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手紙師はそれを知らない  作者: 久慈柚奈


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インクの味は苦い

「いつもあなたを見守っています。あまり悲しまずに生きていってね」

 最後の一文を書き上げて、私は溜めていた息をふうっと吐きだす。

 これは、私の言葉ではない。

 私が、私の手と使い慣れた青いインクで書き記した、顔も知らない他人の言葉だ。


 私は手紙師をしている。


 窓から入ってきた気持ちの良い風が、レースカーテンをふくらませて部屋をひとめぐりする。書き上げた手紙は合計で便箋4枚にも渡った。それを順序に気をつけて重ね、トントンと軽く揃える。丁寧に二つ折りにした。そっと洋型封筒に入れるが、封はしない。それは私の仕事ではない。

 封筒と依頼書をまとめてファイルフォルダに入れる。フォルダには同じような封筒と依頼書のセットがすでに10組ばかり収まっている。フォルダを閉じたところで、ちょうど配達人が呼び鈴を押した。

 私は窓辺の椅子から立ち上がった。

 玄関を開けると配達人が立っている。少しレトロさを感じる制服。お疲れ様です、と通り一遍の挨拶を交わした。

 書き上げたぶんです、と言って私はフォルダを渡す。配達人は軽く中を確かめると、肩に提げた鞄から別のフォルダを取り出して私に差し出した。

「新しい依頼です」

 ありがとうございますと言って受け取る。フォルダは心なしかいつもより重かった。今回は量が多いのかもしれない。

「では、また7日後に」

 配達人は用件を終えるとすぐに帰っていった。私は新たなフォルダを窓辺の机まで持ち帰り、中を覗いてみる。

 入っていた依頼書は15枚。今週は力を入れて仕事せねばならないだろう。他には予備を含めた枚数の封筒と、追加の便箋。便箋は部屋にもたくさんあるから、残数を気にせず仕事に打ち込めそうだ。でもその前に、少し休んでおこうか。

 キッチンでやかんを火にかけた。カーテンがいっとう大きくふくらんで、淡い光が部屋の中で濃度を移り変わらせる。光の向こうから子どもたちの笑い声が聞こえてきた気がする。

 手紙師。依頼者の思いを汲み取って、それを手紙の形に記す仕事。

 お湯が沸くのを待つあいだ、新しい依頼書の一枚に目を通してみる。

 依頼者の氏名。花越愛梨(はなこしあいり)。一人称。私。享年34。手紙を送りたい相手。小学2年生になる娘。概要より下部には彼女が語った娘との思い出や伝えたいことが文字起こしされている。

 まだ集中はしない。ただの流し見程度を心がけながらひととおり目を通す。私はひどい活字中毒で、お湯が沸くのを待つわずかな間にも読んでいられる文字を求めてしまう。

 お湯が沸いた。ティーバッグを垂らしたポットにゆっくり注ぐ。青空みたいな色のこっくりしたお茶ができていく。私は濃さを増していく色の中に、いつかの空を垣間見た気がする。

 霊界と現世のあいだ。誰か、何かに強い思いを抱いたままの死者は霊界への門をくぐることをしない。けれども現世に影響を与え、思いを解消することも難しい。思いの行き場がなくなってしまう。そこに手紙師の仕事が生まれる。

 死者の思いを手紙の形にしたため、配達人に託す。配達人はその名の通り、手紙を宛先の人のところへ届けてくれる。

 手紙師に頼めば、思いを伝えられる。思いに行き場が生まれる。自分の手紙がきちんと受け取られたことを知った死者は、安心して霊界の門をくぐり、輪廻の中に戻っていけるという。

 私の仕事は手紙を書くところまでだから、手紙の内容がどのようにして生者に認識されるのかは分からない。それにあまり気になってもいなかった。多分、亡くなった人が夢枕に立つみたいに伝わっているんじゃないかしら。そんな安易な空想だけで、私の好奇心は満たされている。

 お茶が入った。ポットとカップを持って窓辺へ戻る。もう一度、花越愛梨の依頼書に目を通した。今度は、より真剣に。仕事をする頭に切り替えて読む。

 頭の中に次々疑問が浮かびあがる。この人はどんな仕事をしていただろう? 会社員? 主婦? フルタイム? それともパート? 充実感を持って働いていたかしら。娘のために料理をしたかしら。2人のお気に入りのメニューはなんだろう? どんな場所で食事していたかしら。どんなインテリアが好きだろう。あるいは無頓着だろうか。よく着る服の系統は? どこかのお店に顔馴染みの店員さんがいたかしら。お気に入りのコスメや香水もあったかもしれない……。

