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愛妻家の僕が知ってしまった、十年越しの裏切り。~幸せな家庭は、妻が僕と出会う前から仕組まれた、上司との不貞の巣窟だった~  作者: ledled


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サイドストーリー:私が捨てた完璧な幸せ ~愛する夫と子供たちを失った、愚かな女の独白~

冷たいフローリングの床に、コンビニ弁当の容器と空の缶チューハイが転がっている。六畳一間の安アパート。窓の外では、見知らぬ家族の笑い声が聞こえ、そのたびに私の胸はナイフで抉られるように痛んだ。


これが、私の今の現実。

かつて、大きな窓から陽光が降り注ぐリビングで、愛する夫と子供たちの笑い声に包まれていた日々は、もう二度と戻らない夢のようだ。


私は、桐谷理亞。いや、今はもうただの『理亞』だ。愛する人の苗字も、愛する子供たちの母親という立場も、すべて私自身の手で捨ててしまった、愚かで汚れた女。


パート先のスーパーでは、重い段ボールを運び、無愛想な客に頭を下げ、一日が終わる頃には心も体も泥のように疲れている。帰り道、公園で遊ぶ子供たちの姿を見るのが辛い。自分の娘や息子と年の近い子を見かけると、息が詰まりそうになる。うたの、少しお姉さんぶった利発な横顔。みなとの、私の膝の上で甘えてきた柔らかい髪の感触。そのすべてが、幻のように遠い。


どうして、こうなってしまったのだろう。

目を閉じると、記憶の蓋がこじ開けられ、あの男の顔が浮かび上がる。黒瀬玄間。私の人生を狂わせ、そして私自身もその狂気に加担してしまった元凶。


入社したばかりの頃、私は希望に満ちていた。社会人として新しい生活が始まることに胸をときめかせていた、ただの二十二歳の女の子だった。そんな私に、営業部長だった黒瀬さんは、優しく、頼りになる上司として映った。


最初の過ちは、会社の飲み会だった。勧められるままに飲んだ強い酒。気づいた時には、知らないホテルのベッドの上で、隣にはあの男がいた。抵抗も虚しく、力で押さえつけられた時の恐怖と屈辱は、今でも体の芯にこびりついている。


翌日、会社で彼に呼び出され、泣きながら抗議する私に、彼はスマートフォンで一枚の写真を見せた。乱れた姿で眠る私の、無防備な写真。


『騒ぎ立てるのか? これが君のご両親や、会社の連中に見られてもいいなら、好きにすればいい』


その瞬間、私の未来は終わったのだと思った。恐怖に支配され、私は彼の言いなりになるしかなかった。週末のたびに呼び出され、彼の欲望の捌け口にされる日々。最初はただ怖かった。屈辱に涙が止まらなかった。


でも、人間は弱い生き物だ。

何度も繰り返されるうちに、私の心は少しずつ麻痺していった。「どうせ私は汚れてしまった」「もうお嫁になんていけない」。そんな諦めが心を支配し始めると、不思議なことに、あれほど感じていた屈辱や恐怖が薄らいでいった。そして、その代わりに、支配されることへの倒錯した安心感のようなものが芽生え始めてしまったのだ。


あの男は、私のすべてを知っている。私の汚い部分を、弱さを、すべて。その上で、私を求めてくれる。そんな歪んだ考えが、いつしか私の中で正当化されていった。抵抗することをやめた私は、彼の求めるままに体を委ね、彼の与える刹那的な快楽に、知らず知らずのうちに溺れていった。


そんな絶望的な二重生活の中に、一筋の光が差し込んできた。それが、あおいさんだった。


部署は違ったけれど、仕事で関わるようになった彼は、黒瀬さんとは正反対の人間だった。いつも穏やかで、誠実で、私の話を真剣に聞いてくれた。彼の隣にいると、澱のように溜まっていた心の汚れが、少しだけ浄化されるような気がした。


彼から告白された時、涙が溢れた。『私で、いいの?』という私の問いに、彼は力強く頷いた。『理亞じゃなきゃ、駄目なんだ』と。


汚れた私を、何も知らずに愛してくれる人がいる。この光を失いたくない。心からそう思った。黒瀬さんとの関係を、今度こそ終わらせようと決意した。


『もう、会えません。私、好きな人ができたんです』


そう告げた私に、彼は嘲るように笑った。


『ほう、桐谷か。いいんじゃないか、あいつは真面目だし、お前みたいな女には勿体ないくらいだ。だがな、理亞。俺たちの関係は、お前の一存で終わらせられると思うなよ。新しい男ができたからって、俺から逃げられると思ったら大間違いだ』


そして、彼は私と蒼さんが付き合い始めたことさえ、楽しんでいるようだった。蒼さんの前で完璧な恋人を演じれば演じるほど、その裏で黒瀬さんに求められる行為は、より背徳的でスリリングなものになっていった。


