現実
やっと話が動きます。
次の日。午後。
私は手早く着替えを済ませ、財布の中身を確認すると、最後に目深に帽子をかぶって急いで外へでた。
家の外へ、だ。
連日の雨がまるで嘘のように、空はどこまでも青く晴れ渡っていた。長袖では少し暑いくらいだ。
門を開けたところでぎょっとした。門の前で父親が洗車していたのだ。父親は後ろを向いていて私に気がついていない。ホースでせっせと車に水をかけている。私は門をするりと抜け、気付かれぬようそのまま行こうとしたが、
「骨董か、真知子」
まさか、呼びとめられた。
なんで。
私は予想外の出来ごとに頭がぐらぐらして、思わず足を止めはしたが、父親の方を振り向かなかった。
「どうだ、骨董は、あー、楽しいか」
私が何も答えないので、やや間をおいて、一語一語区切るように父親は私に話しかけた。私の方を見ているのかいないのか、判然としないが、それこそ口調は腫れものに触るような調子だと私は感じた。誤って何か禁句を口にしたら、私がとんでもない行動を起こすんじゃないかと危ぶんでいる、そんな風だ。私は鬱陶しくなって、とにかく何も答えないことにした。
「あー、ひきとめて、すまん。気をつけていっといで」
父親は諦めたようにそう言って洗車に再びとりかかったので、私は父親の言葉通りに出発することにした。角を曲がるまで父親の方を絶対に見ないようにして歩いて、角を曲がったところでふと思った。父親が運転する車に乗ったのは、いつが最後だっただろう。多分、中学を卒業して家にとじこもる前だろう。正確にはわからない。いや、分からなくったっていい。どうでもいいことだ。父親は私に失望しているはずだ。私が中学を出たあと、父親は会社のつてで、いくつか仕事を私に紹介してくれたが、どれもこれも私は断ってしまったから。最初の1回だけ思い切って面接を受けたことがあるが、ろくに受け答えできずに散々な結果だった。小学生だってもう少しまともにしゃべるだろう。きっと私はあのあと笑い物になったに違いない。
駅に着いて、私は切符を買う。父親が察した通り、骨董市に行くために、だ。
朝起きたときは骨董市に行く予定などなかった。今日もひき続き正義の裁きを下す予定だった。けれどもなにげなくネットで検索しているうちに、今日が大規模な骨董市の最終日だということに気がついたのだ。
以前の私だったら、行くのを諦めている。最終日は終了時間も速いし、終了間際に思い切って値引きする売主もいるが、だいたいいいものは残っていないからだ。それに私には毎日時間がたっぷりとある。また次の機会に行けばよい。
だけど今回は。
とにかく行ってみたかった。
かなり大規模の骨董市だ。
可能性はほとんどゼロに近いけれど、だけど、行かずにいられなかった。
骨董品は気に入ったらすぐ買えというほど、まったく同じものにはなかなか巡り会えない。もちろんコレクターが多いものや、安価で人気が高いものなどは別だが、長方形のケースに入っていて、蓋には巻き毛の少女の絵が描いてあって、少女は私の味方で、相手に知られずに悪魔たちに正しい裁きを下せる、あんな、あんなトランプカードには、きっと……。けれども可能性はゼロではないのだ。私にとって天の恵みのようなあのトランプカード。カードが有限なのが、私を焦らせる。
電車を降りて乗り換え電車を待つ。昼過ぎだというのにかなり人が多い。そうだ今日は日曜日だった。だから父親が家にいて、洗車なんかしていたんだ。
妹はまだ入院中だし、母親はパートか病院だろう。私は一人で納得して、やってきた電車に乗り込もうとした。都心に向かう急行電車はかなり混んでいて、無理やり乗り込まないとドアがその前にしまってしまう。それにしても混みすぎだ。どこかで人身事故でもあって、ダイヤが乱れているのだろうか?