 連想ゲームのように問いがふくらんでいく。私の目は依頼書の上を行ったり来たりして答えを見つける。文字のあいだに。あるいは演繹によって。依頼者の個性を理解していくーー。

 そうやって、ようやく書く準備が整う。

 机の上に置いておいた、星空模様の万年筆を手に取った。それを白い便箋の上に走らせる。濃紺のインクが、まずは娘の名前を形づくる。私は書きはじめた。

 私の書く手紙は依頼人たちの間で評判が良いらしい。いつか配達人が教えてくれた。配達人は私に仕事を持ってきて回収していき、時には外部の反応も耳に入れてくれる。少し編集者に似ているなどと思う。まあ私は編集者だったことがない(と思う)から、推測に過ぎないのだけれど。

 配達人は、

「臨場感のある文体ですよね。他にこんな書き方のできる手紙師はいませんよ」

 などと言って褒めてくれた。私は間の抜けたような返事しかできなかった。特別なことをやっているつもりはなかった。

 それとも、あの連想ゲームが「特別」なんだろうか。みんなは書く前にあれをしないのだろうか。私には手紙師をやっている仲間などいないので、確かめようがない。むしろあれをせずして、どうやって他人の手紙が書けるだろう。私には見当もつかなかった。

 でも確かめたいとは思わなかった。私は現在に満足していた。手紙師の仕事と共に与えられた、住み心地の良いワンルーム。書くための設備も、お茶もお菓子も、充分にある。訪ねてくるのは配達人だけーーそもそもあの玄関は配達人が来たときしか開かない。私が気晴らしに出かけたり、手紙師仲間を見つけに行きたいと思い立ったとしてもそれは不可能だ。

 ここには私に必要なものが、すべてある。

 だから、それでいい。

 考え事のうちに、手紙は結びの言葉に差し掛かっていた。3枚にわたる便箋には、「あなたが生まれてきた時、本当に幸せだった」「あなたが七五三で選んだラベンダー色のドレス、とっても似合っていた」と、花越愛梨の思いが私の筆跡で綴られている。私の連想ゲームの中から立ち上がってきた「思い出」の描写が、正しいかどうかは確かめようがない。けれど全くの的外れなわけでもないと思う。思考の中に一時的に根付かせた依頼者の人格と齟齬がないから。

 私は書いた。

「私が二十歳になった時にね、お母さんーーあなたにとってはおばあちゃんだねーーから、お祝いにって香水を一瓶もらったの。すごく上品な香りだった。これが似合うような素敵な大人になりたいなと思った。同時にその時『私にも子どもが生まれたら、お母さんと同じことをしたい』と思ったの。私から渡すことはできなくなってしまったけれど、もしこの話をハタチになるまで覚えていたら、香水を買ってみて。私が贈ったつもりになってくれたら、嬉しいわ。       ママより」

 ペンを置く。溜めていた息をふうっと吐く。折り畳んだ便箋を封筒に収めながら、私は空想を遊ばせてみた。

 私には、娘や息子があったのかしら。

 結婚はしていただろうか? 恋人はいた? もしいたら相手はどんな人だっただろう。私の子どもはどんな子だったろう。あるいは、子ども「たち」。

 答えを求めて静寂に耳を澄ませる。また風がカーテンを膨らませる。カーテンが揺らぐ時の、布の形に織り合わされた糸が擦れる音まで聞こえそうだ。

 答えは、どこからもなかった。私は少しだけ落胆した。依頼人という他者のことは分かるのに、自分のことはいつまでも分からない。

 手紙師になる前の、霊界と現世のはざまに来る前の、肉体を持って生きていたはずの私。私はその時の私のことが、どうしても思い出せないのだった。




 青いインクで書くのが好きだ。

 瀟洒(しょうしゃ)な瓶に詰められた多色のインクを見て回ると、心惹かれて手にとるのはいつも青系のインクだった。特に、限りなく黒に近い、濃紺。

 青は強い色だと思う。最後の最後ギリギリまで、黒に染まらず自分の味を保てる色。この色には、不思議な力があると思う。

 紙の上に黒いインクで文字を綴ると、その文字は、言葉はきっちりと固定されて二度と動かせないものになる感じがする。けれども青は違う。青色で書きつけた文字は、踊っているように見える。紙の上に軽く仮留めされただけで、自由に並べ替えて遊ぶ余地を残している。私はきっと、青が持つその余白を愛していた。