罪悪感で押し潰されそうだった。蒼さんのまっすぐな愛情を受けるたびに、胸が張り裂けそうになった。でも、同時に、この秘密の関係を断ち切れない自分がいた。恐怖もあった。でも、それだけじゃなかった。いつしか私は、この二重生活のスリルそのものに酔っていたのかもしれない。蒼さんという絶対的な安全地帯を確保しながら、黒瀬さんとの危険な関係に身を委ねる。そんな自分に、どこかで酔っていたのだ。


蒼さんと結婚し、詩が生まれ、湊が生まれた。幸せの絶頂だった。蒼さんは、私が思い描いていた以上に完璧な夫で、完璧な父親だった。彼の深い愛情に包まれ、私は世界で一番の幸せ者だと本気で思っていた。


だからこそ、私は自分に言い聞かせた。「これは、蒼さんには関係ないこと」「昔の過ちを引きずっているだけ」「バレなければ、この幸せは永遠に続く」。そうやって、自分の罪から目をそむけ続けた。


蒼さんの優しさを、私は彼の「鈍感さ」だと、どこかで侮っていたのかもしれない。私が時折見せる動揺も、小さな嘘も、彼は何も気づかずに信じてくれる。なんて可愛くて、扱いやすい夫なのだろうと。


今思えば、それがすべての間違いだった。彼の優しさは、鈍感さなどではなかった。それは、私への絶対的な信頼の証だったのだ。私は、その信頼を、十年以上にもわたって踏みにじり続けてきた。


破滅の日は、突然訪れた。

黒瀬さんの奥さんからの、あのヒステリックな電話。足元から、世界が崩れていく音がした。私は、蒼さんにすがりつこうとした。泣いて謝れば、きっと彼は許してくれる。だって、彼はあんなにも私を愛してくれていたのだから。


『どうして、だと? お前が、黒瀬玄間と十年以上も不貞を続けてきたからだろう』


彼の口から放たれた、氷のように冷たい言葉。そして、突きつけられた数々の証拠。私の知らないところで、彼はすべてを知っていた。私の醜い裏切りのすべてを、たった一人で受け止め、静かに復讐の牙を研いでいた。


『黒瀬玄間を破滅させたのは、彼の妻じゃない。この僕だ』


そう告げられた時の絶望を、私は生涯忘れることはないだろう。いつも優しかった彼の瞳に宿っていたのは、私への愛情ではなく、底知れない軽蔑と憎悪の色だった。私が信じていた優しい夫は、冷徹な復讐者へと姿を変えていた。いや、私が彼をそうさせてしまったのだ。


そして、下された最後の審判。


『詩と湊の親権は、僕がもらう。お前のような女に、母親の資格はない』


離婚も、慰謝料も、どうでもよかった。でも、それだけは。子供たちを奪われることだけは、私の世界の終わりを意味した。


「いや! それだけは……!」


泣き叫び、彼の足元にひれ伏した。でも、彼の決意は揺るがなかった。私の伸ばした手を、彼は虫けらのように踏みつけた。あの時の、彼の靴底の感触。それは、私の罪の重さそのものだった。


すべてを失った今、私は毎日、後悔の海を泳いでいる。

もし、あの時、最初に無理やり関係を持たれた時に、勇気を出して誰かに相談していたら?

もし、蒼さんと出会った時に、すべてを打ち明けていたら?

もし、結婚した時に、黒瀬さんの脅しに屈せず、関係を断ち切っていたら?


無数の「もしも」が、頭の中を駆け巡る。でも、どれだけ悔やんでも、時間は戻らない。


憎い。黒瀬玄間が憎い。でも、それ以上に、どうしようもなく憎いのは、そんな自分自身の弱さと愚かさだ。恐怖を言い訳に、快楽に身を任せ、優しい夫を欺き、世界で一番大切な子供たちの未来を、自らの手で汚してしまった自分が、憎くてたまらない。


時々、スマートフォンの隅に残っている、昔の写真を見る。新築のマイホームの前で、はにかむように笑う蒼さんと、彼の腕の中で幸せそうに微笑む私。そして、私たちの足元で笑う、小さな詩と湊。


その写真を見るたびに、胸が張り裂けそうになる。私は、この手の中にあった完璧な幸せを、自分の手で叩き壊したのだ。


もう二度と、あの温かい腕に抱きしめられることはない。

もう二度と、「ママ」と呼ぶ可愛い声を聞くことはできない。


この孤独が、この絶望が、私の犯した罪に対する罰なのだろう。

私はこれから、この空っぽの部屋で、償うことのできない罪を背負い、永遠に続く後悔と共に、ただ息をして生きていく。


窓の外が、また白んできた。

今日もまた、絶望の朝が来る。

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