浸食
ドオオオオオオ
これは雨の音だろうか。
まるで滝の中にいるようだ。激しく凄まじく落ちていく滝の音。
凄まじい音は他の音をよせつけない。
安心する。
ここが滝の中だったら安心できるのに。
私は目の前のカードに映し出された自分の母親を凝視しながら、力強くボールペンを握った。
「さあ、いまよ」
しかし私はボールペンを振り上げもしなかった。激しく規則正しい雨音を、頭に響くような高音が遮ったのだ。
やかんのお湯が沸いた音だった。
さっきからずっと鳴っていたようで、やかんはヒステリーを起してお湯が沸いたことを知らせている。母親がやかんを火にかけたまま出かけるはずはないし、お湯を沸かしたのは父親だろうと思うが、なぜすぐ火を止めないんだろう。トイレだろうか。私が止めに行くべきか。
そう私がためらっているうちにその音は消えた。父親がお茶か何か飲むのだろう、そう頭の片隅で考えて、私はあらためてもとはハートのクイーンだった1枚のカードを見下ろした。その中にはまだ母親が映っており、熱心に今日の夕飯となる弁当を選んでいる。
さっきまで最高潮に達していた私の衝動は、やかんの音に水を差されて幾分おさまり、冷静さを取り戻していた。
私はカードに映る1人の人物を舐めるように見た。映っているのは主に後頭部だがまぎれもなく私の母親だ。きれいに揃ったショートカットにイヤリングが覗いている。
このカードはいったい何なのだろう?もとはただのトランプだったはずなのに、ビデオカメラのように妹や母親を映している。カードの中の母親が動いても常にカードの中心に母親が映るようになっている。まるでビデオカメラが斜め上から母親を追って撮影しているみたいだ。
だけど、このカードは妹や母親を「映して」いたんじゃない。
ボールペンはこのカードを突き抜けた。今冷静になって考えてみると、そういうことなんじゃないのか。妹のわき腹の打撲傷、あれは、私が突き刺したボールペンの跡なんだ。
このカードは、穴だ。
実際にカードの中はスーパーマーケットで、私とこの穴でつながっている。さっきは妹の部屋とつながっていたんだ。ただ、カードに映る人物は私から見ればまるで小人で、外から覗いている私と同じ大きさではないのだ。だからボールペンの先がこぶし大の打撲傷をつくった。
私はあくまで冷静だった。体の震えはとっくに収まり、まるでさっきのやかんの音が鎮静剤だったかのように、自分でも驚くほどに落ち着いて頭の中に散らばった疑問や困惑を整理した。
そして私は答えを出した。勉強机の上に散らばっている消しゴムのカスを集めると、それを次々にカードの中にばらばらと落とす。丁度今母親はレジで清算をしているところだ。消しカスはカードの穴をぬけて向こうへ落ちていく。
そして最後に。修正液をとりだして、キャップを取る。カードの中、母親めがけて液を垂らす。
どうしてこんな奇妙なトランプカードが存在するのか、それはもうどうでもいい。
このトランプカードはもしかしたら、使えるかもしれない。
すべて終わったあと母親の反応を確認したかったが、カードはすぐに最初と同じに真っ黒になってしまった。だが結果はすぐに分かった。10分後母親はすっとんで家に帰ってきて、半ばパニックを起こし、スーパーの天井からゴミが降ってきたと父親に喚いて、シャワーを浴びに脱衣所に駆け込んだ。私は階段の上から母親の様子をそっとうかがった。母親自慢のショートヘアーにべっとりとまっ白いペンキのようなものがこびりついているのが見えた。
母親はその日から神経を尖らせ、家の中でもどこでもスカーフを頭に巻きつけるようになった。