 ーーあの人は黒いインクを使っていた。

 あの人って、誰だろう。分からない。


 私は一度ペンを置き、カップに口をつけた。今日は宵の口みたいな色の紅茶が入った。減ったぶんを注ぎ足したら、ころんと音がして、黄色い金平糖が転がり出てくる。

 私はカップの水面を凝視する。金平糖が作った波紋の中に、何かの形を見た気がしたのだ。この部屋にはない何か。

 けれども形がはっきりしていたのはほんの一瞬のことで、見つめれば見つめるほど波紋は凪いでいってしまう。結局、見えるのは無駄に難しい顔の私ばかりになった。諦めて紅茶から顔を離した。カーテンが揺れた。

 この部屋は、過去からの残響に満ちあふれている。

 紅茶の中に影や形を垣間見たのはこれが初めてではない。暖かい窓辺にいると、時々外から音が聞こえる。この窓の外には光のほかに何も無いのに。足音がどこかへ歩いていき、誰かが何かを話している。いつも「話している」ことはわかるのだが、内容は聞き取れない。声のトーンで楽しそうか深刻そうかを(おもんぱか)るばかりだ。

 毎度毎度音の正体が掴めないのを繰り返すうちに、私はそれを過去からの残響だと結論づけた。何もかもおぼろで掴みどころがないのは、多分私が何も覚えていないからだ。明確なのはいつも、書くことだけ。

 そう、書かなければ。今日は筆が重いばっかりに、余計なことばかり考えてしまう。

 改めて書きかけの便箋に向き合ったが、ちょっと思考を遊ばせたからといって筆も気持ちも軽くなってはくれなさそうだった。

 依頼人の名は西堂(さいどう)雄二。享年73。一人称は俺。アーティストを目指している孫の将来を心配しているので手紙を書いて欲しい、と字だけ読めば聞こえはいいが、私の好意的解釈にもさすがに限界があった。

 西堂氏を根付かせてペンを走らせると、紙面にはどうしても刺々しい言葉が並ぶ。まさかまだ芸術をやりたいだなんて甘いことを言っているんじゃないだろうな、お前よりすごい奴はたくさんいるんだから、どれだけ頑張ろうと無駄だ、それは男としての幸せじゃない……とか、ほかにもたくさん。私は何度も西堂氏の思考を考察し、別の解釈ができないかと考えた。けれどもどこをどう取っても、核にあるのは心配の皮を被った批判だ。

 もう何度目か。私は葛藤に頭を抱えた。こんな、人の気を挫いて自分の思い通りの道に誘導しようとするための言葉なんて、書きたくない。私の手で、私の好きな色のインクで。もう生きてもいない人間が、生者の夢や目標に何を言えることがあるだろう。この人は孫の人生に責任を持つわけでもないのに。まだ成功するか失敗するかも分からない道の前に両手を広げて立ち塞がるようなことをして。きっと残るのは中途半端な不全感だけなのに。

 いや、それとも私が孫に対して、なぜか強烈に感情移入してしまっているだけだろうか。顔を見たこともないのに。

 その向きはあるかもしれない。私は先入観から、西堂氏の孫を小学生か、大きくても高校から20代だと思って憤っている。けれどもし、仮に、前提の転換というひとつの可能性として……。この「孫」というのが50代とかで、協力して暮らすべき家族に夢のせいで苦労をかけているとしたら? 死者の享年は享年であって、西堂氏が何年前に73歳で亡くなったのかは依頼書からは分からない。西堂氏の死後に時間が経っていれば、孫ももう壮年期、ということもありうる。

 もしそういう孫に対してなら、祖父からの言葉は多少のショック剤として必要だろうか……?

