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連鎖

 ボールペンは無機質な音を立てて床ではねあがり、唐突に静止した。

 私も動けなかった。雨で濡れた体は硬直していて、指先はボールペンを握る形のままだ。私はボールペンを拾い上げずに、今の悲鳴について考えた。妹の声だ。ただ事ではない、そんな悲鳴だった。私がボールペンをカードに突き刺すと同時に、その悲鳴は上がったのだ。

 何が起こったの?

 私にはまるで分からず、ゆるゆると視線を落とす。何か真っ黒な紙が勉強机の上に置かれているのに気がついた。「これは……?」と疑問に思いすぐにさっき妹を映していたトランプだとわかった。ダイヤの4のカードは、表も裏も真っ黒なただのカードに変化してしまっていた。その横に、蓋を外したままの、トランプが入っていた長方形のケースがある。蓋に描かれている妖精の少女はただのプリントされた絵のはずなのに、なぜか顔ごとこちらを向いた気がした。そしてバニラクリームのような甘い微笑みを浮かべて、柔らかい毛織物のような安心させる声で私に囁いた。

「どう?しかえししたきぶんは。だいじょうぶ。ちょっとこらしめただけよ」

 頭の中がぐらぐらしていた。「今、私が妹に何かしたっていうの」

 私はひとり呟くと、立ちあがり、ふらつく足取りで廊下に出て、妹の部屋の前に立った。そして少しためらってからいつもどおり、ドアを2回ノックした。妹の部屋に用があるときは、こうしないと妹に蹴飛ばされる。

 応答なし。

 念のため、もう1回、2回ノック。

 応答なし。

 私は慎重にドアを少し開けた。隙間から中をのぞく。

 妹が自分の腹をおさえて床に蹲っていた。


 それからは、色々なことがわたしの前をあれよあれよと動画を見ているかのように通過していき、私が何もしなくても物事が進んでいた。

 たしか、私が妹の部屋の前で長いこと呆然としていると、いつもより早く母親が仕事から帰ってきて、妹を発見するなりすぐに救急車を呼んだ。救急車が到着するまでの間母親は私に、いったい何があったのか、いつから妹はこうなっていたのかなどをまくしたてて聞いた。私は「わからない」とぼそぼそ繰り返したような気がする。だって本当に「わからない」のだから仕方がないじゃないか。私がわからない、と言っている最中、母親は奇妙な目を私に向けていた。

 救急車には母親が同乗して、私は家に残った。夜になって母親と一緒に父親も帰ってきた。会社から病院に呼ばれたのだろう。2人で何やら話しながらリビングに入る。2階にいる私のことは無視だ。私はすでにトランプをすべて長方形のケースにしまって、しっかりと蓋をしていた。真っ黒になったダイヤの4はケースの一番下にいれた。この真っ黒なカードに数時間前妹が映っていたのだ。私はその妹めがけてボールペンを突き立てた。……そうしたら、妹は……。

 しばらくして母親に呼ばれて私は1階に下りた。父親の姿はなかった。たぶん奥の和室だろう。

 そして妹の現在の状態を聞かされた。

 診察の結果、妹の右わき腹にはこぶし大の打撲傷が確認されたそうだ。しかも不思議なことにその傷部分にあたる衣服には同じくこぶし大の黒いインクが染みついていた。妹はしきりにうめいてかなり痛がっているが、骨に異常はなく、1週間で退院できるとのこと。疑問なのはこの傷やインクの染みがいつできたのかということだが、妹本人は自室で雑誌を仰向けで読んでいたら、いきなりわき腹にささるようなぶつかる衝撃と痛みがはしった、部屋にはあたし1人で誰もいなかった、と言っているので、まったくわからない。一瞬だが太い棒きれが目に映ったような気がする、とも口にした。結局ちゃんとした原因はわからず、妹は入院することとなった。

 そこまで母親は私を見つめながら淡々と説明して、急に黙った。私から顔をそむけ、ちらちらと伺い見るような目つきになり、何か言いたいが、言えないといった様子だ。私はというと俯いて、なんとなく落ち着かないので左腕を右手でさすったりしていた。

 と、やがて母親が言った。

「あなた、何してるの」

 私は「はっ?」という感じで俯いたまま目だけをほんの一瞬母親の方にむけたが、またすぐに伏せた。父親も母親もここ最近は私の行動について何も言わなくなっていたので、その少し責めるような口調に驚いたのだ。

「ねえ、あなた妹があんなに痛がっているというのに、ぼんやりと突っ立って……どうしてすぐに救急車を呼ぶなり、お母さんの携帯に連絡するなり出来ないの?あなたの妹でしょ、どうして自分で考えて出来ないの」

 予想外の事態発生。私はすぐ自分に防御線をはった。頭の中を空っぽにするのだ。左腕をさする右手はそのまま、母親の声が直接頭に響かないようにガードする。この人は、今から私を傷つける言葉を吐く恐れがある。

