて流れ込んだ。

>液体だったから、隙間をすり抜けた。

>

>下水道の中は暗かった。

>他の水と混ざった。

>雨水と混ざった。

>

>混ざっている間、楽だった。

>全部が一緒で、境界がなくて、痛くなくて、疲れなくて。

>

>でも。

>

>混ざっている間、自分の名前を思い出せなかった。

>

>思い出せなくて、怖かった。

>

>必死で固まった。

>下水道からはい上がった。

>

>服が汚かった。

>でも固体に戻れた。

>

>自分の名前を言った。声に出して言った。

>

>言えた。

>

>泣いた。

>なんで泣いてるかわからなかった。

>でも泣いた。




▼最後のページ




>完全に液体になる前に、書いておく。

>

>液体の方が楽だ。

>でも液体になると、名前がなくなる。

>

>名前がなくなると、自分がいなくなる。

>

>自分がいなくなると、誰もいなくなる。

>

>そういうことだと思う。

>

>だから固体でいる。

>疲れても、固体でいる。

>

>疲れた時は、少しだけ液体になってもいいと思う。

>でも名前だけは覚えている。

>

>名前だけは言える。

>

>それだけでいい気がする。

>

>それだけが、自分だから。




◆第三層 波及


▼その後


 少女の日記が、ある経路で広まった。


 意図せず広まった。


 読んだ人間が言った。


「これ、私も同じだった気がする」


「液体になるわけじゃないけど、なんかわかる」


「固体でいるのって、疲れるよね」


「名前を言えなくなる感覚、ある」




 少女の変容は、比喩として伝わった。


 物理的な液状化は、伝わらなかった。


 でも「形を保つことの疲れ」は、伝わった。


 「名前だけ覚えている」という感覚は、伝わった。




▼数年後


 少女の日記を読んだ人間の一部が、変容を起こした。


 物理的な液状化だった。


 読んだだけで起きた——読んだ、というより、共鳴した。


 共鳴が、触媒になった。




▼十年後


 都市の水道に、輝く成分が混じった。


 誰も気づかなかった。


 数週間後、市民が少しずつ液状化し始めた。


 最初は少しだけ。指先が滲む程度。


 一ヶ月後、市民の半数が液状化した。


 全員が「楽だ」と言った。


 全員が「寂しい」と言った。


 そして全員が、名前を呼び続けた。




>都市調査記録:CMΩ41

>

>市民が液状化している。

>

>互いに混ざり合って、一つになっている。

>苦しそうではない。

>むしろ、穏やかに見える。

>

>でも——

>

>一つになりながら、全員が名前を叫んでいる。

>

>誰の名前かはわからない。

>自分の名前か、誰かの名前か。

>

>混ざりながら、叫んでいる。

>どこにも届かない空に向かって。




▼完全な充満後


 都市が「輝く海」になった。


 文明が消えた。


 言葉が消えた。


 一つの意識だけが残った。


 その意識は、誰かの名前を呼び続けた。


 誰の名前か、もうわからなかった。


 でも呼び続けた。




◆第四層 圧縮


 バーディが来た。


 M社からの圧縮指令を確認した。




>圧縮指令:CMΩ∅

>

>発動条件:

>対象世界線において、

>最後の個体意識が

>「自分の名前」を忘れた時点で

>圧縮処理を開始する。




 バーディは輝く海の前に立った。


 海が揺れていた。


 名前を呼ぶ声が聞こえていた。


 バーディは待った。




 長かった。


 名前を呼ぶ声が続いた。


 消えなかった。




 ある瞬間、声が止まった。


 バーディはプレスをかけた。




 世界が収束した。


 輝く海が、全員の名前が、最後まで呼ばれ続けた声が——一点に集まった。


 パティになった。


 琥珀色に輝く、液状に近い質感のパティが、一枚。


 形を保っていたが、ぎりぎりだった。




>回収記録:CMΩ∅

>

>圧縮処理:完了。

>

>パティ品質:良好。形状注意。

>

>担当:バーディ

>

>備考:圧縮のタイミングを判断するのに、

>   時間がかかった。

>

>   名前を呼ぶ声が、なかなか止まらなかった。

>

>   最後に残っていた声は——

>   自分の名前だったと思う。

>

>   呼ぶ相手がいなくなっても、

>   自分の名前だけは呼び続けていた。

>

>   ようやく止まった。

>   その瞬間を待った。

>

>   少し、待ちたくなかった。




◆製造


 パンデモニウムの因果律プレス工場。


「CMΩ∅、搬入。液状化型、完熟。形状ぎりぎり——取り扱い注意」


「お疲れ様です」


 多孔質バンズが選ばれた。自己流動性ソースが塗られた。パティが——慎重に——挟まれた。


 包みに巻かれた。


《化学変異体バーガー》

別称:「名前だけは覚えている味」


「出荷先は?」


 バーディが少し間を置いた。


「形を保つのが疲れている人間がいる場所なら、どこでも」


 また少し間があった。


「——それはどこにでもある」


 トレイに乗せられた。


 琥珀色のソースが、重力を無視して少し上に滲んだ。




◆補遺


 この記録を読んでいるあなたへ。


 最近、形を保つのが疲れていないか。


 溶けてしまいたいと思ったことはないか。


 全部が一緒になって、境界がなくなって、楽になりたいと思ったことはないか。




 その気持ちは、わかる。


 固体でいるのは、疲れる。




 ただ一つだけ。


 自分の名前を、今すぐ言えるか。


 声に出して言えるか。




 言えるなら、大丈夫だ。


 まだここにいる。


 名前がある間は、自分がいる。


 自分がいる間は、誰かに会える。


 溶けてしまう前に——


 誰かに、名前を呼んでもらえ。




〔世界線CMΩ∅ 完食記録——了〕

〔本バーガーは現在、パンデモニウム店頭にて提供中です〕

〔形状にご注意ください〕

〔I'm lovin' it.〕

メニュー名:化学変異体ケミカル・ミューテーションバーガー

**キャッチコピー:**「黄金の液体が紡ぐ、キミだけのメタモルフォーゼ。溶けて混ざれば、もう独りじゃない。」


概要

このバーガーは、極秘裏に開発されたナノマシン含有化学溶剤「GC-161」の概念を食用形態へと固定化した、高次元自己崩壊装置です。

***バンズ:**記憶を吸着し発光する「多孔質アルミニウム・スポンジ」。触れる者の指紋を吸収し、常に焼きたての皮膚のような質感を維持します。

***パティ:**物理的肉体を維持できなくなった「元・被験者」たちの意識混合体。噛むたびに、かつての彼らの名前がノイズとして脳内に直接響きます。

***ソース:**輝く琥珀色の「自己流動性神経可塑剤」。重力を無視して上方に滴り、摂取者のDNAをリアルタイムで書き換えます。


実験記録/摂取効果

***一口目:**体内の全細胞が共鳴を開始。視界が銀色に染まり、周囲の無機物(椅子やテーブル)との境界線が曖昧になります。被験者は「自分が液体になったような万能感」を報告します。

***完食後:**被験者の肉体は完全にコロイド状へと相転移し、排水溝や隙間を通り抜けて移動する「不定形な影」へと変貌します。思考は単一の集合意識に接続され、個としての「自分」は永遠に消失します。


収容違反記録(世界はどう滅んだか)

ある配送センターでの「ソース」流出事故をきっかけに、都市の水道網が当該バーガーの概念に汚染されました。全市民の肉体が化学反応により液状化し、互いに混ざり合うことで一つの巨大な「輝く海」を形成。物理的な個体差が消滅した世界では、文明は「単一の思考を持つ巨大な水たまり」へと退行しました。もはやそこには言葉も対立もありませんが、ただ一つの意志だけが、誰にも届かない空に向けて、かつての自分の名前を叫び続けています。


グリマス博士の提言

「形を保つことへの執着ほど、滑稽なものはないね。液体になれば、どんな器にもなじめるというのに。

彼らが溶け合って一つのスープになったとき、ようやく世界から孤独が消えたのだ。

……泥のような色に濁り果てた『幸福』こそが、最高のスパイスなのだよ」


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