 それでも看過できる言葉とは思えなかった。私は自分のことのように、この言葉に反発していた。正直、ペンを置いて依頼書をしまいこみ、「書けませんでした」と言って真っ白な便箋と共に突っ返してしまいたい。今週は依頼数が多いのだから、他のにより丁寧に取り組めば帳消しになるのでは。この依頼は他の人に回してもらえばいい。

 こういう考えも甘いのだろうか。今の私は手紙師だ。依頼書に則って手紙をしたためるのが仕事だ。どんな理由があろうと、どんな内容だろうと、仕事を好き嫌いで飛ばすのは良くないかもしれない。これひとつをきっかけに評価が下がって、仕事をもらえなくなったらどうしよう? ここに来る前のことは何も分からない。もしクビになったら、この部屋にもいられなくなるかもしれない。

 そうなる可能性があるーー私のたったひとつのわがままで。私はそれが怖かった。

 でも書けない。どうしても。こんな手紙、この人の孫に届かなければいいのにと思う。嗚呼、どうしよう。どうしたら……!

 呼び鈴が鳴った。

 思わずえっと声が出る。玄関の方を振り返った。かわいらしいセルリアンブルーのパネル戸の向こうで、誰かが私の応答を待っている。

 まだ手紙の受け渡し日ではない。誰も来るはずのない日だ。誰が訪ねてきたんだろう。どちらにしろ、配達人相手でなければドアは開かないのに。

 居留守を決め込もうと思った。もとより驚いてしまった拍子に体がこわばり動けなくなっている。だが息をひそめたのも束の間、再度呼び鈴が鳴らされた。まさか、私が答えるまで居座る気? 気が散ってかなわない。私は心を決め、席を立った。

「どちら様ですか?」

「わたしです。……配達人、です」

 歯切れは悪いが、声は確かに聞き覚えのあるものだ。覗き穴に目を近づけると、おぼろな視界の中に配達人の制服が認められた。私はドアを開けた。

「お疲れ様です」

 いつも通り、配達人が言う。私は躊躇(ためら)いつつ頭を下げた。一体なんの用だろう。

 配達人は迷っているのか、なかなか口を開かない。時折何か言いたげに口を小さく開いては、またぎゅっと結んでしまう。気まずい沈黙にじわじわと背中を焼かれている気になる。

「あの……」

 私は耐えきれなくなって、先に口を開いた。

「まだ、手紙の受け渡し日ではないと思うのですが」

「あ、はい、そうです。手紙を受け取りにきたわけではないんです」

「では、今日はなぜこちらに?」

「実は……」

 配達人はそこまで言って、また口ごもる。私は所在なく続きを待った。少しは前進した。

 配達人を待つ間、私は新鮮な気持ちで彼を見つめた。彼の顔かたちを知っているつもりでいたけれど、思えばじっと観察したことなんてなかった。

 彼は私よりずっと若かった。あどけない、と言っても良い。背は私より高いようだ。今は伏し目がちにした大きな目と、鼻筋の通った顔立ち。レトロな意匠の制服なんかより、時流に乗ったファッションの方が似合いそうな雰囲気だ。

 こんなに若い人も、現世と霊界のはざまにいるのだな。

 配達人は決心のついた目を上げた。彼はこちらに何かを差し出しながら、頭を下げた。

「お願いします。僕の手紙を書いてください」

 彼が差し出したのは、依頼書だった。


 私は依頼書を受け取り、眺める。それはどう見ても手書きの代物だった。彼が自分で書いたのだろうか。

「はい、そうです」

 尋ねると、彼はあっさり認めた。

「実は……。僕が手紙を出したい相手が特殊、で。正規の依頼のルートには乗せられないんです」

「そう、なの」

 やや面食らいながら相槌を打つ。配達人はひどく思い詰めた顔だ。この依頼を受けてもらえるかどうかを気にかけている。私も不用意な返事はできないなと思う。

「……良ければもう少し、詳しい話を聞かせてくれないかしら。今日の仕事は終わりなの?」

「あ、はい。今日はもう」

「じゃあ少し上がっていったらいいわ。紅茶でいいかしら?」

 私は玄関ドアを大きく開き、初めての客人を迎え入れた。


 部屋の中には可愛らしい丸テーブルと椅子ニ脚のセットがあった。一人でごはんを食べる時くらいにしか使わないのだから、椅子はひとつで充分なのに…と思っていたが、ようやく役立つ時がきた。

