第三話 復讐のチェスボード、最初のチェックメイト
地獄のような夜が明けてから、僕は別人になった。少なくとも、僕の内面は完全に変質してしまった。鏡に映る自分の顔は昨日までと同じはずなのに、その瞳の奥には、自分でも見たことのない冷たい光が宿っているのが分かった。
僕はもはや、悲しみにくれる夫ではない。怒りに震える被害者でもない。僕は、冷徹な狩人だった。獲物は二匹。一匹は僕のすぐ隣で、僕が狩人であることに気づかず無邪気に振る舞い、もう一匹は会社のデスクで、僕をただの従順な部下だと思い込んでいる。
復讐計画の第一段階は、さらなる情報収集と、外堀を埋める作業だ。僕が手に入れたSNSのログとスマホの監視データは強力な武器だが、それだけでは黒瀬玄間という男を社会的に完全に抹殺するには足りないかもしれない。彼は社内での評価も高く、狡猾だ。僕個人の告発だけでは、「部下の妻を寝取った夫の逆恨み」として処理されてしまう可能性も否定できない。
僕が必要なのは、客観的で、かつ複数の被害者からの証言だ。黒瀬のメッセージ履歴には、理亞以外にも、何人かの元部下と思われる女性の名前が隠語のように登場していた。こいつは常習犯なのだ。
僕はまず、興信所に連絡を取った。面会した調査員は、いかにもプロといった雰囲気の中年男性だった。僕は彼に、感情を一切排し、システムエンジニアが仕様書を説明するような口調で依頼内容を伝えた。
「調査対象は、黒瀬玄間。私の会社の上司です。目的は、彼の女性関係の洗い出し。特に、元部下との不適切な関係について、可能な限りの証拠を収集してください。接触の可能性がある人物のリストはこちらに」
僕は、SNSのログから割り出した数名の女性の名前と、理亞との密会に使われるラブホテル街の情報をまとめたメモを渡した。調査員はメモにさっと目を通すと、表情一つ変えずに頷いた。
「承知いたしました。期間は二週間。まずは素行調査から入り、対象の行動パターンを完全に把握します。その後、リストにある女性たちへの内偵調査に移ります」
「費用はいくらかかっても構いません。とにかく、確実な証拠をお願いします」
「お任せください。これが我々の仕事ですので」
淀みないやり取り。これで、僕の手を汚さずに黒瀬の弱みを握るための、強力な駒が一つ動いた。
会社での僕は、完璧な部下を演じた。黒瀬に対しても、以前と寸分違わぬ態度で接した。朝は「おはようございます、部長」と笑顔で挨拶し、会議では彼の意見に賛同し、時には的確な補足を入れて彼を持ち上げた。
「桐谷、この前のプロジェクトの件、よくやってくれたな。君がいると本当に助かるよ」
ある日の夕方、黒瀬は上機嫌で僕の肩を叩いた。その手が、数時間前まで僕の妻を抱いていたかもしれないと思うと、腹の底からマグマのような怒りがせり上がってくる。だが、僕はそれを完璧に抑え込み、満面の笑みで応えた。
「とんでもないです。すべて部長のご指導のおかげです」
「はは、謙遜するな。今度、一杯奢るよ」
「ありがとうございます。楽しみにしております」
心の中では、お前の飲む酒は、地獄の釜の煮汁にしてやると誓いながら。
黒瀬は僕の演技に全く気づいていない。それどころか、僕の従順な態度に満足し、ますます僕を信頼するようになっていった。愚かな男だ。自分が支配しているつもりの駒が、すぐ足元で牙を研いでいることにも気づかずに。
一方、家庭での僕は、完璧な夫を演じ続けた。理亞との会話、子供たちとの触れ合い、すべてが以前と同じように、いや、以前にも増して優しく、穏やかであるように努めた。
「蒼、最近なんだか優しいわね。何かいいことでもあったの?」
週末の買い物の帰り道、助手席の理亞が不思議そうに言った。僕はハンドルを握ったまま、前を見たまま答える。
「そうか? 別にいつも通りだよ。ただ、こうして家族四人でいられるのが、本当に幸せだなって、改めて思っただけさ」
僕の言葉に、理亞は一瞬、息を呑んだようだった。そして、小さな声で「……ありがとう」と呟いた。その声には、微かな罪悪感の色が滲んでいるように聞こえた。
そうだ、もっと罪悪感を感じろ。僕の優しさが、お前の心を締め付ける鋭い棘となれ。お前が自らの罪の重さに耐えきれなくなり、絶望の淵を覗き込むまで、僕は最高の夫を演じ続けてやる。
