サイドストーリー:王座から転げ落ちた俺 ~愚かな部下の妻は、最高の玩具だったはずが~
俺の人生は、完璧だった。
高級マンションの最上階。窓から見下ろす夜景は、まるで俺の成功を祝福するために輝いているかのようだ。手にしたグラスの中では、熟成されたウイスキーが琥珀色に揺れている。
仕事では、誰もが認める有能な部長。家庭では、何も知らない従順な妻と、まあまあ出来の良い息子。そして、俺の本当の欲望を満たすための、数人の「玩具」。その中でも、桐谷理亞は最高傑作だった。
十年以上前、まだ新入社員だった雛鳥を手に入れた時の快感は忘れられない。最初は抵抗していたが、写真一枚で簡単に支配できた。恐怖に歪む顔が、徐々に諦めと快楽の色に染まっていく様は、極上のエンターテインメントだった。
そして何より最高だったのは、あいつが俺の部下である桐谷蒼と結婚してからだ。あの真面目だけが取り柄の、面白みのない男。あいつが愛する妻は、実は俺の長年のおもちゃなのだ。あいつが家庭で理亞を抱きしめるたびに、俺の存在を思い出して罪悪感に苛まれているかと思うと、たまらなく興奮した。
「部長、この前の資料、修正しておきました」
会社で、桐谷が俺に深々と頭を下げる。その従順な顔を見るたびに、俺は心の中で嘲笑っていた。可哀想な奴。お前が必死で稼いだ金で建てた家は、俺と理亞の密会の言い訳を作るための舞台装置でしかなく、お前が愛する妻の体は、俺がとっくに隅々まで知り尽くしているというのにな。
最近の桐谷は、以前にも増して仕事に忠実で扱いやすかった。どうやら家庭が順調なのだろう。俺が時々、理亞に「ご褒美」を与えているおかげだな。そう思うと、滑稽で笑いがこみ上げてくる。
女なんて、少しばかりの恐怖と快楽を与えてやれば、簡単に手に入る。俺は、人生というゲームのルールを完全に熟知した、最強のプレイヤーなのだ。この世界は、すべて俺の思い通りに動く。そう、確信していた。
綻びは、本当に些細なきっかけで始まった。
社内で、コンプライアンス部門が何やら騒がしい。匿名の内部告発があったらしい。「またか」と俺は思った。過去にも何度か、俺に捨てられた女が馬鹿な真似をしたことがあったが、すべて俺の巧みな立ち回りで揉み消してきた。今回も同じだ。俺の地位を揺るがすことなど、何もない。
しかし、今回は様子が違った。調査は執拗で、俺の経費の使い道にまで及び始めた。そして、人事部長とコンプライアンス室長に、個室へと呼び出された。
「黒瀬部長、単刀直入に伺います。複数の元部下社員との間に、不適切な関係があったという告発が寄せられています。これは、事実ですか?」
俺は、余裕の笑みを浮かべて答えた。
「事実無根ですね。私を快く思わない人間の、根も葉もない噂でしょう」
だが、室長がテーブルの上に置いたファイルを見て、俺の表情は凍りついた。そこには、俺が理亞や他の女たちと、例のホテル街に出入りする写真が、何枚も収められていたのだ。日付も、時間も克明に記されている。これは、素人の仕業じゃない。
「経費の私的流用についても、調査を進めています。黒瀬部長、これはもはや、言い逃れできるレベルではありません」
全身から、嫌な汗が噴き出した。なぜだ。誰が、こんな周到な真似を。俺の知らないところで、何かが動いていた。俺が最強のプレイヤーだと思っていたゲーム盤の上で、実は俺自身が、誰かの駒として踊らされていただけだったというのか。
その日の夜、家に帰ると、リビングは異様なほどに静まり返っていた。妻が、鬼のような形相でソファに座っている。その手には、一枚の封筒が握られていた。
「あなた、これはどういうことなの」
テーブルの上に叩きつけられたのは、俺が昨日、会議室で見たものと同じ写真だった。
まずい。最悪のタイミングだ。会社での立場も、家庭も、同時に崩れ落ちようとしている。俺の頭は、高速で回転し始めた。どうする。どう言い訳する。この状況を切り抜けるための、最善の一手は。