 二人分の紅茶とレモンケーキをテーブルに並べ、私は配達人と向き合って座る。今回の紅茶はバタフライピーみたいな綺麗な青色に入った。レモンの黄色とよく合っている。

「どうぞ好きな時に召し上がってね」

 彼は緊張で喉を通るものなどなさそうだったが、私はお茶とお菓子を勧めておいた。そう言う私もお茶に手をつける前に、手書きの依頼書にもっとよく目を通す。

 氏名。長月圭吾。享年17。手紙を送りたい相手。品川芽依さん。

 大量の依頼書と手紙を扱うだけあって、書類の形式はしっかりしている。けれども流石に文字起こしされた会話の欄だけは、短い記述だけで終わっている。前々から思っていたことだが、依頼人の心持ちを聞き出す人はその道のプロなのだと思う。プロの手を借りられなかった彼は、独力では思いをうまく文字にできなかったと思われる。むしろそれができていたら、こんなところに来ず自分で手紙を書き上げられるだろう。

「長月君、とお呼びしても良い?」

「あ、はい」

「手紙を出したい相手が特殊だって言っていたわよね。どういうふうに特殊なのか、教えてくれない」

「ええと」

 所在なさげな少年はおずおずと口を開いた。

「相手……。品川さんも、もう亡くなっているからです」

「亡くなった相手に手紙を出すことが特殊なの?」

「うーん、そういうわけじゃないとは思うんですけど。すみません、うまく説明できなくて。本当に問題なのは、品川さんが亡くなっていることじゃないんです。僕が、手紙に関わる仕事をしている僕が、手紙を出そうとしていることなんです」

 長月君は語った。

 手紙に関わる仕事ーー依頼書作成人、手紙師、検査員、そして配達人。

 私たちは人の思いを預かる大切な仕事をしているのであって、そのために必要な設備や持ち物や技能を与えられているのであって、それを自分個人の目的のために使ってはいけない。

「つまり……。職務規定に違反する、ということ?」

「はい」

 長月君は挑みかかるような面持ちで頷いた。覚悟の上でここまで来たのだろう。

 私は思わず首を傾げた。

「契約書を取り交わした覚えもないけれどねぇ。だって私は気づいたらこの仕事をしていたのよ」

「慣例、というやつらしいです。書類も何もないけど、守らなくちゃいけないこと」

「じゃあ、配達人を辞めてから手紙を出すというのでは駄目なの? それなら違反にならないわ」

「この仕事って、辞められないんですよ」

「え?」

 私は耳を疑ったが、長月君は確かにそう言った。

「辞める、というのがないんです。あるのは規定違反で解雇されるか、霊界入りーー心残りを解消して、霊界の門をくぐるかの2択です」

「嫌だ、とんだ違法労働じゃない」

「ここには法律もありませんからね」

 長月君は皮肉ってちょっと笑う。

 それから目を伏せた。

「手紙に関わる仕事をする人たちは、みんな生前の記憶がないと聞きました。生きていた頃の自分がどんな人で、どこで、何故、命を落としたのか。だから思い出すまで人の手紙をさばき続ける。もし何かの拍子に記憶が蘇ったら、そこからさてどうしようと言うわけです。僕も、15日ばかり前に、突然」

「そういうことだったの。ごめんなさい、ひとつだけ教えてくれる? 私はできる限り、あなたに力を貸したいと思っている。でも私があなたに協力したことで、規定を破った扱いになるのは困るの。仕事を失うわけにはいかなくて。これは秘密にしておけることなのかしら」

「そこは、心配しなくて良いと思います」

 長月君は請け合った。

「もちろん、ご迷惑をおかけするわけにはいかないと思っています。僕もいろいろ調べた上でここへ伺っています。

 配達人の手紙を書いて解雇された手紙師は、いないようです。だって手紙師にとっては、配達人の手紙も『他人』のものですから。規定には触れない扱いのようですよ。僕だけが人知れず姿を消して終わるはずです。もし誰かに何か聞かれたら、何も知らないと言ってください」