私はなんとか電車に押し入ろうとしたが、誰かが私を突き飛ばして先に乗車したため、結局乗れなかった。私はよろけて尻もちをついた。私を突き飛ばした「誰か」は私にぶつかった瞬間舌打ちをした。しっかりと聞いた。そいつの顔を見ておけばよかったと思った。顔さえ覚えていれば、あんな奴、今の私だったらどうとでもできるのに。
骨董市はとても賑わっていて、人があふれていた。私は手早く入場料を払って、いつも通り俯きながら中に入る。
この前行った骨董市と比べると、共通点は屋外ということだけで、それ以外まったく様子がちがう。規模も活気もこちらのほうが桁違いに大きく満ちていて、売っている骨董の質さえも違うんじゃないかと思わせる。それぞれの区画のテーブルの上に丁寧に商品が陳列され、フリーマーケット感はない。
私の買いたいものはもう決まっていた。あのトランプカードだ。同じような長方形のケースを私はただただ探し回った。色の白い巻き毛の妖精。あの優しく微笑む少女が目印なのだと私はなぜか信じていた。もうひとつ、あれがほしい。駅で突き飛ばされて電車に乗り損ねたことを思い出す。そう、裁かなければならないやつらはきっと、もっと、これからもいる。家族だっていつまた私を攻撃するかわからない。私の気持ちも知らないで、容赦ない言葉を浴びせかける人たちだ。周りの奴ら皆そうだ。私のことなど何も知らないくせに、家に閉じこもって、働かない人間だと言って、馬鹿にする。お前らそんなに偉いのか。誰のせいだ、誰の。こうなったのは、
誰のせいだ。
だいぶ時間をかけて探し回ったが、それらしきものはなかった。しかし、私はとうとう、会場のすみに以前トランプカードを買ったときの売主を見つけることができた。派手なメイクに、カラフルな服装の女性。この人に間違いない。瞬間、心臓が体中を転げまわっているのがわかった。私は近づき、彼女の区画に並べられている商品を、くまなく見た。私が買ったのと、同じものはそこにはなかった。こうなったらあのトランプの入手先を売主である彼女に聞く他ない。とにかくあのカードに関する情報が欲しい。しかしその彼女は前回同様、誰か別の売主である女性と談笑中である。どうしようかと思っていると、
「笹原さん?」
ふいに、声を掛けられた。私に声を掛ける人なんて家族以外でいないはずだが……私はおずおずと振り向く。
「笹原さんよね?わたしのこと、おぼえてるかな……」
最後のほうは、消え入りそうな声だった。痩せたちっぽけな少女。忘れもしない、私をプールで突きまくって楽しんでいた、あの地味な元同級生がそこに立っていた。
私はぽかんとして、一瞬思考が停止してしまった。まるでエラーをおこした機械みたいに。だってなぜこいつがここにいる?私に話しかける?こいつは私が昨日きちんと裁いたじゃないか。そう、目には目を、歯には歯を、だ。鉛筆で最後まで突いてやった。最後まで。
「あの、あのね」
この女はなんとまだ私に話しかけて来ている。
「わたし、こういう、骨董品が好きで、よくくるの。笹原さんもなの?」
よく見るとこの女、昨日カード越しに見たよりかなり痩せている。髪も短い。それに。
「わ、わたし昨日も来たのよ。土曜日」
土曜日。
昨日、いわゆる「学校」は休みだ。こいつが高校生であっても、教室で授業の準備なんて、していないはずだ。私は体の中になにかひゅるりと冷たいものがはしるのを感じた。
「さ、笹原さん。お、怒っているよね、わたしのこと。わかってる。わたし、中学の時、あなたに、あんな……」
そこまで聞いて私ははっとした。なんだこの女。まさか、謝る気?謝ってすべてを帳消しにしようと言うの?私を殺そうとしておいて、私にそれを許せと?この馬鹿女……。
怒りがふつふつと湧き上がって来たが、同時に私は動揺していた。この馬鹿女は昨日学校に行っていない。二つ結びにもしていない。じゃあ、昨日カード越しに見たこの女はいったいなんだったの?もとより、こいつは今こんなふうにここに立っているわけない。だってこいつは昨日私が裁いた。手に確かに感じた、何か膜を破ったあの感触。私は昨日こいつをたしかに鉛筆で突き刺した。自室にいながら、カードの中のこいつを。
体中の血がいっぺんに足の方に引いて行った。怖ろしい予感。
私は急いで出口に向かうと、公衆電話をさがした。漠然とした、だがぬぐい去れないとても嫌な予感がしていた。とても確かめずにはいられない。震える手で10円玉を電話機に押し込み、家の番号を押す。呼び出し音が2回、3回、そして。
「はい、笹原です」
頭を突然ぶん殴られたような衝撃を受けた。
「どちら様でしょう?あの、聞こえますか?」
妹の声だ。紛れもなく。病院にいるはずの、妹の声。
「ねえ、どしたのー?」
「いや、なんかいたずら電話みたい」
「えーまじー」
受話器から何人かの女子の声がする。妹の友達だろう。私は受話器をそっと戻すと、外へ出た。
太陽がさんさんと輝く、澄みきった青い空。見事な五月晴れだ。連日の雨がまるで……連日の雨?よくよくみれば地面はちっともぬかるんでいない。水たまりひとつない。雨が降った形跡など、どこにもない。昨日も、おとといも滝のような豪雨だったというのに。大雨なんて、なかったみたいだ。
大雨は、なかった?
なにがどうなっているの。
私は膝に力が入らなくなって、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。そのとき肩にかけたトートバッグから、こん、と小さく音を立てて何かがすべり落ちた。
長方形のケースだった。巻き毛の、優しく微笑む妖精の少女が描かれている。
どうして。
なぜ、バッグの中にこれがあるのだろう。私、ここには持ってきていない。ここに来る前、自分の部屋の勉強机にしまったはずだ。一番下の引き出しの、一番奥に。
なぜ、バッグに入っているの?入れた覚えなんてない!
私が混乱しながら長方形のケースを見つめると、巻き毛の少女も笑って私を見つめかえした。
にたあ、と笑って見つめ返した。