「お母さんね、あなたのことをほったらかしにしていたわけじゃないのよ。何か言いたいことがあればお母さんに言っていいのよ。ちゃんとお話しましょうよ。あなたは一体どうしたいの」

 わたしはそのまま左腕をさすりつづけた。

「妹が入院したっていうのに、まるで無関心ね。信じられない」

 はやく終われ。はやく終われ。防御壁がもたない。

「なんにも言わないのね。もういいわ」

 母親はくるりと私に背を向けると、

「買い忘れた物があったわ。ちょっとそこまで出てきます。ついでにお弁当でも買ってくるから」

 奥の和室にいる父親にそう告げて、さっさと買い物に行ってしまった。

 私は玄関のドアが閉まる音を確認して、何も考えないで2階の自室に戻った。ドアを閉めると急に背中を這い上がるような寒気が襲った。そういえば雨にぬれた服をまだ着替えていない。私は洋服ダンスの引き出しをあけて、紺色のトレーナーを取り出し、着替えた。体は異常なほど震えていた。顔が火照っている。ずっと濡れた服を着ていたから、風邪をひき始めているのかもしれない。布団を敷いて、横になろうか。

母親は、私がいじめられていたという事実を知らない。父親も、妹も知らない。私の性格から、クラスの人気者などとは思ってはいないだろうが、あんな壮絶ないじめをうけていたなど、露ほどにも思っていないはずだ。とりわけ母親は自分が見た物しか信じない。見えないものを見ようとしない。当時母親は看護師、父親も会社で忙しく、家にはほとんどいなかった。母親は、私を有名私立中学に入れて、安心しきっているようだった。その有名私立はいじめの事実を隠ぺいした。妹は私と同じ中学を受験して落ち、ますます私に当たるようになった。私も落ちたかった。

 私が散々な成績で中学を卒業して家に籠ると、母親はあからさまに「なぜ?」という顔をして、私をたびたび問い詰めた。私は母親に何も話す気力がなかった。「いじめられていた」と打ち明けられなかった。なぜか否定される気がしたのだ。叱られる気がした。それにもう終わったことだ。


「ねむるの?」


 突然の囁きに驚いて振り向くと、勉強机の上の長方形のケース、巻き毛の妖精の少女と目があった。

 トランプ……。

 次の瞬間、体全体を飲み込むようなすさまじい震えが来た。頭には噴水のように血が上って、くらくらするほどだ。この震えは寒いからではなく、激しい怒りからきていたんだなと私は頭の隅で思った。私は私自身に言葉で傷つかぬよう防御をしたものの、母親の声はちゃんと耳に届いたようで、今やそのさっきの母親の言葉はまるで台風のように私の頭をかきまわしていた。


(あなたの妹でしょ)なにが妹だって言うの、あんな、人を小馬鹿にするようなやつ。(あなたのことをほったらかしていたわけじゃないのよ)よく言うよ、私が妹に攻撃されていても、いつもいつも妹の味方のくせに。(ちゃんとお話しましょうよ)私のことをお荷物だってもてあましているくせに、今更私が何を言ったって無駄なんだよ。なんだよ、あのちらちら盗み見るような妙な目つき。何か言いたいのはそっちじゃないのか、何か……。

 

 そこまでぐるぐると頭で考えて私ははっとした。母親は疑っているんだ。そうに違いない。救急車が来る前の、あの私を見る奇妙な目つきを思い出す。

(お前が妹に何かしたんじゃないのか)

 実際に私がしたことがあの結果を招いたのかなんて私にもわからないし、それに妹の証言からしてあの怪我と私は関係がないと分かるはず。でも母親は疑っている、私を疑っている。私ならやりかねないと思っているのだ。何年も家に閉じこもってこの子どもはおかしい、どこかおかしい、こいつは自分の妹になにかしたはずだ。なんたって家族の中のやっかいもの、異端児なんだから。だけどそれは言わない。自分の子どもを信じられないなんて良い母親失格だもの。

 ひゅーひゅーと喉が鳴り、私はとっさに唇をかんだ。長方形のケースをひっつかみ、乱暴に蓋を開けて、中のトランプカードを取り出す。表を自分に向けて扇形にカードを開くと慎重に1枚抜き取った。

 ハートのクイーン。


 いい母親づらして、ふざけんな。私の気持ちなんか、少しも理解していないくせに。


 私は1枚のカードを見つめる。やがて描かれたクイーンはぼやけ、代わりのものを映しだした。

 妹のときと同じ、左斜め上から見下ろす構図だ。傘をたたみビニール袋にいれて、今まさにスーパーの中へ入っていく母親が見える。

 かみしめた唇が切れて、血の味がひろがる。雨は止む気配を一向に見せず、あいかわらず激しく降り続いていた。




 


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