「そう……」

 私はなんとも言えない思いで頷いた。聞いてから思い出した。どうせ私はこの部屋から出られない。長月君の言葉を疑ってかかっても、事実を確かめるすべを持たない。

 彼を信じて手を貸すか、それとも断るか。選べるのはどちらかだけだ。

 私は自分の良心に従うことにした。

「分かった。あなたの手紙を書くわ」

「本当ですか! ありがとうございます!」

「代わり、というわけではないのだけど。私からもひとつお願いがあるの」

「はい、なんでしょうか」

 私は一度席を立ち、机から書きかけの便箋と依頼書を持って戻った。西堂氏の手紙だった。


「この人の手紙……。どうしても書けなくて。他の人に回してもらうことはできない? 空いた時間で、あなたの手紙が書けるわ」

「大丈夫ですよ。他の手紙師に回しましょう。僕が渡し忘れたとでも言っておきます」

 長月君はあっさり了承し、西堂氏の依頼書を鞄にしまった。

「手紙師と依頼人にも、相性ってありますからね。それよりも僕の依頼を引き受けてくれること、本当にありがとうございます」

 改めて頭を下げられる。私は小さな好奇心に駆られた。

「他の手紙師にも頼んで回っていたの? あなたの手紙を書いてくれるかどうか」

「いいえ、あなただけです。あなたに書いてもらいたくて」

 顔を上げた長月君ははっきりと首を横に振った。

「それはどうして?」

「僕は30人の手紙師を担当しています。その人たちの中で……いいえ、今まで担当してきた手紙師たちの中で、あなたが一番、寄り添うような優しい手紙を書くから」

 胸の辺りに広がるむず痒さに、頬が緩んでいくのを感じた。覚えのある感覚だった。

 そうだ。自分の書く文章を褒められるとき、こんな気持ちになるものだった。


品川芽依様

 初めての、そして突然のお手紙をお許しください。長月圭吾といいます。

 あなたと落ち着いて話がしたくて、手紙という形をとることにしました。

 どうか、もう謝らないでください。僕たちが死んでしまったことについて、僕は全然怒ってなどいないのですから。むしろ謝るのは僕の方です。あの日、あなたを助けられなくてごめんなさい。

 僕はあなたが同じ車両に乗り合わせていることにずっと気づいていたし、あなたが日々元気をなくしていくことにも気づいていた。けれどあの瞬間までーーあなたがホームの安全柵を乗り越える時まで、ただ見ているだけでした。心配しているとうそぶきながら、実際には何もしなかった。それが、僕の罪です。

 世間では好き勝手なことが言われていますが、その全部が真実でないことをあなたは知っているでしょう。僕たちはあの瞬間まで互いに知り合ってはいなかったし、一緒になって線路に落ちていったわけではなかったし、あなたは僕を見捨てて自分だけ助かろうとなんてしなかった。むしろ戻ってきて、僕を助けてくれようとした。あなたは優しい人です。

 ここへ来てからの僕は何があったかを忘れてしまっていて、長くあなたのことを思い出せずにいました。心残りが何なのかを知らなければ、霊界へ行くことはできない。今なら自分の心残りが分かります。僕は、今からでは遅いかもしれないけれど、あなたの力になりたいのです。この世界にいるということは、あなたにも心残りがあるのでしょう。僕でよければ、その心残りを解消するお手伝いをさせてくれませんか。

 すぐにとは言いません。お返事をもらえたら嬉しいです。

                        長月圭吾


「品川さんはあの朝、線路に飛び込んだんです」

 長月君は語った。彼の前に置いたレモンケーキは少し減っている。私は依頼書の空いたスペースにメモをとっていた。

「ホームで電車を待っている時から、今までとちょっと様子が違うなと思っていたんです。品川さんが僕と同じ学校の制服を着ていて、いつも同じ電車に乗り合わせていることには、前から気づいていましたから。だんだん元気がなくなっていくな、と思いながら、特に声をかけるでもなく、僕たちは同じ電車で通学していました。

 あの日は……何というか、目が強かったんです。今思えばあれは、もう学校に行かないことをーー終わらせるということを、決意した目だったんでしょうね。

 彼女は安全柵を乗り越えて、その動きに気づいた僕も。止めるつもりでした。ホームがざわついていました。電車が到着するっていうアナウンスが鳴っていて。手を伸ばした僕は彼女の手を一瞬だけ掴むことができました。品川さんはその時、手を掴もうとしたんです。もしかしたらと思いました。本当は、死にたくなんてなかったんじゃないか、って。取り返しがつかなくなってから、そのことに気づいたんじゃないか、って。

 ホームから線路までって、意外と高さがあるじゃないですか。僕は打ちどころが悪くて、線路の上で動けなくなってしまいました。品川さんにホームの下が安全だってことを教えて、彼女が逃げていく背中を見送りました。でも、品川さんは戻ってきたんです。僕も安全な場所まで引きずっていくために。