そうだ。責任転嫁だ。俺は被害者になればいい。
「違うんだ! これは、罠なんだよ! 俺は、嵌められたんだ!」
「罠ですって? これだけの証拠があって、誰が信じるというの!」
妻のヒステリックな声が響く。そうだ、もっと具体的な「犯人」が必要だ。俺を嵌めた、悪女が。
「桐谷だ! 営業の桐谷の嫁に、誘惑されたんだ! あの女は昔から俺に気があって、しつこく言い寄られて……! 断りきれずに、一度だけ過ちを……!」
我ながら、完璧な嘘だった。理亞はもう会社にいない。桐谷は俺の部下だ。言い分が食い違っても、会社は俺の言葉を信じるだろう。家庭内でも、俺が被害者だという構図を作れば、妻の怒りの矛先も少しは逸らせるかもしれない。
だが、妻の目は冷たかった。
「一度だけ? この写真に写っている女、一人じゃないわよね? 全員に誘惑されたとでも言うつもり?」
しまった。墓穴を掘った。俺の頭は、もう正常に働いていなかった。
翌日、俺は会社から自宅待機を命じられた。事実上の、解雇通告だった。長年かけて築き上げてきた王座から、俺はあまりにもあっけなく引きずり下ろされた。
そこからは、まさに地獄だった。
妻からは離婚届と、俺の退職金をすべて吐き出させるほどの慰謝料請求書を突きつけられた。高校生の息子は、俺と目を合わせようともせず、「軽蔑する」とだけ言い放った。
会社からは、不正流用した経費の全額返還を求められ、さらに、俺が手を出した他の女たちからも、示し合わせたように内容証明が届き始めた。セクハラ、パワハラでの損害賠償請求。俺の貯金は、あっという間に底をついた。
すべてを失った。地位も、名誉も、家族も、金も。
俺は、都落ちするように高級マンションを追い出され、今は日当たりの悪い安アパートの湿った布団の上で、安い焼酎を煽るだけの毎日だ。
なぜだ。なぜ俺が、こんな目に。
俺はただ、人生を楽しんでいただけじゃないか。欲しいものを手に入れ、支配し、味わう。それが、力を持つ男の特権だろう。何が間違っていたというんだ。
酒で霞む頭で、必死に考える。誰だ。俺をここまで完璧に追い詰めた、見えない敵は、一体誰なんだ。
その時、ふと、脳裏にある光景が蘇った。
俺が会社で自宅待機を命じられた日、狼狽する俺を、遠くから静かに見ていたあの男。いつも従順に、時にはおどおどとさえしていた、あの桐谷蒼。
あの時のあいつの目は、いつもと違っていた。そこには、同情も、驚きもなかった。ただ、氷のように冷たく、すべてを見透かしたような、静かな光が宿っていた。
そうだ。あいつだ。
気づいた瞬間、背筋が凍りついた。
俺が理亞との情事に耽っていた時、あいつは冷静に情報を集め、俺を社会的に抹殺するための計画を練っていたのか。俺があいつを愚かな駒として見下していた、まさにその時、あいつは俺を盤上から排除するための、完璧なチェックメイトを仕掛けていたというのか。
「あ……あ……」
声にならない声が漏れる。
「あの野郎……! 俺を……俺を嵌めやがったな!!」
俺は、布団を殴りつけ、獣のように叫んだ。世界で一番、安全で無害だと思っていた男。俺が完全に支配していると思っていた駒に、俺の人生は、根こそぎ破壊されたのだ。これほどの屈辱があるだろうか。
怒りと、恐怖と、そしてどうしようもない敗北感。それらがごちゃ混ぜになった感情に押し潰され、俺は子供のように声を上げて泣いた。
輝かしい栄光の日々は、もうない。俺に残されたのは、莫大な借金と、誰からも軽蔑される孤独な未来だけ。
安アパートの薄汚れた天井を見上げながら、俺はただ、俺を出し抜いたあの男の、静かで冷たい目を思い出していた。あの目に、俺は殺されたのだ。
だが、これで終わりだと思うなよ、桐谷蒼。
俺は、まだ死んではいない。いつか、必ず。お前とお前の子供たちが手に入れた幸せを、この手でめちゃくちゃにしてやる。
そう、心に誓う。だが、その声は、空の焼酎瓶に虚しく響くだけだった。俺は、もう何も持たない、ただの負け犬なのだから。