僕は時折、わざと理亞を試すような行動も取った。
「来週の金曜日、急な出張が入ってしまった。一泊してくることになる」
「え、そうなの? 大変ね……」
理亞の顔に、動揺の色が浮かぶのが分かった。僕の出張は、黒瀬との密会の絶好の機会になるはずだ。案の定、その日の夜、監視アプリは理亞が黒瀬に『来週の金曜、空いたよ』というメッセージを送ったことを記録していた。
そして僕は出張の前日、理亞にこう告げるのだ。
「すまない、理亞。明日の出張、先方の都合でキャンセルになったんだ」
「……えっ!? そ、そうなの……」
あからさまに落胆する理亞の表情。僕はそれを見て見ぬふりをして、「ああ。だから明日は普通に家にいるよ。残念だったか?」と、わざと意地悪く尋ねる。
「そ、そんなことないわよ! あなたが家にいてくれる方が、嬉しいに決まってるじゃない」
必死で取り繕う理亞の姿は、滑稽で、そして哀れだった。僕は彼女をゆっくりと、だが確実に崖っぷちへと追い詰めていた。精神的なプレッシャーを与え続け、彼女の判断力を奪っていく。これもまた、復讐の重要なプロセスだった。
二週間後、興信所の調査員から連絡が入った。都心のホテルのラウンジで落ち合うと、彼は分厚いファイルをテーブルの上に置いた。
「桐谷様、お待たせいたしました。こちらが、黒瀬玄間の調査報告書です」
ファイルを開くと、そこには僕の想像を遥かに超える、黒瀬の腐りきった所業が詳細に記録されていた。
理亞との定期的な密会の証拠写真はもちろんのこと、僕がリストアップした元部下の女性のうち、二名と現在も不貞関係を続けていることが判明した。一人は結婚して会社を辞めた女性、もう一人は別の部署に異動になった独身の女性だった。どちらのケースも、手口は理亞の時と酷似していた。立場を利用して無理やり関係を持ち、それをネタに脅迫して関係を継続させる。まさに外道だ。
報告書には、黒瀬が会社の経費を私的に流用している疑があることまで記されていた。愛人たちとの食事代やプレゼント代の一部を、架空の接待費として処理している形跡があるという。
「……完璧です。素晴らしい仕事だ」
僕は調査員に心からの賛辞を送り、約束の倍額の報酬を支払った。彼は驚いていたが、僕にとっては安いものだった。この報告書は、黒瀬玄間を社会的に完全に終わらせるための、最終兵器なのだから。
すべての駒は揃った。いよいよ、チェックメイトへの最終段階だ。
僕はまず、社内のコンプライアンス部門へ、匿名で通報することにした。作成した告発文は、感情的な言葉を一切排除し、事実だけを淡々と列挙したものだ。
『内部告発。営業部部長、黒瀬玄間氏の度重なる不正行為について』
そう題した文書に、僕は複数の部下との不適切な関係、優越的地位の濫用によるパワーハラスメント及びセクシャルハラスメント、そして経費の不正流用の具体的な事実を、興信所の調査報告書を元に詳細に記述した。もちろん、僕の妻である理亞の名前は伏せ、A子、B子といった形で匿名性を保った。証拠として、黒瀬と愛人たちがラブホテルに出入りする写真のデータも添付した。
この告発文を、会社の匿名通報システムを通じて送信する。送信ボタンをクリックする指に、迷いは一切なかった。これで、会社という組織が、黒瀬を断罪するための装置として動き出す。
次の一手は、黒瀬の家庭の破壊だ。
僕は、黒瀬の妻の連絡先を突き止めていた。これも興信所の調査結果の一つだ。高校生の息子を持つ、ごく普通の専業主婦。彼女もまた、僕と同じ被害者なのだ。同情はするが、手加減はしない。この復讐劇を完遂するためには、彼女にも地獄を見てもらう必要があった。
僕は、匿名で一通の封筒を彼女宛に郵送した。中に入れたのは、数枚の写真と、短い手紙だ。
写真は、黒瀬が理亞や他の愛人たちとラブホテルから出てくるところを捉えた、決定的なもの。そして手紙には、こう記した。
『あなたの夫は、長年にわたり、会社の部下たちと不貞を繰り返しています。これは、氷山の一角に過ぎません。これ以上、騙され続けるのですか?』
差出人の名前はない。この一通の手紙が、黒瀬家の平和な日常に、修復不可能な亀裂を入れることになるだろう。
すべての矢を放ち終えた僕は、ただ静かに、結果が現れるのを待った。