 もう線路が震えてました。電車が近かった。そのあと……気付いたら、この世界にいました。僕はすべてを忘れてしまっていました。

 こっちで彼女を見つけた時、一気に記憶が戻りました。でも彼女に声をかけにいったら、ものすごく謝られてしまって。僕は謝罪が欲しくて話しかけにいったわけじゃないのに……。それで、もっと落ち着いて話がしたいと思いました。手紙を書こうと思ったのは、そのためです」

 口をつぐみ、紅茶をひと口含む。先を続けた。

「水面鏡をご存知ですか。カップ、洗面器、手のひら……なんでもいいんです。溜まった水を、念を込めながら覗きこむと、現世の様子が覗けます。過去から現在までの、ありとあらゆる瞬間が。

 ここで水面鏡を覗いて初めて、僕は彼女がひどい扱いを受けていたことを知りました。した……学校でも、家でも。だから彼女は安全柵を越えたんでしょう。元々怒ってなんていなかったし、ますますそんな気はなくなりました」

「彼女のこと、とても気にかけているのね。あなたも優しい」

「彼女ほどじゃありません。急に自分を助けようとしてきた馬鹿を、わざわざ危険な場所まで戻ってまで助けてくれようとするほどには」

 長月君ははにかんだ。




 私はまた書いている。依頼書に従った手紙。氏名。享年。一人称。手紙を送りたい相手。一定の項目を延々と確認しては、連想ゲームを繰り返す。心のこもった手紙を書く。

 長月君が個人的な依頼を持ってきてから、すでに17日ほどが経っていた。

 書く手を止め、窓の外を眺める。私の物思いには新たなトピックが加わっていた。

 長月君は、あの後どうなっただろうか。

 手紙はその場で書き上げた。手紙に目を通し、長月君は満ち足りた様子で「ありがとうございます」と言って微笑んだ。つられて笑いたくなる明るい顔だった。

「力になれたのなら、よかった」

「そんな言葉じゃ足りないくらい、助かりました。これで、やっと彼女と落ち着いて話せるかもしれません」

「うまくいくといいわね」

 これは正規のルートで渡る手紙ではないから、自分たちで封をしなければならない。部屋にたくさんある引き出しを探してみると、封をするのにちょうど良さそうなシールが見つかった。長月君は大切な手紙を持って、帰っていった。

 あれ以来長月君の姿を見ていない。私のもとには、彼の代わりに別の配達人が来るようになった。長月君とは全く違う雰囲気の人だ。私は一度だけ「配達人さんが変わったんですね」と話しかけてみたが、「はい」と事務的な返事があっただけで会話は膨らまなかった。あまり詮索しても怪しまれてしまうかもしれない。私は彼のその後を探るのを控えた。

 手紙に関わる人たちが決まりを破った後のことについて、もっと詳しく聞いておくんだった。仕事を続けられなくなって終わり、だろうか。それともまさか、罰を受けたりはしないか?

 考えても分からないから、私は願うように、より幸福な先行きを空想する。長月君が手紙を携えて品川さんに会いにいく。品川さんは長月君の顔を見るなりまた謝るのだけれど、長月君は「今日は仕事で来ただけだから」とかなんとか言って手紙を渡す。すぐに立ち去る。品川さんはその場で、あるいは多少気持ちを落ち着かせてから封を切る。中身を読んで……。

 分かり合えていたらいいな、と思う。

 水面鏡。私は手元のティーカップを優しく両手で包むように持ち、念じてみる。長月君は今、どうしているだろう。けれど彼も言ったように、水面鏡は現世のことを見せてくれるだけだ。これは自分の記憶のみならず、関わったことのある人の姿も見せてくれる。私の両手の中には在りし日の長月君の姿がある。でも、それだけだ。

 記憶のない私が「過去を見たい」と念じても、水面鏡は何も映してはくれない。自分の中に過去が先にあって、鏡はそれを見せてくれるだけなのだろう。私は何度か試したが、長月君ほど鮮明な映像はいつまでも見えない。今も、やはり駄目だった。

 私の周りには相変わらず、過去の残響だけがある。

 窓の外から聞こえる声や音。カップの中に一瞬映じる何かの光景。理解しようとする前に消えてしまうそれら。

 もどかしい、と思うようになっている。思い出せないことが、思い出したくても手がかりさえもないことが、もどかしい。

 長月君は配達人の仕事中、偶然に品川さんを見かけてすべてを思い出したという。それならば私も、誰か知人友人の顔を見かける機会さえあれば思い出せるかも知れない。見られれば、の話だけれど。