次の日も雨だった。空からはきだされるような大雨だ。めずらしく早起きした私はもう一度妹でこのカードをためした。どうやらこのカードは私の怒りに反応するようなので、私は今度はダイヤの9を取り出して、妹に浴びせられた暴言の数々を思い出した。すぐにカードは一瞬ぼやけ、病院のベッドで暇そうにしている妹が現れた。相部屋の片隅でバスケットの雑誌を読んでいる。
私は台所から持ってきた醤油さしをためらいなくカードの上で傾けた。
「ぎゃああああ」
妹の叫び声があがったが、今は家に誰もいない。母親はパートタイマーだが今日は午前中のシフトで、父親は会社。それに私から見れば所詮ちいさな人形が発する声である、自室の外にすら漏れていないはずだ。
醤油さしは空になった。私は嬉々としてカードの中を覗き込んだがカードはすでに真っ黒だった。私は少し物足りない気持ちだった。
妹が醤油まみれになったというおもしろ話を私は昼過ぎに仕事から帰ってきた母親から聞いた。というよりはやく「結果」が知りたくて、めずらしく私から母にさぐりをいれたのだ。「どう?あの子の具合は」なんて私が口にだしたものだから(それもしっかりした口調で)母親は家を間違えていないだろうかと不自然にきょろきょろあたりを見まわし、それから私を穴が空くほど見つめて「病院から電話があった」と言った。
電話は妹から母親の携帯にかかってきた。妹は鼻息も荒く、誰かが仕切りのカーテンの隙間から醤油を浴びせた、となりのヤンキー女に違いない、部屋をかえてもらう、と喚いていたらしい。
母親は「いやねえ」とため息をつき、疲れた顔で「これから病院に行くからお昼は適当に食べていて」と付け加えて、その準備を始めた。頭にはきちんとブランドのスカーフが巻かれている。きっと仕事中も余計なストレスに悩まされているのだろう。いつ、なんどき頭上からゴミや白い液体が降ってくるか分からないから。
じんわりと満足感が自分のなかに広がるのを感じた。私は「わかった」と母親に告げ、軽やかな足取りで自室に戻った。電気をつけることもせずに長方形のケースを勉強机の引き出しから取り出して、やさしくいとおしく巻き毛の少女を撫でた。蓋を開けて、トランプカードを取り出す。
ふつうのカード、つまり未使用のカードが49枚。
真っ黒なカード、使用したカードが3枚。
それから本棚の本をすべて抜き、2重にしてあった奥の板を一枚はがし、あいだから1冊のノートを取り出した。一見平凡な大学ノートだ。しかし中には私の中学3年間の地獄の日々が事細かに書き連ねてある。こんなものがあっては、自分はいつまでたっても前に進めないと考えて、捨ててしまおうかと何度か思ったこともある。だけども私は心の奥底で、いつかきっと裁きのときは来る、こいつらの悪行の数々に天罰が下る日が必ず来ると信じていた。その日のために、あの3年間はただの若さゆえの行き過ぎた行為などではない、私は決して許してなどいないという証拠として、これを結局私は手元に残したんだと思う。
私は机の上にトランプを表にして綺麗に並べた。縦5枚、横6枚の長方形にならべる。合計30枚。私を除いたクラスメートの数。私の通っていた中学は3年間クラス替えがなかったから、私はこいつらに3年間ずっと地獄を見せられた。それと脳なしの坦任教師。自分の安全だけを考えて、ひたすら目立つグループに媚びを売っていた女だ。30半ばだがメイクと爪の手入れは欠かさず、教師という身分のくせに存分に女をまわりに振りまいていた。私は30枚のカードの横に1枚付け足した。
確かめるように31枚のカードを見渡して、私はひとつうなずくと、残ったカードを真っ黒なカードが下になるようにして長方形のケースにしまった。蓋をすると巻き毛の少女が私に微笑みかけた。私もにっこり笑った。
こんなに胸を躍らせて笑うのはいつぶりだろう。興奮して顔が蒸気しているのが分かる。
「こいつらは必ず裁きを受ける」
裁くのは、私だ。