変化は、すぐに訪れた。
週明けの月曜日、会社は異様な空気に包まれていた。朝からコンプライアンス部門の人間が営業部に出入りし、何人かの社員が個別に呼び出されている。黒瀬は自分のデスクで、必死に平静を装っていたが、その顔色は土気色で、焦りの色が隠しきれていなかった。
彼は僕の方をちらりと見たが、僕がいつもと変わらぬ顔で仕事をしているのを見ると、少しだけ安堵したような表情を浮かべた。まさか、この事態を引き起こしたのが、彼の忠実な部下である僕だとは夢にも思っていないのだろう。
昼過ぎ、ついに黒瀬が人事部長とコンプライアンス室長に呼ばれ、会議室へと連れて行かれた。戻ってきた彼の顔は、もはや絶望という言葉しか当てはまらないほどに蒼白だった。
その日の午後、社内メールで、黒瀬玄間が『一身上の都合により』部長職を解かれ、自宅待機を命じられたことが全社員に通知された。事実上の懲戒解雇だ。長年、会社に君臨してきた王の、あまりにもあっけない失脚だった。
僕はそのメールを読みながら、静かに勝利を噛みしめた。だが、まだだ。まだ終わりではない。
その夜、家に帰ると、理亞が青ざめた顔で僕を待っていた。
「蒼……! 大変よ、黒瀬部長が……」
彼女も、どこからか噂を耳にしたのだろう。僕の顔色を窺うように、おずおずと切り出す。
「ああ、知っているよ。会社で大変な騒ぎになっていた。セクハラと経費流用だそうだ。とんでもない人だったんだな」
僕は、まるで他人事のように、冷静に言った。理亞は、僕のその落ち着き払った態度に、何か得体の知れないものを感じたのかもしれない。彼女の顔から、さらに血の気が引いていく。
「そ、そんな……。誰が、そんなことを……」
「さあな。でも、自業自得だろう。人を傷つければ、いつか自分に返ってくる。因果応報ってやつだ」
僕は、理亞の目をまっすぐに見つめて言った。僕の視線に射抜かれた彼女は、耐えきれないように顔を伏せた。
その時、リビングの隅に置かれた固定電話が、けたたましく鳴り響いた。
デジタル表示された番号は、非通知。だが、僕には、電話の相手が誰なのか分かっていた。僕はゆっくりと立ち上がると、受話器を取る。そして、理亞に聞こえるように、スピーカーホンボタンを押した。
『……もしもし、桐谷様のご自宅でしょうか!』
僕が名乗る前に、電話の向こうからヒステリックに甲高い、知らない女の声が響き渡った。
『私、黒瀬玄間の妻です!』
その怒りの矛先は、明らかに僕の隣で息を殺している理亞に向けられていた。
『そちらの奥様! 理亞さんはいらっしゃいますか!? 主人からすべて聞きましたわ! あなたが主人をそそのかして、家庭をめちゃくちゃにしたそうじゃないの!』
僕は無言で、ただ電話のスピーカーから響き渡る罵声を聞いていた。隣で、理亞の呼吸が浅く、速くなっていくのが分かる。
『おかげで主人は会社をクビ同然! 私たちの人生、どうしてくれるの!? 人のものを盗っておいて、自分だけ幸せでいられるなんて思うんじゃないわよ! この泥棒猫!』
けたたましい罵詈雑言がしばらく続いた後、僕は静かに通話を終了させた。部屋に訪れた静寂の中、理亞が糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
予測通りの展開だ。追い詰められた黒瀬は、妻に対して「自分は理亞に誘惑された被害者だ」と嘘をつき、責任転嫁を図ったのだろう。そして、怒り狂った妻が、会社の名簿か何かで我が家の電話番号を調べ、こうして怒鳴り込んでくることまで、僕の計算通りだった。あの男の浅はかな自己保身の行動が、結果的に僕の復讐計画の最後の一押しとなったのだ。
これで、理亞の逃げ場は完全に断たれた。
「り、あ……?」
僕は、何も知らない愚かな夫を演じ、驚いた声を出した。
「今のは、一体……? 黒瀬部長の、奥さん……? お前、一体、何を……」
理亞は何も答えられない。ただ、床に突っ伏し、嗚咽を漏らすだけだった。その姿を見ても、僕の心には、もはや何の感情も湧き起こらなかった。
チェスボードの上で、王様はチェックメイトされた。そして、隣にいた王妃もまた、行き場を失い、盤上から転がり落ちようとしている。
僕の復讐のチェスは、最終局面を迎えようとしていた。