 私はこの部屋から出られない。

 必要なものはすべてある。お茶とお菓子にも事欠かない。自己完結的に満ち足りた、それだけの部屋。

 私が誰かの顔を見るためには、かつての私を知る誰かが配達人になってくれるくらいしか手段がない。一体どれほどの確率でそれは起きるだろう。とてつもなく低いに違いない……。

 あ、気づけば随分と手を止めてしまっていた。仕事の流れが完全に断絶してしまう。私は集中し直して、改めて便箋に向き合った。書き上げてしまおう。

 出来上がった手紙を封筒に収める。依頼書と一緒にファイルフォルダーに入れる。次の依頼書を取り出す。


 衝撃で、目がくらんだ。


 依頼人の、名前。私はそれに見覚えがある。いいや、でも、嘘だ。なぜか否定してしまいたい。気づかなかったことにしてしまいたい。

 そう、決して珍しい名前というわけじゃない。同姓同名だ。きっとそうだ。私を動揺させる誰かとは、違う人。顔も分からないのだし。

 努めて落ち着こうとしながら他の項目に目を通す。享年52。一人称は私。手紙を送りたい相手。古い友人。

 文字起こしの欄。

「早くに亡くなってしまったんですよ。こっちで会えるかなと思ったんですけど、見つからなくて」

 文字だ。これはただの文字だ。それなのにどうして、知らないのに知っている声を伴って私の中で響くのだろう。こんなこと、今までなかった。

「彼女に伝えてあげたいんです。あなたを有名にしてあげたよ、って」

「怒ってるかも知れない? まさか。そりゃ気分を害してるようだったら謝りますけど、私はまた昔みたいに仲良くしたいだけなんですよ」

 頭の芯が冷えていく。あなたは信じられないほどに変わっていなくて、それが依頼人の正体を間違いなく私に理解させる。

 これ以上、先を読みたくない。

 手に力が入るあまり、依頼書にしわが寄っていた。両手がこわばってなかなか紙を手放してくれない。私は両目を無理やり依頼書から引き剥がして、両手を自由にすることに神経を集中させた。

 落ち着こう。落ち着かなければ。苦しい。もう肉体なんてないはずなのにどうして息が苦しいことがあるの? 落ち着かなければ。紅茶でも飲んで。

 カップに伸ばした右手は空間認識を誤って、カップを払ってしまう。

「あ」

 転がり落ちていくカップの軌跡を追って、私は床に膝をついた。

 ガラスの砕ける音がした。

 カップになみなみ入っていた紅茶がぶちまけられる。大きな水面だった。

 水面鏡が、像を結んだ。かつてないほどはっきりと。

 嗚呼。嗚呼。思い出す。

 そうだった。星空模様の万年筆も、限りなく黒に近い濃紺のインクも。大事なひとがくれたものだった。私の前に立ちはだかる家族とは違って、私を真摯に応援してくれたひと。私は好きなペンと好きな色で、好きなものを書いていたのだ。

 水面鏡に目を釘付けられたまま、手探りで椅子へと戻る。足に力が入らない。ほとんど縋り付くようだ。震える手で依頼書を持ち直し、読んだ。一字一句逃さず、最初から最後まで。何度も。

 あなたはなにも知らない。知る気もないのだろう、この様子では。あなたが私にしたことの大きさを、私がなぜ死んだかを。

 私は書かなければならなかった。

 便箋を取り出す。星空模様の万年筆を握る。でもペン先を潰さないように、適度に力は抜いて。濃紺のインクを紙の上にすべらせて。

 良心の呵責とか、この仕事を続けられなくなるかもしれないなどということは、一切頭に上らなかった。私は書かなければならなかった。

 書く。一心不乱に書く。濃紺のインクで書く。あの人は黒いインクを使っていた。私は濃紺のインクで編んだ。

 ドアの開いていく音がする。閉ざされていた玄関ドアが、私のために開いていく。



「こんにちは。あなたが私の作品を盗んで有名になったこと、許しません。

 あなたは私の魂を窒息させたのです。そのせいで私は生きていられなくなりました」


 私はもはや、手紙師ではなかった。




                               

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